2014年7月27日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月28日~8月3日

7月28日(月) コロサイの信徒への手紙 4章7節~18節(Ⅰ)
 手紙の最後は、個人名を多く出したあいさつになっています。16節にあるように、近隣の教会も含めて、この手紙は礼拝の中で読まれたのかも知れません。次々と出て来る人の名に、礼拝者たちは心暖まる体験が与えられたことでしょう。それは、パウロにとっても同じです。6節で「 一人一人にどう答えるべきか分かる 」と語ったパウロは、一人一人の存在を心に留めています。ここに出て来る一人一人が伝道者パウロの心にその場所を持っているのです。パウロにとっては皆、愛する仲間の僕(7節)、キリストの僕仲間なのです。私たちも互いに心にその名を置く場所を持って覚え合い、主に忠実に仕える僕仲間でありたいと思います。

7月29日(火) コロサイの信徒への手紙 4章7節~18節(Ⅱ)
 「 あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、・・・彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています 」(12節)。これはエパフラスだけの願いではなく、パウロの願いでもありました。「 完全な者 」と言うのは、自分に自信を持っていると言うのではなく、自分たちにかかわる神の御心が完全であると確信し、それにすっかり信頼し切っていると言うことです。伝道者、牧師が教会の人たちに対して抱く祈りは、神の御心の完全さを信頼して生きるところにおいて、「 全き者 」となってほしいと言うことです。そのために、自らも祈る人になってもらうことです。

7月30日(水) ヨハネによる福音書1章1節~5節(Ⅰ)
 ヨハネによる福音書を読み始めます。ヨハネによる福音書の始まりは、創世記の始まりに似ていますね。「 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった 」(1節)。一貫して神様の祝福を告げているヨハネ福音書が「 初めに言があった 」と告げて始まるのは感慨深いものがあります。あたかも、祝福の生活は「 初めに神があること 」、そこから祝福の生活は生まれると宣言しているかのようです。あなたの一日の生活は「 初めに言があった 」から始まっていますか。それとも神の言抜きで始まっていますか。初めに神の言がある生活を心がけてみましょう。一日が祝福の生活だと実感されることでしょう。神と共に過ごす一日なのですから。 

8月1日(木) ヨハネによる福音書1章1節~5節(Ⅱ)
  「 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった 」(3節)。地上におけるすべての事象は、神の言によって成ったのだと告げています。つまり、そこには神の意志が働いているというのです。神の意志を抜きにしたところで、地上ではいかなることも起きない、神のあずかり知らぬものなど、そこにはないと言うのです。たとえ、あなたの一日がどんなに無意味に感じられるようであっても、そこには神の意志が働いています。決して無意味ではないのです。神の御前には深い意味が込められた一日なのです。ただ、その意味が自分にはまだ分からないだけなのです。だからどんなに無意味に思えた一日も、それは生きる価値があった一日なのです。 

8月2日(金) ヨハネによる福音書1章6節~13節
 「 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった 」(11節)。この言葉は、クリスマスの出来事と十字架の出来事を同時に現しているような言葉です。福音書の中に「 ぶどう園と農夫 」と呼ばれるたとえ話をイエス様が語られたことが記されています(マルコ12章1節~、マタイ21章33節~、ルカ20章9節~)。あのたとえ話は、14節の御言葉を丁寧に語り直しているような話です。あのたとえでもそうでしたが、民の頑なな心によっても、神の人間に対する思いを消し去ってしまうことはできませんでした。これは、その神の深い思いが凝縮されている御言葉です。何度何度も繰り返し反芻し、味わい知るべき御言葉です。

8月3日(土) ヨハネによる福音書1章14節~18節
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた 」(14節)。「 宿られた 」と訳されている言葉は、ギリシャ語のスケネオー、英語のスクリーンの語源になった言葉で「 幕を張る 」という言葉です。罪ある人間は神を直接見ることはできません。もし見るならば、それは死を意味します。神は、それでも罪に汚れた人間を愛し、なお人と交わろうとされ、人類の中からユダヤ人を選び、彼らに特別な清められた幕屋という神の臨在に触れる場所を与えられました。そしてその交わりを持ち続けることを通して、神は全人類への愛を温め続けられました。幕屋での会見は旧約時代にはユダヤ人だけの特権でしたが、新約の時代になると、御子イエス・キリストという幕屋においてすべての人が神と交わることができるようになりました。14節の言葉には、それほどの深い意味が込められているのです。

