2013年10月27日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月28日~11月3日

10月28日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 7章2節~節
 一度心を閉じてしまった人の心を開くのは難しいことです。おそらく、人の心を開かせることは人間のすることで最も難しいことでしょう。伝道者はいつもそれに心を配るので、一人でも心を開く人がいると夜も眠れないくらい喜ぶものです。それだけに自分に対して心を開いてくれないコリントの人たちのことでは苦しんだことでしょう。しかし、パウロは手を焼くコリントの人たちに厚い信頼を寄せていると書きます(4節)。心を閉ざしている人になお、信頼を寄せているというのは、私たちの現実の対応とは大きく違います。私たちは心を開いていないなら、相手も心を開かないし、信頼しない、となるものです。しかしパウロは違う。なぜか?パウロはあの人たちにも同じ御霊が宿っていることを信じていました。神の力があの人たちにも働いていることを信じていたのです。仲間を見るときの大切な視点です。

10月29日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 7章5節~13節
  神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします 」(10節)。神の御心に適った悲しみとは、罪を悲しむ悲しみです。これは、「 悲しむ者は幸い 」というマタイ5章4節の言葉と重なります。私たちは、心を込めてこのような悲しみを悲しむことがあるでしょうか。「 熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめ 」(11節)をもたらすような悲しみを。現代の教会は、この悲しみの涙を流すことが少なくなったと言われます。しかし世の悲しみ(10節)ではなく、この悲しみでなければ私たちの生活を建て直すことはできないのです。ルカ18章9節~14節も読もう。

10月30日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 7章13節b~16節
  わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます 」(16節)。コリント教会の人々を信頼できることを喜ぶパウロ。ここにキリスト者としての信頼がどのようなものであるかがはっきりと現れています。コリント教会の人たちがパウロの信頼を得たのは、彼らが落ち度なく信仰の道を歩んでいるからではありません。むしろ、彼らはパウロを悲しませるような罪を犯していたのです(2章5節参照)。彼らがパウロの信頼を得たのは悔い改めたからです(9節)。完全無欠だからではなく、過ちを認めて悔い改める心があるからです。神が私たちを信頼される心も同じような心ですし、私たちが仲間を信頼する心も同じ心なのです。

10月31日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1節~7節
 パウロは、コリント教会の人たちにマケドニア州の教会の人たちの慈善の業を語り聞かせています。エルサレム教会のために心を用いたマケドニア教会の人たちは、他人のことなど考えていられない苦しみの中にいるにもかかわらず、捧げものをしたのでした(2節)。物に対する姿勢を考えさせられます。自分の家族だけ物があればそれでいいというのではなく、分け合うのです。貧しさの中でも捧げたと言う事からひとつの言葉が思い出されます。「 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい 」(マタイ7章12節)。自分の貧しさの中で人の必要を知るのです。マケドニアの諸教会の人たち経済的には貧しくとも、神の恵みの豊かさによって生かされていたのです。私たちはどうでしょうか。

11月1日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章8節~15節
 マケドニア州の教会の人たち(フィリピの教会など)の捧げる姿勢に照らしてコリントの教会の人に捧げ物を促すパウロ(コリント教会はエルサレムへの捧げものを中断していたらしい)。「 多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった 」(15節)の言葉は、マナの出来事を語る旧約聖書の言葉です。聖書の思想は、「 能力に応じて捧げ、必要に応じて受ける 」です。より強い者がより弱い者の弱さを担うのです。社会の中に強い者と弱い者が存在するのを神が許容しておられるは、分かち合う人間の姿の中に、真の人間の姿があるからで、神はそれをご覧になりたいと思っておれるからなのでしょう。

11月2日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章16節~24節
 熱心、熱意と言う言葉が繰り返し使われています(16、17、19、22節)。熱意、熱心がないところには、何も成り立たないものです。特に、恵みの業に生きようとする時はそうです。他教会の人と話していて、熱意を人任せ、神任せにして、うちの教会は熱意がないからダメという事を耳にすることがあります。しかしパウロは、私たちにはその熱意がいつも神様から与えられているのだ、という確信を持っていました。熱心というのは、いつも赤々と燃えていて煮えたぎっていることではありません。変わることのない神様の熱心を反映する私たちの変わらざる思い、神の恵みに応える思い、それが熱心です。表面に現れなくても神の恵みに応えようとする静かな、変わる事のない心の決意です。熱は温度の高い方(神の熱意)から低い方(私たち)へ必ず伝わる性質があります。両者がつながっていれば・・・。

11月3日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 9章1節~5節
 9章は献金について語られています。しかし献金という具体的なお金の用い方の背後に、お金以外のものも含めて仲間の窮乏を助けるためにそれを集め捧げるという中に、どれだけ深く私たちの信仰の問題が潜んでいるかということをはっきりさせ、丁寧に教えている箇所です。5節の「 渋る 」は「 貪欲 」、「 惜しまず差し出す 」とは「 祝福 」と訳される言葉です。貪欲に勝つには祝福を差し出せるかどうかです。相手の祝福を考えることに徹する。パウロはまずそのことを問います。

