2014年10月27日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月27日~11月2日

10月27日(月) ヨハネによる福音書19章28節~30節
  「 イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『 渇く 』と言われた 」(28節)。何という言葉なのでしょうか、これは・・・。イエス様はかつてサマリアの女が水をくださいと求めたときに、「 この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る 」(ヨハネ4章13節、14節)とおっしゃいました。そのイエス様がここでは渇くと言っておられるのです。渇くどころか、渇かぬものを与えることのできるお方が、私たちの罪の贖いのために、渇く立場に身を置かれているのです。たった一言の「 渇く 」。そこにどれほどの思いが込められていることでしょうか。30節の「 成し遂げられた 」という言葉と呼応して、この言葉は私たちの胸を深く貫きます。

10月28日(火) ヨハネによる福音書19章31節~37節
  「 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た 」(34節)、「 また、聖書の別の所に、『 彼らは、自分たちの突き刺した者を見る 』とも書いてある 」(37節)。兵士たちはイエス様の死を確かめるために、槍でその体を刺したと言うのです。つまり、旧約聖書に記されていた預言通りのことが行なわれたのだと言うのです。しかしイエス様の体を突き刺したのは一人の兵士の槍だということではなくて、本当は私たちひとりひとりの罪なのです。私たちの罪の鋭い穂先がイエス様の体を貫いたのです。それが聖書の伝えている信仰によるところの理解です。私たちは自分が突き刺した方と相対して生きているのです。それが私たちの信仰生活、まことに厳しくあり、かつ慰め深いものなのです。

10月29日(水) ヨハネによる福音書19章38節~42節
  イエス様の遺体を引き取ったアリマタヤ出身のヨセフという人のことが書かれています。彼は消極的な信仰者でした。「 イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた 」(38節)と言うのです。情けないと言えば、情けない弟子です。しかしその彼が極悪人の犯罪者として十字架につけられたイエス様の遺体の取り降ろしを願い、申し出たのです。この時、ペトロなどの主だった弟子たちは、皆、恐れてその姿を隠してしまっていたのです。十字架の元にはいなかったのです。そのような場面でヨセフは信仰者としての自分を奮い立たせて、遺体の取り降ろしを願い出ます。神はどのような信仰者にもその出る幕をちゃんと用意していてくださるものです。自分のような者は・・・という自己卑下はイエス様を信じる信仰にふさわしくありません。主はとっても憐れみ深い方なのですから。

10月30日(木) ヨハネによる福音書20章1節~10節
 主のおよみがえりの朝の出来事が記されています。あなたはどのようにして、キリストのおよみがえりを信じましたか。トマスという弟子は、よみがえりのイエス様に会わなければ信じられないと言いましたが、それに対抗するように9節では不思議なことが言われています。「 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである 」(9節)。復活の信仰は、よみがえられたイエス様となにか奇跡的に出会うことによって生まれるのではなく、聖書の言葉を信じることによって生まれるのだというのです。「 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています 」(第一ペトロ1章8節)。聖書の言葉に触れている生活こそが私たちに復活を信じさせてくれるのです。

10月31日(金) ヨハネによる福音書20章11節~18節(Ⅰ)
 マリアはおよみがえりのイエス様にしがみつこうとしました。もはやイエス様の墓守として生きることにしか、慰めを見いだせなくなっていたのです。しかしそのお墓も荒らされ、最後の望みさえも奪われたと思っていたマリアでしたから、イエス様の声を聞いて思わず「 もう二度と離すものか 」としがみついてしまったのです。しかしイエス様はそのマリアを留められました。まだ父の元へ上っていないのだからと・・・。イエス様は、慰めが必要なときに自由に自分で取り出して慰めを得る、そんな人間の管理下に置かれた救い主とされることを拒否されます。あなたの思いをはるかに超えて、イエス様は大きな救い主なのです。

11月1日(土)ヨハネによる福音書20章11節~18節(Ⅱ)
 イエス様は彼女のことを「 マリア 」と名をもって呼ばれました(16節)。聖書の中では、名前を呼ばれる事は重要な意味を持っています。そこには、新しい人間として造り変えられ、新たな命に生きなさいと言う神様からの召しが込められているのです(創世記22章のヤコブの例など)。今朝も、イエス様はあなたの名を呼んで、あなたを一日の歩みへと送り出してくださいます。