8月4日(日) ヨハネによる福音書1章19節~28節
 ひとつのことに徹して生きた人の人生は輝いており、それを聞く人たちの心を励まし、豊かにしてくれます。ここに登場するヨハネは、まさにそういう人物です。彼は自分の後に来る(27節)イエス・キストを指し示すことに徹して生きました。キリストを指し示す「 」となり切った人生を生きたのです。キリストは、彼よりも後から来られた方でしたが、彼よりも先に、「 初めにあった方 」(2節)でした。それに対してヨハネは「 言によって成った 」(3節)、言葉によって存在するようになった者でした。造った方と造られた者、その違いをヨハネはよくわきまえていました。その違い、一線を踏み越えないことが人間を守り、人を生かすことになるのです。ヨハネはそこに踏みとどまり、健やかに生き抜いた人です。

先週の説教要旨「 伝道する神 」使徒言行録16章6節~15節 

 この箇所に新共同訳聖書は「 マケドニア人の幻 」というタイトルをつけている。幻、英語の聖書ではビジョンとなっている。幻、ビジョンと言う言葉は、会社経営やスポーツなど、あらゆる分野でもよく耳にするようになった。ビジョンは、将来の構想、将来の展望、将来図などと訳される。会社経営には将来構想が必要不可欠で、そういうものを持たない企業は長くは続かないと言われる。サッカーでも、どういうチームを作るのか、その将来図に見合った監督を選ぶことからチーム作りはスタートする。ひとりひとりの人生においても、ビジョンが必要。将来への展望を持たないままで、ただ毎日を何となく流れにまかせて生きていると、それは決して実り多い人生を造らない。実り多き人生を生きた人は、皆、それに見合う大きなビジョンを持っていた人ばかりである。今朝合わせて読んだ箴言29章18節は「 幻がなければ民は堕落する 」と教えている。ビジョンがなければ、民は堕落する。しっかりとしたビジョンを持って生きることが、人を堕落から防ぎ、実りある健やかな人生を造ると聖書は教えている。そうであるならば、いかなるビジョンを持てばよいのか。自分の思いつく限りの夢をあげみて、その中からどれかひとつを選んで、「 これを私のビジョンとしよう 」と言えば良いのか。そうではない。「 幻がなければ民は堕落する 」というこの言葉は、口語訳聖書では「 預言がなければ民はわがままにふるまう 」となっていた。預言は、神様から預けられている言葉。つまり、ここで言うビジョンは、自分の願いが作り出すようなものではなくて、神様から与えられるものでなければならないということ。そういうビジョンに生きることこそが、あなたを堕落から守り、健やかに生かすのだと言うのである。今朝の箇所は、そういうビジョンを、神様がパウロたち、すなわち教会に与えられたことを告げている。教会もまた、神様からビジョンを与えられるのでなければ、堕落から身を守り、健やかに歩むことができなくなるのである。そうしたときに、一体どんなビジョンを神様から与えられたのかが重要になってくる。そしてそのビジョンを私たちの教会も共有しているのかが、今朝、私たちは問いかけられているのだと思う。

パウロたちに与えられた幻は、一人のマケドニア人が立って、「 マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください 」と言ってパウロに願うというものであった(9節)。つまり、伝道の対象である人々の苦しむ姿を幻として見させられたのである。これは今日の教会には欠けている幻ではないだろうか。「 ビジョンのない民は堕落してしまう。教会もビジョンが必要だ 」、そう言ってビジョンを掲げて歩もうとする教会の多くは、「 10年後には、私たちはこういう建物を建てて、これだけの人たちが集まる、そういう教会にするんだ 」と言うような、いわば自分自身に対するビジョンを掲げるのである。隣人の苦しむ姿をいつも見るべきビジョンとしている教会は一体どれだけあるだろうか。自分自身に対するビジョン以上に見るべき大切なビジョンがあるのだ。考えてみると、使徒言行録に記された教会は、確かに神様からのビジョンによって導かれているが、そのビジョンは教会自身に対するビジョンではなく、伝道対象である人たちの苦しむ姿の幻と、救いにおいて人を分け隔てしない神のお姿を見せる幻(10章でペトロが見たもの)なのである。そしてこの2つのビジョンさえ、しっかりと見続けていれば、あえて教会自身のビジョンを描かなくても、伝道に健やかに生きる教会は形成されていくのである。

