2014年11月30日日曜日


 
成瀬教会 <聖書日課>  12月1日~12月7日
12月1日(月) 創世記3章14節~15節
  アダムとエバを背信へと誘惑した蛇(悪魔)に、神の裁きが宣告されています。「 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く 」(15節)。この言葉は原福音と呼ばれ、女の子孫とは救い主イエス・キリストのことを言っていると理解されています。女の子孫であるイエス・キリストが悪魔に対して、最終決着をつける。悪魔は御子のかかとを砕くような傷を負わせますが(十字架)、それは致命傷ではありません。反対に、御子は蛇の頭を砕くという致命傷を与えます。つまり、悪魔に対して完全に勝利するのです。神様は、最初のときからすでに救い主による人間の贖いを考えていてくださったのですね。神様は私たち以上に、私たちの救いのことを熱心に考え、導いていてくださいます。それゆえのフィリピ3章12節の私たちの姿勢なのです。
12月2日(火) 創世記3章16節~19節
  蛇(悪魔)だけでなく、神様は男と女に対しても、裁きの宣告をなさいました。女は出産に伴う苦しみが大きくなると言われています(16節)。男は食べ物を得るための苦しみ、すなわち労働の苦しみがあると(17節、19節)、宣告されています。しかし、この裁きは単なる苦しみだけではなく、大きな喜びが伴っていることを忘れないようにしましょう。そこに神様の心が感じられますよ。出産は、「 産めよ,増えよ、地に満ちて 」(1章28節)と、祝福として語られていましたね。どんなに苦しんで子どもを産んだとしても、そこには新しい命を生み出した喜びがあります。それは苦しみ以上に大きなものです。額に汗して日毎の糧を得ることも、苦しみだけではなく、達成感や充実感、そして家族を養える喜びというものが伴います。神様の裁きは、単なる裁きでは終わらず、祝福をより祝福と感じさせる働きをするのです。イエス・キリストのあの十字架がそうであるように・・・・。
12月3日(水) 創世記3章20節~24節
  「 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた 」(24節)。神様はエデンの園からアダムとエバを追放されました。神様はエデンの園の命の木を守るために、再び彼らが園に入らぬよう、見張りのケルビム(天使)ときらめく剣を配置されました。見張りを置いたということは、神様もエデンの園から出られたのだということでしょう。神様が園におられるならば見張りなど必要ないからです。神様はアダムとエバの後を追うように、ご自身も園を出られたのです。まるで我が子の行き先を案じる親のように・・・。1匹の羊を追い求める羊飼いの姿が、神様のお姿と重なりますね。
12月4日(木) 創世記4章1節~7節
 カインとアベルの物語です。この物語の解釈の困難さは、なぜ、カインの捧げ物を神様はお喜びにならなかったのか、その理由が記されていない点にあります。そのために、いろいろな理由が考えられて来ました。捧げる心の姿勢、すなわちカインは最上のものではなく、どうでもよいものを捧げてしまったのだとか・・・。でもそれらは推測の域を出ませんね。確かなことは、カイン本人はその理由を知っていたであろうということ。なぜなら彼は顔を上げられないでいたのですから。このよう信仰生活には、他の人には分からない、本人にしか分からないという部分があります。そしてその本人と神様にしか分からない部分をいい加減に誤魔化すのではなく、真剣に、大切にする、人の目ではなく、神様の目、それが信仰の肝なのです。
12月5日(金) 創世記4章8節~16節
  人類最初の殺人事件が起きてしまいました。カインが怒りをアベルにぶつけてしまったのです。神様との健やかな関わりを失うとき、人は他者との健やかな関わりをも失うことになります。人間のストレスの9割は人間関係から来るといわれますが、それを聖書の観点から言い換えると、人間のストレスはすべて神様との関わりの喪失が根底にある、と言うことです。嘆きの言葉を口にするカイン(13節)に対し、神様は彼を守るためのしるしを与えてくださいました(15節)。どんなしるしであったのか、分かりません。しかし私たちには「 神様があなたを守る 」という明確にしるしが与えられているのですよ。それはイエス様が十字架にかかり、三日によみがえられたというヨナのしるし(マタイ16章4節)と言われるものです。御子の十字架と復活は、神があなたを愛されていることの最上のしるしなのです。
12月6日(土) 創世記4章17節~26節
 「 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである 」(26節)。これは、心惹かれる言葉だと思います。彼らは祈り始めたのです。祈り始めたところでは、この地上においてさすらう中にも故郷が生まれるのです。もしあなたが今、この地上の生涯を、たださすらうだけのつまらないものと感じているならば、ぜひ、祈り始めてみましょう。
12月7日(日) 創世記5章1節~32節
  アダムの系図が記されています。人の名前ばかりで、読んでいておもしろくないと思われるかも知れませんね。ここには何々を設け、何年生き、そして死んだという言葉が繰り返されています。「 産めよ,増えよ、地に満ちて 」(1章28節)と言われた祝福の言葉と対立することが、語られているわけです。死んだ、という言葉が繰り返される中、「 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった 」(24節)という言葉は異彩を放っています。そうです。神と共に歩むとき、人はたとえ肉体の死を迎えても、それは死でないのです。神のもとに取られた、依然として神と共にあるのです。ここには死を越えた祝福も記されているのです。
 

