2014年4月30日水曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月28日~5月4日

4月28日(月) 詩 編 134編1節~3節
  短い詩編ですね。1節の「 主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ 」と言われている、とどまる人とは夜毎に神殿で仕え、祈るレビ人のことです。私たちはどのように夜を過ごしているでしょうか。「 歴史は夜作られる 」という言葉がありますね。夜、酒を酌み交わしながら、歴史を動かすような密談が行なわれるということでしょうか。「 人間は夜、罪を犯す 」という言葉もあります。夜は神の前に静まる、神と共にある時にできたらいいですね。ある人が夜、夢の中で「 どうぞ、偉大な人に合わせてください 」と祈っていたら、天使が現れて彼を外に連れ出し、大臣の家を通り越し、将軍の家も通り過ぎ、そして民家の中で祈っているひとりの人の前に連れて行かれたと言うのです。偉大な人とは・・・。

4月29日(火) 詩 編 135編1節~21節
  この詩編は、賛美せよ、賛美せよ、そしてほめたたえよと、怒涛のように迫って来ますね。「 ほめたたえよ 」というのは、ヘブライ語では「 ハレルヤ 」ということです。ほめたたえる、そこには自分の利益や関心を忘れて、ただひたすら主の方を向いている姿があります。御使いたちは、天にあっていつも神をほめたたえています。ならば、私たちが黙っていては、石が叫び出すのではないでしょうか(ルカ19章40節参照)。いつでも、どこでも自分のことに執着して一喜一憂している私たちは、神がそのすべてとなる賛美の世界へと引き上げられる必要がありますね。私たちは「 神の家の庭に居並ぶ人々 」(2節) なのですから。

4月30日(水) 詩 編 136編1節~26節
  この詩編は、礼拝における交読用に整えられています。司式者と礼拝者が交互に呼び交わすのです。9節の「 夜をつかさどる月と星を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに 」という言葉は、何と慰めに満ちている言葉でしょうか。暗い夜のために、神は月と星を造ってくださいました。それはすべての事における「 神のなさりよう 」を表しています。人生のどんな暗闇にも、神は光を与えてくださると言うのです。そうです、神の配慮は途絶えていないのです、暗闇の中にあっても・・・。一筋の導きの光を必ず備えていてくださいます。だから感謝が口をついて出るのですね。

5月1日(木) 詩 編 137編1節~9節
  呪詛詩編としてよく知られている詩編です。イスラエルの民を捕囚という憂き目に合わせたバビロンに対する呪いの言葉が聞こえています。詩人は捕囚地のバビロンの民から「 お前たちの神をほめたたえる歌を歌ってみろ 」と酒宴の場で愚弄されたのでしょうか。敵をも赦せと言われたイエス・キリストを知る新約時代の信仰者には、この詩編から多くのことを学ぶことはできないかも知れません。ただ、私たちはどこに連れて行かれても、神を賛美する心を忘れないようにしましょう。パウロとシラスは獄中で賛美をし、神がその賛美に応えるにして、彼らを救い出してくださいましたね(使徒16章25節)御業をしてくださいましたね。神はいかなる場所から聞こえる賛美にも応えようと耳を傾けておられます。

5月2日(金) 詩 編 138編1節~8節
  「 呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え、解き放ってくださいました 」(3節)と言われているように、神は求める私たちに答えてくださる方です。「 主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くにいましても、傲慢な者を知っておられます」(6節)。いと高き神は、それにふさわしくない低い者に、目を留めてくださいます。どんな深いところから発する声にも、耳を傾けてくださいます。「 わたしが苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、わたしに命を得させてください 」(7節)。信仰者にとって、苦難は苦難のままで終わりません。苦難の中を歩いているときも、神は一切のことを私たちの命を育てる糧としてくださるのです。そのことを信じて疑わないようにしましょう。

5月3日(土) 詩 編 139編1節~24節
  詩編139編は、私たちがどこに行っても、恵みの神はそこにおられるという信仰が歌われています。「 数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる 」(18節)。この世の極限に立ったときにも、自分はなお、神の手の中にあるというのです。人間の可能性の尽きた地点でも、人は神の可能性にとらえられているのです。「 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない 」(12節)。夢であってくれたらいいのに・・・そう思う暗い日が人にはあります。しかし人にとってどんなに暗い日も、神にとっては暗くはないのです。神の摂理の中では、深い意味の与えられた日であり、神の光の届いている日なのです。