 ここではパウロたちは、伝道の対象である人たちの苦しむ姿を幻として見せられた。しかし私たちが見ている実際の隣人の姿は、福音の助けを求めて苦しむよりもむしろ福音など全く必要としていない姿なのではないだろうか。信仰?私には関係ないよ・・・と言って、信仰の話に耳を傾けることもない。そういう隣人の姿ばかりを見ていると、伝道への意欲は萎えてしまう。しかし神様はそごこそ、福音を必要として苦しむ隣人の姿をビジョンとして思い描け、それを持てと言われるのである。神様の目には、福音を必要とし、助けを求めて叫んでいる人間の本当の姿、本人もそのことに気がついていないような本当の姿が映っている。神様はその本当の姿を私たちにビジョンとしてお見せになるのである。

 人間の本当の姿を神様は見ておられることと関連するのだが、先日、あるコラムを読んでいて日本は今、国全体が記憶喪失になっているという刺激的な言葉に出会った。過去の歴史から学ばない者は、今を豊かに生きることかできない。日本人の多くは戦国時代やそれ以前の日本の歴史をよく知っていても、近代、現代の歴史は学校できちんと学んでいない。明治維新までようやくたどりついたら、それで時間切れになってしまうのである。大切な部分の記憶がない中で、果たして今をよりよく生きるための決断ができるのか、という問いかけであった。これを読みながら思った。神様は今、人類全体が記憶喪失になっていると見ておられるのではないか。神様によって命を与えられ、生きるものとなった人間なのに、その記憶を失い、まるで自分ひとりの力でこの世に生まれ、生きているのだと思い違いをしている。神様は教会にそういう人間の本当の姿をいつも見せてくださりながら、自らが先頭に立つ伝道の働きに参加するよう、教会を導いておられる。
                                           (2014年7月20日)

2014年7月20日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月21日~7月28日

7月21日(月) コロサイの信徒への手紙 3章1節~4節
 あなたの命はどこにあるのでしょうか?私の命は、私の内にある。そう言うことも許されるでしょう。しかし、それよりももっと大事なことは、私たちの命は神の内にある。神の内にあって私たちは生きていると言うことです。私たちの命はキリストです。キリストのあるところに私たちの命はあります(3節)。この命は隠されたままではなく、キリストの現れのときに、間違いなく現れます(4節)。ここに私たちの将来の姿があり、私たちは栄光の中に自分を見ることができるのです。それを見ることが私たちの地上の生涯を支える望みなのです。困難の故に、他の何が見えなくなっても、このキリストにおいて与えられている命の恵みを見、信じて生きる。すべてはそこにかかっていることをよくわきまえられるようになりましょう。

7月22日(火) コロサイの信徒への手紙 3章5節~11節
 五体満足という言葉にみられるように、人間のからだも心も5つの部分からなると考えられていました。ここでは5つの不徳をあげて心の問題が語られています(5節)。5つの不徳の中核にあるのは貪欲です。8節では、貪欲が少し別の言葉でとらえ直されています。貪欲はただ神に向かって偶像礼拝の罪を犯すことにとどまらず、共に生きる隣人に対して大きな過ちとなってあらわれるのです。あなたたちは、造り主に倣う、真の神に似た人間として生きるようにされていると語るパウロ。それに反する歩みは、自分自身を偽ることでしかない。自己吟味を要する言葉です。

7月23日(水) コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節(Ⅰ)
 ここはキリスト者の肖像画のような箇所だと思います。赦し合うこと、忍び合うことが呼びかけられています。つまり、心がキリストの恵みによって聖められている人間(12節)は、耐えることができるのです。相手をののしるのではなく、耐えて、赦しながらいっしょに生きていくことができるようになるのです。それがキリスト者の肖像です。でも、自分はそれに程遠いと思うかも知れません。しかし神の恵みによって、あなたもそうなれると言うのが聖書の約束です。自分の心がキリストの平和に支配されるようにすることです(15節)。言いかえると、キリストの言葉を自分の内に豊かに宿るようにするのです(16節)。日々、キリストの言葉に触れられていると、次第にキリストの言葉が内に宿り始めます。

7月24日(木) コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節(Ⅱ)
 「 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい 」(16節)。神をほめたたえる賛美、ここでは賛美の心がどのような心であるかを教えてくれます。ほめ歌を歌うことと互いに教え、諭し合うことが切り離されていません。キリストの言葉が私たちに宿るときには、どうしてもキリストの言葉で教え合わなければならなくなるし、諭し合わなければならなくなるのです。人の過ちを上手に指摘し、教え合う、そのようなことは歌を歌う心がないとできませんし、反対に歌う心は互いに教え、諭し合う心でもあるのです。ほめ歌を歌う心、それは一番深いところでは、神が与えてくださった私の人生を喜んでいる心です。教会は歌を歌わずにおれないような命を与えられている存在なのです。