11月2日(日) ヨハネによる福音書20章19節~23節(Ⅰ)
 「 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『 あなたがたに平和があるように 』と言われた 」(19節)。弟子たちはひどく怯えていました。ユダヤ人たちへの恐れ(殺される恐怖)がありました。イエス様を見捨ててしまったという、十字架のもとでの挫折感もありました。その挫折した人間集団の真ん中によみがえられた主がお立ちになり、赦しの宣言をなさいました。その瞬間、惨憺たる集団は教会に成ったのです。教会は当然のことのように、ここにあるのではありません。教会になるのです。主が私たちの真ん中に来てくださることによって教会になるのです。恐れを抱くあなたのただ中にも主が立ってくださるように。

2014年10月19日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月20日~26日

10月20日(月) ヨハネによる福音書18章15節~18節
  「 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた 」(18節)。逮捕されたイエス様のことを気にしたペトロはそっとあとをつけて来て、大祭司の庭に忍び込みました。そこでペトロは生涯、忘れられないこのとき、ペトロが暖をとった炭火、それはいかにしてイエス様を死刑に定めようとか躍起になる大祭司カイアファの庭の「 闇の子たち 」の炭火でした。それは正義よりも利害、永遠よりも今、霊よりも肉の欲を喜ばせる世俗の暖のぬくもりでした。ペトロはイエス様の弟子であることを否定して、そのぬくもりに身を置き続けました。しかしこの一瞬の暖が、のちにペトロをどんなに寒々と震え上がらせたことでしょうか。イエス様との関わりを絶つところで、私たちが真に身も心も温められる場所など、この世には存在しないのです。

10月21日(火) ヨハネによる福音書18章19節~24節
  「 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。『 わたしは・・・・』」(19節、20節)。アンナスは、イエス様の教えについてだけではなく、弟子たちのことも尋ねました。しかしイエス様は弟子たちの「 」となって、そのような尋問には答えず、ご自分のことをお語りになりました。現代は情報開示が強く叫ばれている時代ですが、あなたはイエス様のように、仲間を守るために情報を与えないという静かな勇気を持っていますか。イエス様はご自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちのことをお語りにならず、なおもそんな彼らを守ろうとしています。あなたのすべてを知っておられる方は、同時にあなたを守ることに徹してくださる方でもあります。

10月22日(水) ヨハネによる福音書18章25節~27節
  シモン・ペトロの信仰の火とは消えてしまいそうです。激しい尋問の前にペトロは、それを打ち消して「 違う 」と言ってしまいます。聖書はその最初から(創世記2章)、人間の祝福は神と共にあることだと言っています。聖書の最後また、祝福の回復として、神が人と共にあることを語っています(ヨハネ黙示録21章)。ペトロは聖書が語るその大いなる祝福を自ら否定しています。何と悲しいことでしょうか。しかしこのペトロのために「 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った 」(ルカ22章32節)との、イエス様の言葉が伝えられています。主はいつも悔い改めてやり直す道を残していてくださいます。たとえ試練に負けて信仰の挫折をしてしまうときであっても・・・。

10月23日(木) ヨハネによる福音書18章28節~38節a
  裁かれるイエス様と裁く立場のローマ総督ポンテオ・ピラト。ここでの2人の振る舞いを見ていると、どちらが裁く側なのか、よく分からなくなりますね。堂々としたイエス様とユダヤ人とイエス様の間を右往左往するピラト。イエス様に問うことは、それによって反対に自分がイエス様から問われる形になるものです。ピラトはイエス様に問うことによって、自らの決断、真理に属する者となるか否かを問われています。私たちの祈りも、神様に問うことでありながら、実は逆に神様から問われるという形に導かれることがしばしばですね。どうぞ真理につく者であれ。

10月24日(金) ヨハネによる福音書18章38節b~19章16節a
 ポンテオ・ピラトはイエス様に「 真理とは何か 」(38節a)と尋ねておきながら、その真理を本当に理解し、その真理を大切にしようとはしませんでした。イエス様に何の罪も見出せなかったにもかかわらず(38節)、結局はバラバの釈放を要求するユダヤ人たちの声を聞いてしまうのです(16節)。ピラトは自分の良心とはうらはらな行為をさせられることになりました。真理に従う思いよりも、自己保身の思いの方が強かったのです。身につまされます。私たちのうちには「 十字架につけろ 」と叫ぶような言わば、積極的に犯してしまう罪もありますが、ズルズルと押されて、心ならずも「 引き渡してしまう 」消極的な罪もあります。そしてどちらかと言うと、大方は後者の罪なのです。

