2013年9月30日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月30日~10月6日

9月30日(月)エフェソの信徒への手紙 5章6節~20節
詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい 」(19節~20節 )。パウロにおいては、感謝の心と賛美の心は深く結び付いています。主への賛美は、人生を肯定できない心には湧いてこないものです。私たちは自分の人生を、この世界を肯定的に受け止めることに困難を覚えるかも知れません。自分の貧しさを思い、自分の弱さや取り巻く環境を思い、自分の回りに生きている「 愛する人たち 」の痛みや悲しみを思うとき、心が暗くなるのです。パウロもその痛みを知っていました。しかし、パウロは一番深いところで自分がすでに光の中に移されていることを確信していましたから(8節)、心の深いところで十字架を負いつつ、賛美を歌うことができました。

10月1日(火)エフェソの信徒への手紙 5章21節~33節
  パウロは、福音に生きる者が具体的な生活において、どのように生きるかを丁寧に語ります。その最初のものが夫婦の関係です。夫婦の関係というは、人間関係の基本です。そのような大切な関係をどう生きるか。パウロは、キリストと教会の関係を夫婦の関係に当てはめて語ります。キリストが教会を愛し、教会を生み出すためにご自身の命を捧げられたように、夫婦も互いに仕えあいなさいと(24節~25節)。大事な点はこれです。自分がキリストにしていただいた事と同じ事を、相手にしてあげると言うことです。キリストにしていただいた事を自分はどう受け止めているか?それが夫婦のかかわりにおいて問われているのです。これは厳しいことです。夫婦間ではお互いに遠慮がなくなりますから、自分をそのまま主張して、互いに突っ張って、受け入れられなくなるからです。だから、まず自分がキリストにその罪を赦していただくところに向かわないと、事は先に進まなくなります。

10月2日(水)エフェソの信徒への手紙 6章1節~4節
  日本の一番の問題は教育問題です。日本では今、「 両親に従うことが正しいことだ 」(1節)と言えなくなっています。子どもが両親に従えなくなる気持ちもよく分かるのです。両親を見ていると、どうしても軽んじたくなる誘惑があるのです。子どもの頃は見えていなかった親の欠点が次第に見えるようになるからです。問題はそこでなお、主に結ばれているというところに立つことです(1節)。主に結ばれている、つまり主に罪を赦されている者としてという意味です。自分が主にしていただいたことを思いながら、主にしていただいたように親に接するのです。それが出発点です。そのとき、親も子を怒らせるなということがよくわかるのです。

10月3日(木)エフェソの信徒への手紙 6章5節~9節
  ここでは、奴隷と主人の関係が教えられています。このような箇所から聖書は奴隷制度を容認していたと考える必要はありません。パウロは当時の時代的制約の中で語っているのです。「 彼らを脅すのはやめなさい 」(9節)。当時、主人たちは奴隷を脅してこき使ったのです。その根底にある考えは、奴隷は人間ではないというものでしよう。パウロは勧めます。あなたの主人であるイエス・キリストに仕えるように、あなたも自分の奴隷に接しなさい。奴隷を人間として、友情をもって扱いなさい。その心を信頼していっしょに働いてもらいなさいと言うのです。これは当時の奴隷の接し方とは全く違う接し方です。ここでも原点はキリストにしていただいたことを、自分もまたしてあげるということなのです。

10月4日(金)エフェソの信徒への手紙 6章10節~20節(Ⅰ)
  だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい 」(13節)。神の武具というのは神がお造りになったものだから、これを身に着けたら負けることはありません。それを神はすでに私たちに与えてくださっています。例えば、救いのかぶと(17節)とありますが、私たちは改めてそれをかぶらなくてもすでに救われています。つまり、ここでは神が造り、すでに私たちに与えて下さっているものを私たちが自覚的に、自分で手を伸ばして身に着けて、立つことが促されているわけです。私たちを救われた神は、ご自分の悪魔との戦いに参加するよう求めておられます。

10月5日(土)エフェソの信徒への手紙 6章10節~20節(Ⅱ)
 武具には、防御に使うものと攻撃に使うものとがあります。攻撃をするために与えられているものに霊の剣、すなわち神の言葉(17節)があります。イエス様は荒野で悪魔の誘惑を受けて戦われたとき(マタイ4章)、神の言葉をもって戦われました。伝道者パウロは、その神の言葉すなわち福音を伝える戦いのために、ぜひ祈ってほしいと言います。パウロを含めて、教会全体が戦いのために心を合わせて祈ったのです。私たちも互いに祈り合い、支え合いつつ、戦いましょう。

10月6日(日)エフェソの信徒への手紙 6章21節~24節
 パウロは「 平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように 」と祈ります。愛は神から来る、すなわち神から与えられるものです。その愛は信仰の伴う愛だと言われています。それは変わらぬ愛です。永遠の次元の愛と言っても良いでしょう。人間的に見ると、主に倣って愛に生きることは何と損することが多いことかと思うかも知れません。しかし、死を突き抜けた永遠の次元において必ず実りを得る。それが変わらぬ愛です。