5月4日(日) 詩 編 140編1節~14節
  「 主よ、さいなむ者からわたしを助け出し、不法の者から救い出してください 」(2節)。あなたには敵がいますか。人生は戦いだとよく言われます。あなたの敵とは誰でしょうか。敵のように見えて、本当は敵ではない。本来は仲間としてあるべき人なのではないでしょうか。本当の敵を敵として知ることが勝利の第一歩です。「 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです 」(エフエソ6章12節)。人を敵だと思い込むとき、私たちはサタンの思う壷になっているのです。

先週の説教要旨 「 復活の主はなお近くに 」ヨハネ福音書21章1節~19節 

「 ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか 」と、主は3度ペテロに尋ねられた。それでペトロは悲しくなった。主が十字架にかけられる前夜、「 たとえ、他の者があなたを見捨てても、私はどこへでも従ってまいります 」と固い決意を口にしたのに3度イエス様を知らないと言ってしまった。主はそのことを意識して問われた。ペトロにしてみれば、決して触れてほしくないことであった。その意味では、ペトロは聖書の中の人物で、主によって最も深く傷つけられた人物だと言えるかも知れない。もし神がいるなら、神は人間を悲しませるはずはないと考えている人たちがいる。しかし聖書は、人間にとって尊い意味を持つ悲しみを与える神を語る。富める青年がイエス様に「 永遠の命を手に入れるにはどうしたらよいか 」と質問した時、青年はイエス様の答えを聞いて悲しみながら立ち去った。主は、立ち去って行く青年をいつくしみのまなざしたでご覧になっていた。ペトロは主から悲しい思いをさせられたが、立ち去ることをしなかった。その痛い問いに向き合い続けたペトロのありようは、とても大切である。なぜなら、それが聖書の言う信仰だから。「 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします 」と、Ⅱコリント書にある。主がペトロに与えられた悲しみは、この救いに通じる悔い改めを生じさせる、そういう幸いに通じる悲しみであった。今朝の罪の告白への招きの言葉は、イザヤ書59章1節、2節、「 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ 」というものだった。罪は私たちと主との間に隔たりを造り、恵みの通路をふさいでしまうのもの。だからその恵みの通路を開くために、罪はそのままにしておくべきではなく、それを告白し、神に赦していただき、取り除かれる必要がある。魂の医者であるイエス様は、取り除かなければならない患部があることを知りながら、それをそのままにして縫合するようなことはなさらない。患部を取り除かれる。イエス様がペトロの傷に直接触れるような問いかけをなさったのは、そのためであった。

「 この人たち以上に 」という言葉は特にペトロの胸を刺した。他の者が見捨てて逃げも、この私だけは・・・と言い張ったからだ。この主張を支えていたものは、自分は他の弟子たちと違う、よりしっかりした人間なのだという自負の心。あの人は、こういうところがだらしない。こういう点はちっともなっていない。私はそうやって他者を見下すことができる人間なのだ、という自負の心。私たちは、誰であっても、そのような自負の心を心の底に持っている。そして悲しいことに、そういう自負の心を拠り所として立っている。私はあの人のようなダメな人間ではない、他者との比較から生まれる歪んだ自信のようなものが、自分の拠って立つ根拠となっているのだ。主はそういう心を、人間を腐敗させる患部としてご覧になる。神からの恵みの通路をふさぐ、取り除くべきものとしてご覧になる。主を否認したとき、ペトロが拠って立っていた自負の心は、粉々に打ち砕かれてしまったはず。だがそれでもペトロはなお、自負の心から離れることができない。あんな失敗をしてしまった自分を赦すわけには行かない、あんな姿を自分だけと認めたくない。そういう自負の心に今もなお、こだわり続けているから、ペトロはよみがえりの主に何度もお会いしていても、主から遠ざかり、ガリラヤに戻って主に従う前の漁師の生活に戻ってしまったのである。主は、そういうペトロをもう一度、立ち上がらせるために、ペトロに近づかれた。そして「 わたしを愛しているか 」と問われた。この問いかけの前には、いかなる自分へのこだわりも、手離さざるを得なくなるのではないか。なぜなら、この言葉にはイエス様の思いのすべてが込められているから。「 ペトロよ、私の身に起きた受難という苦しみ、そして十字架の出来事、復活・・・それらの一連の出来事は、すべて『 あなたのため 』のものだったのだよ、それが分かるか。私は今もなお、あなたのことを愛している、その愛は変わらない。あなたを弟子として召し出したいと願っている。その意思は変わらなのだよ 」と言う思いが込められている。ペトロは「 はい、主よ わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです 」と答えた。以前のペトロであったら、こうは答えなかっただろう。ペトロは「 自分の愛の力であなたを愛することなんかできません。あなたを真に愛する愛は、あなたが私の心に呼び起こし、あなたがそれを支えてくださる、あなたが与えてくださる愛によってしかないのです 」と答えているのである。だからそれはあなたが一番よく知っていてくださることだと・・・。自分のだらしないことも、弱いことも、何もかも知っておられる主にすっかりお任せしてしまっている心もちなのだ。そうやって完全にイエス様に頼り切りながら、しかしペトロは主に対する愛を誓う。主はペトロに、「 わたしの羊を飼いなさい 」と言われた。主はペトロのような傷を持った人間を教会の尊い務めにつけられる。そういう痛みの経験を持っているということが、教会の宝になるのだ。健やかに羊の世話をする人間はこの痛みとそれに伴った愛を覚えている人なのである。(2014年4月20日)