先週の説教要旨「 キリストの声を聴き 」使徒言行録21章37節~22章16節 
  パウロはユダヤ人クリスチャンたちの誤解を解消するために、神殿に出かけたが、そこでユダヤ教徒たちから新たな誤解を受け、騒動に巻き込まれてしまう。その騒動を鎮静化させようとかけつけたローマの兵士たちの手によって、彼は保護されるような形で、神殿から担ぎ出されようとしていた。その途中、パウロは群集に対して語ることを許してほしいと千人隊長に求めた(39節)。それがきっかけになって、22章からパウロの弁明が始まる。まず、ユダヤの民衆に対する弁明があり、続いてユダヤ議会に対する弁明、そしてローマ総督フェリクスに対する弁明(24章)、ユダヤの王アグリッパに対する弁明(26章)というように、これから弁明が相次ぐ。今朝の箇所は、その最初としてユダヤの民衆に対するパウロの弁明である。弁明という言葉をあえて使ったが、内容的に見ると、自分が釈放されたいがための弁明ではなく、かつては熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教の迫害者であった自分が、どうして今ここに立たされるほどに、自分の人生が変わったのか、つまりキリストにとらえられた彼の証なのである。だがパウロの言葉は聴き手の心に届かない。普通は、何回か話をしても伝わらない相手に対しては、話したくなくなるものだが、パウロはあきらめることなく話し続ける。それは本当に話したいこと、伝えたいことがあったからではないか。自分の命をかけてでも、本当に伝えたいことがあった・・・だからパウロは何度でも同じことを話そうとするのである。俳優の高倉健さんが亡くなった。彼は無口であったと言われるが、たとえ無口であっても人に伝えたい、人に言い残したいという何かを人は持っているものだと思う。高倉さんは自分自身を貫くことを一番伝えたかったらしい。翻って、私たちはどうか。私たちが誰かに言い残したいこと、愛する人たちに受け継いでほしい内容とは何か・・・。もしその言葉が単に、自分自身のことだけであったり、人生に対する恨み、つらみだけであったとしたら、何と寂しいことであろうか。やはり、私たちが言い残すべきことは、本当に価値あるものであってほしいと思う。私たちは信仰を持っているからと言って、信仰を持たない他の人より優れているとは決して言えない者である。しかし私たちが伝えたいという内容については、やはり信仰を持たない他の人たちとは比べものにならないものを、私たちは神様から与えられているのではなか。

パウロの証は22章から始まるが、今朝は彼の証から2つのことを私たちは心に留めたいと思う。まず第一は、キリストと信じる者の結びつきということである。パウロは、キリスト教信者を迫害していたのだが(4節、5節)、復活のイエス・キリストは「 なぜ、わたしを迫害するのか 」(7節)と言われた。信者に対してしたことは、この私に対してしたことなのだと、主は言われたのである。それほどに、イエス様と信者は深く結びついているのだ。復活のキリストは、そこにある教会と切り離すことのできない仕方で生きて働いておられる方なのだ、ということをパウロは知らされた。後に、パウロはそのことをこう表現した。「 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です 」(Ⅰコリント12章27節)。また信者たちを励まして「 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた 」(Ⅱコリント5章Ⅰ7節)と書いた。新改訳聖書はここを「 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました 」と訳していた。つまり、キリストと結びついた者は、本人だけが新しくなったというのではない、すべてが新しい。自分が経験する良いことも、悪いことも、そういうものまでも皆、新しいものになっている、今までとは違うと言うのである。たとえば、あなたが経験する苦しみも、キリストと結びついたときから、苦しみもまた新しくなっている。苦しみの意味が変わってしまっているのである。その苦しみはキリストがご自身の苦しみとして受けておられるものであるし、キリストはご自身が受ける苦しみを必ず意味ある苦しみへと変えられる方、無意味なままに終わらせない。そういう意味で、私たちの苦しみもまた新しくなっているのである。パウロはこのとき、自分が受けている苦しみをそのようなものとして受け止めていたであろうし、これは私たち全ての信仰者に与えられている祝福なのである。

もうひとつは、神はキリストに結びついた者に新しい使命、生きる目的を与えられるということ。そしてその道は、与えられる日々の出来事の中でキリストの声を聴くという形で開かれていくということ。パウロはダマスコ途上で天からの光に撃たれ、倒れてしまう。そこでキリストの声を聴くのだが、周りにいた者たちは光を見たが、キリストの声は聴いていない(9節)。同じ出来事を経験しながらも、その出来事からキリストの声を聴いた者と聴かなかった者とが、いる。こういうことは、私たちにおいてもよく起こることである。私たちが日常生活で経験する様々な出来事の中からキリストの声を敏感に聴き取り、反応する人とそうでない人とがいる。その違いは日々、祈り、神の言葉に触れているかどうかで、大きく異なる。日々、触れている人は日常の出来事の中に神の声を聴き、神の導きを敏感に感じ取る。私たちは日常の出来事の中からも神の声を聴き取り、その導きを敏感に感じられるように、日々の祈りと御言葉の生活を大切にしよう。
                                                    2014年11月23日)

2014年11月25日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月24日~11月30日

11月24日(月) 創世記3章1節
  蛇の誘惑。ここでの蛇の背後には悪魔の存在があります。悪魔が蛇を利用して人間を誘惑します。悪魔の働きは、神様と人間の信頼関係を打ち壊し、両者の関係を断たせることです。悪魔は言いました。「 園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか 」・・・これは実際に神が言われた「 園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない 」(2章16節、17節)とは違います。悪魔の言葉は、いかにも神様が意地悪で心の狭い方であるかのように聞こえます。ここに悪魔の攻撃の典型があります。悪魔は、いつでも神様があなたに与えられた賜物、恵みが少ないように思わせるのです。本当はすごく大きな恵みが与えられているのに。あなたはこの悪魔の方法にたぶらかされてしまうことはないですか。神様の恵みはあなたにとっていつも十分なのです。