先週の説教要旨 「 皆が聖霊に満たされ 」 使徒言行録2章1節~21節
  イエス様が約束された聖霊が降られるのを待ち続けていた弟子たちに、いよいよその時が訪れた。それは五旬祭の日に起きた。五旬祭は、ギリシャ語ではペンテコステ、50日という意味。旧約聖書を読むと、この五旬祭という祭りは、「 刈り入れの祭り 」あるいは「 7週祭 」と、別の名前で語られていることが多い。つまり小麦などの刈り入れ、初穂を祝おう祭りである。ユダヤの人は過越の祭り、仮庵の祭り、刈り入れの祭りと、3つの大きな祭りをした。その日には、地方からエルサレムの都に巡礼に来る人たちが多かったと言われる。ちょうどその日、弟子たちはいつもと同じように、ひとつの部屋に集まって、ひとつの思いになって祈っていた。すると、突然、激しい風が吹いて来るような音がした。そして炎のような舌がひとりひとりの上に現れて燃え上がった。神の霊が降ったのだ。それは、「 一同が一つになって集まっていた 」時に起きた。使徒言行録1章~2章では、聖霊を待つ弟子たちが一つになっていたことを繰り返して語っている。一致である。それはどのような一致であったのか。それは空っぽである、ということにおいて一致していたのである。弟子たちの中には、ペトロのように他の弟子が見捨てても私は捨てないと、自分と他の弟子との違いを強く意識していた者もいた。またヤコブヤヨハネのように、他の仲間を出し抜いて出席を願い出る者もいた。自己主張の強い自信家や野心を抱いている者がいたのだから、一致することは簡単ではなかったであろう。その彼らが一つになっていた・・・。彼らの全人格における己の貧しさ、自分たちは何者でもない、また何も持っていない、というゼロにおいて一致していたのだ。彼らは十字架の出来事を通して、自分を頼りにしたり、誇りにしたりできない人間であることを知らされました。そういう意味で、彼らは空になった。神の赦し、聖霊の助け、それを必要としている者であることを痛切に感じていた。皆が、ひとりの例外もなく。まさにその点において、彼らは一つになっていた。だからこそ、彼らは聖霊で満たされるということが起きたのである。聖霊の満たしは神からの一方的な恵みの出来事だが、もし人間がそれに貢献したと言い得るならば、それは彼らが空であったということである。聖霊にとって、人間の中に降るということは決して簡単なことではない。なぜなら、私たちの中は既に一杯になっているから。私たちは必ずしも空ではない。私たちは依然として満ちている。私の知恵で、私の善良さ、私の誠実さ、私の強さ、私のプライド・・・そういったもので一杯なのである。弟子たちは、それらのものが打ち砕かれ、自分が空になってしまうという体験をした。自分の無力さ、限界を思い知らされる時、それは空であることを知る時だが、しかし聖霊の時でもあるのだ。神の業が始まるときでもあるのである。

空になって、ひたすら聖霊が与えられることを祈り、待った弟子たち。神の霊は、受ける準備のあるところには、必ず満ちてくださる。そこに教会の誕生日だとも言われる聖霊降臨の出来事が起きた。この日、教会は外に向かって言葉を語り始めた。今まで、ひたすら祈りに集中し、神の方を向いていた弟子たちが、外に目を向け、外に向かって語り出した。これをもって教会の誕生と言う。聖霊を受けて、聖霊の力によって、外に向かって語るべき言葉を語る、そこに教会がある。弟子たちが語る言葉を聞いた人々はあっけにとられた。なぜなら、彼らは自分の国の言葉で弟子たちが話しているのを耳にしたから。彼らの多くは巡礼者であり、普段外国の言葉を使っていた。ヘブライ語を話すのは巡礼のときぐらいである。なのに、まさかエルサレムで外国の言葉を耳にするとは・・・。ここに出てくる地名パルティア、メディヤ、エラム・・・・は、当時、ユダヤの人たちが知っていた全世界である。これは、教会が全世界に向かって語るべきその言葉を語り始めたということなのだ。

 ある人たちは、弟子たちを酔っ払っているのだと考えた。そこでペトロが11人と共に立って語り始めた。ここで語り始めているペトロの説教が、この後、教会が地の果てまで、世界の果てまで語るべきことは何であるか、その語るべき内容をすでに明確にしている。まずその第一は、自分たちは酒に酔っているのではなく、預言者ヨエルの預言が実現したのであって、ユダヤ人だけが救われるのではなく、「 主の名を呼ぶ者は異邦人であっても皆、救われる 」という「 終わりの時 」が始まったのだと言うこと。その時が始まったことは、聖霊の注ぎによって明らかであると。第二は、「 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです 」(36節)ということ。キリストの十字架と復活、それはあなたの救いのために、神がなさったことだと言うこと。教会が語り続ける言葉、全世界に向けて語り続ける言葉は、そのことに尽きるのである。十字架を見て、ここにあなたの罪がある。あなたの罪はこの十字架において、キリスト共に死んだのだ。そして、キリストが復活なさったように、あなたも信じる時、このキリストのように、神とつながった新しい命に生きるようなるのだ・・・。教会はいつでも、どこでも語り続ける。そのことだけを。なかなか聞いてもらえない言葉だが、教会はそのことに全力を尽くす。先日天に召された水谷姉の歩みは、まさに周りの人たちにそれを物語る歩みそのものであったと思う。   (2013年9月22日)

2013年9月23日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月23日~9月29日

9月23日(月)エフェソの信徒への手紙 4章1節~3節
 異邦人、ユダヤ人が共に集うエフェソの教会に一致を保つようにと勧めるパウロ(3節)。一致ということをまったく同じ考えになる、同じことをするようになると考えてはなりません。一致するとは、互いの違いを認めて、受け入れ合い、補い合うということです。そのような一致の心を妨げる最たるものは、高ぶりです(2節)。他の人を自分より低く見ることです。そうではなく反対に自分が低くなることが大切です。低い心は柔和、寛容となってあらわれます(2節)。そして当然、低い心には愛があります(2節)。愛は他者を受け入れる場を作り、一致が生れます。しかし、一致のためには忍耐が必要です(2節)。これは、他者の弱さに我慢をしてあげるというのではなく、他者を受け入れられない自分の弱さに忍耐するということです。他者に責任の目を向けるのではなく、自分に向けないとうまくはいきませんね。

9月24日(火)エフェソの信徒への手紙 4章4節~6節
 この箇所には「 一つ 」と言う言葉が何回も出てきます。すべてのものがただ一点に集約されていく深みがあります。恵みの源である父なる神様からの恵みが、一本の糸を引くように流れて行き、キリストのからだなる教会を造っている。その教会を生かすのも御霊ただ一つです。一つになるという神様からの召しの目的( 1節~3節 )から目をそらしてしまう私たちの目を、一点に釘付けるように迫ってきます。唯一の源であるお方を前にして、私たちは高ぶることなどできなくなりますね。一致の歩みは絶えず、ことある毎に、この方の前に戻って来ることから始まります。

9月25日(水)エフェソの信徒への手紙 4章7節~13節
 一つになろうと語ったパウロ。一つとは、皆が同じになることではありません。だから、パウロは、キリストの賜物のはかりにしたがって一人一人に恵みが与えられている(7節)と言うのです。一人一人が違っているのです。信仰に生きるとは、キリストの賜物のはかり( キリストがそれぞれにふさわしく賜物を与えておられるということ )によってはかることを知ることです。自分は受けたものが少ないなどと不服を言うことはできません。私たちが自分のはかりではかって窮々としているところにキリストが降りて来られて恵みのはかりをもって私たちを計ってくださった(9節)。そして、私たちを引き連れて高く上がり、私たち一人一人を教会の務めに就かせてくださった。教会において、神に仕える者にしてくださったのです。教会はまさに、本当の自分を、自分らしく生きられるところなのです。