2014年4月20日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月21日~4月27日

4月21日(月) 詩 編 127編1節~5節
  「 主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから 」(1節~3節)。自分の手ですべてを成し遂げなければならないと思うと、人は安らげなくなります。人は自分の人生であっても、自分の力で完成することはできません。精一杯労した働きに神が手を添えてくださるのです。たとい、できなかったことがあったとして、それを神の手に委ねて眠るのです。あなたが働きを開始する前に、「 委ねつつ 」ということがなければ、本当に良い仕事はできないのです。

4月22日(火) 詩 編 128編1節~6節
  「 いかに幸いなことか。主を畏れ、主の道に歩む人よ 」(1節)。この詩編の主題は家庭生活です。多くの実を結ぶぶどうの樹のような妻、そしてオリーブの若枝のような子どもたち。とてもうるわしい家庭の姿です。立派な調度品、快適な設備、豊富な食べ物がそろっていても、そこに真の信仰がなければ、魂は冷え、ひとつ屋根の下の魂はバラバラに乱れ、暗雲がすべての部屋を覆うようになって行きます。あなたの家庭を真に祝福されたものにする、ただひとつのことは、あなたが主を畏れ、主の道を歩むことです。

4月23日(水) 詩 編 129編1節~8節
  「 抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ 」(6節)。屋根の上の草、私が子どもの頃は、まだ、かやぶき屋根の家が散見されました。屋根の交換作業は、近所の人たちも総出で手伝って、それは、それは、見ていて飽きない光景でした。かやぶき屋根には、草が生え、時折、花が咲いていることさえありました。しかしユダヤの屋根は土などでしっかりと固められているので、草が根付く前に日の照り返しで枯れてしまうのです。神の言葉はよく耕された土のような心にまかれると、グングン成長して豊かな実を結びます、必ず・・・。私たちは一生をかけて、心の畑を耕しながら、御言葉の種を蒔いていただき、ひとつひとつ実を実らせて歩みます。

4月24日(木) 詩 編 130編1節~8節
  「 わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして 」(5節~6節)。気持が落ち込んでしまったとき、あなたはどうするでしょうか。気晴らしにおいしいものを食べに出掛け、何か楽しいことでもするようにしますか・・・。人生に落ち込みはつきものです。下へ、下へ、落ち込み二度とはいあがれなくなるような落ち込みなら、御免こうむりたいところです。しかし、いかなる落ち込みであっても、そこから高く、高く、人生の高みに引き上げられる道があります。それは、主を待ち望むこと、神の言葉を待ち望むことです。その「 待ち 」は、夜には必ず朝が来るように、かならず主の答えがやって来る「 待ち 」なのです。わたしの魂は主を待ち望みます。あなたは・・・・?

4月25日(金) 詩 編 131編1節~3節
  「 主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません 」(1節)。創世記のエデンの園でアダムに与えられた戒めのように、神の戒めは人間を縛り付けるものだと考える人がいます。そしてその戒めを越え出たところに、人が本当に自由になる場があると思うのです。神の戒めを越えるということは、人間の限界を越えるということです。人間の限界を越えるとき、実は人間は壊れてしまうのです。無防備で大気圏に飛び出るようなものです。神の戒めは人間への配慮であって、その中にとどまって生きるときに、真に人間の命の豊かさ、美しさを知ることができるのです。私たちは限界を嫌いますが、ドーピングのように無理に限界を越えようとすると、かえって自分自身を壊してしまうのです。