11月25日(火) 創世記3章2節~5節
  善悪の知識の木の実を食べると、「 目が開け、神のように善悪を知るものとなる 」(5節)と悪魔は言いました。最初の誘惑の言葉(1節)をちゃんと退けた女でしたが(2節、3節)、「 神のようになる 」という誘惑の言葉には屈してしまいます。神のようになる・・・それはいつの時代であっても、人間にとって最大の誘惑であり、罠です。私たちの心には「 神のように・・・」という欲求がこびりついています。自分が神のようになると言うのは、究極のエゴイズムですが、誰もこの誘惑から自由な者はいないでしょう。皆、自分の思い通りになることを求める心があり、その通りにならないと怒ったり、泣いたり、やる気をなくしたりするものです。でも、自分の思い通りになるより、神様の思い通りになる方が私たちにとっては幸いなのです。考え方をひっくり返す必要があります。

11月26日(水) 創世記3章6節
  神様に背いてしまう2人・・・。彼らは善悪の知識の木の実を食べてしまいます。「 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた 」とあります。結局、彼らは「 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」(2章17節)という神様の言葉の確かさよりも、自分たちの目で見た感覚、自分の状況判断を優先したのです。そちらの方が確かだと思い込んだのです。ここに罪の本質が顔をのぞかせています。罪は、神の言葉の確かさよりも、自分の状況判断や自分の目で見た認識の方が確かだと思い込み、神の言葉を退けてしまうことなのです。そういう姿勢には、委ねるというものが生まれる余地はありません。自分の状況判断よりも、神の言葉の確かさに立とうとする者は必ず、委ねるということを知っています。

11月27日(木) 創世記3章7節(Ⅰ)
 「 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした 」。神様の「 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」(2章17節)という言葉は,嘘だったのでしょうか。2人は死んでいません。いいえ、2人はこの時、確かに死んだのです。それは肉体の死ではなく、霊的な死です。人は自分の命の与え主である神様との関係が崩れると、自分の命が存在する意味や生きる目的が分からなくなります。そして「 生けるしかばね 」という言葉があるように、生物学的にただ「 生きている 」ということになっていくのです。それは肉体の死以上の苦痛となります。

11月28日(金) 創世記3章7節(Ⅱ)
  「 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした 」。2人の目は開けました。2人は自分たちが丸腰であることをはずかしいと思い、それを隠しました。それが目の開けた証として聖書は伝えています。しかし2人の目が開けたことによって、見えなくなってしまったことがあります。それは、丸腰で、弱い存在であった自分たちが、自分を守ろうとしないでいられた。つまり、神様に守られていたという事実です。その事実が2人には見えなくなりました。悪い意味で目が開かれてしまったのです。悪い意味で目が開かれている人はいつでも、自分を自分の手で守ろうと汲々としています。しかし良い意味で目が開かれていない人は、神様の守りを信じて平安でいます。

11月29日(土) 創世記3章8節~11節
 「 主なる神はアダムを呼ばれた。『 どこにいるのか 」(9節)。神に背いた2人は、神様から身を隠しました。背き、罪はいつでも放置しておくと、徐々に徐々に、自分の身を神様から遠ざける方向へと引っ張って行きます。罪は隠しても解決しません。むしろ、それを神様の御前に正直に差し出し、その裁きを神様に委ねることでしか、解決しないのです。神様は罪を裁きつつも、そこに赦しを与えてくださいます。神様はその恵みを与えようと、隠れる私たちを探し出そうとしておられます。罪を犯した私たちを神様が探されるのは、私たちに赦しを与えるためであって、決して滅ぼすためではないのです。

11月30日(日) 創世記3章12節~13節
   神様から背きの責任を問われた2人は、お互いに罪を擦り付け合っています。女は蛇がだました(13節)と言っていますが、男は「 あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が・・・」(12節)と、神様への責任転嫁とも取れる発言をしています。これは人類最初の夫婦喧嘩ですが、お互いに責任を転嫁しては何も始まりません。責任転嫁は、よく見かけられる行為なのですが、実は罪の解決を最も遅らせる最悪の行為なのです。2章23節の賛歌は一体、どこに行ったのでしょう。

先週の説教要旨「 担われて生きる 」 使徒言行録21章27節~36節 

前回はエルサレムに帰って来たパウロに対して、エルサレムのユダヤ人キリスト者たちの間で、パウロがエルサレムから離れた地域でユダヤ人に割礼や律法を守るなと教えているという誤解が広まっている、ということを知らされた。そこでエルサレムのユダヤ人キリスト者の中にいる4人の請願者の髪をそる費用をパウロが立て替えて、パウロもこのように律法を大切にしているではないか、という事を示してパウロについての誤解を解くようにと勧められた。今朝の箇所では、誤解を解こうとして行動したパウロが、神殿で新たな誤解を受け、捕らえられてしまうことになったということが記されている。その誤解は、異邦人を連れ込んではならない神殿の聖域にパウロが異邦人を連れ込んだということであった(27節)。神殿の庭の部分は、手前の部分と奥の部分を石垣によって区切られていて、その石垣の手前の部分が異邦人の庭と呼ばれ、異邦人であっても、そこまでは入ってくることができる。しかしその石垣を越えて、さらに奥へ入ることは許されない。そこはユダヤ人でなければ入っていけない。その石垣には「 異邦人がここから先に入ると死をもって罰せられる 」と刻まれた石碑が埋め込まれていたそうだ。ちょうどペンテコステの時期であり、いろいろな地方からエルサレムに巡礼にやって来る外地に住むユダヤ人たちが都にあふれていた。その中にアジア州から来た者たちがそのような誤解をして、叫び出したのである。エルサレムのユダヤ人キリスト者の中でパウロに不信感を抱いている者がいるということで、それを払拭するために神殿に行ったのに、彼らとは全く別の巡礼に来ていたユダヤ教徒たちから新たな誤解を受けるというのは、パウロにしてみれば、大変意外な、皮肉なことが起きてしまったと言える。