9月26日(木)エフェソの信徒への手紙 4章14節~16節
  わたしたちはもはや未熟な者ではない 」(14節)。成熟とは「 キリストの賜物のはかり 」という自分をはかるものさしを一人一人がきちんと持っていることを意味します。そこでは、一致が生れています。少しでも自分が賢くなると、周りの人が未熟で愚かに見えて、こういう未熟な人と一緒にやって行くのは大変だと考えるのは未熟な人間のすることです。成熟すればするほど、人と一緒に成長する心を知るようになるものです。人の成熟の度合いは、そこでこそ計られます。教会がどんなに大きくなっても、教会の交わりの中にそのような成熟がもたらすキリストのお姿が見えて来るようでなければ、未熟な教会を造っていることになります。

9月27日(金)エフェソの信徒への手紙 4章17節~24節
  もはや異邦人と同じように歩んではなりません 」(17節)。ここでの異邦人は神を信じていない者たちという意味です。彼らは無感覚になって放縦な生活をしているとパウロは語ります(19節)。神を信じる私たちも以前はそうだった。そのような放縦な生き方を知っていた。その生き方には魅力があった。自分の好き勝手な生活ができるのは、それはそれでどこか満たされるような錯覚を感じるのです。それでもって一時の満足を得たとしても、そのような生き方の行き着く先は滅びです(22節)。キリストを学んだということは(20節)、真の人間として歩んで下さったキリストの姿から、神に造られた真の人間の歩みがどのようなものであるかを学んだということなのです。だから古い人間を脱ぎ捨て、新しい人間を着よう(22節、24節)とパウロは勧めます。しかも、強く勧めているのです(17節)。

9月28日(土)エフェソの信徒への手紙 4章25節~5章5節(Ⅰ)
 キリスト者の生活とは何かを集中して語っている聖書全巻の中でもとても貴重な箇所です。モーセの十戒を背景にしているとも言われます。たとえば、偽わるは(25節)十戒の偽証に、怒るは(26節)殺すに、盗むは(28節)は盗むに、卑わいな言葉は(5章4節)姦淫に、貪欲(5章5節)は貪りに相当すると言うのです。そのような歩みは神の聖霊を悲しませるだけです(30節)。私たちのうちに同居しておられる神の聖霊は、私たちがそのような歩みをする時に悲しんで、涙を流されるのです(30節)。私の救いを保証しておられる方が涙を流す。これは、真剣に考えないといけないことですね。

9月29日(日)エフェソの信徒への手紙 4章25節~5章5節(Ⅱ)
 「 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい 」(2節)。ファミレスで喫煙席に案内されてしまうと、洋服にタバコの匂いがしみついてしまいます。回りの人が皆、タバコを吸っているからです。私たちがキリストのもとにいつも立ち帰っていると、キリストの愛の香りが私たちにしみ込んで、私たちがキリストの愛の香りを放つようになります。

先週の説教要旨 「 主よ、お示しください 」 使徒言行録1章12節~26節
 今朝の箇所には、イエス様から約束の聖霊を待つように言われた弟子たちが、待つ間にユダの裏切りによって生じた1名の欠員を補充し、使徒12人という体制を整えたことが記されている。12という数は、イスラエル民族の12部族に対応するもので、キリストの弟子が12人というのは先祖アブラハムへの神の約束が12弟子を中核として造られる教会に引き継かせれていることを示していると言われる。だから弟子たちにとって、使徒12人かちゃんと揃っていることは重要なことであったとされる。そのような理由から、多くの聖書学者は弟子たちが欠員の使徒を補充したことを正しい判断であったと理解している。だが、本当に欠けた使徒を補充する必要があったのだろうか・・・。実際、12人使徒に欠員が生じたときにそれを補充したのはここが最初で最後であって、12章でヤコブが殉教したときは補充されていないし、ここで使徒に選ばれたマティアは、このあと一度も聖書に登場していない、そのことも気になる。数を合わせるためだけならば、使徒を補充する必要が本当にあったのだろうかと思わされる。決定的なのはイエス様ご自身が使徒の補充をお命じになったという事が記されていない点。イエス様は12人の弟子たちを選ばれたとき、徹夜の祈りをして、「 これは 」と思う12人をお選びになった。肝いりの12人。もし本当に欠員補充が必要だとイエス様が考えておられたら、昇天されるまでの40日の間に補充を命じられていてもおかしくはなかったはず。

 それではなぜ、弟子たちは欠員補充へと動いたのか。ペトロは欠員補充の必要性を旧約聖書の詩編69編25節と109編8節を引用して説明している(17節から20節)。詩編109編は、神に敵対する者に対して呪いの言葉を数々浴びせ、彼の今ある地位が誰かに取って代わられるようにと願っている詩編である。ペトロはこの敵をユダを預言しているものと理解し、「 その務めはほかの人が引き受けるがよい 」という詩編の言葉に従って、自分たちも欠員を補充しようと言う。しかし自分の正しさを誇り、敵を憎悪する詩編を根拠に欠員を補充し、教会のスタートをはかることは、敵をも愛しなさいと教えられたイエス様の愛を証しする役割を担う教会のスタートに本当にふさわしいことなのかだろうか。ペトロたちもユダのように、一度はイエス様を見捨てたのではなかったか・・・・。この詩編のいようには少し無理を感じるのである。それらのことを考えると、使徒たちの心の中にどうしても欠員を補充したいという強い思いがまずあって、その思いがペトロをして、このような詩編の解釈・引用を強いてしまったのではないかと思えてならないのである。12という数字の重みを知っているユダヤ人にとって、11名というのはいかにも不安定な状態、欠けた状態である。使徒たちには、その不安定な欠けた状態から脱したいという思いが強く働いていたのではないだろうか。私たち人間には、安定を求める心が強く働くもの。欠けがある、足りないという状態は人間にとって好ましく思えないのである。だが、聖書の信仰とはそういう人間的不安定、不足の中でこそ真価を発揮するもの、神の力が現れ出るものなのではないか。そうとすれば、1名欠員という不安定な中に留まり続け、そこで聖霊を待つということでも良かったのではないか。イエス様は12人の弟子を選ばれたとき、その中に裏切り者のユダを入れておられた。それは驚くべき事だがイエス様の弟子集団はその最初から痛みを、欠けを内包しつつ始まったのである。いや、欠けを排除せず、内包しつつ歩むのが主の弟子集団なのであり、それは最初から最後まで変わってはならないことなのである。だから欠員のままスタートしても良かったのではないかと思うのである。むしろ11人しかいないという、その空席を見るたびに、神を裏切る人の罪を、そしてその罪を赦すキリストの愛を覚えつつ、教会はスタートしても良かったと。そこに神の御心があったのではないかと思えてならないのである。

