2014年5月25日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月2日~6月8日

6月2日(月) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~12節(Ⅰ)
  第二の手紙が書かれた理由を読み取れる箇所です(2節)。ある人たちは主の再臨がもう来てしまったと思い、慌てふためいて分別をなくしたのです。分別というのは、見分けることができると言うことです。同じひとつの現実を見ても、そこに神の支配を見られる人もいれば、神の支配などまったく見ようともしない人がいます。パウロは現実の世界の中で、神の見えない支配をきちんと見られる、見分ける力を持つように、と勧めています。一見して人間が作り出しているように見える日々の出来事、大きくは歴史の中に、人間の思惑を超えた神の支配が働いていることを信じるのです。そこに慌てない生活も生まれるのです。

6月3日(火) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~12節(Ⅱ)
  信仰の誘惑の一つは、真理を喜べなくなるということです。神の教えよりも不義を喜んでしまうのです(12節)。サタンにそそのかされて真理を愛せなくなるのです。神が私に求めることは難しいことばかりで信じることがつまらないとか・・・・。神の真理を愛さなくなる時、私たちは自分を神としているのです。アダムとエバを襲ったように、サタンは「 自分が神になればいい 」とそそのかします。真理を心から愛する生活が、不義を愛する生活に打ち勝つように祈りましょう。

6月4日(水) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章13節~17節
  「 あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです 」(13節)。神の選びの業が語られているところで、「 真理に対するあなたがたの信仰とによって 」と言った具合に、神の選びに私たちの信仰が関わっていることが語られています。私たちの側の信じるという行為がなければ、神の選びは全うしなかったのです。これは神の選びの不完全さと言うことではなく、神はいつもそのようにして、私たちが神の御業を信じて受け入れることを待ち、かつ期待しておられると言うことです。一方では神のご計画があると知りつつも、もう一方では私たちが神に願い祈るのも、同じ信仰理解に基づいてのことです。だから祈りましょう。

6月5日(木) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章1節~5節
  パウロの手紙には、伝道者(パウロも含めて)のために祈ってほしいという言葉がよく出てきます。人を信仰に導くのは、人間には不可能なこと、神の御業です。それだけに神の言葉を語る伝道者の拙い言葉を通して、神が御業をなしてくださるようにと、伝道者のために祈ってくださいと言わざるを得ないのです。悪人に対しても信仰がない人にも(2節)、神の愛が勝ってくださるように(5節)。この世が神の愛の勝利に救い取られる日を一日も早く与えられるように。そのためにも、伝道者もそれを聞く信徒も、あなたが命じて下さっていることを実行し続けることができるように(4節)。そこに喜びを見出すことができるように、と祈るのです。

6月6日(金) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章6節~15節
  「 自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい 」(12節)とパウロは勧めます。テサロニケ教会の人たちは、主の再臨、すなわち世の終わりが近いと思い、落ち着かず仕事に手がつかなくなったのです。落ち着いているには、自分の居場所を、自分が今何をすべきかを知っている必要があります。しかし落ち着いてパンを得るために一生懸命働こうと言うのは、パンを得るために働いている仕事を受け入れている人でないとできません。つまらない仕事だと思っていたら仕事に身を入れることができません。パンのために働くなんて何とつまらない、となってしまいます。ここでは、働くことの尊さを知りなさいと言っているのです(マタイ6章34節参照)。これは信仰に根差して、主から初めて教わることです。「 日毎の糧を与えてください 」と祈るように言われた主が教えてくださることなのです。

6月7日(土) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章16節~18節
  手紙の最後は、祝福で終わっています(16節)。教会によっては祝祷と呼んでいますが、これは祈りではありません。祝福は、すでに主が私たちと共にいてくださると言う祝福を確認しているようなもので、祈りのように祈ってもそうなるかどうか分からないと言うものではないのです。そこにもう祝福があるのです。私たちの教会の礼拝も最後は祝福です。新しく始まる1週間の生活に祝福があるようにと祈っているのではなく、すでに私たちは祝福の中に置かれていて、その祝福に支えられて、祝福から1週間の生活に出て行くことを確認しているのです。

6月8日(日) テモテへの手紙Ⅰ 1章1節~11節
 テモテの手紙は、テトスの手紙と並んで牧会書簡と呼ばれています。つまり、牧師の務めについて教えている手紙なのです。この手紙はパウロからテモテに宛てて書かれました。若い伝道者テモテは、エフェソ教会の牧師でした(3節)。エフェソの教会は、病んでいる教会でした。教会の病みは、いつも教会が健全な教えに立てなくなることから始まります。何を教え、何を語り、何を神の言葉として聞くか?牧師はその責任の多くを担っています。教会を病ませる教えが入り込んで来た時、牧師はそれを見抜いて素早く断ち切らねばなりません。教会の健やかさを保つために、神の言葉を正しく聞き、正しく語ることを崩してしまうような知恵や言葉(例えば、先祖の祟りとか)に心を誘われてしまわないようにしましょう(4節)。