騒ぎが起きたとの情報は、すぐに神殿の監視に当たっていたローマの兵営に伝わった。千人隊長が部下を率いて駆けつけると、人々はパウロをリンチするのをやめた。しかし、群衆があれやこれやと叫び立てていて、騒々しくて真相をつかむことができないので、千人隊長はパウロを兵営に連れて行くように命じた。このとき、パウロは2本の鎖で左右の腕を縛られたのだろう。しかも群集があまりに騒ぐので、パウロを担がなければ階段を上っていけない。両手を縛られ、担がれて自分の足では歩けない格好になった。これは以前アガボという予言者がパウロについて予言したことが成就したのである(21章11節)。パウロは予期せぬ形で捕らえられてしまった。しかしパウロの場合、こうして逮捕され、ローマの軍隊の手に渡ったことで、それによってかえって、パウロが長年希望していたローマ行きの機会を提供することになるのである。来週以降のところでは、パウロがローマの市民権を持っていることが判明して、ローマの千人隊長はパウロをローマの地で裁判にかけることにし、パウロをローマに送り出す。その間、一貫してユダヤ教の人たちはパウロに攻撃的だが、ローマの兵士たちはパウロに保護的であり、パウロに寛大な態度を示し続ける。まるで、パウロをローマに連れて行くための道具として、神様がローマの兵隊たちを用いているかのようである。パウロが書いた「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています 」(ローマ8章28節)の御言葉が思い起こされる。パウロが兵営に連行されるとき、兵士は一時的にパウロを担いでいる(35節)。イザヤ書46章3節から4節には、「 あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す 」とあるが、兵士たちに担がれて連行されるパウロの姿に、私たちはパウロを担ぐ神様の姿を重ねて見ている思いになるのではないだろうか。

今年は集中豪雨により、土石流が発生し、多大な被害が生じた。被災された方々には、大変、お気の毒であった。だが、ある方がこのことに関してちょっとした文章を書いている。私たちは、それをえぐられるとか、削られるとか、壊れると言うように「 マイナス 」ととらえる。しかしある専門家はその同じ現象をとらえて、「 岩石が生産される 」と書いていた。自分たちが「 マイナス 」としてとらえていることを専門家はプラスとしてとらえているのである。ある意味、私たちは皆、専門家なのである。信仰を持っている者は、皆、生きることの専門家であると言っていいだろう。私たちは自分の生活の中で様々な「 崩れる、えぐられる、削られる、壊される 」という経験をするが、専門家である私たちはそれをマイナスとして捕らえるのではなく、プラスとしてとらえることができる。ここでのパウロのように、万事が益となるように共に働くという信仰において、プラスとしてとらえられるようになっているのである。そして神様に担われて生きているということは、そういう信仰のまなざしを与えられているということなのである。ここでのパウロのように。先週、求道者のNさんが緊急入院され、足の手術を受けられた。病院生活でたっぷりの時間が与えられた。活字に飢えた彼は、信仰の書物や聖書を読み、信仰を深めるための時として、この時を過ごそうとしている。彼もまた、既に生きることの専門家のひとりになっているように思える。感謝。2014年11月16日)

2014年11月16日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月17日~11月23日

11月17日(月) 創世記2章1節~4節a(Ⅰ)
  「 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった 」(2節)。神様は7日目に創造の仕事を離れました。神様が疲れたので休んだということではなく、創造の業に切れ目を入れられたのです。これは重要なことで、もしこの切れ目がなければ、世界と人は様の造ったロボット、つまり永久に動く機械として神の力の中にいることになります。しかし神様は良い者として人間を最後に造り、これに世界の管理を委ね、人間に自由と主体性と自立を与えて、一歩退かれたのです。人間の親子も最初は赤ちゃんが母親に頼りきっていますが、いつかは親離れをして子どもは自立して行きます。それと同じように、神様はいつまでも自分のものとして人間を縛っておくことはなさらず、人間に自由という贈り物をくださったのです。その自由をどう使うか、それが私たちの責任です。

11月18日(火) 創世記2章1節~4節a(Ⅱ)
  神様から自立して、人間は主体性という自由を与えられました。しかしそれは人間がそのまま神様のようになる、ということではありません。人間はあくまでも神様に造られたものであり、神様のように支配し、神様と並び、あるいは神様を超える存在になろうとするのは間違っています。自由を無限に大きくして行こうとする、そこに問題があります。人間にとっては限界を知るということが必要です。神のようになるというのは、人間の力を無限に広げることです。「 記録の限界 」という言葉があるように、人は限界を嫌い、それを超えて行くことに強さを感じます。しかし実は限界を知ることが、人間をより美しく、強くするのです。スポーツにおけるドーピングは、筋肉増強剤を使って、不自然に限界を超えようとするものですが、かえって体に悪影響を及ぼします。同様に、限界を超えようとすることは人間の魂に著しい悪影響を与えるのです。命もまた限界があるからこそ、美しいのです。