先週の説教要旨 「 イエスキリストの名によって 」 使徒言行録3章1節~10節
 私は初めて教会の礼拝に参加したとき、お祈りの最後のアーメンという言葉が、皆きちんとそろうことにとても驚いた。こんなにたくさんの人がいるのに・・・皆、同じ信仰を持っているから、こんなにピッタリと合うのだろうなあ。自分も早く、皆に合わせてアーメンと言えるようになりたいと思った。しばらくして、イエス・キリストの御名によって、つまりイエス・キリストの名によって、というフレーズが出たらアーメンと言えばいい、ということが分かった。「 なんだ。合言葉があったのか 」と、少しガッカリした。だが洗礼を受け、信仰者として歩んで行く中で、「 イエス・キリストの名によって 」という言葉を口にすることは、意義深いことなのだと分かった。「 単なる合言葉 」なんて言ったら怒られてしまうほどに・・・。
 「 イエス・キリストの名によって 」と、唱えることはイエス・キリストの実印が託されているようなものだ。実印は、印が押され、印鑑証明書がくっついていれば、効力を発揮するものとなる。印鑑が押されていたら、印鑑の持ち主がその責任をすべて引き受けることになる。イエス・キリストが「 わたしの名によって祈りなさい 」と言ってくださったことは、まさに「 私の実印をあなたがたに託す 」と言ってくださったようなものなのであり、キリストの名によって祈りが捧げられる時、キリストは「 キリストの名のゆえに 」、そこで働いてくださるのである。その祈りに対して責任を引き受けてくださるのである。祈りだけではない。イエス・キリストの名によって命じられること、あるいは宣言することもそうなのである。今朝の礼拝には先日、結婚式を挙げられたご夫妻が出席されているが、お二人は式の中で「 父と子と聖霊との名によって、2人が夫婦であることを宣言する 」という宣言を聞いた。それは、この2人が夫婦であることにイエス・キリストが責任を持ってくださるということなのである。そのように「 イエス・キリストの名 」を唱えるよう、私たちにその名が託されているということは、とても素晴らしい、大いなる祝福を意味しているのである。
  使徒言行録3章には、イエス・キリストの弟子であったペトロとヨハネの2人が、神殿に祈りに行く途中に、生まれながらに足の不自由な男の人を見つけ、その人に「 イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい 」と語りかけると、「 たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した 」と言うことが書かれている。キリストの名によってペトロが命じたとき、復活のイエス・キリストが、そこに臨んでくださり、その力を働かせてくださったのである。
  私は、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩くことができるようになったこの男の人は、それまでどんな生き方をしてきていたのだろうかと想像する。神様の恵みの麗しさを表現した美しい門の前に、彼は荷物のように「 運ばれて 」「 置かれていた 」のだ。神の恵みの麗しさを現す門の前で、その神の恵みとは無関係なものとして(当時、生まれつき体の不自由な者は、神に見捨てられているとみなされていた)、そこに置かれている。これほど、皮肉なこと、痛ましいことはない。しかし彼は生きて行くために、そこに運んで置いてもらわなければならなかったのだ。そのようにしか生きる術を持てなかったこの人の気持を想像し、思い巡らしていると、「 ああ、この人と私たちは同じようなところがあるなあ 」って、思えてくる。この人は、イエス・キリストの名によって立ち上がって歩けるようになったわけだが、それまでは、自分の足で立ち上がっていなかった。言って見れば、もたれかかって生きていたのである。何かに・・・。自分がこういう生き方しかできないのは、生まれながらに足が不自由だったからなのだ。そういう人が働けるような仕事が、この社会にないからなのだ。回りの人がもっともっと自分のことを真剣に考えてくれないから、こうなのだ・・・・。誰それが悪いから。あの人のせいで自分はこうなった・・・、自分を取り巻く環境が悪いから・・・、たまたま運が悪かったから・・・そういうふうに、自分がこういう生き方をしているのは、自分の責任じゃない。あのひとのせい。まわりのせい。神様のせい・・・と言う具合に何かのせいにしながら生きている、つまり、もたれかかって生きている。人は往々にして、そういう生き方をしがちなのではないだろうか・・・。確かに彼の足の不自由は生まれつきのもので、降りかかった災難としか言いようがない。だが、この人生をどう生きるかは自分の責任なのだから、自分で決断して、自分で責任を負う生き方をして行かなければ本当に深い喜びには出会えないし、充実した人生は送れない。
  実は、私もそういう人生を生きていた、かつては・・・もたれかかる人生を・・・。しかし信仰に導かれ、キリストの名を唱えることを知るようになって、私はもたれかかる生き方から解放された。キリストの名を唱えつつ生きる者の人生のすべてを、その責任をキリストは引き受けていてくださるのだから。だからもう、もたれかからなくていい。キリストの名によって立ち上がる、キリストの名を唱えながら生きる、それは必ずしも、私たちの願った通りの人生が歩めるということを意味しない。ニューヨークのリハビリセンター研究所の受付の壁に貼られた祈りの言葉のように。だが最後には「 私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されていた 」と言わせていただけるのである。
                                                2013年10月20日)