7月25日(金) コロサイの信徒への手紙 3章18節~21節
 キリスト者の家庭について語っています。「 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい 」(18節)。妻は夫にいろいろな事を言うでしょう。その夫に向かって語る言葉が、夫に仕える言葉になっているか?そう問われています。夫の身の回りの世話をするときにも、それが主の名よってなされているか?夫が喜んで受け入れる妻の業が、すべて主イエスの名入りであるか?と言うのです。夫についても、子どもについても同じ事が問われています。妻がつらくなって、苦い言葉を語るならば、それは夫の責任です。子どもがいじける( 原語では、生きる情熱を失うの意 )のは親が満たされていないからです。そのような家族の歩みはどうしたら生まれてくるのか?親子、夫婦はとても近い間柄ですが、それ以上に主に近くあることです。主を信じる(18節)、主に喜ばれる(20節)とは近さを指します。

7月26日(土) コロサイの信徒への手紙 3章22節~4章1節
 主人に対する教えよりも、奴隷たちに対する教えの方が先に語られています。弱い者の立場に立つ聖書の思想からすれば、主人に対する教えが先に語られそうなものです。そうならないのは、なぜでしょうか?奴隷たちの方が主イエスに近い生活をしていたからです。奴隷たちの方が主イエスと同じように仕えるということを真剣にしないと生きていけないところに置かれていたからです。パウロは奴隷だけでなく、主人に対しても語っています。奴隷も主人も皆、天に本当の主人がおられる。その主人は彼らを等しく取り扱ってくださる。その確信にどれだけしっかりと立つことができるか?それが主人の生活、奴隷の生活を作る基礎になるのです。

7月27日(日) コロサイの信徒への手紙 4章2節~6節
 「 あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、・・・彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています 」(12節)。これはエパフラスだけの願いではなく、パウロの願いでもありました。「 完全な者 」と言うのは、自分に自信を持っていると言うのではなく、自分たちにかかわる神の御心が完全であると確信し、それにすっかり信頼し切っていると言うことです。伝道者、牧師が教会の人たちに対して抱く祈りは、神の御心の完全さを信頼して生きるところにおいて「 全き者 」となってほしいと言うことです。そのために、自らも祈る人になってもらうことです。

2014年7月14日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月14日~7月20日

7月14日(月) コロサイの信徒への手紙 1章24節~29節(Ⅰ)
 自分の苦しみを他人に告げることは容易なことではありません。時には、それによって誤解を受け、関係がおかしくなることもあります。しかし、パウロはコロサイの人たちのための自分の苦しみを告げます(24節)。しかも、「 苦しみを喜びとする 」とまで言っています。苦しみの中に喜びはありません。苦しみを喜びと言えるのは、苦しみの先にある喜びを確信し、今、自分が何のために苦しんでいるのかをしっかりと見つめることができているからです。パウロは、コロサイの人たちに恩着せがましいことを言っているのではなく、苦しみの先にある喜びにおいて、コロサイの人たちと結びつこうとしているのです。教会に仕えるとは、こう言う事であろうかと思わされます。 

7月15日(火) コロサイの信徒への手紙 1章24節~29節(Ⅱ)
 この部分は、伝道者パウロがコロサイの教会に自己紹介をしている箇所です。パウロは、自分を「 み言葉をあなたがたに余すところなく伝える務め 」(25節)を負う者と、紹介します。考えてみれば、神の言葉を人間が語るというのは、大変難しいことです。ですから中々み言葉を伝えられないもどかしさ、悩み、苦しみが生じるのは、当然かも知れません。それをパウロは、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たすことと見ているのです(24節)。私たちが毎週の礼拝で、人間である牧師の語る説教を神の言葉として聴き続ける事も、同様にキリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たすことになるのです。それは信仰が必要です。

7月16日(水) コロサイの信徒への手紙 2章1節~5節
 パウロは、教会の人たちのためにどれほど労苦して闘っているか、分かってほしい(1節)と訴えます。パウロのその闘いの目的は2節です。「 それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです 」。キリストが分かるための闘いです。教会は、キリストが分からなくなるような巧みな議論に惑わされていたのです(4節)。伝道者が教会で最も大事にする働きは、キリストのことを語る働きです。キリストをもっとよく知ることによって、もっと豊かにされるということをお互いの喜びとすることができるような教会の交わりを造ることなのです(2節)。