11月19日(水) 創世記2章4節b~9節
  「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった 」(7節)。聖書は生きている人間すべてに神の息が吹き入れられていると教えています。「 全ての人間に 」です。しかしそれに気がついていない人は多いのです。人間が神の息のリズムの中で自分の命を感じていれば良いのですが、自分自身の中に閉じこもってしまうと息ができなくなり、窒息してしまいます。狭い心の部屋に閉じこもると呼吸困難になります。「 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである 」(ルカ9章24節)。自分の心にしがみついていると、かえってそれを失う、神の呼吸に合わせることがポイントなのです。人間は生きていても、自分にしがみついてしまうと、ますます心の呼吸困難、生き難さが出てくるのです。

11月20日(木) 創世記2章10節~17節
 「 園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」(16節、17節)。神様は何でそんな危険なものを園の中央に置かれたのでしょうか・・・。意地悪ですか?いいえ、違います。人と人との信頼関係は、お互いが約束を守ることによって深まって行くように、神様も人間との信頼関係を深めるためのひとつの手段として、この木を配置されたのでした。神様は私たちの目の前にいろいろなものを置かれますが、決して意地悪で置かれるのではありません。必ず良き目的のために置かれるのです。

11月21日(金) 創世記2章18節~20節
  「 人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう 」(18節)、「 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった 」(20節)。人は独りで生きて行くものではないと、神様は判断されました。動物などは人を助けてくれますが、限界があり、本当の意味での助ける者とはなり得ないのです。そこでもう独り人間を造って、与えられるのですが、本来人間は、お互い「 助ける者 」同士として造られ、存在しているのです。相手が助ける者だと思えないというのは、まだその人の本当の姿、助ける者として姿に出会っていないだけです。神様はちゃんと助ける者として、そこに存在させてくださっているのです。お互いに「 助ける者 」として、そこに存在している。これは聖書が人間について語っている大切な信仰です。

11月22日(土) 創世記2章21節~25節(Ⅰ)
 「 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた 」(21節)。「 あばら骨 」という訳は意訳で、もともとはサイド、側という意味の言葉が使われています。つまり、女性と男性は同等、横並び、決して女性は男性よりも劣っているということではありません。男尊女卑の社会的背景の強い時代の影響の中で書かれている聖書ですが、その最初から聖書は女性の立場を明確に語っています。忘れてはいけないことです。

11月23日(日) 創世記2章21節~25節(Ⅱ)
  「 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる 」(24節)。一体となる、これは身体的なことを意味するたけではありません。あたかもひとつの体のように生きる、つまり「 一緒に生きる 」ということです。聖書が教える結婚の理由は、2人が一緒に生きることです。一緒に生きるために結婚するのであれば、どちらかが召されるまでは、結婚の理由は失われないのです。結婚する理由が、お互い好きだからとか、この人とだったら理想の家庭が築けそうだからという理由では、もしそうならなかったり、嫌いになったら、その生活は続けられなくなってしまいます。2人が「 一緒に生きるため 」、それが聖書の示す結婚の目的です。

先週の説教要旨「 おおらかに生きよう 」 使徒言行録21章17節~26節 

 「 あの人は車を運転すると人が変わる 」・・・正確に言うと、あの人は車を運転すると「 素が出る 」ということだろう。だから交差点と呼ばれる、車と車が(素と素が)出会うところは、お互いの自己主張が顔を合わせるようなところであって、事故がよく起きる。信号機のない交差点はまさに危険な場所である。今朝、与えられている使徒言行録の21章17節以下は、パウロたちが3回目の大伝道旅行を終えて、エルサレムに戻って来たことが記されているが、パウロたちが着いたエルサレムは、あたかも信号機がない危険な交差点のようであった。パウロの帰りを待っていた人たちの心には、パウロに対するいろいろな思いがあり、衝突事故が発生しそうなのであった。エルサレムに着いたパウロは、エルサレムの教会の指導者であったヤコブと教会の長老たちの前で、自分の宣教の様子を詳しく話した。神様を知らない異邦人の中で、神様がどんなに力強く働いてくださり、イエス様を信じる者たちを起こしてくださったか、ということを話した。教会の者たちはこれを聞いて神様を賛美した。しかし彼らには気になっていたことがあった。それは、パウロがモーセの律法をおろそかにしているという話が伝わっていることであった(21節)。ユダヤ人キリスト者たちは、イエス様を信じながら、なおモーセの律法をも固く守っていた。それを否定するようなパウロの行為にイライラしていたのである。確かに、使徒言行録13章38節~39節でパウロ「 あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです 」と律法を守ることではなく、主を信じることによって救われることを鮮明にしているし、ガラテヤ書の中では、「 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です 」(5章6節)とも言っている。パウロにとって重要なのは、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰のみである。イエス様が私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、復活によって罪に勝利し、罪の贖いを完成された。それだけが救いにおいて重要なのであり、それ以外のものが人を救いに預からせることはない。パウロの十字架と復活の信仰は、さしずめブランコのような信仰である。ブランコは2本の綱が一番上でしっかり縛られ、結び付けられている。その一番上からスルスル伸びた2本の綱の一番下には、人の乗る台がある。2本の綱の1本はキリストの十字架、もう1本はキリストの復活。そしてこの2本の綱が、一番上で「 父なる神 」に固く結ばれていて、一番下の台は「 救いの土台 」である。パウロはこの十字架と復活を両手に握り締め、それ以外から自由になって、救いの台に座り、風を切り、軽やかに、フィリピヘ、コリントへと大きくブランコを漕いだ。時には恐ろしい目にも遭ったが、パウロはブランコの綱を握り締めているその自分の手を、キリストご自身が背後に立って、もっと大きな御手でつかんでくださり、一緒に漕いでいられるのを感じていた。だから大丈夫だと、大胆にブランコを漕いだ。このブランコ信仰は、すべてのキリスト者の姿だ。私たちも大事な2本の綱を握り、力の限り、自由に、大胆に、軽やかにブランコを漕ぐのである。しかしそのようなパウロの信仰は、一部のユダヤ人キリスト者には受け入れることが難しかった。パウロもそのことは十分、承知していた。なぜなら、彼もまたかつては律法を頑なに守ることによってのみ、救われると信じていたからだ。 パウロにとっての十字架と復活はローマ6章3節、4節においてより丁寧に語られている。それによれば、パウロにとって洗礼を受け、キリストと結ばれることは「 律法にこだわっていた古い自分がキリストと共に十字架につけられて死ぬことであり、キリストが復活して新しい命に生き始められたように、パウロも新しい神の命に生き始めることを意味した。だからもはや律法を守るということにこだわる自分ではない。パウロにとっての律法は、キリストの愛の律だけになったのだ。だからパウロは、心配をして解決策を提案してきたヤコブの提案をすんなり受け入れることができた。その提案は、異邦人に対してはエルサレム会議の決定通り、彼らに新しく律法の要求が求められることはないが、ユダヤ人キリスト者に対しては配慮として、パウロもまた律法を軽んじてはいないことを皆に見せてほしいというものであった(23節~25節)。つまり、パウロが律法を守る人間であることを示すために、誓願を立てた4人の人を神殿に連れて行き、彼らが頭をそる費用を出すように、ということであった。パウロはそれに従い、彼らを伴って神殿に行き、すべて律法の命じるままに事を進めた。それは彼らに対するパウロの愛から出た行動であった。 もしパウロが、どちらが正しいかにこだわる信仰を持っていたら、相手の誤解を赦せず、自分が正しいことを主張したことであろう。しかし、もはやパウロは自分の正しさにこだわることにより、相手にどうしてあげたら、相手が十字架と復活の信仰に立てるようになるか、相手が信仰においてより高められるか、そのことだけを考えていたのだ。パウロは自分の正しさを主張したくなる自分に死んでいる。十字架の信仰に生きている。言わば、パウロはエルサレムという交差点に、白黒をつけて整理する信号機ではなく、十字架を立てたのだ。私たちは人間の素が激しく交差する交差点に、パウロのように十字架を立てよう。 2014年11月9日)