10月25日(土) ヨハネによる福音書19章16節b~27節(Ⅰ)
 ついに、イエス様は十字架にかけられて殺されてしまいます。人々は皆、自分たちの思いを貫きとおして、勝利をしたと思っていました。自分を神呼ばわりする不敬虔極まりない男を殺すことが出来たと、溜飲を下ろす思いでした。しかし24節が示しているように、これらはすべて神様の筋書き通りだったのです。神様が人間の罪をイエス・キリストに引き受けさせて、そのイエス・キリストおいて裁かれたのです。こうして人間の罪は裁かれ、贖われたのです。キリストの犠牲に於いて。このキリストの出来事をあなたはどのように引き取るか、そのことが問われています。この箇所の最初と最後は、イエスを引き取ったということで始まり、終わっています。最初のそれは、罪と不信仰を印象づけるものであり、後者は信仰の応答です。私たちは十字架の出来事に対して後者のような「 引き取り」をしたいですね。

10月26日(日) ヨハネによる福音書19章16節b~27節(Ⅱ)
  「 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた」(18節)。犯罪人の二人が十字架につけられています。彼らは自分の罪の生涯の結末を迎えているのです。私たちもいつか、この体の死のときを迎えなければなりません。罪の結末という意味もそこにはあるでしょう。ですから楽ではありません。しかしその死にはもはやのろいはないのです。私たちの隣で救い主がその呪いのすべてを受けてくださっているからです。死は苦しいですけれども、それは新しい永遠の命への入り口なのです。

先週の説教要旨「 永遠に癒された命を生きている 」マルコ5章35節~43節

マルコ5章35節以下の物語、ここでは死の問題が扱われている。死は誰であっても避けて通れない問題。しかも死は、本人の問題にとどまらず、周りの人たちを巻き込む。死は本人にとっても、周りの者にとっても辛いことである。会堂長ヤイロは、死にかけている娘を救うために、イエス様のもとに来てひれ伏した。彼も娘と一緒に戦っている。しかしそこに悪い知らせが届く。イエス様がヤイロの家に向かう途中、娘は間に合わないで死んでしまった。だから、もう先生に来ていただくには及ばない、との連絡が入ったのだ。生きている間は希望がある、人はそう考える。医者に何と言われても、まだ生きている間は人は希望を持つことが出来る。ひょっとして・・・思いがけないことで回復するかも知れない。誰か優れた人の力に頼れば・・・。日頃は信じていなくても、きのことか、人が良いと言うことであればやってみようと思う。何万分の一の確率でも人は望みを持つ。しかし死んでしまったらどんな努力もそこで終わってしまう。死んだらお仕舞いという感覚が人にはある。ムンクという画家は、その感覚を見事に描いた人である。彼の『 おびえる少女 』という作品は、生きている人の背後にいつも死が迫っていて、誰もそれを消し去ることはできないということを現していると思う。知らせが届いた時、イエス様は会堂長に言われた。「 恐れることはない。ただ信じなさい 」(36節)と。イエス様は、娘はもう死んだから、それで信仰も祈りもそこで終わったというわけではないと言われたのである。「 なお、信じなさい 」と。愛する者の死に直面したところで、この言葉を聴くことができる者は何と幸いなことであろうか。