先週の説教要旨 「 神の救いを侮るな 」 使徒言行録13章13節~41節 
 パウロとその一行は小アジアの南、ピシディアのアンティオキィアで伝道を始めた。ユダヤ人の会堂に入ったパウロは説教をする。その説教が今日の箇所。その説教は、25節までの前半部分と26節からの後半部分と、二部構成になっている。前半部は、イエス様が来られるまでの旧約の歴史を語り、後半部はそのイエス様の十字架とよみがえりを語っている。前半部では、キリストが来られるまでの旧約聖書の歴史を振り返りながら、神様は選び出す神、導き出す神であり、その導きは、耐え忍びながらの導きの連続であったことを語る。なぜ、耐え忍ばなければならなかったのか。神の民は、神に応える歩みをしなかったから。神はいつでもそこで裁きを行なうことができたが、それを耐えて、赦している。約束の地を征服したときも、士師記の時代も、民が王を立てることを求めた時も、神は忍耐された。やがて、その王、「 ダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださった 」(23節)。「 救い主イエスを送ってくださった 」という言葉は、26節においは「 この救いの言葉はわたしたちに送られました 」と言い換えられているが、「 送られた 」という言葉は、原文ギリシャ語では見知らぬ土地に送り込むこという意味がある。神の民の中に送り出されることが、神にとっては全く異質の世界の中に救い主イエスを送り出すのと同じ意味を持ったとパウロは言うのである。救い主の登場に先立って、バプテスマのヨハネは民全体に悔い改めることを求めた。それは民が、神からご覧になると、とても神の民とは思えない異質な生き方をしていたからに他ならない。ここに示されている神のお姿は、忍耐をもって選びの民を導き続けられるお姿である。そもそも、なぜ、神はイスラエルを選び、忍耐に忍耐を重ねながら、イスラエルを導き続けられるのか・・・。それは、神が人と共にあることを強く求めておられるからだ。神はエデンの園では、アダムとエバと共におられた。しかし、彼らは神に背き、その結果、彼らは神から切り離され、園から追い出された。そのとき、神はこの地上にご自身の臨在の場所を失った。地上は罪に汚れてしまい、すべての被造物は虚無に服してしまったからだ。しかし、神は人と共にあることをあきらめることできなかった。それで神はアブラハムを選び、その子孫に幕屋を建てるように指示された。幕屋という聖められた場所を設け、神はご自身の臨在の場所とされた。幕屋の一番奥、至聖所に神は臨在された。そこに行けるのは、年に一度、大祭司1人だけであった。そこで彼は民を代表して、かつてアダムが持っていた神と共に語らうという体験をしたのでる。罪を犯して服役中の人と面会することは、空間も、時間も、人数も極めて制限される。それと同じように罪を犯している人間と交われない神が、唯一、幕屋という狭い窓を通して、たった一人の大祭司と対話しながら、人類に対する愛を持ち続け、また、それを発展させられたのである。後に幕屋は神殿へと発展するが、預言者エゼキエルの時代になって、神の臨在を示す雲が神殿から去って行く(11章)。イスラエルの民が偶像を拝み続けたからだ。民はバビロン捕囚というお取り扱いを受け、捕囚から解放されると、第二の神殿を建てる。それは最初の神殿に比べるとかなり見劣りするものであったが、ハガイは「 この宮のこれから後の栄光は、先のものに勝ろう 」と預言した。この予言は、イエス・キリストにおいて成就する。イエス・キリストはこの第二神殿を打ち壊し、新しい神殿を建てると言われた。そしてその新しい神殿とは、ご自分のこと。このイエス・キリストにおいて、神はすべての人と面会をする道を開こうとされた。どんなに罪深い人間であっても、このイエス・キリストを通して、イエス・キリストにあってならば、誰でも神と会うことができる。イエス様が十字架で死んだとき、神殿の聖所と至聖所を隔てていた幕が切り裂けた。神と罪びとが面会する、一切の制限が、あのとき、取り除かれたのだ。誰でもイエス様にあって、神と会うことができるようになったのである。旧約から続くこういう神の忍耐と導きがよく理解できると、「 イエス・キリストが私たちに送られた 」というこの言葉の意味の味わいがより深くなるだろう。この言葉には、旧約聖書に記された神の導きと忍耐、人類に対する変わることのない愛の思いが、一点に凝縮されて、それが感極まった形で現れて来ているのだ。その救い主が現れたとき、人々はどうしたかをパウロは説教の後半で語る。その要点は、ダビデを通して与えられていた約束は、イエス・キリストにおいて現実のものとされた。しかし旧約の預言を理解していなかった人々は、そのイエスを理解せず、かえってこれを罪人と断定して、十字架につけて殺してしまった。イエスを殺すことこそ、神に従うことだととんでもない勘違いをしていた。しかし、驚くべきことに、神はイエス・キリストが十字架で殺されてしまうことによって、神と人類が面会する道を開かれた。何と深い神のご計画か!神の愚かさは人よりも賢い!神はそこでもまた忍耐をされて、あなたがたを導こうとなさっている。その神の恵みの導きをもはや、侮ってはならない。神はキリストを十字架につけて殺すという、あってはならないことを、救いへの扉を開くものとされ、なくてはならないものとされたのだ。この不思議な神のなさりよう、深い知恵の込められた恵みの導きをこれ以上、侮るなと語る。私たちはどうか。 (2014年5月18日)