ペトロたちは空席を埋めることをもってスターとしようと考えた。それは欠けを嫌い、不足した状態を不安定と考える人間の性がもたらしたものと言っても良いのかも知れない。私たちにも同じような、欠けを嫌い、不足をそのまま不足として受け入れようとはしない思いが働く。いろいろな点で・・・・。だが、そのような不足、空席を埋める役割を担っているのは聖霊なのではないか。使徒の欠員、私たちの様々な欠け、不足、穴が開いた状態を埋めるのは、私たちの知恵や力ではなく、約束の聖霊なのであって、約束の聖霊こそが穴を埋め、そこが神が働かれる場所となる。そうやって私たちに本当の意味で安定を与えてくださるのではないか・・・。考えてみると、イエス様がベツレヘムでお生まれになったとき、人々は生まれてくる余地を与えなかった。それで主は家畜小屋でお生まれにならねばならなかった。しかし主は締め出されながらも生まれてくださった。聖霊も、その降臨する場所を埋められてしまったのかも知れない。それでも、クリスマス同様、聖霊は降臨される、あのペンテコステの日に。私たちの欠け、弱さを覆うようにして・・・。私たちは安定、平安を求めるがゆえに、欠け、不足を忌み嫌い、それを排除しようとする。だが、それを抱えたままに、そこが神の働かれる場となることを信じて進んで良いのである。主よ、お示しください、あなたの恵みを。(2013年9月15日)

2013年9月17日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月16日~9月22日

9月16日(月)エフェソの信徒への手紙 2章1節~10節(Ⅰ)
あなたがたは以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです 」(1節)。パウロは、救われる前と救われた後の、はっきりと色分けされるような信仰者の変化を語っています。私たちは救いの前後で自分が変わったと感じているでしょうか。そういう変化を感じられなくなる原因のひとつは、救われる前の自分が「 生れながら神の怒りを受けるべき者でした 」(3節)と言うことを真剣に、謙遜になって理解しようとしないことにあります。神様の怒りは、私たちへの期待から来ています。期待した通りに生きていない者を神様はどうでもよいと放っておくのでなく、きちんと叱るのです。神の怒りを軽く考えないようにしましょう。

9月17日(火)エフェソの信徒への手紙 2章1節~10節(Ⅱ)
 パウロは、救われる前と救われた後の変化について語ります。その変化とは、心の一番深いところで私たちはどちらを向いて生きているか?と言うことです。パウロが言う「 善い業のためにキリスト・イエスにおいて造られた 」(10節)の「 善い業 」とは、生き方の根本において、神様の方を向いて生きていることを言うのです。日常生活の中のひとコマ、ひとコマを取上げて、あれは善い業、これは悪い業と言うのではありません。根本において神の方を向いて生きる姿勢を言うのです。もともと人間は、神の方を向いて生きるように造られたのですが、そこから反対に歩み始めてしまったのです。私たちは、信仰によって、神の賜物によって(8節)、生きる向きそのものが変えられた。そのことは、はっきりと感じられるでしょう。

9月18日(水)エフェソの信徒への手紙 2章11節~22節(Ⅰ)
 エフェソの教会では、異邦人もユダヤ人も一緒になって教会を造っていました。以前、両者の間には深い溝があり、ユダヤ人は自分たちは選ばれた民族という誇りから異邦人を見下していたし、異邦人はキリストを殺したユダヤ人はけしからん人間だと思っていました。しかし両者を隔てていたそのような壁は壊されてしまった。そのことを心に留めてほしいと(1節)言うのです。人間は一緒にいると、いつも自分と人を比べて、優越感を持ったり、劣等感を持ったりします。優越感が自分に生き甲斐を与えたり、劣等感が惨めさを与えたり、かえって負けるものかと敵愾心を生んだりと・・・。そういうことが私たちの生活を支配します。しかし、それは自分で壁を作っていることと同じです。そのような壁をキリストは壊されたのです。

9月19日(木)エフェソの信徒への手紙 2章11節~22節(Ⅱ)
 「 あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています 」(19節~20節)。使徒や預言者とは神の言葉を語る務めを負った者でした。すなわち、教会の土台は神の言葉だとパウロは言うのです。教会において、神の言葉がきちんと聞こえるかどうか、それによって教会は立ちもするし、倒れもします。神の言葉を語る務めを負う牧師は重大な責任を負っています。自分の言葉の弱さを覚えつつも、神によりすがるようにして、今日も御言葉を語り続けるすべての牧師のために祈りましょう。

9月20日(金)エフェソの信徒への手紙 3章1節~13節(Ⅰ)
キリスト・イエスの囚人となっているパウロ(1節)。この手紙は獄中書簡と呼ばれ、パウロがキリストの福音に仕える(7節)ゆえに投獄されている時に書いた手紙と言われています。まさに囚人だったのです。同じ獄中で書かれたと言われるフィリピの手紙では、「 明日には殺されるかも知れない 」という切迫感が感じられます。そのような緊迫した状況の中で、パウロは私は人間の囚人ではなく、キリストの囚人なのだとユーモアを込めて言うのです。「 キリスト教と笑い 」という本で宮田光雄先生は、ユーモアとは神を信頼する者が苦境の中で見せる余裕だと言っています。私たちも、つまらぬジョークではなく、ユーモアをもって生きられますよ。

9月21日(土)エフェソの信徒への手紙 3章1節~13節(Ⅱ)
 「 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください 」(13節)。このパウロの言葉には信仰の急所が表れています。私たちは苦難に遭い落胆すると、信じることにおいてあきらめが出てきます。しかし、パウロは違います。どんな状況にあってもあきらめないのです。なぜでしょうか。12節で「 わたしたちは主キリストに結ばれており 」と彼は言います。キリストの存在は神が私たちを愛しておられることの最高の証しです。だからキリストに結ばれているとは、神の愛から引き離されない(ローマ8章38節~39節)と言うことです。パウロはすべての事を神の愛の中で起きていると見ています。それが急所です。