 ヤイロはこの言葉に支えられるようにしてさらに先へと進む。しかし、家に近づくにつれ、泣く者の声が大きく響いてくる。死の現実の前に立たされるヤイロ。しかしイエス様は「 なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ 」(39節)と言われた。イエス様にとって、死もまた、そこから娘を呼び覚ますことのできる眠りでしかなかったのだ。しかしその言葉を聞いた人々はあざ笑った。イエス様は、あざ笑った人たちを外に出して、両親と3人の弟子だけを連れて、子どものいる所へと進んで行かれる。つまり、あきらめてしまっている人たちは外に出したのだ。そしてなお、あきらめきれない、望みを捨て切れない人だけを連れて、部屋の中に入って行ったのである。なお、祈らないではいられない人々を連れて行かれたのである。私たちの信仰は、あきらめたところで終わる。ここまでは一生懸命祈って来た。しかしもうここから先は何もない、こんな辛い場面ではもう信仰は役に立たないと思ったら、そこで終わるのだ。こんなひどい場面では、もう神様は関係ないと思ったら、そこで終わってしまうのだ。しかしイエス様はさらにその先に、その向こうへと踏み込んで行かれる。なお祈らずにおれない者たちを連れて・・・。踏み込んだヤイロの目には、寝台の上に横たわる娘の姿が映った。ヤイロはユダヤ人だったから、罪と死のかかわりというものをよく知っていた。罪を持つ人間のもろさ、はかなさをヤイロは悲しみのうちに娘の姿に見ていたに違いない。阪田寛夫さんが母の死に見ていたように・・・。しかしそのとき、イエス様は子どもの手を取って、「 少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい 」と言われた。少女の手を取った・・・。死者の手を取ったのである。ユダヤでは死体に触れることは汚れることを意味した。しかしイエス様は触れた。これは主が少女の死をご自分の体に引き受けられたことを意味している。神の救い主は、私たちの一番深刻な病、死を引き受けられた。そのために神の子が死ぬということが起こる、あの十字架で。これはありえないこと、起こってはいけないことだ。しかし神の子は死ぬ。死へと向かう。十字架にかかる。死の支配する暗黒の闇の中に踏み込み、神の子がそこに身を横たえる。そしてそこからよみがえることによって、死の支配する闇の空間に、天に通じる風穴を開けられるのだ。イエス・キリストはその風穴を通して、死から天へと向かわれる。そしてキリストを信じるすべての者たちも、このキリストに続いて、このキリストが開けて下さった天に通じる風穴を通して、死から天へと向かうことができるようになる。このことをなすために、イエス・キリストは本来、ありえない死というところに、その身を置いてくださろうとしている。それがあの十字架と復活の出来事。それゆえ「 わたしは言う、起きなさい」との言葉は、イエス様の全存在のかかった、渾身の一言なのである。
 
 12歳の少女は、12歳の命をあるべき命の姿を回復した。主の癒しは私たちの命をそのあるべき姿に回復してくださる。心身の病気や私たちが生きることを妨げていた障害、それらすべてのものが、終わりのよみがえりの日には本来のあるべき姿に回復される。この身体も救われて新しくなる。私たちはその約束の日に向けて生きているのである。すなわち、永遠に贖われた命を今、生きている。それが召天者たち、信じる者たちに与えられている希望であり、慰めなのだ。                                                      (2014年10月12日)

2014年10月12日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月13日~10月18日

10月13日(月) ヨハネによる福音書16章16節~24節
  「 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる 」(20節)。イエス様を信じて従って来た弟子たちは、イエス様が十字架にかけられてしまうとき、悲嘆に暮れるけれども、主の復活が起きると、その悲しみが喜びに変わるということが告げられています。信仰を持っているがゆえの悲しみを私たちは知るようになりました。信仰を持っていないときには、ちっとも悲しいと思わなかったことに悲しみを抱くようになりました。しかしそのような悲しみは喜びへと変えられる悲しみです。いつか喜びに変わる悲しみなのです。信仰者の深い喜びは悲しみをくぐって与えられるのです。

10月14日(火) ヨハネによる福音書16章25節~33節
  「 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている 」(33節)。大江健三郎さんが、チャンピオンという言葉には一番強い人という意味だけでなく、「 代わりに戦ってくれる人 」という意味があることを知ったときのお兄さんとのエピソードを感動的に記しています。私たちは、イエス様のことを私のチャンピオンと言うことができるのです。イエス様がすでに勝っていてくださる、その戦いは私たちに代わって戦ってくださった戦いなのです。だから私たちも既に勝っている!と言うことができるのです。勇気が与えられますね。

10月15日(水) ヨハネによる福音書17章1節~5節
  十字架を目前にして捧げられたイエス様の長い祈りが記されています。大祭司の祈りと呼ばれている祈りです。まず、ご自分のために祈っておられます。父なる神の栄光を現わせるようにと・・・。その祈りの中に「 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです 」(3節)という言葉があります。永遠の命の祝福は、永遠に生き続けるようになることにあるのではなく、いよいよ深く、神を知るようになる、単に知的に知っているというのではなく、人格的に知る、交わりを持つということにあります。私のことをとことん愛し、受け入れてくださる方として神を知るようになるのです。地上では十分とは言えない「 知っている 」が、いよいよ深められて行く祝福です。