2014年5月18日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月19日~5月25日

5月19日(月) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章13節~16節
  13節には、教会の命にかかわる重大な信仰が語られています。それは説教に関することです。説教は、人間が聖書の言葉を説き明かすものです。それはあくまでも人間の語る言葉だと言えます。しかし同時に、その語りかけを通して、実は神が語りかけていてくださると信じて聴く。そのような信仰の働くところに、人の語る説教の言葉が神の言葉になるという奇跡が起きるのです。テサロニケの教会の人たちは、パウロの語る言葉を神の言葉として聴きました。そのことをパウロは、教会の人たちにではなく、神に感謝しています。それは神の働きがなければ起き得ないことだからです。毎週の礼拝に出席する時に、いつも確認しておきたい信仰の姿勢です。牧師という人間の語る言葉を通して、神が語りかけてくださると信じて聴くのです。

5月20日(火) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章17節~3章5節
 「  わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか 」(19節)。パウロは、世の終わりの日、主イエス・キリストの前に立つ時にテサロニケ教会の人々を自分にとって最高の喜びとして神さまに紹介したいと考えています。教会の仲間への深い、深い愛を感じさせる言葉です。私たちはどうでしょうか。教会への思いが冷えていないでしょうか。仲間を思う心を、お互いに豊かに養いましょう。

5月21日(水) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 3章6節~13節
 パウロは、テモテを「 福音のために働く神の協力者 」と呼んでいました(2節)。ここでパウロが愛情を込めて語っているところのテサロニケの人たちもまた、パウロにとっては、神の協力者であったことでしよう。神の協力者、ある聖書は「 神の同労者 」と訳しています。「 私たちは神と共に働いている!」との確信。そこに立つ時、どんな小さな悩みの中にあっても、大きな苦しみにあっても、それから顔を背けることのない、たくましい思いを持つ事ができるのです。パウロのように。

5月22日(木) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章1節
 パウロは、信仰者の日常生活が形成されて行く様を「 歩き続ける 」(1節:口語訳)と表現しています。信仰生活というのは、100m走のように一気に突っ走って、それでおしまいというのではありません。こつこつと歩くように、走り続けるマラソンのようなものです。時々、青年時代は夢中で走りまくるような教会生活をし、今はほとんど教会に足を向けることもないという人に出会います。ゆっくり走ることを忘れ、大切なものが身に着かなかったのでしょうか・・・。かつてのマラソンの王者アベベは、ただ自分の目の前をじっと見つめながら、40キロ余りを走りました。信仰生活は、刺激的で興奮するような変化を求めて突っ走るものではなく、興奮も緊張もないように見える平凡な毎日をゆっくりと走り続けることです。御言葉と祈りを重んじながら・・・。

5月23日(金) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章2節~8節
 パウロは、キリスト者の日常生活を具体的に語っています。その基本は「 聖なる生活をする 」ことです(3節、7節)。洗礼堂というものを持つ教会があります。洗礼を施す特別な場所です。その部屋は天井がドーム形をしており、その形は6角形だったり8角形だったりします。その当時のお墓をかたどっているのです。洗礼を受けることは古い自分の死を意味するという聖書の考えから来たのでしょう。一方、天井のドームは、天を仰ぐという意味があります。天を仰いで、即ち神を仰いで生きる新しい自分に生き始めることを示しているのです。それが聖なる生活です。

5月24日(土) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章9節~12節
 この手紙は新約聖書の中では一番古い手紙で、それだけに初代の教会の様子を生々しく伝えています。イエス様の昇天後、間もない教会ではイエス様の再臨がもう目前に迫っているという意識が強く働いていました。それゆえ言って見れば、劇的な生活をしていたのです。その興奮もあってか、日常の生活に手がつかない人たちもいました。それで11節のような勧めがなされているのです。そういう人たちにパウロは、劇的な生き方をやめろと言います。神に与えられたこの世の人生を誠実に、真剣に生きるには、興奮に酔いしれない不動の心、劇的に生きることが大切です。私たちが劇的に生きられるのは、すでに私たちが最も劇的なことを味わって生きているからでしょう。あなたのために死んでくれた方がいると言う劇的を。

5月25日(日) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章13節~18節(Ⅰ)
 この箇所は、この手紙で中核部分をなす大事なことが記されています。テサロニケ教会の人たちは主の再臨が間近に迫っていることを強く意識していました。そこで、生きていて主の再臨を迎!る者はよいとして、主を信じていたけれどもすでに死んでしまった人の場合はどうなるのか?という不安が起きていました。パウロの書いた手紙がまだ1通も世に出まわっていない頃のことですから、信仰の正しい知識を得る源泉も少なく、不安が生じるのも無理からぬことです。パウロは言います。今述べた言葉によって、不安と悲しみの中にいる仲間を、慰めをもって互いに慰め合う教会を造りなさいと(18節)。教会には、真実に慰め合うことのできる希望の言葉が与えられているのです。悲しみの中で、無知に流されて望みのない悲しみに落ち込まないように。悲しみの中でなお、知恵を正しく保つことが大事です。