9月22日(日)エフェソの信徒への手紙 3章14節~21節
 「 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように 」(18節~19節)。パウロはキリストの愛を広さ、長さ、高さ、深さと4つの計りで測っています。普通、ものの大きさを測るには縦・横・高さと言った具合に3つでいいのです。しかし、パウロはそこに広さを加える。そうです。パウロはキリストの愛を外側から測っているのではなくて、内側から測っているのです。だから「 広さ 」という概念が出るのです。キリストの愛のただ中に立って、キリストの愛に包まれて立っている。パウロのようにあなたも同じところに立っているのですよ。キリストさの愛の中に包まれて立っているのです。

先週の説教要旨 「 わたしの証人 」 使徒言行録1章6節~11節

よみがえられたイエ様スが弟子たちの離れ去って行かれるとき、イエス様は弟子たちに「 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる 」という約束の言葉を残された。証人、それはどんな場合にも非常に重要である。裁判においては、その人の証言が人を救ったり、罪に定めたりするからである。証人はあくまでも見た通りのこと、聞いたままのことを、ありのままに証言しなければならない。もし証人が真実なことを証言するならば、それはその人を本当に生かすことになる。証人になるとは、そういうことを意味している。

主の召天の際、使徒たちは集まって、「 主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか 」と尋ねた。弟子たちの発言は、彼らの関心があくまでもイスラエルという国に限定されていることを示している。自分たちの身の回りの狭い世界のことだけに彼らの関心は向いていた。しかしそういう弟子たちにイエス様が託されたことは「 エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる 」ということであった。ユダヤとサマリアは激しい対立関係にあった。その2つの対立する地域を覆って、あなたがたはわたしの復活の証人となるのだ、とイエス様は宣言されたのだ。対立する地域の中で、復活の主が「 どのような救い主であるか 」、証しする。そしてその証が受け入れられるとき、対立した地域には今までとは違う新しい第一歩が記されるのである。今日の世界でも様々なところに対立する地域がある。しかしそれを覆って主の復活の証人、キリストこそ平和であることの証人として、教会は立てられている。人々が憎しみ合い、殺し合うためではなく、互いを尊敬し、生かし合うようになるための証人として立てられているのである。しかし弟子たちは自分たちの身の回りの小さな世界のことだけに関心を抱いていた。私たちは信仰的視野の狭窄に陥っていないだろうか。使徒たちは聖霊を受ける祈りの生活から、彼らの思いをはるかに超えたスケールの「 神のドラマ 」の登場人物となるべく召された。それと同じように、私たちの生涯は自分が思っている以上に、神によってもっと豊かに、もっと大きく用いられるのではないか。小さな自分の世界のことにとどまらず、聖霊と祈りの導きの中で、自分の世界を大きく広げていただこう。神の大きなドラマの登場人物として働こう。教会は、11節にあるように、再び主が地上に来られる時まで、主を待ちながら、主の証人としての業に励む、そこに教会の使命がある。

 そのためにイエス様はひとつの約束を与えられた。「 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける 」・・・この力はキリストを証するために与えられるもの。この「 力 」と訳されている言葉はデュナミス、ダイナマイトの語源になった言葉、爆発的な力である。だがそれは破壊的ではない。むしろ何かができるようになる力を意味する。文語訳の聖書は、これを「 能力 」と訳している。証言すべき時に、証言することができる力。証人となるべき場で証人となることができる力、そういう力ガ与えられると言うのである。ところで、この「 証人 」という言葉は、後に「 殉教者 」という言葉を生み出す語源となって行く。初代の教会においては、キリストを証言することと殉教することとはひとつに重なるような時代だったのである。私たちは殉教することができるであろうか・・・。「 できます 」とは言い難い。このことは、イエス・キリストの証人になるということは、どんなに尋常ならざる力、高いところからの力を必要とするかをよく示している。聖霊の力を神からいただくのでなければ、人間が持って生まれた力などでは到底なしえないことなのである。だからこそ、弟子たちは待たなければならないのだ。イエス・キリストと共に3年を過ごし、その力ある業を、素晴らしい教えを、つぶさに見聞きしてきた弟子たち、そして復活の主と共に40日を過ごした、誰もがうらやむような経験を重ねた弟子にして、なお、それで十分ではないのだ。「 主を知っていること 」と「 主を証言すること 」には、天地ほどの隔たりがあり、それを人間の力で埋めることはできないのである。それを埋められるのは聖霊の力だけなのである。 

木下順二氏が脚本化した「 巨匠 」という話がある。ポーランドのワルシャワでナチスに対する武装蜂起が起こる。俳優志願のある青年は仲間と共に林の奥の小学校に逃げ込む。そこに「 巨匠 」と呼ばれる老人がいて、俳優としての自分の過去を誇らしげに皆に語っていた。ところが秘密警察ゲシュタポが小学校を見つけ、見せしめとして5人の知識人を選んで処刑することになった。前市長、医師、ピアニストが次々と引っ張られたが、巨匠の経歴を見たゲシュタポは、「 なんだ、簿記係か 」と言って無視したのである。ところが老人はゲシュタポにかけ合って、マクベスの独白の場面を見事に演じ切るのである。彼は俳優であることが認められ、処刑組へと入れられた。彼は命をかけて自分が俳優であることを証し、その時、彼は本当に「 巨匠 」になったのである。彼は自分が一番したいこと、自分の誇りにかけてこれがしたいと思うことをしたのである。死は覚悟の上で。あなたの自分が一番したいことは何だろうか。わたしたちは主の証人なのである。2013年9月8日)

2013年9月10日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月9日~9月15日

9月9日(月)エフェソの信徒への手紙 1章1節~2節
  異邦人クリスチャンが多く集っていたエフェソの教会に手紙を書くパウロ。私たちが手紙を書く場合、その最初の部分は両者の関係を明確にあらわす内容となるのが普通でしょう。相手の安否を気遣ったり、親しみの言葉を述べたりと、そこには両者を結んでいる絆のようなものが自然にあらわれてくるものです。人間は、互いの信頼関係がなければその人の言葉を聞けないものですが、パウロとエフェソの教会の間の絆は、両者が共通にしっかりとつながっている人、キリスト・イエス( 救い主・イエスの意 )でした。この表現は2回出てきていますが「 あなたがたの救い主はイエスだね。私の救い主もイエスだ 」。そこにこそ、私たちの真実の絆があるねと確認しているのです。教会における私たちの人間関係もキリストをこそ絆としたものでなければ、ちょっとしたことで簡単に切れてしまいます。