4月26日(土) 詩 編 132編1節~18節
  「 主よ、立ち上がり、あなたの憩いの地にお進みください。あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も 」(8節)。都心を離れて、田舎の旧家の並ぶ町を歩いていると、家の敷地内に祠(ほこら)が建てられている家に遭遇することがあります。鳥居が建っている場合もあります。でも、それらをよく見ると、家の方がはるかに立派で、祠は小さくて、古びています。思わず、ニヤついてしまう光景です。ダビデは、最上の場所にこそ、神様が住まわれるべきだと考えました。あなたは神様をどこに安置していますか。あなたの心の中の一丁目、一番地、そこに「 主よ、立ち上がり、あなたの憩いの地にお進みください 」と言いましょう。

4月27日(日) 詩 編 133編1節~3節
  「 見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び 」(1節)。この詩は礼拝をしているときの姿を歌っているものだとの解釈があります。礼拝するために、兄弟姉妹が座っている。そこに座っている人たちの間には、生活や仕事、性格など、様々な違いがあります。利害関係、あるいは緊張関係すら、あるかも知れません。しかしそれでもいいのです。そういう人間たちが神を見上げて共に座る、礼拝の席につくことによって、本当の意味で兄弟姉妹になっていく、そう、神の憐れみによって。神を仰いで共に座る以外に人が真に兄弟姉妹となる道はありません。

先週の説教要旨 「 育ち行く教会 」 使徒言行録11章19節~30節 
 どこの教会でも、自分たちの教会がどのように誕生し、成長を遂げてきたか、その記録を記念誌という形で残すものである。今朝の箇所は、アンティオキアにある教会の誕生と成長の様子が記されている。アンティオキアの教会の人たちにとってみれば、自分たちの教会の記念誌に載せられるようなことがここに記されている。「 0からのスタート 」という言葉があるが、アンティオキアの教会の始まりは、マイナスからのスタートだった。ステファノ事件をきっかけにして起こった迫害のために、エルサレムから散らされた信者たちが、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで逃げて来た。この人たちがアンティオキアの教会の最初の教会員になる。彼らは迫害を通して、信仰を持つというのは戦いの中に身を投じることなのだと知らされていた。それはある意味、マイナスのことであったかも知れない。しかし信仰というのは、その厳しさに勝ち得て余りある喜びをもたらすものである、そのことをよく知っていたから、彼らは信仰から離れないばかりか、伝道しようとした。

 最初はユダヤ人だけに伝道していたが、やがてコルネリウスの出来事の情報が届いたのであろう、彼らは外国人であるギリシャ人にも伝道し始めた。ギリシャ語に堪能な人たちもいたのである。そして、主がこの人たちを助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。ここにひとつの信じる者の群れが生まれた。これがアンティオキア教会の始まりだった。信仰には、迫害にも勝る大きな喜びがあると言ったが、その喜びは21節の「  信じて主に立ち帰った者の数は多かった 」という言葉の中に現れている。立ち帰る、本当に立ち帰るべきところに帰って来られた。その喜びは迫害を受けるにも勝る大きな喜びを生むのである。私たち人間は自分はどこから来て、どこに行くのか、よく分からないままに生きている。あまり、そんなことは考えないようにして生きているかも知れない。でも、自分が死ぬときが近づくと、ふと、自分はどこから来て、どこに行くのだろうと考えるようになる。今まで、そんなこと真剣に考えないままに生きて来たけれども、これって、本当は重要なことなのではないか。もしその答えを人生の早い段階で知っていたら、自分はもっと違った生き方をしたのではないか・・・そういうことを考えるようになる。人間には、本当に立ち帰るべき魂の故郷、あなたのいのちの故郷というものがある。故郷は心が安らぐ場所。そこに帰ることができた、というのが信仰のもたらす大きな喜びなのである。このとき、信じた人たちはアンティオキアに住むギリシャ人たち。ギリシャの国にはたくさんの神々が祀られていた。外国の宗教の神など、必要ないぐらいに、たくさんの神々があった。そういう中で生活していたギリシャ人が今まで全く無縁だと思っていたユダヤ人の神のところに行くようになった。それを聖書は「 立ち帰った 」のだと言う。ギリシャ人であろうと、ユダヤ人であろうと、どこの国の人間であろうと、本当に立ち帰るべき魂の故郷、あなたのいのちの故郷というものが人間にはある。それはイエス・キリストが明らかにして下さったユダヤ人の神、聖書の神なのだ。それは私たち日本人にとってもそうなのである。加藤常昭先生は自伝の中で、信仰をもって間もない中学生だった頃、戦地に赴くことになった教会の若者を東京駅から賛美歌を歌って、教会員皆で送り出したという。勇ましい軍歌を歌って送り出す人たちがあふれている中で、異様な集団がそこにあった。賛美歌を歌って仲間を送り出すこの人たちの姿には、まことに帰るべきところに帰れたという大いなる喜びが息づいている。迫害にも勝る大いなる喜びである。