先週の説教要旨 「 魔術師との戦い 」 使徒言行録13章1節~12節 
 使徒言行録13章は、使徒言行録の新しい区切り、第二部が始まるところである。第一部では、エルサレムの教会をバックにしたペトロたちの伝道の働きが記されていたが、ここからアンティオキアの教会をバックにしたパウロの伝道の働きが始まる。パウロはその人生において3回の伝道旅行をしたと理解されているが、より正確には、パウロを通しての聖霊による伝道の働きと言うべきであろう。今朝は、その聖霊によって始まったアンティオキア教会の伝道の働きから神の御声を聴きたい。

 アンティオキア教会の人たちは、礼拝し、神の言葉を聴く中で、バルナバとサウロを神の伝道の働きのために送り出すよう、聖霊の促しを受ける。そして2人を出発させる。もし私たちがアンティオキア教会のメンバーであったら、聖霊の導きに素直にアーメンと言って、従うことができただろうか・・と考える。なぜなら、アンティオキアの教会は誕生してまだ間もない、十分に整ってはいない群れであったから。この教会は、エルサレムで起きた迫害から逃げて来た人たちによって形作られていた。彼らはやっとの思いで落ち着きの場を得たのだ。それがこのアンティオキアの教会だった。これからは落ち着いた信仰生活を送って行きたい、彼らはそう考えただろう。ところが教会が発足してまだ1年しか経っていない、幸いにも複数の預言する者や教師が与えられてはいるものの、自分たちの教会がまだ十分に整っていない。これからいろいろな面で伝道できる教会へと整えられて行く必要がある。そういう中で、大切な2人の伝道者を送り出すことを求められたのだ。正直言って損失と思ったに違いない。外に出るのはまだ早い。もう少し実力がついて、教会が整ってからで良いではないか。今は人材がいない。そう言って、彼らは自分たちの思いの中にとどまってはいなかった。この「 出発させた 」と訳されている言葉は「 解放させた 」と訳せる言葉だ。彼らは聖霊のお告げによって、2人を解放した。同時、彼らもまた解放されたのだ。パウロとバルナバを自分たちで独占しようとする小さく閉ざされた考え、自己保身的な生き方、自己中心的な考えから、自分たち自身が解放されたのである。礼拝は、私たちが人間的な思いから解放されるという神様の御業が起こる場所。だから私たちは、「 神様の言葉を聞く 」というところから出発することを大切にしたいと思う。泉教会の潮田先生がはじめて、教会の門をたたいたとき、それは希望が丘教会だったのだが、その頃の希望が丘教会は、大きな混乱の直後で、人々は傷つき、疲れ、今は外に出るよりも、内側を固めるときではないかという声が教会の中に沸きあがっている時だったそうだ。しかし、「 御言葉を宣べ伝えなさい。時がよくても悪くても 」という言葉に押し出されて、配った1枚のチラシ、その1枚のチラシを手にして教会の門をくぐったのが潮田先生だったのである。私たちは、人材不足だとか、経済的に厳しいとか、今は時期尚早であるとか、いろいろな理由を挙げて躊躇するが、神はいつでも整っていない状況を用いられる。自分たちの体制が整ってからするのでは、それが成し遂げられた時に、自分たちの力でやったと人は考えてしまうであろう。神はそれを望まれない。

 聖霊に促されての彼らの決断は、ローマ帝国の地方総督セルギウス・パウルスというひとりの人間の救いを生み出したことを、4節以降の記事は伝えている。彼は魔術師バルイエス(別名をエリマと言う)と深い関わりをもっており、危険な状態にいたのである。7節の「 交際 」という言葉は、原文ギリシャ語の意味から言うと、いつも「 一緒にいた 」ということ。それゆえ、彼は地方総督と一緒にいて魔術を使って政策を進言するブレーンのような立場にいたのだと考えられている。魔術とは、将来を予測する占いの類であったのかも知れない。そこにパウロたちがやって来た。地方総督はパウロたちの話を聞こうとした。そしてバルイエスは神の言葉を総督から遠ざけようとしたが、彼は神の裁きによって見えなくされてしまい、驚いた総督は信仰の道に入った。使徒言行録では、教会の宣教が語られる節目、節目で、魔術師との対決が記されている。それは教会が伝道を開始する時、魔術的なものとの対決があるということを指し示しているのだと思われる。教会の伝道は絶えずこの世の「 魔術的 」なもの、神の言葉から遠ざけようとする力と向き合わされるのだ。ある社会学者が『 データはウソをつく-科学的な社会調査の方法- 』という本を書いている。かつて魔術師が星の動きを見て将来を占っていたかわりに、現代は様々な数字によって将来を予想しようとする。そのために、数字に囚われ、企業では偽りの数字が並び、賢いはずの人が、簡単に数字の改ざんに走ってしまう。人は数字の魔力によって踊らされ、人が数値化されて物として扱われ、非人間化の道を邁進している。数字に囚われ、大切な何かを失っている現代社会の社会は、それこそバルイエスが「 目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した 」姿そのものではないだろうか。キリストの教会は、数字の魔力に翻弄されてはならない。それはいつでも、教会を揺さぶる力ともなるが・・・。教会は、現代の魔術とも言うべき、数字に翻弄されている社会の中に、神から遣わされて出て行って、まことの神を神とすることによって、人間を本当の人間に解放する務めのために召し出されている。
                                                 (2014年5月11日)