2013年10月22日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月21日~27日

10月21日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節~18節
  だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『 外なる人 』は衰えていくとしても、わたしたちの『 内なる人 』は日々新たにされていきます 」(16節)。私たちの肉体は日々衰えて行きます。しかし、キリストによって生まれ変わった私たちの霊、内なる人は日々新しくなって行きます。その新しい人の特徴とは何でしょうか。それは18節、「 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです 」。新しい人の特徴は、見えないものに目を注ぐまなざしを持っていて、そのまなざしに生かされている事です。あなたの目は、何を見つめているでしょうか。

10月22日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1節~10節
   パウロは、滅ぶべき地上の体から離れて天に引き上げられる事を「 天の住みかを着る 」と表現しています(2節)。住みかと言うのは、私たちが安んじることができる場所と言うことでしょう。パウロは、地上の住みかである肉体をもって生きることは、重荷を負ってうめくような面があることを告白しています(4節)。しかし同時に「 わたしたちは心強い 」と2度も繰り返して語ります(6節、8節)。パウロには、やがて与えられるべき天にある永遠の住みかが見えているのです。だから重荷を負ってうめいても、「 心強い 」と言えるのです。パウロは信仰によって、永遠の住みかを見ています(7節)。私たちも聖書を読むときにその住みかを見ることができ、パウロのように「 心強い 」と言うところに立たせていただけるのです。

10月23日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章11節~15節
  わたしたちはありのままに神に知られている 」(11節)とパウロは語ります。あるカウンセラーの話しによると、カウンセリングを受けに来る人の9割が「 誰も私を分かってくれない 」との悩みを口にするそうです。自分をありのままに知ってもらっているほど幸いなことはないのです。私たちのすべてを良く知っているけれども、それで受け入れられていないならば、知られているということは苦痛でしかありません。しかし、神は私たちのありのままを知っていて、受け入れていてくださいます。そこに立つ時、私たちは、本当の意味で人を知るということもできるようになるのです。

10月24日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章16節~21節
 聖書が語る<罪>とは、神様とのかかわりを正しく整えることができないことです。神様を神として重んじることができないのです。罪の反対である<義>というのは、神様との関わりが正されることです。神様は、ご自分の方から和解/仲直りを可能にしてくださいました(18節)。しかも、神様の恵みはそこだけにとどまらず、和解のために奉仕する使者ともしてくださったとパウロは語ります。使者は「 神様と仲直りをしよう 」と、キリストに代わって語ることができます。新しく造られていることの新しさは(17節)、その仲直りの言葉を語れるようになったということでしょう。私たちもキリストの使者/大使とされていますよ。

10月25日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1節~10節
 パウロは、今日の日本の伝道者の想像もつかないような困難を経験しています(4節~8節前半)。しかし、そこでパウロは「 今や、恵みの時、今こそ、救いの日 」と言いました(2節)。これは伝道者に限らず、いかなる信仰者にとっても大切な知恵だと思います。今は恵みの時だと、よく分かるから耐えることができるのです。私たちにはすでに揺るぎない最高の恵みとして<救い>が与えられています。そこからすべてを見るとき、いつでも今は恵みの時となるのです。8節前半には、人に左右されないパウロの姿があります。自分は何によって生きるか、それをパウロ私たちにもここで語って見せているのです(7節)。

10月26日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章11節~13節
 心を広くしようとパウロは語ります。信仰に生きる人間は実にしばしば自分で心を狭くします。信仰においてうまくやれない人を否定するのです。しかも、それを神様によって与えられた狭さだと思うのです。それを打ち破るのはとても困難です。しかし、信仰の大人になるということは心を広くし、信仰が十分でない人とも共に生きられるようになるということです。自分の心を広くするには、神様の大きな恵みを自分の心に大きく受け入れることです。神様の大きな恵みが私の心に入るとき、自分の心もこんなに大きくなるのだという恵みの体験をします。私たちの心の広さが隣人の慰めとなり、喜びとなるように、パウロの呼びかけに対し心を開こう。

10月27日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章14節~7章1節
 「 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません 」(14節)。パウロは、正義と不法、光と闇、キリストとベリアル(サタン)、信仰と不信仰と言った具合に言葉を重ね、それをまとめるように神の神殿と偶像に一致はない(16節)と言います。つまり、聖なる神に属する者が、汚れに埋没して生きることはできないだろうと言っているのです。私たちは神の神殿です。神の霊が私たちの内に住む。それほどに、神と私たちの関係は深いのです。聖なる神と深いかかわりにある私たちは、世の汚れに埋没して生きるのではなく、かつ世と隔離して生きるのでもなく、<聖別と連帯>という緊張関係の中に生きます。それは球体に打ち込まれた<くさび>のように一点において接するような立ち方なのです。