アンティオキアにおいて、多くのギリシャ人が信仰を持つようになったことが伝えられると、エルサレムの教会はバルナバを派遣した。彼はかつて、サウロとエルサレムの教会の仲立ちをしたとりなし上手な人間。そういう人間を送って、新しく誕生した教会との関係を深めようと考えたのだ。バルナバは神の恵みが働いているアンティオキアの教会の現実に触れ、とても喜んだ。そして2つのことをした。ひとつは、「 固い決意をもって主から離れることのないように 」と勧めたこと。とにかく信仰は、立ち帰ったところからもう離れないことが肝要である。もうひとつは、サウロを見つけ出しにタルソまで行き、彼らの指導者としてアンティオキアまで連れてきたことである。サウロは聖書の知識も豊かで、復活のキリストに出会った信仰体験もあり、ギリシャ語も堪能で、彼らの教会には最適の指導者であった。サウロは1年間、アンティオキアで伝道し、また教会の人たちを教えた。その指導の成果は具体的な2つの形になって現れた。ひとつは、信者たちが人々からキリスト者と呼ばれるようになったこと。「 呼ばれる 」と訳されている元のギリシャ語は、「 仕事をする 」という意味のことであって、そこにはあの人たちは「 キリストの仕事する人たち 」という意味が込められている。何かの仕事をしていても、その根底にはキリストのために働いている人と、周りの人たちの目には映っていたのである。そういう信徒が育ったのである。もうひとつは、飢饉に苦しむエルサレム教会を支援する、自分たちのことだけでなく、他の教会のことにも心を砕く教会になったことである。私たちはここに神の恵みが教会を生み、そして育まれる姿を見る。私たちの教会もこの方の恵みの中に立っているのだ。(2014年4月13日)

2014年4月13日日曜日


成瀬教会 <聖書日課> 4月14日~4月20日 受難週
  今週は「 受難週 」と呼ばれる特別な1週間です。イエス様の十字架へと至る受難の歩みを特別に覚えて過ごす時です。そのため、今週は詩編の通読を中断して、受難週の出来事が記された聖書箇所を読みたいと思います。

4月14日(月)マタイ21章1節~11節  
 イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城されます。これはゼカリヤの預言(ゼカリヤ書9章9節)の成就でした。当時、王が凱旋する時には立派な軍馬にまたがって入城しました。しかしイエス様は預言が成就するように、つまり「 父なる神の御心 」がなるようにと、子ろばを選ばれたのでした。イエス様を歓呼で迎えた群集は、その進む道に物を敷きました。当時の習慣です。このとき、人々はイエス様に自分勝手な王のイメージを押し着せていたので、数日後、その期待がはずれたと知ると、翻って「 イエス様を十字架につけろ 」と叫び出します。「 神の御心 」と「 人の思い 」の対立、それが受難週の様々な出来事を貫く重要な視点です。あなたはどちらの思いが成ることを願っているでしょうか。どうぞ、御心への信頼を・・・。

4月15日(火) マタイ26章17節~35節
 ペトロを含めて、弟子たちがご自分から離反して行くことをイエス様は見抜いておられました。しかし見抜きながらなお、イエス様はペトロたちに約束を与えられます。「 わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く 」(32節)と。やがて弟子たちは主を見捨てて逃げてしまった自分を嫌悪し、あらゆる失意を身にまとい、一路、故郷ガリラヤへと帰って行きます。しかしその失意の中に、先立ってキリストは待っていてくださるのです。新しい再出発をすることができるようになるために・・・。「 人の思い 」はしばしば「 失意 」という形で終わります。しかし、ペトロたちを救うという「 神の御心 」は、成就するまで失われません。

4月16日(水) ルカ22章1節~23節
 ユダがイエス様を裏切ったのは、彼が期待していたメシヤの働きをイエス様がしようとしなかったからだと考えられます。彼はユダヤの国をローマの手から解放する救い主の働きを期待していたのでした。イエス様にかけていたユダの願いは破れたのです。私たちは「 自分の願い 」が破れた時、人生を投げ出してしまいたくなります。しかしここにはもうひとつの願いが記されています(15節)。イエス様の願い、すなわち「 父なる神の願い 」です。過越の食事の席で、イエス様は、弟子たちのためにご自分が十字架で死ぬことを彼らに伝えます。彼らの救いのために死ぬ、それこそがイエス様の願いなのです。ご自分の命を差し出してでも、弟子たちを生かしたいという激しい願い、あなたの願いが破れても、そのようなあなたを生かそうとする神の願い、イエス様の願いは破れずに、そこにあるのです。

