成瀬教会 <聖書日課> 7月28日~8月3日
7月28日(月) コロサイの信徒への手紙 4章7節~18節(Ⅰ)
手紙の最後は、個人名を多く出したあいさつになっています。16節にあるように、近隣の教会も含めて、この手紙は礼拝の中で読まれたのかも知れません。次々と出て来る人の名に、礼拝者たちは心暖まる体験が与えられたことでしょう。それは、パウロにとっても同じです。6節で「
一人一人にどう答えるべきか分かる 」と語ったパウロは、一人一人の存在を心に留めています。ここに出て来る一人一人が伝道者パウロの心にその場所を持っているのです。パウロにとっては皆、愛する仲間の僕(7節)、キリストの僕仲間なのです。私たちも互いに心にその名を置く場所を持って覚え合い、主に忠実に仕える僕仲間でありたいと思います。
7月29日(火) コロサイの信徒への手紙 4章7節~18節(Ⅱ)
「 あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、・・・彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています
」(12節)。これはエパフラスだけの願いではなく、パウロの願いでもありました。「 完全な者 」と言うのは、自分に自信を持っていると言うのではなく、自分たちにかかわる神の御心が完全であると確信し、それにすっかり信頼し切っていると言うことです。伝道者、牧師が教会の人たちに対して抱く祈りは、神の御心の完全さを信頼して生きるところにおいて、「
全き者 」となってほしいと言うことです。そのために、自らも祈る人になってもらうことです。
7月30日(水) ヨハネによる福音書1章1節~5節(Ⅰ)
ヨハネによる福音書を読み始めます。ヨハネによる福音書の始まりは、創世記の始まりに似ていますね。「
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった 」(1節)。一貫して神様の祝福を告げているヨハネ福音書が「
初めに言があった 」と告げて始まるのは感慨深いものがあります。あたかも、祝福の生活は「
初めに神があること 」、そこから祝福の生活は生まれると宣言しているかのようです。あなたの一日の生活は「
初めに言があった 」から始まっていますか。それとも神の言抜きで始まっていますか。初めに神の言がある生活を心がけてみましょう。一日が祝福の生活だと実感されることでしょう。神と共に過ごす一日なのですから。
8月1日(木) ヨハネによる福音書1章1節~5節(Ⅱ)
「 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった
」(3節)。地上におけるすべての事象は、神の言によって成ったのだと告げています。つまり、そこには神の意志が働いているというのです。神の意志を抜きにしたところで、地上ではいかなることも起きない、神のあずかり知らぬものなど、そこにはないと言うのです。たとえ、あなたの一日がどんなに無意味に感じられるようであっても、そこには神の意志が働いています。決して無意味ではないのです。神の御前には深い意味が込められた一日なのです。ただ、その意味が自分にはまだ分からないだけなのです。だからどんなに無意味に思えた一日も、それは生きる価値があった一日なのです。
8月2日(金) ヨハネによる福音書1章6節~13節
「 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった
」(11節)。この言葉は、クリスマスの出来事と十字架の出来事を同時に現しているような言葉です。福音書の中に「 ぶどう園と農夫 」と呼ばれるたとえ話をイエス様が語られたことが記されています(マルコ12章1節~、マタイ21章33節~、ルカ20章9節~)。あのたとえ話は、14節の御言葉を丁寧に語り直しているような話です。あのたとえでもそうでしたが、民の頑なな心によっても、神の人間に対する思いを消し去ってしまうことはできませんでした。これは、その神の深い思いが凝縮されている御言葉です。何度何度も繰り返し反芻し、味わい知るべき御言葉です。
8月3日(土) ヨハネによる福音書1章14節~18節
「 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた
」(14節)。「 宿られた 」と訳されている言葉は、ギリシャ語のスケネオー、英語のスクリーンの語源になった言葉で「
幕を張る 」という言葉です。罪ある人間は神を直接見ることはできません。もし見るならば、それは死を意味します。神は、それでも罪に汚れた人間を愛し、なお人と交わろうとされ、人類の中からユダヤ人を選び、彼らに特別な清められた幕屋という神の臨在に触れる場所を与えられました。そしてその交わりを持ち続けることを通して、神は全人類への愛を温め続けられました。幕屋での会見は旧約時代にはユダヤ人だけの特権でしたが、新約の時代になると、御子イエス・キリストという幕屋においてすべての人が神と交わることができるようになりました。14節の言葉には、それほどの深い意味が込められているのです。
8月4日(日) ヨハネによる福音書1章19節~28節
ひとつのことに徹して生きた人の人生は輝いており、それを聞く人たちの心を励まし、豊かにしてくれます。ここに登場するヨハネは、まさにそういう人物です。彼は自分の後に来る(27節)イエス・キストを指し示すことに徹して生きました。キリストを指し示す「
指 」となり切った人生を生きたのです。キリストは、彼よりも後から来られた方でしたが、彼よりも先に、「
初めにあった方 」(2節)でした。それに対してヨハネは「 言によって成った 」(3節)、言葉によって存在するようになった者でした。造った方と造られた者、その違いをヨハネはよくわきまえていました。その違い、一線を踏み越えないことが人間を守り、人を生かすことになるのです。ヨハネはそこに踏みとどまり、健やかに生き抜いた人です。