先週の説教要旨 「 主があなたの家族となって 」 マルコ3章31節~35節 
 『 そして父になる 』という小説を読んだ。6年間、自分の子どもだと思って育ててきた子どもが、実は自分の子どもではなかったと分かった。そのとき、あなただったら、どうするか・・・「 家族とは何か 」ということを深く考えさせられる小説だ。結局、家族というのは血のつながりなのか、一緒に過ごした時間なのか、それに対する明確な答えは提示されない。ただ、家族というのは血のつながりだけで割り切れるような簡単なものではなくて、一緒に過ごすという関わりも、とても大きな意味を持っているのではないかと読者に訴えかける内容だった。小説のタイトルが「 そして、父になる 」となっているように、誰でも自然に父になれる。母になれる。家族になれる。そういうものではない。家族になるというのは、一緒に過ごす時間がとても重要、もっと丁寧に言えば、悲しみや喜び、怒りと言った感情を共有しながら生きる、そのことを意識して努力して行く。そのとき、家族は真に家族になるのではないか、そう訴えているように思われた。私は牧師という務め柄、時々、耳にしてきたことがある。愛する者が病で倒れ、その看護の日々を通して、自分たちは初めて夫婦としての本当の時を過ごすことができましたという言葉を・・・。それまでは、同じ家族でありながら、それぞれに別々の道を歩んで来てしまった。家族というよりも、まるで同居人のような家族だった。でも、この病気を通して、相手に仕え、共に語り、共に涙し、本当の家族としての大切な時を、一緒に過ごすことができました。そういう言葉を何度か、耳にした。

今朝の聖書の言葉も、家族というものを考えさせてくれる箇所である。イエス様は、周りに座っている人々を見回して「 見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ 」と言われた。外に立っている肉親の母、兄弟たちではなく、ご自分の周りに座っている人たちをこそ指して「 わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ 」、つまり、「 わたしの家族だ 」と言われたのである。このとき、周りに座っていた人たちと言うのは、イエス様の話、すなわち神の言葉を聞こうとそこに座っていたのである。だからここで「 神の御心を行なう 」と言われているのは、まず何よりも神の言葉を聞くということなる。周りにいた人たちは意識的にイエス様から神の言葉を聞こうと、時間を割いてここに集まっていた人たちなのである。私たちも毎週、ここに集まり、神の言葉を聞くということから一週間の生活を始める。それはすでに神の御心を行なっているということなのであり、ここにいる私たちは皆、神の家族なのである。私たちが今日、ここで偲んでいる方々も神を礼拝する生活をしてきた人たちたから、彼らもまた神の家族の一員なのである。私が神学生のとき、父は他界した。父の葬儀はキリスト教式で行なった。実家近くの教会の牧師が、それまで面識はなかったにもかかわらず、引き受けてくれたのである。その牧師は、ご迷惑をおかけして申しわけないと頭を下げる私に「 私たちは同じ神様を礼拝している神の家族なんだから、そんなこと、気にしないでください 」と言ってくださった。忘れえぬ体験となった。

先ほど、家族というのは「 一緒に時を過ごしていくことによって本当の家族になって行くものではないか 」と言った。先週の火曜日、川田さんご夫妻を尋ねたが、ご主人はご病気の奥様の最後を自宅で看取る。病院に入院させるのではなく、自分たち家族で最後のお世話をすると決心された。家族というのは、死に向かう病の床においても、なお、最後の最後まで共に時を過ごしてくれる存在なのだと思う。たとえ、自宅で最後を看取ることができず、病院に託すことになったとしても、自分たちの手で最後を看取りたいと願う家族の心は変わることなく、あるのだと思う。かつて筋萎縮性側索硬化症という難病との闘いを経て、天へと凱旋された方がいた。奥様がキリスト者で、ご本人も病床で洗礼を受けられた。その最後は本当に厳しいものであったが、ご家族は最後の最後までその方と共に時間を過ごし、感情を共有することにすべてを捧げてられていた。これもまた、忘れえぬ体験となった。

神の言葉を聞いて生きようとしている私たちは皆、神の家族である。先に召された信仰の仲間たちも皆、神の家族。イエス様もそういう私たちの家族のひとりとなってくださっている。イエス様が、私たちの家族となって、誰よりも身近な兄弟として、私たちと共に時間を過ごしてくださっている、私たちの労苦を共に担っていてくださるのである。私たちが愛する家族のために、病床で仕えていたあのとき、イエス様もまた私たちの傍らにいて、家族の一員として私たちの愛する者に、一緒に仕えていてくださったのである。ここにお集まりの方々の中には、愛する者の最後を一所懸命に、看取られた方々がおられる。そのとき、実はイエス様もあなたの家族のひとりとなって、その労苦を担っていてくださったのだ。そして、あなたが愛する者の看取りをなし終えたときに、「 これから先は私ひとりですることだからね。後は私に委ねていいのだよ 」と言って、私たちの愛する者をその手にしっかりと引き受けてくださったのである・・・。イエス様は家族のひとりとして、昨日も、今日も、明日も、ずっと私たちと一緒にいて、家族としての働きをし続けてくださっている。そこに私たちの望みのすべてがある。 (2013年10月13日)