4月17日(木) マタイ26章36節~46節 <洗足の木曜日>
 ゲツセマネの祈りの箇所です。御心が行なわれることをひたすら願い、祈っておられるイエス様の姿があります。その傍らには、眠りこけている弟子たちがいます。父なる神は、天からこの光景をどんな思いでご覧になっていたのでしょうか。今も、この世界の中で、御心が行なわれるようにと、切実な思いで祈り続けている者もいれば、反対に祈りを忘れて眠り込んでしまっている者もいます。私はふと、どちらの人間だろうかと、考えるのです。今の時代に御心が行なわれるよう祈り続ける者でありますように。

4月18日(金) ヨハネ18章38節後半~19章16節前半 <受難日>

 イエス様の十字架の場面です。ピラトはイエス様に何の罪も見出すことができませんでした。過越祭の恩赦を利用してイエス様を解放させようとしたほどです。彼は繰り返し、このイエスという男は無罪だとユダヤ人に訴えました。しかし、ついにユダヤ人たちの声に押し切られてイエス様を十字架につけてしまいます。公平な為政者として十字架を阻止しようとするピラト、救い主としての十字架の御業を阻止しようとするサタン、イエス様へのねたみから十字架につけたいと願うユダヤの指導者たち、期待はずれへの怒りから十字架を求める群集、いろいろな思惑が働く中で十字架は成就します。一見すると、群集やユダヤ指導者の思惑が成就したように見えますが、そうではありません。本当に成就したのは、罪人の贖罪を目的とした十字架、すなわち父なる神の御心としての十字架が成就したのでした。様々な人の思惑の中で、「 神の御心 」は成る、それを阻もうとする人の思いを突き破って・・・。

4月19日(土) ヨハネ19章38節~42節
  イエス様のご遺体は、金曜日の夕方にアリマタヤのヨセフという人の墓に納められました。土曜日、主のご遺体は墓の中に置かれています。これは嵐の前の静けさのような土曜日です。人間の思いだけが勝ち残り、神の思いは葬り去られたかのような静けさ・・・。しかし、まるで神がいなくなってしまったような静けさの中で、神はじっとその時が来るのを待っておられるのです。そして満を持して御子を復活させられるのです。神の御心は決して、人が葬り去ることはできません。一時的には葬り去れたように見えたとしても、それは成就の時を静かに待っているに過ぎないのです。「 土曜日のキリスト 」、「 神の御心 」の確かさを示す信仰の言葉です。

4月20日(日) ローマの信徒への手紙8章31節~39節 <復活日>
  使徒パウロは、神の愛の勝利を高らかに歌っています。この箇所は、イエス・キリストの十字架と復活を通してもたらされた恵みがどんなに圧倒的な恵みであるかを、「 これしかない 」という言葉でもって表現しています。どうぞ、声に出して読んでみてください。いかなるものも、あなたを神の愛から引き離すことはできない!

先週の説教要旨 「 賛美する教会 」 使徒言行録11章1節~18節 
 神はユダヤ人だけでなく、異邦人をも救いに招かれる、その神の御業を記した不思議な幻を伴う出来事が、今朝の箇所で完結する。ペトロは、異邦人コルネリウスのところに導かれ、神が救いにおいて、人を分け隔てなさらないということをよく理解した。そして、聖霊を受けた異邦人コルネリウスに洗礼を授けたことを、エルサレムの教会に戻って、教会の人々に報告する。果たして・・・エルサレム教会の人たちは、異邦人コルネリウスが救われたということを受け入れるのか、そのやりとりが今日の箇所に記されている。