2014年5月11日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月12日~5月18日

5月12日(月) 詩 編 148編1節~14節
  「 主を賛美せよ 」という呼びかけが続きます。詩編は、実際に歌として歌われたものですから、この辺りはどのように歌ったのか、知りたくもあります。ところで、7節、8節の「 地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ。火よ、雹よ、雪よ、霧よ、御言葉を成し遂げる嵐よ 」の「 火よ、雹よ、雪よ、霧よ 」というのは、異変のことを指しています。異変は、私たち人間を不安に陥れ、私たちに恐怖を引き起こします。何もかもが駄目になってしまうと思うのです。しかしどんな異変が起こっても・・・必ず異変は起こりますが・・・それらは壊すためのものではなく、神の御言葉を成し遂げるためのものであると聖書は言います。神の摂理の外でではなく、それも神の摂理の内で起こっているのです。だから安心していい。

5月13日(火) 詩 編 149編1節~8節
  「 踊りをささげて御名を賛美し、太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ 」(3節)。こういう言葉を読むと、ユダヤ人の賛美は幅が広いなあ~とつくづく思います。子どものころ、よく盆踊りに行きました。体育祭では、なぜか、盆踊り(柏踊り)を踊らされました。体全体で喜びを現すという点では、「 キリスト教音頭 」があってもいいのかもしれません。ところで、「 主は御自分の民を喜び、貧しい人を救いの輝きで装われる 」(4節)と言われています。神に対して「 へりくだる 」ことによって、人は神から力と励ましを受けることができます。神の御前に、素手で無防備である者を神は決して見捨てられないのです。これが音頭を生む喜びですね。

5月14日(水) 詩 編 150編1節~6節
  ついに詩編を読破します。長かったですか。長かったですよね。でも、ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。読みにくい時も一杯あったと思います。皆さんの忍耐に感謝です。さて、「 いかに幸いなことか、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人 」(詩編1編1節~2節)という語り出しで始まった詩編は、「 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ 」(6節)で結ばれています。私たちの人生は、口ずさむ生涯として期待されています。主の教えを、そして主への賛美を、口ずさみつつ、歩み抜くのです。あたえられた己が生涯を。どうぞ、口ずさんでください。お料理しながらでも。何しながらでも。

5月15日(木) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1章1節
  テサロニケの信徒への手紙は、新約聖書中では最も古い文書と言われています。テサロニケ教会の誕生の次第については使徒言行録17章に詳述されていますが、パウロが3週間滞在したことによります。しかしそこのユダヤ人は、ねたみに燃えて暴動を起こしたので、パウロたちはその日の内に夜逃げをしたと記されています。そのようにパウロが十分に伝道できたわけでもなく、しかも敵対者が多い地域にあって、テサロニケ教会は短期間の内にパウロも目を見張るほど成長を遂げました(9節参照)。もちろん、この教会は問題を抱えていたことが手紙を読み進めていくうちに見えてくるのですが、それを差し引いてもなお、すばらしい信仰を持っていた教会です。「 信仰は試練によって磨き上げられる 」とは、確かなことなのです。

5月16日(金) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1章2節~8節
  テサロニケ教会の人たちは、「 わたし(パウロ)に倣う者、そして主に倣う者となり・・模範となるに至ったのです 」(6節)。倣うとは、イミテーション、すなわちキリストの模造品になることです。テサロニケ教会の人たちを見ていると、その原型であるキリストが分かると言うわけです。これは「 素晴らしい 」の一言です。真理である神の言葉は、その真理を実際に生きている共同体の中でこそ、伝わって行くと言われます。真理を実際に生きている教会は、神の言葉を響らかせる共鳴体になるのです(8節)。それは教会の大小にはよらず、私たちにも起き得ることです。

5月17日(土) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1章9節~10節
 「 あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか 」(9節)。誰もが皆、ここに記されたことを経験しています。神に帰る前、人は必ず何かをまるで神のように大事にして生きているのです。お金、権力、名声、などなど。しかし、私たちがそのように偶像に仕え、真の神に背を向けていたときに、神の方では私たちに身を向けていてくださった。それが明かになったのは主イエスの十字架への歩み、死人からのよみがえりでした(10節)。私たちが真の神に仕えるようになるために、神の方が先に私たちに仕えていてくださった。そこまで徹底した神の愛を聖書は私たちに告げています。

5月18日(日) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章1節~12節(Ⅰ)
  パウロのテサロニケ宣教の様子を語っています。4節は、伝道者の誘惑を鋭く見抜いた厳しい言葉です。当時は他の宗教においても、伝道旅行のようなことが行われていました。人々の悩みを聞き、解決を与えるような言葉を語るのです。しかし、それはしばしば人々が喜ぶような上辺の平安を語るようなものが横行していたようです。人を喜ばせたいと思うことは、伝道者にとって大きな誘惑です。なぜなら人間には厳しいことは聞きたくない、優しい言葉だけを聞きたいと言う根深い欲求があるからです。パウロはそのような宗教家と一線を画します。パウロは神を喜ばせることを語ると言うのです。その場合、私たちの悩みの原因が罪に起因していると鋭く指摘することもあるでしょう。神の喜ばれることこそ、実は人間を真に喜ばせるものであり、人間の真の喜びは神の喜びを映すものに他ならないのです。