7月17日(木) コロサイの信徒への手紙 2章6節~10節
 8節に「 人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事 」とあります。当時の哲学者たちは悩みの中にある人々に、人生とはこういうものだと説いて、人々を迷いから解放しようとしました。しかし、それらの教えは人間を起源とするものです。今日でも同じような人間を起源とした「 言い伝え 」があります。これを飲むと健康になるとか、人生に思い悩む若者に近づく新興宗教とか。それらは人間に根差し、伝道者の語る神に根差す福音ではありません。これらの問題の背後にあるのは、何が私たちを生かし、支配しているかという問いです。「 キリストの内に満ち溢れる神性が余すところなく見える形をとって宿って 」います(9節)。人に起源を持つ言葉ではなく、真の神キリストの言葉に根差して生きよう(7節)。

7月18日(金) コロサイの信徒への手紙 2章11節~15節
  「 あなたがたは・・・キリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ・・・ 」(11節~12節)。割礼は神に選ばれた民、イスラエルに属することを見える形でいつも覚えているために受けたものです。割礼は神の民に生きる者のしるしでした。新約では、割礼に変わって洗礼というものが行われています。私たちの教会では、洗礼を洗礼入会と言っています。洗礼を受けるとは、教会の仲間になる、キリストのからだに加わるという意味があることをいつも明確にしておきたいからです。6節にキリストを受け入れ、キリストに結ばれた、とあります。主を受け入れた、そこで起きるのは洗礼です。洗礼を受けて教会の仲間になる。そこにおいて、キリストに結ばれて歩くという信仰の生活が具体的に始まるのです。

7月19日(土) コロサイの信徒への手紙 2章16節~19節
 「 この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです 」(19節)。体全体と言われているように、ここでは一人の人間のことを言っているのではありません。教会のことです。私たちは、洗礼を受け、教会の仲間入りをし、他の仲間と結び合わされ、他の仲間といっしょにキリストの体を造っていきます。そこでは、誰も一人で成長することはありません。誰も一人で神に育てられるということはないのです。誰もが頭なるキリストに結び付いていくことで、共に成長するのです。教会は、仲間といっしょに神に育てられ、共に成長するという喜びを知る場なのです。

7月20日(日) コロサイの信徒への手紙 2章20節~23節
 「 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、・・・縛られているのですか 」(20節~21節)。死ぬということは、これまで様々なかかわりで結びついていたものと無関係になることです。キリストと共に死んだ者は、キリストに対抗する様々な諸霊と関係がなくなるのです。占い、除霊、たたり、これらのものはキリストに対抗する諸霊のなせる業です。難行、苦行のたぐいも極めてこの世的な知恵によるものであり、キリストと共に世に対して死んだ(ガラテヤ6章14節)私たちとは関係のないもので、私たちは、そのような支配からは解放されています。

先週の説教要旨「 同伴者と共にする伝道 」使徒言行録15章36節~16章5節 

使徒言行録第15章36節以下を読む。この箇所は、いわゆるパウロの第二回伝道旅行の発端を記している箇所である。36節、「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか 」。「 見て来よう 」と訳されている言葉は、原文では日本語の「 監督教会 」の語源となった言葉か使われている。パウロは1回目の伝道旅行でできた教会、そこにいる兄弟たちを見て来よう、何か問題があったら、それを正したり、相談に乗ってあげよう・・・単なる見物ではなく、監督として責任ある見方をして来ようと考えた。それが2回目の伝道旅行の目的であった。ところが、これから先を読んで行くと、パウロとバルナバが思い描いた通りに事は進まない。途中まではすでに伝道してできた教会を見ることができるのだが、途中から行く先を次々と禁じられ、ついには思ってもみなかったヨーロッパ大陸にまで足を伸ばすことになって行く。当初の目的から大きく外れて、ヨーロッパ大陸と言う新天地にまで福音を伝えることになるのである。使徒言行録は、伝道というのは自分たちの思い通りに行くようなものでない。むしろ、「 思いがけない 」ことの連続の中で、進んで行くものだと証言している。伝道は、自分がちゃんとした計画を立てて、思い通りに進めて行くというよりも、むしろ、「 神様がどんなことをなさるのか 」、その御心と御業に従うことが大切なのだ。パウロはそのように神様に対していつも心を開いていたので、思ってもみなかった福音をヨーロッパにまで伝える働きへと踏み込んで行くことができたのである。その伝道旅行の最初の姿がここに記されている。