2014年11月9日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月10日~11月16日

11月10日(月) 創世記1章1節
 「 初めに、神は天地を創造された 」(1節)、これが聖書の最初の言葉です。「 神が 」ではなく、「 神は 」と翻訳されていることに注意しましょう。日本の昔話は「 昔、昔、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは・・・」と語りだしますね。つまり、「 」という言葉は登場人物を初めて登場させるときに用い、「 」は、すでに読み手が登場人物を知っていることを前提しているときに使われるのです。そういう意味からすると、聖書は神の存在をすべての読者が知っているという前提をもって書かれていると言えます。たとえ神を信じない人であっても、神というものがいかなるものであるかという考えがあって、それに照らして、そういうものは存在しないと言い切ることができているわけです。「 初めに、神は 」・・・どうぞ、あなたの生活がいつも神を前提とし、いつも「 初めに神 」が実践されている歩みでありますように。「 初めに自分 」ではなくて・・・。

11月11日(火) 創世記1章2節~4節
 「 神は言われた。『 光あれ 』。こうして、光があった 」(2節)。神が発せられた言葉は必ず、その通りになります。それは、私たちたちの願うような時に、願うような方法でもって、その通りになるのではありません。神が最良とお定めになった時に、最良の方法でそうなるのです。私たちには「 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない 」(マタイ7章9節~11節)という約束が与えられていますが、この言葉が成る時、成る方法もまた、そういうことなのです。

11月12日(水) 創世記1章5節
 「 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である 」(5節)。神の創造の御業について語る一節ですが、「 夕べがあり、朝があった 」と言われています。私たちの感覚では「 朝があり、夕べがあった 」という順序の方が何かスッキリするかも知れませんね。夕→朝ではなく、朝→夕、つまり闇→光ではなく、光→闇、その方が私たちの生活体験に合っているからなのでしょう。しかし、すべてのことを造り、支配しておられるお方の御業は、必ず、闇から光へと向かう性質を持っていると言うのです。たとえ、一時的にでも闇が深まったとしても、それは必ず光へと向かう途中経過でしかないのです。それが私たちの信仰です。

11月13日(木) 創世記1章6節~31節(Ⅰ)
 神はすべてのものをお造りになられました。大地、天、海、植物、魚、動物、そして人間。私たちは、すべての存在の根源に神の存在があると信じています。神の許可があって、はじめてすべての命は存在するようになるのです。人間が命を作り出すことはできません。ですから私たちは「 子どもを作る 」という言い方を絶対にしません。それは極めて不信仰な言葉です。子どもは与えられるもの、すべての命も与えられるもの、自分が作ったと考えると、それは自分のものになり、自分の思う通りに扱って当然という結論に至ります。世の中に存在する悲しみの多くは、このことに起因していると思います。命は私たちのものではなく、神のもの、神がそれを私たちに貸し与えてくださっているものなのです。

11月14日(金) 創世記1章6節~31節(Ⅱ)

 すべての造られたものの中で、人間は最後に造られました。これには深い意味が感じられます。最初に造られた者ほど、他者への依存度が少なく、後になって造られたものほど、他者に依存して生きなくてはならない度合いが高いからです。神派人間をそのような存在としてお造りになられたのです。一見すると、人間が一番強いように思えるのですが、実は一番弱いのです。一番、支えてもらう必要があるのです(特に、神に支えてもらう)。そのことを忘れて、私たちは一番強いと、傲慢になるとき、神が祝福をもって造られたこの世界を、人間がダメにしてしまうということが起こるのです。人よ、謙遜であれ、聖書はそう私たちに訴えているのです。