2013年10月13日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月14日~20日

10月14日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章5節~11節
  教会でつまずいた 」と言うことを聞く事があります。実際に教会は大小さまざまな悲しみを生み出すことがありますし、その原因を抱え込んでいるところがあります。そのような時にどう対処するかが教会の課題のひとつです。誰が何をしたのかよく分かりませんが、コリントの教会には罪を犯しパウロを悲しませることをした人がいたようです。それに直面してコリント教会のある者はおごりたかぶってその人を責めてしまったようです(6節)。人が犯した過ちをどう見るか?そこでの対処を誤るとサタンの落とし穴に落ちる危険があります(11節)。パウロは、罪を犯した人の罪に恵みをもって対抗できるようにしなさいと勧めます(7節、10節)。過ちに恵みをもって対処するには、自分は神の負債者であるとの意識が必要です。

10月15日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章12節~17節
  神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ 」(14節)という言葉が出てきます。当時の習慣として、戦争に負けて捕虜になった者は、勝利した軍隊の勝利の行進に捕虜として連なったのです。14節のパウロの言葉は、彼の体験から生れている言葉でしょう。彼はイエス様に反抗し、教会を迫害する敵でした。しかし、パウロの教会に対する憎しみはキリストの恵みによって打ち破られ、彼はキリストの捕虜となってキリストの勝利の行進に連なることになったのです。キリスト者とは、キリストに負けた人間のことです。敗北し、降参し、その結果キリストに服従することになった者です。今日もキリストはあなたに挑戦して来られます。「 愛してごらん 」と。キリストの愛に打ち負かされての服従は、暗くて重い束縛ではなく、<キリストの愛に負けた喜び>に突き動かれる不思議な服従です。

10月16日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章1節~3節
   パウロは、コリントの教会はキリストが書かれた手紙なのだ。しかも、その筆は神の霊に導かれて教会を開拓したパウロたちであったと語ります(3節)。教会はこの世に宛てて送られたキリストの愛と恵みがあふれたラブレターです。この手紙にはその教会に生きるすべての者たち、ひとりひとりのキリストの愛と恵みに対する証が書き込まれています。そしてその手紙を読み始めた者が、つまらないと言って途中で読むのをやめてしまうようなものではなく、自分もまたこの手紙に一文書き加える仲間になりたいと思うような素晴らしい手紙なのです。成瀬教会という手紙も新しい仲間が与えられ、さらにそのページ数を増やし行きたいですね。

10月17日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章4節~11節
   福音伝道者としてパウロは信頼に値するか?そういう不信がうずまくコリント教会に手紙を書き続けるパウロ。パウロは、伝道者としての資格は神から与えられたものであると語り(5節)、その務めに就く栄光を、律法を与えたモーセの務めと比較して語ります(7節~11節)。律法は人間を罪に定めることはできても救うことはできなかった。しかし福音は人を救う。それをパウロは「 文字は殺しますが、霊は生かします 」(6節)と表現するのです。栄光の福音が持つ力は、それを伝えるのにふさわしい資格のない者をさえ、生かして用いてしまうほどなのです。私たちは弱くても神の力によって生かされるのです。神様を頼りに今日を歩みましょう。

10月18日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章12節~18節
 「 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです 」(18節)。18節は、パウロが伝道者として生きているところで体験していることでしょう。律法学者であった時の自分と福音の伝道者として生きている今の自分を比べ、大きく変えられつつあるのを実感しているのです(その違いを覆いという言葉で表現している)。福音によって人が変わるのは、大病が癒されていく過程に似ています。毎日毎日で見るとそんなに良くなっているように思えないのですが、長い期間を経て見ると、確かに良くなり、癒されていたという感じです。それは聖霊の働きなのですが、決して劇的ではなくとも、確実なお働きなのです。

10月19日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章1節~6節
 私たちの人生は、神を信じていても、いなくても、落胆との戦いという面があります。問題は、そのがっかりしたところからどうやって立ち直るかでしょう。パウロは「 あの男は福音を曲げている 」(2節)、「 福音に覆いを掛けている 」(3節)とか言われ、コリント教会の人たちに伝道者としての信頼を傷つけられ、落胆したことでしょう。しかし、その中で再び立ち上がるのです。落胆なんかしていられないと。6節がパウロの支えになっているのです。「 闇から光が輝き出よ 」と命じられた神は、あなたが暗闇の中にあっても、そこに光を造り出すことのできるお方です。そのお方があなたの内にもおられ、輝いて下さる(6節)。秘訣はそこです。

10月20日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7節~15節
 「 土の器 」(7節)という言葉が出てきます。これは、私たち人間を指しています8節、9節、土の器の特色は、途方に暮れたり、打ち倒されたりすることがあるということです。しかしまさにそこで、見捨てられない、滅ぼされないとパウロは語ります。これは、自分の力で頑張っている人の姿ではありません。滅ぼす力が妨げられるのです。虐げる力が妨げられるのです。私たちの内に主イエスが働いているからです。パウロが10節以降、繰り返して言葉を変えて語るのはその事です。