しかしその働きは最初から順調なものではなかった。37節以下「 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した 」。マルコを巡って、バルナバとパウロの意見は激しく対立し、結果として2人は別々の行動を取ったというのである。聖書は、伝道する者たちの中でこのようにうまく行かなかったことがあったと正直に書く。それはいつでも、起こりうることだし、やむを得ないことであり、いつの時代の教会も、経験することであると告げるかのように。パウロに同行を拒否されたマルコは、その後どうなったのであろうか。テモテ第二の手紙には「  マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです 」(4章11節)というパウロの言葉がある。どのくらいの月日が流れていたのか分からないが、確かにマルコはパウロに認められる人間として、パウロから頼りにされる人間として成長したのである。これは神様の慰めの御業である。聖書の中に、「 彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない 」(マタイ12章15節)と証言されているが、神様はその通りのことをマルコにしてくださったのである。私たちに対する神様の御業も、それと同じであり、いつも神様はそのように私たちに関わっていてくださる!私は最近。そのように御業を体験した。

パウロはシラスと伝道旅行に出ることになったが、16章に入ってすぐにテモテという青年に出会い、このテモテを伝道のパートナーとして同行させる。テモテの人となりに関しては、テモテ第二の手紙に詳しい。彼は3代目の信仰者で若くして牧師となり、かなり苦労していたようである。パウロは彼を励まし、やがて自身の後継者と呼ぶまでに育てた。ここで心に留めることは、バルナバにしろ、パウロにしろ、最初の教会の伝道者たちはひとりで伝道しなかったということである。イエス様が既に福音書の中で弟子たちを「 2人ずつ 」にして派遣されているが、パウロたちもそのようにしたのである。伝道はひとりでするものではない。少なくとも、2人でするもの。そこにはとても深い教会の知恵がある。パウロは大変、優れた伝道者であったが、能力がある人だけにひとりで伝道することも出来たと思う。テモテのようにいささか気が弱い、お坊ちゃん育ちの者が一緒にいると、かえって足手まといであったかも知れない。しかしパウロはそういう彼らがいつも一緒にいてくれることを大切にした。そのことで、パウロ自身も独善的にならずに済んだと思う。有能な人間であればあるだけに、ひとりで教会の仕事を背負ってしまう。それだけの自負心をもって教会を支配してしまう危険がなかったわけでもない。それと戦うことができたのだ。皆で伝道した、これは私たちが忘れてはならないことである。ひとりでやる方がはるかに気楽か分からない。どんなに自由にやりたいようにできるか分からない。しかしそれを抑えなければならない。パウロはテモテを同伴者として同行させるに当たって、彼に割礼を受けさせた。このことは一見、エルサレム会議の決定に反する行為のようにも見えるが、そうではない。同じ血筋に生きるユダヤ人をパウロが愛したように、テモテにもユダヤ人とひとつになって欲しかった。割礼を受けタユダヤ人と共に行きながら、人々に福音を宣べ伝えて欲しかった。そこでも、自分の同伴者であることを求めたのである。 (2014年7月3日)

2014年7月6日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月7日~7月13日

7月7日(月) テモテの手紙Ⅱ 4章9節~15節
 デマスのことは(10節)ショッキングです。ある人はこれをデマス病と呼びました。獄中の師パウロを捨てた。迫害に耐えられなかったのか?伝道者としての自分の貧しさに失望したのか?パウロに叱責されたのか?それともテサロニケに愛する女性でもいたのか?パウロは、ただ一言、この世を愛したからだと言います(10節)。デマスも、一度はパウロと同じように主に献身の誓いを立てたであろうに・・・。デマス病は、いつでもどこでも私たちを襲う可能性があります。牧師であろうと、長老であろうと、信徒であろうと例外なく。牧師を捨て、教会を捨てることがあるのです。神がこの病から私たちを守ってくださるよう祈らずにおれない。

7月8日(火) テモテの手紙Ⅱ 4章16節~22節
 「 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように 」(16節)。使徒言行録を読むと、パウロは自分がなぜ福音の伝道者であるのかを弁明しなければならない時が何度もありました。しかし誰からも助けられず、たった独りで弁明しなければならなかった。そこでなおパウロが立ち続けることができるのは、主がそばにいて力づけてくださったからです(17節)。パウロがそのような恵みを体験したのは、パウロが特別だったからではありません。主に祈る者すべてに起きる恵みの事実なのです。ですから、パウロは「 主があなたの霊と共にいてくださるように 」(22節)と心を込めて祈っているのです。主はあなたのそばにもいて、力づけてくださいます。