11月15日(土) 創世記1章27節
 「 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された 」(27節)。聖書は、人間は神にかたどって創造されたのだと言います。かたどって、つまり「 似せて 」ということです。一体、どこが似ているのでしょうか・・・。いろいろなことが思い浮かぶと思いますが、より聖書に密着して考えるならば、他の被造物と人間の違いに着目することが鍵になります。その違いは、他の被造物には神の命令が与えられておらず、人間にだけ命令が与えられている(28節)。つまり、人間だけが神からの語りかけを聴き取ることができる、神とコミュニケーションを取ることができる。それが神にかたどられているということなのです。だからもし、私たちがこのコミュニケーションを持たないならば、そのとき、私たちは神に造られた人としての姿を失ってしまっているのです。

11月16日(日) 創世記1章31節
 「 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった 」(31節)。神はすべてのものを良いものとして創造し、存在せしめられました。しかしそれは、神とのかかわりが保たれているという条件に於いて、ということです。その条件が崩れるとき、人は良いものではなく、悪しきものとなってしまう可能性を持つのです。しかし神との関係を回復させていただいた信仰者相互に於いては、お互いを良いものとして受け止めます。たとえそう思えなくても信仰によって。

先週の説教要旨「 涙に勝つ 」 使徒言行録21章1節~16節 
 今朝の箇所はパウロが、ミレトスの港を出て、それからカイサリアに着くまでの道筋が記されている。カイサリアはエルサレムまでもう一歩のところにある港町である。これまでにパウロは 「 マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『 わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない 』と言った 」(19章21節)、「 そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません 」(20章22節~24節)と、その覚悟を示していた。パウロは、エルサレムに着くまでの間に、船が停泊した町々で、そこに生きているキリスト者たちを探し出しては、礼拝と交わりを共にした(4節、8節)。ほんの短い期間の交わりであったが、その交わりは深く、豊かなものであった。それゆえに、別れの時には家族そろって見送りに来ている(5節)。パウロは、ひとつの町にとどまりながら、そこで一生懸命にキリストに従って生きている人たちの話を聞き、その姿に触れて、大変励まされたと思う。パウロのような大きな務めを担っているわけではないが、自分に与えられた賜物を生かして、一生懸命に神にお仕えしている。自分もこの人たちと同じように、キリストに従って生き抜こうと、その決意を新たにしたい違いない。フィリポの4人の娘たちが、結婚するよりもすべてを神様に捧げて、お父さんと一緒に伝道に励んでいる姿にも力づけられたであろう(9節)。ところで、このように教会を訪ねて行くところで共通の問題が起きている。それは、教会の人たちが異口同音にパウロのエルサレム行きを止めさせようと働きかけていることである(4節、12節)。しかもそれは御霊による働きであると記されていて、その中にはパウロの心を誰よりもよく知っていた伝道者仲間のルカも含まれていた(12節)。エルサレムに行ったら、大変なことが待っている。だから行かない方がいい!そしてこの点では確かに、この後に記されているように、アガボの予言がその通り実現するのであって、パウロは縛られて異邦人の手に引き渡される。そしてローマの官警に渡され、やがてローマにまで連れて行かれることになる。ここでは、いずれの場合も霊が働いてパウロのエルサレム行きを止めようとしている。パウロも御霊の導きによってエルサレムへ行くのだと確信している。神の御霊は、賛成、反対、双方の人たちを導いているということなのだろうか、それは自己矛盾なのではないか・・・。

 私はこう思う。明らかに神の霊は双方に働いていた。こういう御霊の導きは、ちょうどイエス様が伝道の歩みを始められるときに、荒れ野の誘惑で悪魔と対決をしたときにも経験なさったことである。「 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた 」(マルコ1章12節、13節)。御霊が悪魔の試みを受けさせようと、イエス様を荒野に追いやっている。なぜ、御霊はイエス様を荒野に追いやったのか。その直前のところでイエス様は洗礼を受けておられる。そしてそこで「 救い主としてのご自分の使命 」を三位一体の神、総動員で確認しておられる。この出来事を受けて悪魔の誘惑へと導かれるのであるが、御霊はイエス様が救い主としての歩みを全うされる覚悟があるかいなかを、試すためにあえてイエス様を荒野に追いやったのである。聖書の神は従う者をあえて試される、どこまでも従って行きたいとの思いがあるかどうか・・・。アブラハムがその子イサクを捧げるよう命じられたのもその一例だ。ここでは教会員の口を通して、アガボの口を通して、そしてルカら伝道者仲間の口を通して、神がパウロを試されたと、読むことができると思う・・・。宗教改革者ルターは、試練、試みを「 神の攻撃 」と言った。ルターも、いつも厳しい戦いにさらされたときに、自分の敵であるかと思う人の、自分に対する試練の言葉を、私は神によって攻撃されている、そのように理解した。パウロはここで、神によって、イエス様と同じように試されている。その中でなお神に従い抜く思いを確かにしている。このパウロの決意の固さを知ったときに、ルカも他の仲間たちも「 主の御心が行なわれますように 」と言って、口をつぐんだ。主の御心が行なわれるように・・・。