10月16日(木) ヨハネによる福音書17章6節~19節
  続いてイエス様は12人の弟子たちのために祈ります。「 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです 」(14節)。この世界に生きている人は、神に属する者と世に属する者とに分けられると言うのです。その区分けは御言葉に対する姿勢によって成立しています。弟子たちはその性格や品性が優れているということでキリストの弟子なのではありません。キリストが言葉を語り、その言葉を弟子たちが聞いている。御言葉を介してつながっている、ただその一点が、弟子が弟子である理由なのです。世は(世の人は)弟子たちがのちに伝えるようになる言葉を受け入れず、語った弟子たちを憎むようになると予告されています。主が語り、弟子たちがそれを聞いている、そこに新しい世界、神の国が出現しているのです。

10月17日(金) ヨハネによる福音書17章20節~26節
 イエス様は弟子たちの伝道によって信じるようになる、いわば将来の信徒たちのためにも祈られます。現代に生きる私たちもここに含まれています。その祈りの核心は「 一つになる 」ということです。教会が一致する。父なる神と御子キリストが独立した人格でありながら、愛によって結ばれてひとつであられるように、そのことが源にあるような一致、そのことが模範であるような教会の一致を祈られています。そしてその一致の姿を見て、世の人が信じるようになると言うのです。このことは私たちの課題でもありますが、主が祈られたということは大きな支えです。

10月18日(土) ヨハネによる福音書18章1節~11節
  イエス様の逮捕の場面です。通常、逮捕する側は強気になり、逮捕される側は弱気になるものです。しかしここではそのような常識は吹き飛ばされています。「 イエスが『 わたしである 』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた 」(6節)逮捕される側であるにもかかわらず、イエス様は実に堂々としておられます。イエス様はむざむざと捕らえられてしまうのではありません。自ら強い意志をもって進み出ています。捕らえに来た者たちが打ち倒されるほどのあふれる気力をもって十字架へと踏み出されます。それは、なんとしても守らなければならない民がいるからです。この救い主の背後にいる私たちは、一人も失われることはないのです(9節)。あなたも「 失われない 」ひとりに数えられているのです。ハレルヤ。

10月19日(日) ヨハネによる福音書18章12節~14節
  逮捕されたイエス様は、ときの大祭司カイアファのところに連行されました。「 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった 」(14節)。人の思惑と神のご意志が重さなり合って、事が進展していることに注意しましょう。それは二重舞台のようです。下の舞台では、人間が悪意をもって神の御子を殺してしまおうと躍起になっています。しかし上の舞台では、神の御子を殺してしまおうとするところに現れてくる人間の罪を(人間の罪は、自分の生活から神を締め出し、無きものとしてしまうところに極まります)、父なる神が御子キリストに引き受けさせ、御子の十字架においてその罪を裁き、罪の贖いをなさろうとしておられるのです。人の罪と神の愛とが際立つ舞台、それが十字架なのです。カイアファの助言はいみじくも、その舞台の預言となったのです。

先週の説教要旨「 与える幸いに生きる 」 使徒言行録20章25節~38節 

今朝の箇所は伝道者パウロがエフェソにある教会の長老たちを呼び寄せて語った、いわば遺言のようなものである。パウロにも長老たちにもこれが最後の別れになるという予感があった(38節)。だから長老たちはパウロの語る言葉をひとつも聞き逃すまいと、全身を耳にして聞く。語るパウロも限られた時間のどうしてもこれだけは語りたいということを厳選して語る。ここでのパウロの言葉は、教会が学び続けなければならない、言わば教会の憲法とも言われる教会の基本となる歩みを示す最も大切なことが記されている。キリストの教会に生きる者が何度も帰って来て、体得しなければならないことが記されているのである。もし、これをよく覚えて、これに従うならキリストの教会が過ちを犯すことはない、いや仮に間違いを犯したとしてもそこから立ち直ることができると、私は固く信じている。

 パウロはまず長老の起源とその務めについて語る(28節)。長老は、教会という群れ全体の世話をするために、神の霊によって立てられる者である。私たちの教会でも今、長老の選挙をしている。教会員が候補者を選ぶのだが、これは教会員の判断を用いて神の霊が選んでくださるのであって、自分たちが選ぶということではないのである。それが長老選挙における私たちの信仰である。この信仰が、長老に立てられている者に対する教会員の姿勢を造るし、またそれを支える心をも生むのである。また、長老自身にとっては、自身の力不足を嘆く必要もなくなるのである。なぜなら、神の霊が選んでくださったのであれば、必ずその務めを全うする力をも、聖霊は与えてくださるからである。聖霊は決して無責任なお方ではないのである。