先週の説教要旨 「 神に栄光を帰す 」 使徒言行録12章20節~25節 
 私たち長老教会の信仰の生みの親となった宗教改革者カルヴァンは、のちに長老改革派教会の信仰のモットーとなった「 すべての栄光は神に 」ということを強調した。人間に栄誉が与えられるのではなく、栄誉は一切、神が受けるべきであり、神に向かってささげられるべき栄光が、人に向けられてしまうような、いかなるものは不要であると彼は考えた。私たちも長老教会に生きる者として、カルヴアンが大切にした「 一切の栄光は神に、神のみがほめたたえられるように 」という信仰の姿勢を大切にしたいと思う。今朝、与えられている聖書の箇所には、神に栄光を帰さないで、自分自身に栄光が帰されることに酔いしれ、あたかも、自分は神であるかのように振舞ったヘロデという王が登場する。「 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである 」(20節)。ティルスとシドンの人たちは王の演説を聞いてあれは「 神の声だ。人間の声ではない 」(22節)と叫び続けた。王は、人々のそのような喚声に酔いしれた。イエス様が荒野でサタンの誘惑を受けられたとき、「 人はパンだけで生きるのではない 」と言われた、あの言葉を思い起こす。ここではパンで人を生かす、そのことのゆえに、自分が神と呼ばれることを喜んだこの世の支配者ヘロデが現れているのだ。人に食糧の入手経路を握られた人間は弱い。権力はそういう弱さにつけこんでくるし、つけ込まれた方も、そういう権力にこびた方が生きて行く上では、都合がいいのだと考えるようになってしまう・・・。しかしそこには、一切の栄光を神に帰すという姿勢は見られないのである。

ところで、なぜ人は神に栄光を帰さなければならないのか・・・。音楽とか、絵とか、本とか、デザインとか、そういうものにはそれを作った人には著作権という権利が与えられ、その作品にかかわる一切の栄誉は、その人が受けるべきであると言う法律がある。作った人に敬意をあらわす、それによって作者に栄光を帰す。それが著作権の基本的な考え方。それを聖書に置き換えて言うならば、この世界を造られた方は神。人も世界も、他の生き物も皆、神の作品。ならば、その造り主である方に、すべての栄誉が与えられるべきであって、それを造られた立場の人間が横取りすることは許されない。著作権の侵害になる。ヘロデはそれをした。

神はそのヘロデを撃った(23節)。彼の死は、本当に栄光が帰されるべき方の介入によるものであった。このように第12章は初めと終わりが非常に対照的である。権力者ヘロデがその権力を振るって、神の言葉を伝えていた教会を迫害し、その中心的指導者を殺すことに始まり、ヘロデは撃たれ「 神の言葉はますます栄、広がって行った 」(24節)という言葉で終わる。教会とヘロデの立場が180度ひっくり返っている。そのコントラストを通して、著者ルカは、本当に栄光を受けるべきお方、そしてこの世界を支配しておられるお方は、この世の王ではなくて、神ご自身なのだということを宣言している。教会も、この世の権力者も、皆、同じ神のもとに身をかがめなければならない。この方に栄光を帰さなければならない。しかしキリスト教の歴史は、国家との権力の争いの歴史となってしまった。本当は、教会は国家と共に、神の権威の前に身をかがめなければならなかった。それなのに、この世の権力者と張り合ったり、あるいは結託して、神の権威を隠してしまうようなことをしばしばしてきたのである。しかし、この方に栄光を帰し、この方の御前に身をかがめることを知っているならば、教会は強い。ヘロデのようなこの世の権威者が剣を振り回したら、死んでしまうような力なき者でしかないかも知れないが、そのような教会を神は守られる。だから強いのだ。私たち信仰者ひとりひとりも強い。神に栄光を帰すことを知っているならば・・・。

しかし、時としてその神の守りというのは、私たちの期待した通りに現されるとは限らない。ヘロデが撃たれて死ぬとか、ペトロが奇跡的に救出されるとか、そういうことばかりではなく、時にはヤコブの殉教というような事態も起こる。それは神の支配、神の勝利が今はその一部しか現れていないからなのである。しかし世の終わりの時には、ここで垣間見られた神の支配が完全に現れ出るようになる。もし信仰者がそのゴールをしっかりと見定めているならば、ヤコブの殉教があっても目先の不幸にとらわれてフラフラしないようになる。忍耐強くなる。信仰がまだ幼いと、どうしても目先のことでもって、神の祝福や神の守りを計ろうとしてしまう。しかし信仰が成熟すると、最後のゴールの地点を見定めているようになるので、目先の不幸があっても、このことも神の圧倒的に勝利に至る途上の出来事なのだと、どっしりと構えて受け止められるようになる。使徒パウロは言った。「 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます 」(Ⅱコリント4章17節)と。私たちは、神の支配がどんな時にも貫かれていることを信じよう。本当に栄光を帰されるべき方の支配が、その現実を貫いていることを。やがて、その神の支配はすばらしい栄光を帯びて現れ出ることを信じよう。そして、その神に栄光を帰す生き方をしよう。(2014年5月4日)