 マルコ福音書は、そのような歩みにイエス様が踏み込んで行かれたときに、天使が一緒に仕えたと書いている。野獣も一緒だけれども、天使も一緒だったと・・。霊に満たされるとき、そこには苦しみのない安全な世界が広がるわけではない。そこには野獣と一緒に象徴される苦しみがあるけれども、同時に天使と一緒という平安もある。つまり、神が共におられるという恵みは、野獣も一緒という苦しみにおいて展開され、いよいよその姿を現して行くものなのである。苦しみがあることは断じて、神かがあなたと共におられないことのしるしではない。否、むしろその逆なのだ。パウロはそのことをよく知っていたし、その恵みに支えられていたのである。2014年11月2日)

2014年11月2日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月3日~11月9日

11月3日(月) ヨハネによる福音書20章19節~23節(Ⅱ)
  驚くべき約束と使命が、よみがえりのイエス様から弟子たちに告げられました。「 聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る 」(22節、23節)。罪を赦す権威を持っている方は、神様おひとりなのですが、その権威を弟子たち、すなわち教会に委ねると言うのです。彼らはイエス様を見捨てるという罪を犯してしまい、深い慙愧の念にとらわれ、今しがたその罪の赦しに与ったばかりの人たちです。しかし、むしろそういう彼らだからこそ、高い所に立って「 お前なんか赦されない 」と言うのではなく、低いところから「 私のような者が赦されたのだから、あなただって赦されますよ 」という言い方しかできないのではないでしょうか。教会はそのような姿勢で、この使命を果たして行くのです。それ以外ではありません。

11月4日(火) ヨハネによる福音書20章24節~31節
  疑い深いトマス、ディディモ(24節)というのは双子という意味です。聖書に双子のもう一人が登場しないことから、この双子とは精神的な意味での双子、すなわち信じたいと思いと疑いの思いが拮抗して同居していることを暗示しているのかも知れません。「 わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである 」(29節)との主の言葉が胸に迫ります。私たちもディディモのようなところがあるからです。しかし群れの中で最後まで信じられないでいた信仰弱いトマスを導くために、イエス様は再び、同じ状況に設定された部屋(トマスのことを心にかけた仲間の弟子たちが同じ体験をトマスにも味わってほしいと考えて、同じ状況を用意したのだと思われます)を訪れ、トマスめがけて言葉を語られました。そこに深い、深い慰めがあります。主は私たちをも同じように導いてくださるのです。

11月5日(水) ヨハネによる福音書21章1節~14節(Ⅰ)
  「 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた 」(4節)。一晩中働いて何の収穫もなかった弟子たちが岸に向かいます。そこにイエス様が立っておられました。偶然、立っておられたのではありません。弟子たちを待って、立っておられたのです。一生懸命働いたのに、何の収穫もない、そういうことも人生には多々、あります。つまずいたり、失敗したりして、無一物で帰って行かねばならない岸辺があります。その岸辺にイエス様は立っていてくださいます。私たちを迎えるために。人生には失うことによって初めて得ることができる出発点というものがあるのです。あなた人生の岸辺にも、主が立っていてくださいます。

11月6日(木) ヨハネによる福音書21章1節~14節(Ⅱ)
 よみがえられたイエス様が炭火の食事をもって弟子たちを迎えてくださいました。ペトロにとって、これは二度目の炭火体験ですが、この炭火は前のもの(18章18節)とは違い、罪の悲しみによって冷えてしまった彼を心の底から温めてくれます。7節にはちょっとおもしろいことが書かれています。「 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『 主だ 』と言った。シモン・ペトロは『 主だ 』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ 」。どんなに親しい仲間にも、自分の知られない部分はあるものです。だから一緒に生きていられるのです。しかし救い主の光の中では、私たちは見事に「 裸同然 」なのです。隠しようもありません。恥ずかしくて湖に飛び込んだペトロを、それでもイエス様は岸辺で待っていてくださいました。そうです、私たちは「 待たれている罪人 」なのです。

11月7日(金) ヨハネによる福音書21章15節~19節(Ⅰ)
 「 三度目にイエスは言われた。『 ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか 』。ペトロは、イエスが三度目も、『 わたしを愛しているか 』と言われたので、悲しくなった 」(17節)。さすがに三度目はペトロの胸にこたえました。三度、主を否認したことを思い出したからです。しかしイエス様はその罪を問うことをなさいません。「 私を愛するか 」と、その一言だけを問われます。救い主の受難、十字架、そして復活、あの一連の出来事はまさしくつまずくペトロのためにあったことが心底分かっているならば、それでよい、とイエス様は言われるのです。もし心底分かっているならば、その感謝の思いをもって、ペトロは羊を養うことができるのです。

11月8日(土) ヨハネによる福音書21章15節~19節(Ⅱ)
 「 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである 」(18節、19節)。若い時には意欲によって生きてきました。自分で身支度をし、使命感に燃えて、生きたいところへ行きました。年をとると、自分で身支度はできなくなります。誰かの意志で、望まないところに連れて行かれます。しかし、だから惨めだということではないのです。そこに神の御心があると信じるなら、そのところでも神の栄光を現すことになるのです。

11月9日(日) ヨハネによる福音書21章20節~25節
 「 ペトロは彼を見て、『 主よ、この人はどうなるのでしょうか 』と言った 」(21節)。ペトロの信仰の道は厳しいものとなります。他の人はもと楽に信仰生活をしているように思えました。そこでイエス様は言われました。それが「 あなたに何の関係があるか 」(22節)と。ペトロは自分の歩むべき厳しい道で、主の慰めを知るのです。他の人のものではない、自分だけの人生の途上で、そこだけでしか味わえない神の恵みを知るのです。私たちもそうなのです。