 しかし長老の働きを担っていくところで、ひとつの危険があるとパウロは警告する(29節、30節)。残忍な狼どもが教会に入り込んで来て群れを荒らす。狼は奪うもの。つまり、これは神のものである教会を神の手から奪い取ってしまう人々のことを意味する。いったい、だれがそんなことをするのかと思ったところで、パウロは「 あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れる 」と言う。邪説、神の恵みの福音を曲げてしまう教えを語る者があなたがた自身の中から現れる。だから、あなたがた自身と群れ全体とに気を配り、内から外からの危険に気がついてほしいと言う。どうやって気づくのか。32節、「 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです 」とあるように、神とその御言葉に委ねるのである。私たちはいろいろなことを選択しながら生きているが、信仰を持たない人は自分の選びが最後の決定となる。しかし神とその御言葉に委ねることを知る信仰者は、自分の決定が最後のものとはならない。神の言葉はどう言っているか、神の言葉こういうときにどうしろと言っているか、神の言葉に問う。そしてもし自分の判断と神の言葉とが対立したときには、自分の判断を捨て神の言葉が示す道を選ぶ。それが神とその言葉に委ねるということの具体的な姿である。もしそのように歩むのなら、教会の歩みは必ず守られるし、仮に間違ったとしても必ず立ち直れる。それは教会だけでなく、信仰者ひとりひとりの生活においても、あてはまることなのである。

 邪説を唱えてしまう者が群れから出ると言うことから、どんな邪説なのだろうかと考えるのだが、そこでパウロが主イエス御自身の「 受けるよりも与える方が幸いである 」との言葉を思い出せと言っていることは興味深い。私たちはこの事場にアーメンと言えるだろうか。もしいえないなら、そこにはすでに悔い改めて、もう一度神の言葉に身を委ねることが求められていることになろう。私たちは厳しい現実の生活を生きている中で、与えるよりも受ける方が幸いだとの考えに絶えず引き込まれる危険にさらされている。しかしそれは主の言葉と対立することである。その対立の中にこそ、私たちの罪とイエス様の十字架とが際立って現れてくる。ところでなぜ、与える幸いに生きよと主は言われたのであろうか。それは主ご自身が誰よりも与える幸いに生きられた方だからである。『 おおきな木 』という絵本があるが、原題はThe Giving Tree 』である。幼い坊やの成長を見守り、与え続ける木と坊やの物語である。坊やのために、実も枝も幹もすべて与えてしまい切り株になってしまう木、それでも坊やと共にいる喜びを求め続ける木は、まさにイエス様のことを指しているのだと思わされる。この木が表しているイエス様と出会い、その愛を知らされるとき、人は受ける幸いに生きるところから与える幸いに生きることへと、シフトチェンジするのである。もはやこの道以外に自分の進む道はない、主の歩みとひとつとなる歩みに深い喜びを見出すようになる。かつての私がそうだった。私は与えることではなく、むしろ得ることを人生最大の目標として歩んで来た。自分が得ることのために、家族を犠牲にしてしまったこともあった。得ることのみを追い続ける者は、必ず周りの者を犠牲にしてしまう。しかし教会に導かれ、イエス様の大きな愛に出会ったとき、得たいと願いつつも得られないという悩みはまことに小さなものとなった。神の愛がその悩みを飲み込んでしまったのである。おそらく、これはすべての信仰者の経験であろう。神に感謝! (2014年10月5日)

2014年10月6日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月6日~10月11日

10月6日(月) ヨハネによる福音書13章31節~35節
 「 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる 」(34節、35節)。愛し合うことが新しい掟だと、イエス様は言われます。しかし、愛し合うことの大切さは旧約聖書においても明確に言われていました。それなのに、イエス様はなぜ、新しい掟だと言われるのでしょうか。どこが新しいと言えるのでしょうか。その新しさとは、これが実現可能な戒めとなったという点です。イエス様の愛に生かされる前は、いくら大切な戒めだと分かっていても、人は愛し合うことができませんでした。しかし今、この戒めは実現可能なものとなりました。そこが新しさなのです。イエス様の愛に生かされるならば、これは私たちにおいても実現する戒めとなっているのです。そのためには「 愛せるようにしてください、この約束の成就を私においても成就してください 」と祈ることが極めて大事です。