7月9日(水) コロサイの信徒への手紙 1章1節~8節(Ⅰ)
 コロサイの教会は、パウロが伝道者として送り出したエパフラスによって建てられました。パウロは、コロサイの人たちと会ったことはないのです(7節)が、彼らに対して豊かな愛を抱いていたことは手紙から十分に伝わってきます。パウロは、「 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いた 」(4節)と語ります。すべての聖なる者への愛、コロサイの人たちもパウロ同様、まだ会ったことのないクリスチャンに対する愛を豊かに抱いていたのです。クリスチャンは、まだ会ったことのない同胞に対する愛を、豊かに抱けるのです。国内外を問わず。これも恵みです。

7月10日(木) コロサイの信徒への手紙 1章1節~8節(Ⅱ)
 「 あなたがたにまで伝えられたこの福音は、・・・実を結んで成長しています 」(6節)。「 福音が成長する 」とは、おもしろい言い方です。コロサイの手紙は、伝統的にパウロが書いた手紙と理解されていますが、そうではないと言う学者もいます。他のパウロの手紙には見られない福音の言葉や思想が現れているからと言うのです。しかし、パウロにも一定の癖、言葉遣いもあるでしょうが、それが生涯変わらないとは決めつけられません。福音は成長するのです。主イエスの福音は生きているから成長するのです。生きているということは、いつも新しい姿を見せるのです。ワンパターンではない。新しい実を結び続けるのです。あなたのところでも。

7月11日(金) コロサイの信徒への手紙 1章9節~12節
  パウロは、会ったことのないコロサイの人たちのために祈ります。パウロが真っ先に祈るのは、教会員の中に神の御心をよくわきまえる知識が占領するようになることです(9節、10節)。そのように神をよく知る生活の中で大切なもうひとつのことは、「 神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように 」(11節)です。キリスト者の生活において、耐え忍ぶことはとても重要なことです。キリスト者の生活と忍耐は切っても切り離せません。耐えられなくなるとき、キリスト者の生活は曲がってしまうのです。そのためにも神の栄光の力に強められるよう祈るのです。私たちもそのために祈りましょう。

7月12日(土) コロサイの信徒への手紙 Ⅰ章13節~20節
 「 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました 」(20節)。万物の問題は、平和を失っている、神との和解が成り立たなくなっていたと言うことです。万物の支配者として責任を持っている人間の罪により、全て神様に造られたものと神様との関係が根本のところで崩れているのです。そしてもう一度、両者の間に平和を打ちたてるためにどうしても必要だったのがキリストの十字架の血です。万物の創造と支配に立合い、それどころかその根拠となってくださった御子が血を流さなくてはならなかった。私たちの存在は神の揺るぎない愛に支えられています。

7月13日(日) コロサイの信徒への手紙 1章21節~23節
 「 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました 」(22節)。聖なる者( 神のものとされた者と言う意 )は、神の前にきずのない者、とがめるところのない者とされています。信仰が成長するにつれ、罪に対する感覚が鋭敏になります。自分の犯す罪に敏感になるわけです。そのとき、果たして自分は本当にきずのない者なのだろうか?という悩みや不安が生じます。それは正常な感覚であり、そのような事を考えたことがないと言うことの方が問題になるわけですが、自分の目に映る現実に逆らってでも、神が自分をきずのない者として見ていてくださることにとどまり続ける(23節)。それが大事です。