9月10日(火)エフェソの信徒への手紙 1章3節~14節(Ⅰ)
 3節から14節は、原文ギリシャ語では長いひとつの文になっていて、途切れていません。息つく暇もなくパウロの口から神の祝福への賛美が次々とあふれ出たのでしょう。ここには「 私たちはすでに祝福の中にある 」という祝福に対する明確な確信があらわれているのです。その祝福は、目に見える祝福というよりも天のあらゆる霊的な祝福であり、それはキリストにおいてすでに起こっており、信仰の目で見るならば明確にそこに見えてくる祝福です。その祝福とは「 私たちは永遠の神のご計画に根差した命に生きている 」と言うことです(4節~5節)。どこかの宗教のように先祖のたたりだとか、得体の知れないものに翻弄されて生きているのではありません。これは、私たちの不安の根源を根こそぎ取り除くほどの祝福です。

9月11日(水)エフェソの信徒への手紙 1章3節~14節(Ⅱ)
 「 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです 」(10節)。来るべき大いなる日に、キリストによって世界はひとつにされるのです。それは神の永遠のご計画です。しかしその日を前に教会がすでにキリストによってひとつにされています。ひとつとされることを先取りしているのです。教会がキリストによってひとつにされているのは、やがて天にあるものも地にあるものもキリストによってひとつにされることのしるしです。エフェソの教会は異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンから成っていましたが、以前のユダヤ人からすると異邦人と同じ食卓につくなど考えられないことだったでしょう。私たちは、「 ひとつとされていること 」を大切にしよう。

9月12日(木)エフェソの信徒への手紙 1章3節~14節(Ⅲ)
 「 私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになる 」(14節)。贖うとは、それまで他の人のものであったものを買い取って自分のものにすることです。私たちは神のものではなく罪の存在であったとき、神を賛美することを知らなかった。神をほめたたえられないということは、罪の中にいることです。神の恵みは、神をほめたたえられなくなっている私たちの罪を、責めに責めて問いただして裁くというのではなく、御子を私たちのところに送ってくださって、十字架につけ、その血を流させることによって私たちを神のものとして買い取って下さった。神をほめたたえるのは、私たちが神のものとされているしるしです(詩34編2節)。

9月13日(金)エフェソの信徒への手紙 1章15節~16節
15節、「 こういうわけで 」と続けてからパウロはエフェソの人たちのとりなしの祈りへと進んでいきます。パウロは14節までに神様の救いの計画とそれを実行されたキリストの御業について語りました。そのことを受けて、とりなしの祈りへと進む。パウロがここでしていることは、エフェソの教会の人たち一人一人を神様の働きと結び付けて見ているのです。あの人の上にも、この人の上にも、神様の御手が置かれていて、キリストの御業が働いている、そういう人として相手を見ているのです。それは祈りの中でこそ、訓練され身に着く見方なのです。私たちも祈りの中で相手を受け止め直す訓練をしましょう。苦手な人に対しては、特にそうです。

9月14日(土)エフェソの信徒への手紙 1章17節~19節
 パウロはエフェソの教会の人たちのために祈ります。そのとりなし祈りの内容は何でしょう。もちろん、健康であるように、不幸が少しでも起きないように、試みに遭わないように、と祈るのは自然な事でしょう。しかしパウロの祈りは、人々の心の目が開かれる事です(18節)。心の目が開くとは、知恵と啓示の霊(17節)すなわち御霊が与えられることで、ますます神を深く知らせ、私たちに与えられている希望、受け継ぐべきもの、信仰者に働く神の絶大な力を確信できるように(18節~19節)なること。全てのとりなしの祈りの根底にあるべき祈りはこれです。

9月15日(日)エフェソの信徒への手紙 1章20節~22節
 エフェソ書はキリストの体である教会について多くを語ります( エフェソ書と双子の書簡と言われるコロサイ書は、教会のかしらなるキリストについて語ります )。キリストのからだである教会は、かしらなるキリストと深く結び付いています。ですから、すべてのものの上に座し、支配されるキリストの働きは、そのからだである教会を通してなされます。教会は、かしらであるキリストの思いの通りに動くのです。キリストの思いは、からだが動かないと外には見えてきません。私たちがいないと、キリストは手足がもがれる。それほどに私たちは重んじられているのです。