ペトロは丁寧に自分が経験したことを順を追って説明しながら、コルネリウスが聖霊の賜物をいただき、洗礼を受けて救われたことは、神がなさったことであって、その神がなさろうとしていることを誰が妨げることができるだろうか、と説得した。ペトロの説明を聞いた人々は、「 静まり、『 それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ 』と言って、神を賛美した 」(18節)。静まりが生まれ、その人たちの中でぶつぶつぶつぶつ言っていたつぶやきがなくなった、コルネリウスたちを受け入れ、神の救いの御業を受け入れた。喜びと感謝をもって、賛美の歌を歌わざるを得ない思いをもって、これを受け入れた。真に素晴らしい教会の喜び語られている。最終的には、皆が神の御業を受け入れ、賛美する形で、一件落着している。ペトロは、彼らがそのように導かれるために、決定的なひとつの言葉を口にしていた。「 わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか 」(17節)。神がなさることを妨げてはならない。これが説得における決定的な言葉となった。教会の伝道の業は、神がなさる業を妨げないとするところにその特質がある、そう言うことさえできると思う。

 希望が丘教会は高座教会のIさんという方の家庭集会から始まった。でも、あまりにも人が集まらないので、牧師に「 申し訳ない 」 と言ってやめようとした。そのとき牧師は「 神が望まれて造った聖書会であるならば、人が壊してはいけないでしょう 」と言って続けたという。それが今日の希望が丘教会の始まりだった。神がなさろうとすることを妨げない、希望が丘教会はその信仰によって生まれた教会なのである。教会の伝道の業は、人間が何かの計画を立てて、精力的に事をこなすことによって進展するというのではなくて、むしろ、神が先導してくださるのであるから、その神がなさろうとすることを妨げない、そこに教会の伝道の働きの特質があるのだ。このことは、一見、消極的な姿勢に思えるかも知れないが、使徒言行録という最初の頃の教会の伝道を記したこの書では、伝道はいつも神が主導権をもって道を開き、教会はそれを妨げないようについて行く、そのことの連続である。

神がなさろうとすることを妨げない。それはもう少し丁寧に言うと、人を分け隔てなさらない神のなさることを妨げないということ。神は人を分け隔てなく、人をご自身の教会に招こうとされる。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、若い人であろうと、高齢の人であろうと、男であろうと女であろうと、神は分け隔てなく、すべての人を救いに招き入れたいと願っておられる。教会の伝道の業は、神が連れて来られた人を分け隔てなく、教会の中に受け入れということなのであり、大切なのは神がお連れなさった人たちを受け入れる「 受け皿 」を用意することなのである。介護施設の中には、ハイソサエティーであることを売りにする施設もあるそうだ。設備も、働いている職員も、食事も、娯楽も、そして入居者も皆、ハイソ。そういう施設に入る人たちは、人生で成功を収めた人間、他の人たちとは自分は違う、そのことに強い自負の心を持っている。心のどこかに、自分と他者を分け隔て、優越感を味わっているところがある。しかし、最後の最後までその分け隔ての中で人生を終えるようにして、果たしてそれでいいのだろうか。それは神の価値観とは相容れない価値観なのだが・・・。その施設がしていることは、神が用意された「 汚れた動物も、清い動物も入っている大きな布 」の中から、「 これはいいけど、これはだめ 」と言って、選り分けをするようなもの。教会はこのような過ちを犯すわけには行かない。もし神が教会にお連れした人を、私たちが品定めして、「 これはいい、これはダメ 」と言い始めたら、とんでもないことである。神のなさろうとすることを妨げない、そういう考えを根底に持っていることが大事だ。それは、若い人と高齢者の差別をも排除する。教会の将来のために、若い人が必要だと私たちは考える。当然のことである。しかし、若い人が救われたときは大喜びし、もうあまり奉仕もできなくなっている高齢者が救われたときは喜びも小さいというのであれば、それはやはり違う。神は若い人が救われれば喜ばれるし、高齢の方が救われても、同じように喜ばれる。一人の罪人が悔い改めるならば、大きな喜びが天にある。教会はその喜びを共有する群れ。私たちの教会は、高齢の方が救われて、人生の最後に神様と出会えたという、そういう喜びを提供する場として用いられることを喜べる教会でありたい。先日召されたY姉は、自分が最後に身を寄せるべきところは、不動尊ではなく、やはり教会なのだ、という思いを看板書きの奉仕に込めておられた。私たちはその喜びを共有できる群れでいよう。  (2014年4月6日)

2014年4月6日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月7日~4月13日

4月7日(月) 詩 編 120編1節~7節
  120編から134編までは、「 都に上る歌 」と言われる、いわゆる礼拝のためにエルサレム神殿のある都へと上って行くときの巡礼の歌です。この120編がなぜ巡礼歌として数えられているのか、疑問を呈する人もいるようですが、詩編の作者が5節の地名から、外地に住んでいた離散のユダヤ人と考えられるので「 都に上る歌 」に組み入れられたようです。「 苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった 」(1節)。信仰は安全地帯を歩くようなものではありません。神は私たちに安全な道を保証されるのではなく、闇の中を行くように、危機的な道を一歩ずつたどらせるお方です。私たちは、神に呼ばわりながら、神の答えをいただきながら、その細い一筋の道を歩んで行くのです。