10月7日(火) ヨハネによる福音書13章36節~38節
 「 わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる 」(36節)。弟子たちはここまでイエス様について来ました。しかし最後の晩餐のあと、これから先はついて行くことはできません。受難と十字架の道、その道は神であり、同時に人でもある救い主イエス様だけが歩むことのできる道です。その耐え難い茨の道を歩み抜いて、主は私たちのために栄光の道を開いてくださるのです。私たちは主が開いてくださったその道を「 あとで 」ついて行くことができるようになるのです。イエス様の歩まれたあとに、私たちの行くべき道がはっきりと現れてきます。おじけずくことなく、私もついて行けると信じましょう。たとえ、困難が待ち受けている私の道であっても・・・。

10月8日(水) ヨハネによる福音書14章1節~14節
 「 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか 」(1節、2節)。この御言葉は、人が召されたときに、牧師が遺族の前でよく読む御言葉のひとつです。イエス様の苦難、十字架、復活、そのすべてはただひとつの目的をもって行なわれました。それは、私たちのために父の家に場所を用意するためでした。私たちの場所は用意されているのです。私たちの死は、行き場所も分からないまま暗闇に放り出されてしまうようなものではないのです。行き先が用意されている死なのです。だから、心を騒がせずに、信じることによって、悲しみの中にも平安が生まれます。私たちキリスト者は大きな平安に支えられて、愛する者との別れの悲しみを味わうのです。

10月9日(木) ヨハネによる福音書14章15節~31節
 「 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる 」(14章19節)。生きている屍という言葉があります。もはや死んだも同然と思われる状況になることが人にはあります。しかしイエス様を信じる者は、そのような時でさえ、なお生きることができます。生きる力の根拠が私たちの中にあるのではなく、イエス様ご自身の中にあるからです。イエス様が「 わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる 」と宣言してくださるからです。私たちが頑張っているから、私たちは生きているのではありません。イエス様が生きて働いていてくださるから、私たちは生きているのです。ですから私たちに望みがなくなってしまうことはないのです。

10月10日(金) ヨハネによる福音書15章1節~17節
 「 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ 」(16節)。この御言葉は、信仰生活の急所をとてもよく表しています。信仰生活は、自分の選びが基準になっている信仰から始まり、神の選びが基準となる信仰へと移行して行く(深まって行く)ものです。たとえば、礼拝に行く、何かの奉仕をする、捧げ物をするのときに、この奉仕が好きだからするとか、今日の礼拝は期待できそうだから行くとか言うのは、自分の選びが基準になっていますが、神が私を礼拝に招いておられるから行くとか、神がこの奉仕に召しておられると思うから引き受けるとか言う場合は、神の選びが基準になっています。信仰生活は自分の選びから神の選びへと決断の基準が移行して行くものです。そのとき、あなたの信仰はより深まり、さらに深い恵みの世界に生きるようになります。

10月11日(土) ヨハネによる福音書15章18節~27節
 「 僕は主人にまさりはしない 』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい 」(20節)。信仰生活において、様々な困難やつらいことに私たちは遭遇します。行き悩むこともしばしば起こります。しかしそのとき、イエス様は「 わたしが言った言葉を思い出しなさい 」と言ってくださっています。私たちが経験するいかなる困難も、私たちを救うためにイエス様が味わわれた困難には決して勝っていないのです。ですから、私たちはいかなる困難のときにも、計りがたいイエス様の困難の「 」に守られているのです。そう信じてよいのです。

10月12日(日) ヨハネによる福音書16章1節~15節
 「 弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする 」(7節、8節)。人は誤りを正されることを好みません。自分の誤りをなかなか認めようともしません。しかし信仰者は弁護者であられる聖霊によって誤りを正される喜びを知ります。それは祝福なのです。

先週の説教要旨「 礼決められた道を走り 」使徒言行録20章13節~24節 

パウロは、当時の世界の中心ローマへと赴くことを神の導きであると信じ、一路ローマを目指している(19章21節参照)。一度エルサレムに戻り、そこからローマへ向かう計画を立てていたが、パウロはアジア州で時を費やさずに早くエルサレムに戻ろうとしていた(16節)。だがアジア州の教会のことが気にかかったパウロは、自分からエフェソには立ち寄らなかったが、代わりにエフェソの教会の長老たちにミレトスまで来てもらって、そこで伝えたい言葉を語った。そのことが17節から38節までのところに記されている。今朝は、その前半のところを読む。