2014年5月4日日曜日


 
成瀬教会 <聖書日課>  5月5日~5月11日
5月5日(月) 詩 編 141編1節~10節
  「 わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください 」(2節)。ユダヤ人は神の御前に日々、香ばしい香をたきました。私たちキリスト者は、全焼のいけにえの香ではなく、悔い砕けた魂の祈りを神への香として捧げます。神は砕かれた魂から立ち上る喜びと感謝と賛美の香を軽んじられません。人は皆、人生の臭いを漂わせているものです。お金の臭い、インテリ臭い教養の臭い、誇り高ぶった臭いをぷんぷんさせている人がいますが、それは鼻をつまみたくなる臭いです。私たちはパウロの言う「 キリストを知る知識の香 」をほのかに漂わせましょう。それは砕かれた魂が放つ「 愛と赦し 」の香です。
5月6日(火) 詩 編 142編1節~8節
  この詩編はダビデがサウルの手を逃れ、ほら穴で歌ったものであることを表題は告げています。「 わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしは甚だしく卑しめられています 」(7節)。人に馬鹿にされたとか、見下されたとか、無視された感じることはありませんか。それは嫌なことですが、しかし実際は単なる被害者意識に過ぎなかったということが多いのではないでしょうか。人はあなたをそんな馬鹿にしたり、無視したりしてはいません。他人はそれほどまでに、あなたに関心を寄せてはいないのです。あなたの心にあるひがみが、そう感じさせているだけなのです。もし仮にそれが本当の場合でも、主はあなたのことを心から愛し、その価値を認めていてくださいます。なぜなら主は、「 あなたはわたしの避けどころ、命あるものの地でわたしの分となってくださる方 」(7節)なのですから。
5月7日(水) 詩 編 143編1節~12節
  「 あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂を、あなたに向けます 」(6節)。両手を広げるというのは、祈る姿勢を示しています。自分を明け渡す姿勢でもあります。祈る者は、罪深い自分をさらけ出して神に向かいます。「 御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません 」(2節)とあるように、自分の心の奥にあるものを隠したままで祈る必要もありません。なぜなら、祈りは単に嘆願ではなく、すべてをご存知であられる神との出会いだからです。祈る人は渇いた大地のように、ひび割れたまま、天に向き合っています。ひび割れた自分の人格をさらけ出すようにして。神の恵みはそのひびに染み込みます。
5月8日(木) 詩 編 144編1節~15節
  「 主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは 」(3節)。この言葉は、あまりにも人間という存在が恐ろしい、何をするか分からない、という嘆きの中で歌っているものではありません。むしろ、何をするか分からないような罪深い存在でありながら、神がこれに目を留めてくださるということへの驚嘆を歌っているものです。神は暗闇の中にうごめく黒いアリでさえ、それをきちんと見極められる方です。私たちのことも同様にすべてを知っておられます。しかしそれでいて、「 わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し 」ている(イザヤ書43章4節)と言われる方です。
5月9日(金) 詩 編 145編1節~21節
  「 主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます 」(14節)。人は倒れます。人が倒れずに前進し続けることはできません。行き悩み、倒れて人間の限界を思い知らされることしばしばです。しかしそこでこそ、神の力が働きます。いや、神の力はいつも働いているのですが、そのときになってようやく、はっきりと、神の力が人の目に現れてくるのです。霧が晴れて・・・。だから私たちは倒れてもいいのです。倒れるときは、神の手の中に倒れましょう。歩き疲れたら、神の御手の中にかが見込みましょう。神は受け止めてくださいます。倒れてもいい。倒れることが出来る。それが信仰者の慰めです。
5月10日(土) 詩 編 146編1節~10節
  「 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない 」(3節)。厳しい言葉です。思わず、世の政治の難しさを覚えます。人の欲と欲とが直にぶつかり合う政治の世界では、すべての人が喜べる最良の決め事などできません。人間には救う力はないと痛感させられます。しかし神は、「 天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた 」(6節)のです。神は天と地と、海と、その中にあるすべてのものを創造されました。それは、ただ創造されただけではなく、この難しい世界の中に真実を行なわれるということであります。この世の波風が騒ぐ時にも、神の真実は決して途絶えることなく、貫かれていることを忘れないようにしましょう。
5月11日(日) 詩 編 147編1節~20節
  「 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人 」(10節、11節)。「 」は軍馬のことを指し、力の象徴でありました。「 足の早さ 」は事に処する俊敏さを象徴しています。神は、人が軍隊の力を誇ることを好まれません。それゆえ、神は人に試練を与えられます。人間の持つ力や俊敏さでは根絶対に突破できない試練、この世の知恵と力に頼り、巧みに動こうとする者が行き詰まり、神を信じて動かない者が道を見出せる試練を。そのようにして神は、人間が信仰に目覚めることを期待し、待っておられるのです。試練を試練で終わらせてはなりません。
 