先週の説教要旨 「 教会の誕生 」 使徒言行録2章37節~47節
「 兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか 」・・・聖霊降臨の日に伝道者として立てられた使徒たちが証をし、説教をした。それに耳を傾けていた人たちの心は大きく動かされ、そう言ったのである。この問いにペトロたちが答え、そこにイエス・キリストの教会が生まれた。今朝は、その教会がどのような群れであるかを学びたい。「 どうしたらよいのですか 」・・・神が造られた人間がそのように問いかけずにおれなくなるとき、それに答えるのが教会である。あるいはまた、そういう問いを呼び起こすために、教会は存在しているとも言える。「 あなたがたはそれで良いのですか。新しく何かを始めなければならないのではないですか。そうでなければ救われないのではないですか・・・」と。ペトロは人々の問いに答えた。「 悔い改めて、洗礼を受けて、罪を赦していただきなさい 」と。このとき以来、世界中で教会が言い続けていることである。これを伝道と言う。救いの道を宣べ伝える。そのときに必ず、語り告げなければならないことがある。それは「 悔い改めて 」ほしいということである。悔い改める・・・・向きを変えるということである。今まで神に背を向けて、神とのかかわりなしに生きていたその生きる向きを変える。神の方を向いて、神とかかわりを持ちながら生きる。それが悔い改めるということ。悔い改めて洗礼を受け、罪を赦していただくと、賜物として聖霊を受けることができる。ユダヤ人であっても異邦人であっても。イエス・キリストの名によって洗礼を授けるというのは、イエス・キリストの名代として洗礼を授けるということであり、そこで洗礼を授けるのは、イエス・キリストご自身であり、そのイエス・キリストが神からの賜物として聖霊を授けてくださるということである。

 ペトロはこのほかにも色々な話をした。一生懸命、説教をして、「 どうしたらよいのか 」との問いに明確に答えようとした。「 邪悪なこの時代から救われなさい 」(40節)。「 邪悪な 」・・・以前の聖書は「 曲がった時代 」と訳していた。その方が分かりやすい。悔い改めなければならないということは、罪に曲がった世界に生きていたということ。その曲がり具合は神の子イエスが地上に来てくださったときに、皆で寄ってたかって、このイエスを殺してしまったことにはっきりと現れた。その曲がった生き方から出てこないといけない。出てきて、神の方を向いて生きようと言うのである。ペトロのすすめを受け入れた人たちが、その日のうちに3000人ほど洗礼を受けた。洗礼を受けるというのは、41節の言葉で言うと、仲間になるということでもある。教会の仲間になる。信仰というのは、自分が神とつながって生きればそれでよいのであって、同じ信仰の仲間と一緒に生きるのは、時として面倒なこともあるから、私はひとりで神を信じてやって行く・・・・。これは聖書の定めた救いの道とは違う。聖書が言う「 救われる 」というのは、まず神とつながること、そして同時に、同じように神を信じている仲間ともつながることである。神の救いの約束は故人にではなく、教会に与えられているもの。神を信じて、教会の仲間入りをするときに、はじめて教会に与えられている救いが、その人にも及ぶ、それが聖書の定めた救いの道である。仲間が一緒に生きている姿は様々である。仮に教会に来られない仲間がいたとしても、教会の仲間の方からその人を訪ね、かかわりを持ち続けるということもある。仲間と離れて、ひとりで信じていくというのは、聖書が定めて救いの道ではないのである。

そうやって教会が誕生し、仲間が与えられたとき、そこに教会の仲間たちと共に生きる生活が始まった。その生活は「 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった 」(42節)というもの。そして43節以下には、これらのことがより具体的に書かれているのである。これらの4つの行為の根底にあるものは、「 主と共に生きる 」ということ。私たちは生活のいろいろな場面で、いろいろな出来事に遭遇しながら、イエス・キリストだったらこういう時、どうなさるだろうかと考える。そして主に倣おうとする。それが主と共に生きている者の具体的な姿である。そうして行くためには、仲間が一緒に集まり、主の教えを学び、互いにて語り合う交わりを持つことが必要だし、「 主よ、どうすれば良いのか、私たちにお示しください 」と、互いにとりなし、祈ることも必要だ。聖餐に与ることによって、主が共にいてくださるとの約束を思い起こすことも大切。そうやって教会の人間は、主と共に生きる、主の方を向いて生きるのである。

そのような生き方をし始めた集団が、民衆全体から好意を持たれたと言う。彼らはとりわけ、人々に対して好意的に接したから、好意を持たれたというのではない。一生懸命に、神を賛美し、神に祈り、生きている。互いに支えあって、神に顔を向けて生きている。それに人々は好意を抱いたのである。神に向いて生きている姿が人々の好意につながったのである。真に好ましい「 新しい人間の姿 」、「 信仰に生きる人間の姿 」を感じたからなのであろう。「 こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである 」(47節)。主は彼らの「 教会の人間として生きる姿 」を用いて、救われる人々を仲間に加えてくださった。主ご自身がそれをしてくださったのだと喜んで使徒言行録は報告する。 (2013年10月6日)