先週の説教要旨 「 エルサレムを離れず 」 使徒言行録1章1節~5節
  今朝の礼拝から使徒言行録を読む。使徒言行録ははじめの部分を読めば、これがルカ福音書の著者と同一人物によるものであり、ルカ福音書に続く第2巻であることがわかる。他の福音書を書いたマタイ、マルコ、ヨハネは、イエス様のご生涯を記した福音書だけを書いて、それに続く第2巻を書かなかった。ルカだけが第2巻を書いた。通常、2巻からなる書物は両巻を貫いた主題がある。ルカの場合、それは何なのか。「 イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました 」とあるように、第1巻を書いた目的が「 イエス様が始められた行いと教えを記すこと 」にあった。しかし、その働きはイエス様の昇天後もまだ終わっていないとルカは考えたのだ。だから第2巻を書く必要がある。イエス様は天に昇られた後も、教会という群れを通して、今もその働きを続けておられるのである。だから使徒言行録という名称は、より正確に言うならば、「 イエス・キリストがご自身の霊である聖霊において、使徒たち、信仰者たちを通してなされた行いと言葉の記録 」ということになるだろう。この書は、テオフィロに献呈された書物である。ルカ福音書では「 敬愛するテオフィロさま 」となっていたが、使徒言行録ではそういうよそよそしい表現はなくなっている。それは福音書を読んだテオフィロがすでに信仰を持ち、教会の仲間になっていたからだと考えられている。そうとすれば、ルカはテオフィロに「 あなたは信仰を持ち、教会の一員になりましたね。教会の一員になったあなたは、これからはこういう生き方をするのですよ。どうぞ、そのことがよく分かるためにこの第2巻を読んでください 」、そういう思いを込めて第2巻を献呈したに違いない。私たちは「 自分が何者であるか 」が分かったとき、そこで初めてブレない、一貫した生き方をするようになるのである。自分が何者か、分からないところでは生き方もまた定まらない。しかし主を信じ、教会の一員になった者はイエス様のお働きを引き継ぎ、それを成し遂げるために生きる。そこに一貫した生き方を見出すようになる・・・ルカはテオフィロにだけではなく、この書を読み始める私たちにも同じように呼びかけているのである。使徒言行録は第28章まであるが、その終わり方は不自然で物語が完結していないと多くの人が指摘している。そしてそれは、第29章以降の物語として私たち自身の教会の歩みをそこに付け加えられるようにしているためであると・・・。なるほどと思う。私たちがどのよう聖霊に導かれて、イエス様の働きを引き継ぎ、この地上に成すか、使徒言行録の物語は、今も私たちの教会に於いて、現代の教会に於いて続いているのである。
 教会が引き継ぐ「 イエス様が始められた行いと教え 」、具体的にはどういう働きなのだろうか。イエス様の行い・・・ルカ福音書には、他の福音書にはない著しい特色があった。イエス様が湖の上を歩かれたとか、いちじくの木を呪ったら枯れてしまったとか、そういう自然界を巻き込んだ奇跡は書かれていない。むしろルカが好んで書いたのは、弱い人たちを救うイエス様の奇跡。ナインの村の一人息子を失ったやもめを憐れんで、死んだ息子を生き返らせた。18年も病の霊にとりつかれて腰の曲がった女の人を安息日であっても癒した。サマリア人を含んだ重い皮膚病を患っている10人の患者を清めた。そのようにルカ福音書におけるイエス様の行いは、弱った人、苦しむ人を助けるという点に焦点があてられていた。教えの面では、神様はどういうお方か、特に罪人に対する愛と憐れみに満ちた方であるということが際立ってしめされていた。放蕩息子のたとえ、イエス様の足を涙で濡らした罪深い女の物語、徴税人ザアカイの救い、悔い改めた十字架上・・・。教会は、そういうイエス様の行いを引き継ぎ、弱った人、苦しむ人の隣人となり、神様がどういう方であるかを紹介して行く、そのことに生きるのである。現代において、弱った人、苦しむ人と言えば、すぐに高齢者の方々を思うことだろう。現代は若者が教会に集まらず、高齢者の占める割合が高い教会が圧倒的に多い。だが、若者が集まるようにと、奇をてらう何かをする必要はない。主の働きを引き継ぐことに集中すればいいと信じる。高齢者が喜んで教会に来ていれば、その教会は必ず若者も喜べる教会になっているはず。高齢者も若者も同じ人間としての悩みを持つのだから。
 教会はその働きを自分たちの力でするのではない。「 エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである 」。使徒たちはイエス様の行いを見、また教えを聞いてきた。苦難を共にし、十字架の死に立会い、復活したイエス様にも出会う体験もした。ここに「 救い主がおられる 」と大声で叫べる根拠を十分に持っていた。しかし「 だから出て行け 」とは言われなかった。約束の聖霊を待てと。福音に関しては「 知っているということ 」と「 知っていることを証言すること 」との間に無限の距離がある。教会はそもそも伝道する実力など、持っていない。聖霊を待ちつつ、聖霊の力を受け取りつつ、伝道できるだけなのである。だからエルサレムを離れるなと言う。イエス様が拒絶されたその場所がイエス様についての新たな証言が始まる場所とされるのだ。      2013年9月1日)

2013年9月1日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月2日~9月8日

9月2日(月)フィリピの信徒への手紙 3章1節~11節(Ⅱ)
 信仰を持つと、自分に対する見方、自分の人生に対する見方が変わります。以前のパウロは、生粋のユダヤ人であること、律法をきちんと守れるということの中に、自分自身の価値を見出していました。しかし今は、そのようなものにこだわっていたらかえって自分が殺されてしまうと思うほどに、それらのものを無意味なものと見ています(8節)。それは、「 キリストの内にいる者と認められるため 」です(9節)。9節の文は、「 キリストのうちに自分が発見される 」と、訳すことができます。パウロは、あの失われた羊のたとえのように、キリストの懐に抱かれている自分こそが、本当に価値ある自分自身の姿であることを発見したのです。あなたは本当の自分をどこに見ていますか?キリストの中?それとも自己の能力の中ですか?

9月3日(火)フィリピの信徒への手紙 3章12節~16節
 完全という言葉が12節と15節に出てきます。15節では、12節とは違う意味で使われていて、「 自分は十分ではない 」ことを知っている、その意味での完全を指しています。ソクラテスの「 無知の知 」に似ています。「 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです 」(14節)。パウロは、キリスト者は皆、神の召しに真剣に応えてひたすら走るのだと言います。ある婦人が教会での自己紹介で「 私は単なる主婦ですが 」と言ったのを聞いた牧師は、それは大きな間違いだと言って正されました。主婦として生きることもまた神の召しの中にあるのですから。あなたの召しは何?

9月4日(水)フィリピの信徒への手紙 3章17節~19節
 「 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです 」(18節~19節 )。キリストの十字架に敵対する者・・・この言葉を思うと、涙があふれてしまうパウロ。そうです。かつては、パウロ自身がそのような歩みのただ中にいたのです。そのような自分が主の憐れみによって救われたことを思うと、敵対者を非難する言葉ではなく、とりなしの言葉として「 彼らの行き着くところは滅びです 」と語らずにおれないのです。まだ信仰を持っていない家族や友人に対して、パウロと同じところに立って、とりなしの言葉を語りたいものです。

9月5日(木)フィリピの信徒への手紙 3章20節~4章1節
 「 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています 」(20節)。信仰者の本国、すなわち故郷は天にあります。だから私たちの最終の望みも、私たちの最大の喜びも天にあるのです。パウロは、自分の願いが世を去ってキリストと共にあることだと言っていました(1章23節)。人間の生活は、決して見えるところだけではありません。目に見えない信仰の世界こそ、人間の生活を支える力であり、まことの世界なのです( ヘブライ11章1節~2節参照 )。天を望みとしてこそ、地上の生活も確かなものとされます。あなたの望みは、どこに根差しているでしょうか?