先週の説教要旨 「 神教会の道を示すもの 」 使徒言行録15章22節~35節 

今朝の箇所は、エルサレムにおける教会会議の決定を各教会に伝えている箇所である。あまりたいしたことは書かれていないという人もいるが、そんなことはない。 大切な会議で決めたことを教会員が、各地に散っているひとつひとつの教会がこれを受け入れて、「 これは自分たちの決定だ 」として、その後、それを大切にして行くことができるかどうか、それが出来るようにするために、なお、教会がしなければならないことがあるのではないか。そういうことを学べる箇所である。教会に限らず、どの団体でも会議によって、その団体の意志決定を行なう。しかしその会議にすべての会員が参加するわけではない。そうした場合、会議に参加しなかった人たちが「 私はあの会議には参加していないし、どうせ、上の人たちが決めたことでしょ。私には関係ないわ 」ということでは、困ってしまうのである。皆が、「 我々の代表がそう決めたなら、これは我々の決定として、大切にして行こう 」と、ひとつの心にならなければ、その団体はうまく行かなくなる。そうなるために、会議に出席した者たちは大変、丁寧な心配りをしていることがわかる。
 会議の決定を手紙に記して持って行くのであるが、ただ手紙を渡して、これをよく読んでくださいというのではなく、ちゃんと代表者としてユダとシラスを派遣し、説明をするようにしている。しかもこの人選が素晴らしい。当時の教会には、ヘブライ語を話す生粋のユダヤ人と、どちらかと言うと異邦人寄りの、ギリシャ語を話すユダヤ人とがいた。この2つのグループは日々の配給のことでも対立した過去がある(6章)。今回のエルサレム会議も、簡単に言ってしまえば、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの対立から必要となった会議なのである。生粋のユダヤ人クリスチャンは、主の恵みだけでなく、割礼や律法も守らなければ救われないと主張した。異邦人クリスチャンはそれに反対であった。結果として、異邦人クリスチャンの主張が受け入れられ、両者は仲直りをして、ひとつのところに立った。ユダとシラスはその2つのグループ、それぞれに属する人で、言わば、仲直りの生き証人として、2人が遣わされたのである。実に丁寧に、配慮がなされている。
その結果、手紙を受け取ったアンティオケアの教会の人たちは、その決定を読み、励ましを受けた。さらに2人からの御言葉に基づく説明を受け、励ましに励ましを増し加えられたのである(31節~32節)。ここで「 励ます 」と訳されている言葉は「 慰める 」とも訳される言葉である。彼らは慰めと励ましにあふれ、そして喜んだのである。そして会議に出席した人たちとひとつの心になれた。共にひとつの教会を共に造り上げて行こうという思いにまとまったのである。
 本来、教会の会議の決定というのは、「 慰めと励まし 」を与えるものであるはず。なぜなら、教会の会議は神の御心がその決定となることを求めるものである。人間のこうしたいという思いが会議の決定となるのではない。神の御心が会議の決定となるならば、それは必ず慰めと励ましに満ちたものとなるはずである。神が与えようとしておられる、その慰め、励ましを、相手に届くように心を尽くして、その決定の伝達を考える。そのことも会議の中には含まれるのである。
 この箇所を読み返しながら、こんなことを考えさせられた。ユダとシラスは、エルサレム会議の決定を記した手紙を携えて、アンティオキアへと向かった。私たちの人生もユダとシラスのような役目を担っている人生ではないのか・・・。私たちは天井の神の会議の決定、御心が記された手紙を携えて、それをこの地に住む人々に伝える役目を担っている。そのとき、私たちが携える手紙とは言うまでもなく、「 聖書 」だ。聖書には、神様の私たち人間に対する思いがギッシリと込められている。私たちへの御心が記されている。これを手にして読む人たちが慰めと励ましを受け、喜びにあふれる・・・そういう手紙を私たちは預けられているのだ。そしてそれをどのように、届けるか、そこにできるがきりの心と、思いと、力を尽くすのである。天井における神の会議の決定事項は、何よりも、「 神はご自分の独り子の命を惜しまずに与えるほどに、私たち人間を愛し、その愛を惜しみなく、注ぎ込む 」という決定である(ヨハネ3章16節)。
 私は、今回、成瀬教会の人たちが本当に、わたしたち家族に神の思いを伝えるユダとシラスになってくださったと感謝をしている。成瀬教会の人たちが、病室で苦しむ我が子と私たち家族に、天井の会議の決定、神の御心を祈りの花束という、見える形にして私たちに届けてくださった。ただ、祈っているという言葉だけでなく、祈りをたくさんの寄せ書きという形にして。息子はそれを見て、皆さんの祈りを実感した。私たち家族は、それを見て、励まされ、慰められた。今回、母親の愛と父親の愛の形の違いということを深く感じた。妻は、痛みに苦しむ我が子の痛みを素孤児手も理解したい、今後、二度と頭痛薬を飲まないと言った。母親の愛の形だと思う。しかし、神様の愛は母親の愛の比ではない。それとは比べものにならないほど、深く、広く、高い。そして皆さんはその愛を息子に知らせてくださったのである。心からの感謝にあふれている。そしてこれからも、いろいろな人のユダとシルワノになってくださることであろうと私は確信する。
                                             (2014年6月29日)