この箇所には、伝道者パウロの生きる姿を実によく表している言葉がある。「 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証するという任務を果すことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません 」(24節)である。人生の充実を感じさせる言葉だ。パウロは、御霊が導くままにエルサレムに行く。そこでどんなことが起こるのか分からないけれども、ただはっきりしていることは、どこに行っても投獄と苦難が待ち受けているということ。だがそれでいい。それが自分にとって決められた道だから、神が定めた道だから・・・と言う。しかし神の定めの道を行くパウロには、悲壮感とかあきらめというものは感じられない。パウロにとって、決められた道は自分の苦しみの中に見えてくるのでない。自分の涙の中に感じ取るものでもない。パウロは涙を流し、投獄と苦難の道を経験するだろうが、その中で語るのは福音、喜びの知らせなのである。悲壮感の中で語られる喜びは、相手には喜びとして伝わらない。喜びの知らせというのは、それを語る本人が喜んでいないと、喜びの知らせとはならない。パウロにとって、自分の決められた道を走るというのは、投獄や苦難があるけれども、一番深いところでは喜びに生かされている。そういう道。だから悲壮感ではなく、充実感があふれるのである。私たちの人生を充実させるものは、仕事、勉強、スポーツ、趣味、恋愛、奉仕、旅行など、決して少なくない。しかしこのパウロの姿から私たちが感じることは、そういうものではない、もっと別のものが私たちの人生を充実へと導くということではないだろうか。多くの人は困難がないことがその人生を幸せに、そして充実したものにすると考えている。しかしたとえ投獄があり、困難があったとしても、それらを貫いて人生を充実させてくれるものが確かにあるのだ! アメリカで黒人解放運動を行なったマルティン・ルーサー・キング牧師が暗殺される前日に行なった講演は、まさにパウロと同じ充実感を漂わせている。死を予感しながら語られたものであるが、気品を漂わせる生の充実ということを思わされる。一体何が、彼らを充実させていたのか。パウロは、そういう人生のありようを「 走る 」と表現するのだが、何が彼らをして、そのように走らせていたのであろうか・・・。人間的情熱でそれができないことは言うまでもない。福音を伝えなければならないという義務感、それも違う。

太宰治の作品に『 走れメロス 』がある。暴君を暗殺しようとして捕まった正義漢メロスは死刑に処せられることになる。しかしメロスには妹の結婚式があり、それで3日間だけの猶予を願い、必ず帰るからと言い、友人のセリヌンティウスを人質として王に差し出す。人を信じていない王は、これはおもしろいとメロスの申し出を受け入れる。無事に妹の結婚式を済ませたメロスは、友が待っている王城に戻るため、走る。様々な困難、誘惑に打ち勝ってメロスは走り続け、ついに友との約束を果す。メロスを走らせたのは、彼の剛健な体力ではなく、彼の義理堅さでもなかった。そうではなくて「 信頼されている 」(友に)ということであった。同様に、パウロを走らせているものは信頼、神がパウロを信頼しておられるということなのである。かつて、パウロは教会を迫害する人間であった。神に敵対してしまっていた人間、そのパウロが今では、神に罪赦されるばかりか、信頼され、福音を伝える人間として福音を委ねられている。罪人を義人とみなす神の信頼、その信頼こそがパウロを走らせる。私たちの人生を充実させるものは、決して少なくはない。しかし私たちの人生を真に充実させるものは、神の愛なのだ。神があなたを愛し、あなたのことを深く信頼し、あなたにしかできない働きを託してくださっている。それが充実を生む。人間には、神だけがそこを満たすことのできる「 内なる部屋 」がある。そしてその部屋が人生を生きる上で決定的な意味を持っているのでる。

 金曜日、清瀬の喜望園に武井百合子姉を数人で訪ねた。結核患者の療養施設として都が建てた施設である。聖餐を伴う小さな礼拝をした。マタイ13章の真珠商人の話をした。高価な真珠をひとつ見つけると、持っているものを全部売り払い、そのひとつを買う。神様にとって、武井さんは高価の真珠のような宝。自分の持ち物のすべてを差し出しても、ご自分の独り子イエス・キリストの命を差し出してでも、手に入れたい、武井さんは神にとってそういう存在なのですよと話すと、「 そんな、もったいない 」と言われた。それじゃ赤字の取引だと・・・。しかし神はその取引をされる。パウロもまた、なんともったいないと思っていただろう。しかしそれが彼の走る原動力なのである。私たちもそうなのだ。 (2014年9月28日)