先週の説教要旨 「 神の真実に励まされ 」 使徒言行録12章1節~19節 
 使徒言行録を読み続けているが、使徒言行録に描かれている教会の姿というのは、何よりも祈る群れである。ペンテコステの日に聖霊が降る、そのときも祈るために集まっていたところに聖霊がくだった。ペトロが異邦人伝道へのきっかけとなった幻を見たのも、彼が祈っているときだった。そのように、使徒言行録は教会というのは何よりも祈る群れであることを繰り返し伝えて、その祈りから聖霊の導きによる展開が生まれることを語っている。今朝、与えられている使徒言行録第12章も祈る群れとしての教会の姿が描かれている(1節~5節)。

 エルサレムの教会はすでに、ステファノという大切な指導者を失っていたが、ここでは続いてヤコブの殉教が伝えられている。ヘロデ王が教会に対する迫害を始め、とうとう自分たちの大切な指導者ヤコブを殺してしまった。ヘロデ王は、このことがキリスト者に敵意を持っているユダヤ人たちが喜んだのを見るや、王はいい気になって、教会の中心的指導者であったペトロをも捕らえて牢に入れてしまった。そこで教会の人たちは、集まってペトロが助けられるようにと、祈りを始めた。それは「 熱心な祈り 」であったと言われている。集まった人たちは、ヤコブが殺され、その上、ペトロまでもが殺されてしまったら、もうお手上げだ。こうやって相次いで中心的指導者を失うようでは、我々は立ち行かなくなると、不安を覚えた。教会は、いつもそうやって追い詰められる。教会だけではない。教会に生きる信仰者ひとりひとりも、自分の生活の中で、追い詰められるという経験をする。しかし、追い詰められるという経験は決して悲観的であるだけではない。なぜなら、私たちは追い詰められたら、祈らざるを得なくなるからだ。自分はまだ追い詰められていない、まだ何とかなると思っているところでは人はなかなか祈りに向かわないものである。自分の力で何とか乗り越えようと動くもの。しかしもう自分の力ではダメと思ったときには、やはり祈らざるを得なくなる。だから、追い詰められるというのは、神によって道を開いていただく、その引き金ともなるのである。

 10節のところに、ペトロが救出されたときの様子が書かれている。教会の人々の切羽詰った祈りに答え、神は天使を送り、ペトロを牢から救い出してくださった。 ペトロは、最初自分は幻を見ているのだと思っていたが、実際に街に通じる鉄門が、ひとりで開いて、そこを進んで行った時、天使が離れてペトロは我に返って、「 今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ 」と言った。鉄門がひとりでに開く・・・これが祈りに対する神からの答えであった。鉄門は、元来、町を守るために非常に頑丈に作られていた。押しても引いても、ビクともしないようながっしりした門。その門を、神が祈りに対する応答として開いてくださった。私たちの人生にもそのような経験があるだろう。どうしても動かない頑丈な門のようなものにふさがれる経験。行き詰ってしまってどうにもならない。進退極まる経験・・・。ペトロは、自分のために教会の人たちが祈っている母マリアの家に一目散に向かった。その途中、ペトロは「 今、初めて本当のことが分かった 」と言った。私たちにおいても、人生の鉄門が開くときがある。何をしても開かなかった門が、突然、開く。あなたの鉄門、それは何であろうか・・・。それはあなたが自分の力ではビクともしないと感じているもの、それはあなたが、これはおそらく無理だろうとあきらめかけているようなことである。しかしそれでいて、祈らずにおれないことなのである。ある人にとって、それは家族の救いであるかも知れない。ある人にとっては、それは健康上のこと、あるいは経済的なこと、家族のことであるかも知れない。しかしその鉄門がひとりで開くときがあるのだ。私たちもペトロのように、「 今、はじめて本当のことが分かった 」と言えるときが来る。しかしそれは、私たちの祈りを引き金としてなのである。

ペトロ救出の引き金となった祈りを聖書は「 熱心な祈り 」であったと伝えている。だが教会の人たちは「 この祈りは聞かれる 」という強い確信をどうやら持ってはいなかったようである。ペトロが戻って来たことを知ったロデは、そのことを祈っている人たちに伝えたが、彼らは「 あなたは気が変になっているのだ 」と言った。ある者は、ペトロを守る天使だろうとさえ言った。当時の人々には、ひとりひとりに天使が守護のためについていると信じていた。私たちの言葉で言えば、守護霊、幽霊である。残念なことに、教会の人々は祈りに応えてペトロが救出されたのだと信じるよりも、幽霊を見たのだと信じることの方がより現実的に思えというのである。教会が熱心に祈っているようでありながら、実際にはその祈りが聞かれるという確信を失ってしまっている。しかしそこで私たちを慰めるのは、そういう一番深いところでは、確かな思いを持っていなかったように思われる教会の祈りに、神が応えてくださっているということである。無理かなと、あきらめの心に揺さぶられながらも、それでも祈らないわけには行かなかった。まさかと思いつつも、祈り続けるより他なかった。その祈りを、聖書は熱心な祈りであり、その祈りに神が耳を傾けて聞いていてくださっている。これぞ神の真実。(2014年4月27日)