4月8日(火) 詩 編 121編1節~8節
  121編は「 都に上る歌 」の中でも最も有名なものです。「 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか 」(1節)。エルサレムは高い場所にあり、都が近づくと下から見上げるような都を仰ぐのです。ちょうど、谷底から聳え立つ山の頂を見上げるように。巡礼者たちは、谷底に置かれたような生活にあっても、目を高く天に向けた、その思いがあふれています。 見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない 」(4節)。神はあらゆるものを見て、知っておられる方、というだけではありません。「 見守って 」いてくださる方です。この神の視線から逃れて、人間は決して楽にはならないのです。そのとき、人は「 守り 」を失っているのです。

4月9日(水) 詩 編 122編1節~9節
  「 主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった 」(1節)。幼い子どもが喜ぶ姿を見るのはもちろんのこと、人が喜んでいる姿を見るのはうれしいものです。ことに、お年寄りの人が心から喜んでいる姿を見ると、何か荘厳な「 人生の喜び 」を見るような思いがします。この詩編の詩人は、人々が「 神を礼拝しに行こう 」と言っている姿に喜びを感じています。年を取り、痴呆症になった母が「 今日は礼拝に行く日だから 」と、弱った体をゆっくりと動かしながら一生懸命に着替えます。しかもそれが毎日のことなのです。でも息子はその姿に、母の喜びを感じています。「 神を礼拝する者とされた 」人の喜びです。

4月10日(木) 詩 編 123編1節~4節
  「 御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます 」(2節)。観光バスに乗ると、今まで見たこともない素晴らしい景色ばかりで、ついついキョロキョロしてしまいます。それは楽しいことです。しかし人生は決勝点を目指して走るレースのように、キョロキョロせずに一点に目を向けて走るものだ、と聖書は言っています。決勝点がどこだか分からないような走り方をしないようにとパウロも奨めていますね(コリントⅠ9章26節)。神の手は、私たちに走るべき道を教え、目標を指し示し、なすべきことを示し、必要な良いものをすべて与えてくださるのですから、私たちは常に神の手に目を向けて行きましょう。

4月11日(金) 詩 編 124編1節~8節
  「 主がわたしたちの味方でなかったなら・・・そのとき、大水がわたしたちを押し流し、激流がわたしたちを越えて行ったであろう 」(1節、4節)。もし神が味方でなかったなら・・・そんなこと、考えただけでも息が止まる恐ろしいことですね。もしそうだとしたら、流れに棹差すように神に逆らって生きて行かなければならないとしたら、人生は耐え難いものであったでしょう。力尽きるまで苦闘の連続ということになったでしょう。しかし神は私たちの味方です。神はあの手、この手で私たちを祝福の世界へと導こうとしていてくださるのです。信仰は激流の中を行くのに似ています。世の激流を恐れ、人間的な安全策に走り妥協するとき、神を見失い、信仰を失うのです。激流のただ中でこそ「 神はれわらの方におられる 」のです。

4月12日(土) 詩 編 125編1節~5節
  多くの人々の人生は、経済、健康、人間関係などの破綻により、傷つき、思ってもみなかった多くの出来事に直面します。砂のようにもろく崩れ去り、海の水のように泡立ち、安定がなく、風に吹き飛ばされる「 もみがら 」のようです。それは信仰者であってもしばしば経験する人生の必修科目のようです。しかしそのような人生にあって、詩人は「 主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る 」(1節)と歌います。嵐の中の平安、それが信仰の真髄です。

4月13日(日) 詩 編 126編1節~6節
  126編もよく知られている歌です。特に6節の言葉は伝道とのからみから引用され、耳にすることがありますね。「 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる 」(6節)。種まきの多くは、寒風荒ぶる冬に行なわれました。春に備えてのことでしょう。農夫たちは泣きながら出て行きました。いちばん辛い季節に、いちばん辛い仕事を人だけが収穫の喜びを味わうことができるのです。背に耐え難い重荷がのしかかるとき、それは単なる重荷ではないのです。それは時がくれば必ず祝福を生み出す種なのです。私たちは種を背負っているのだということを忘れないようにしましょう。その重さは、そのまま祝福の重さに変えられる日が必ずあるのです。