2013年10月7日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月7日~13日

10月7日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章1節~2節
 コリント教会の中に、パウロは伝道者として信頼できるか?という問題が湧き起こっていました。自分自身のことを信頼してもらえず、教会員との関係がおかしくなってしまっている。心を込めて第一の手紙を書いたけれども、かえってそれで関係がおかしくなる。パウロであれば、こんな分からず屋の教会はもうご免だと言って他の教会に移ることもできたでしょう。しかし、パウロはそれをしません。彼らを神の教会と呼び(1節)、文句を言うことからではなく、恵みと平和を祈ることから始めます(2節)。コリント教会は自分の手から離れてしまっていても、神の手からは離されてはいないと見ている。ここに手紙を書き続ける使徒の信仰が伺えます。自分の手に負えない人も神の手からは離れていない、私たちにも大切な見方です。

10月8日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章3節~7節
 慰めという言葉が8回も出てきます。この言葉は、かえってコリント教会の人たちのために苦しんでいるパウロの苦しみの深さを浮かび上がらせています。しかしパウロは、その苦しみの中で慰められています。苦しみが慰めへと変わる、その転換点は5節に記されています。キリストの苦難が満ち溢れてパウロにも及び、パウロの苦しみを覆ってしまう。その時、慰めが始まるのです。パウロは自分の苦しみを通して、自分のために苦しまれたキリストのその苦しみを感じ取っているのです。このような、いやこれ以上の苦しみに耐えてくださったのか、この私のために・・・と。そしてキリストの愛の深さに慰めを得ているのです。どんな苦難にも耐える慰めを神はイエス・キリストの苦しみにおいて用意されています。

10月9日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章8節~11節
 パウロは、自分がアジア州で被った苦難について語ります(8節)。それは、死の宣告を受けた思いでした(9節)と。死の宣告を受けるとは、自分が頼りにならないという経験をすると言うことでしょう。そのような中で、パウロは「 自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました 」(9節)と言っています。人間は、自分を頼りにする度合いに応じて、神を疑います。ここで、パウロの神への信頼は、祈りという形で現れています(11節)。神を信頼する者は自分で祈るだけでなく、他の人にも祈りを要請します。私たちも、もっともっと友に祈りの支援を要請することで神への信頼を表して良いのです。

10月10日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章12節~14節
  パウロは、自分はただひたすら神の恵みの下に行動してきた(12節)と言っています。そして、それは自分の誇りでさえあると言っています。普通に考えると、「 神の恵みがないとやって行けない 」と言うことと「 誇りがある 」と言うことと相反することのように思えます。神の力を借りないとやれないなどとは、まさに人間としての誇りはどこにあるのか?と言われてしまいそうです。パウロは神の恵みに対する誇りを語っているのでしょう。神の恵みに対する絶対的な信頼です。その神の恵みが働いているのだから、コリント教会との難問も必ず解決されると信じているのです。私たちも神の恵みに対する誇りを持っていいのです。

10月11日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章15節~22節
 パウロはコリント訪問計画を立てていたのですが(15節)、実際にはその計画を変更せざるを得なかったようです。そこで教会内で嘘つき、信頼できないなどと批判が起きました(17節)。パウロは、その弁明として、神は真実なお方であり(18節)、神の約束はことごとくイエス・キリストにおいて果たされたことを語ります(19節、20節)。どうしてそれがパウロの弁明になり得るのか?それは神の真実を宣べ伝えているパウロ自身が、どうして不真実であって良いだろうか、そのようなことは決してない、という理屈です。たとえ人の目にはどのように映ろうとも神の前だけには真実に生きようとしていたからこそ、言える理屈です。私たちも、人の目を気にするのではなく、全てを見抜かれる神の目を意識して生きましょう。

10月12日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章23節~24節
 コリントの教会で何が問題になっていたかは良く分かりませんが、教会の中でパウロが自分たちの信仰を支配する(24節)という非難があったようです。パウロはそれに反論しています(24節)。私たちは人の信仰を自分の思い通りに支配したいという誘惑があります。夫の信仰を、子どもの信仰を、仲間の信仰を。特に牧師は、「 先生がいないと、私たちの信仰が成り立ちません 」などと言われることを喜ぶ傾向があります。しかしこれは罪です。自分がその人たちの信仰を支配してしまうのです。パウロは「 私はあなたがたのために神に協力する者(24節、6章1節参照)」と語ります。神こそが、あなたがたの信仰を成り立たせておられるのです。

 10月13日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~4節
 教会のために悲しみの涙を流し続けるパウロ。その悲しみの原因は、教会内の罪の問題だったと言われます(5節以降参照)。パウロは、コリント教会の罪の問題を彼らに先立って悲しみ、涙を流しています。そして、その涙の中に彼らを誘うのです。罪の悲しみの涙の先にある喜びへと彼らを導くためです(7章10節参照)。これは、主に仕えることで知る悲しみ、憂い、涙です。だから主に支えられて流す涙であって、望みを失って流す涙ではありません。あなたはどのような涙を流しますか。主の平安の中で、流す涙は必ず喜びのときが来ると信じて良いのです。

先週の説教要旨 「 私たちは皆、証人 」 使徒言行録2章22節~42節
 ペンテコステの日に約束の聖霊が降ると、そこに集まっていた人々に向かってペトロが説教を始めた。今朝は先週に続いて、その説教の続きの部分を読む。ペトロはダビデが作ったと言われる詩編の言葉をいくつか、ここで引用している。25節~28節、31節、34節~35節の部分であり、詩編16編と132編からの引用である。ユダヤ人にとって詩編は、神の掟、すなわち律法の言葉と並んで、とても大切なものだった。ユダヤ人たちは、詩編の言葉を祈りの言葉として用い、また、詩編の言葉を歌って、賛美とした。現代のように手軽に聖書を手に入れることのできない時代だったから、皆、一生懸命詩編の言葉を耳で聞いて覚えたのである。ペトロは小さい頃から詩編の言葉を覚え、祈り、歌ってきたことだろう。しかしその歌い慣れていた詩編の言葉をペトロは全く思いがけない思いでここに引用する。「 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない 」・・・ペトロはイエス様の十字架と復活の出来事に触れてこの詩編の意味がよく分かった。この歌はダビデが自分のことを歌っている歌ではなくて、(実際、ダビデは墓に葬られたままで、今もその墓があるではないか)。この歌はイエス様のことを歌っていたのだ。ダビデはすでにあのとき、イエス様のことを預言して歌っていたのだと・・・。ペトロは驚きながら詩編の歌を歌い始めている。それで31節でもう1回、同じことを語り、そして、私たちは皆、その復活の証人だと宣言する。

 ダビデの歌を何度も引用したペトロの説教の結びは、こうなっている「 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです 」(36節)。主となさった・・・主というのは、私たちの「 救い主 」という意味と同時に、私たちの「 主人 」、すなわち私たちを支配する方という意味がある。もちろん、それは恵みによる支配であって、強制的なものではない。だから信仰というのは、ひとつの言い方をすると、自分たちを支配する方は誰であるかと言うことを明確に知ることなのである。振り返ってみると、旧約聖書に登場するアダムとエバは、蛇( サタン )に誘われて罪を犯した。蛇はエバに言った。「 神が食べてはならないと言われた木の実を食べてご覧なさい。そうしたら、あなたは善悪を知ることが出来る 」と。善悪を知るというのは、裁きができるようになるということである。善悪の判断が出来るようになったら、裁きを行なうことができるようになるのだ。支配する者というのは、この裁きを行なうことができる者のことである。それゆえ、蛇の誘いの内容は、善悪の判断が出来るようになったら、あなたは神様がいらなくなるでしょうと言うことだったのである。神様にいちいち、これは善いことですか、悪いことですか、神様のみ教えに従って善悪をわきまえて生きる。そのようにして神の支配を受け入れる。そんなややっこしいことをしなくて済むでしょう。あなたが神になる、あなた自身が自分を支配することができるようになる。あなたが自分の主になることができる。自分以外の主はいらなくなる・・・・と言うものであった。そしてそれが罪の始まりであった。罪とは、自分が自分の主人になって生きるようになるということなのである。しかし神は、「 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった 」・・・このイエスを主として迎え入れるところにあなたにとっての救いが始まるのである。

 次に、イエス様はどのようにして私たちの主となられたのであろうか。それは、十字架につけられ、そしておよみがえりになることによって、である。「 神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです 」(24節)。よみがえりの主の支配は、死の支配を退けたところに生まれた。だから、よみがえられたイエスを私たちが主として迎え入れたとき、私たち自身もよみがえりの命に生きることができるようになる。もはや、死ぬことへの不安に押しつぶされないようになる。それは、よみがえりのイエス様を主として迎え入れるとき、私たちには与えられる恵みのひとつである。「 わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう 」(25節~26節)。何気ない言葉だが、「 体も希望のうちに生きる 」とは驚くべく言葉である。私たちは年を取るといつも死を覚えるようになる。正直に言って、人間の心は動揺する。あと何年、この目でこの人を見ることができるのだろうか。あと何年、この耳でこの人の言うことを聞くことができるのだろうか。あと何年、この口で歌を歌うことができるのだろうか・・・。すべてが闇の中に溶け込んでしまうかも知れないと、死を恐れ、死を見つめざるを得なくなる。その時、心が動揺する。楽しめなくなる。しかしそこで私たちは言うことが出来るのだ。私たちの体は朽ち果てる。私たちは必ず、肉体の死を迎える。しかしその体をもって、希望のうちに生きることができる。よみがえりの主がわたしたちの傍らにおられるからと・・・。(2013年9月29日)