9月6日(金)フィリピの信徒への手紙 4章2節~7節
 2人の婦人の名前が出ています(2節)。 教会の中でも中心的な働きをしていた人たちのようですが、激しく対立し合っていました。教会の働きに深く入り込むと、同じ信仰の仲間であってもうまくいかないことに直面します。かかわりが深くなると、難しさも出てくるのです。時には、この問題はどちらかが天に召されないと解決しないと思わされることもあります。しかし、パウロは望みを抱いて語ります。5節、「 広い心がすべての人に知られるようにしなさい 」。なぜ、争うのか?心が狭く、人を心に迎え入れることができないからです。あの人はいいけど、この人はだめと、除外したくなる。「 全ての人が、あの人から自分は除外されていない 」と感じることができるようにしなさいと言うのです。そこで大事なのは、感謝を込めて祈ることです。それは、神様が与えてくださっている状況を、そのままうなずいて、神様に対しても心を広げて受け入れるということです。解決への第一歩です。

9月7日(土)フィリピの信徒への手紙 4章8節~14節
 「 わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています 」(11節、12節)。何と魅力的な言葉でしょう。このことを全ての人が習い覚えたら世界はかなり変わるのではないでしょうか。パウロは、いろいろな境遇に自由に対処する秘訣があると言います。その秘訣は、「 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です 」(13節)。「 自分の置かれた 」とあるように置いてくださった方は、対処する力をも与えてくださるとの信仰です。

9月8日(日)フィリピの信徒への手紙 4章15節~23節
 パウロはフィリピの教会の人たちが自分のために物質的な援助をしてくれたことに感謝を表わしています。しかし、よく読んで見るとパウロの喜びは、フィリピの人たちがひとりの伝道者に対して、このような行為をするに至るまでに成長したことを神に感謝していることが分かります。17節の訳はあまり良い訳ではありません。直訳すると「 私が求めているのは、あなたがたの勘定を増やしていく果実なのです 」となります。パウロは、すべてのことを神との関係においてとらえているのです。19節の言葉は、心底、私たちを励ますに十分な御言葉ですね。

先週の説教要旨 「 絶えず宮にいて 」ルカ24章50節~53節
   イエス様の昇天の場面。とっても印象的なのは、弟子たちが喜びにあふれていたことである。本来、これは別れの場面。通常、別れは悲しみが伴うもの。弟子たちにとっては、これでイエス様が本当に見えなくなってしまうのだ。困難な信仰の課題が始まるように思える。彼らは狼の群れの中に紛れ込んだ羊のようになるのである。にもかかわらず、弟子たちは大きな喜びにあふれている。弟子たちは、もうこれでイエス様を見ることができなくなる。私たちもイエス様を見ることはできない。その意味では、弟子たちは私たちと同じところに立ったのである。しかし喜びにあふれている。言い換えると、弟子たちのその喜びは私たちも同じように与ることのできる喜びなのだと言うこと。その喜びはいかなる喜びであって、何を根拠としているのか、ルカ福音書を読み終える締めくくりとしてそのことを心に留めたい。

別れの場面というのは、相手の姿を見るのはこれが最後だと思って、一生懸命その姿を心に焼き付けようとするもの。弟子たちに深く心に焼き付けられたイエス様のお姿は、手を挙げて祝福しながら天に上げられて行くお姿だった。自分たちを祝福しながら天に上げられるお姿・・・。イエス様の祝福に応えて、弟子たちはイエス様を伏し拝んだのち、エルサレムに帰り絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。祝福する、ほめたたえる、これらの言葉は原文ギリシャ語では同じ言葉で、「 よいことを言う 」、となっている。イエス様が人間に向かって、よいことを言うときには祝福となる。人間がイエス様に向かって、よいことを言うときには賛美となる。互いによいことを言い合っている。深い交わり、絆を感じさせられる。地上のいかなるものをもってしてもイエス様によって示された神の祝福から私たちを引き離すことはできない。神の祝福・・・私たちの礼拝は、最後に祝福で終わる。主が与えてくださる祝福が告げられる。礼拝堂を出て帰っていくこの世の生活は、なお涙あり、苦しみあり、疑いあり、不安あり、怒りあり、単純にいつも楽しく生きていけるわけではない。簡単に喜びをもって受け入れられるわけではない。聖書を学ぶことで知る正義感や愛の理解からすれば、疑問ばかりということになり、かえって受け入れがたく、厭世的にさえなると思う。逃避したくなる。しかし私たちは主の祝福を知っています。復活の主の祝福を受けているのである。オリエンテーションという言葉がある。何かの集会などをするときに、その集会全体を方向づけ、目的にいたるための具体的な道筋を示すために行なうもの。オリエンテーション、もともとはラテン語の「 オリエンス 」、「 昇る 」という言葉から生まれた。太陽は東から昇る。そこから、東という意味も持つようになった。教会は古来の伝統として、「 東 」に向けて会堂を建てることを大切にしてきた。なぜかと言うと、イエス様は明け方早くに復活された。あたかも、陽が昇るように・・・。それで私たちの信仰生活は、この復活の主によって方向づけられ、進むべき道筋も与えられている、そういう信仰を言い表そうと、会堂を東に向けて建てることを大切にしたのである。私たち生活は、復活の主によって支えられ、私たちもまた主と同じように、復活する。復活の命に向けて方向づけられている。そういう祝福の中に、すでに私たちは生き始めている。その事実は、なお涙あり、苦しみあり、疑いあり、不安あり、怒りあり、の生活をしていても、決して奪われることはない。変わることはない。今ひととき、私たちの生活に涙があり、苦しみがあり、疑いがあり、たとえ不安や怒りがあったとしても、その根底においては悲観的ではないのである。私たちは祝福に向けて進んでいるのだと、主の祝福を信じていいのである。

黒人解放運動で大変大きな働きをしたM・ルーサー・キング牧師は、メンフィスのうらぶれたモーテルで銃弾に倒れた。友人たちが泣き叫び、その傷口を手で押さえる中、バルコニーの手すりから不恰好に脚を突き出したまま、大量の血を流してキング牧師は死んだ。信仰を持たない人々は、彼の人生を総括する言葉として「 彼は多くの人の期待を集め、事実その期待に応えつつあったのだが、道半ばにして暗殺者の手に落ちた。まことに悔しい、残根でならない悲惨な最期を遂げてしまった 」と書き記した。しかし神の祝福を信じる人間は、そうではなかった。キング牧師が長く仕えていたアラバマ州のバプテスト派の教会には、キング牧師を記念して彼の等身大の壁画が2階から1階へと降りる階段の壁に描かれている。その姿はバルコニーの手すりから不恰好に脚を突き出したあの姿ではなく、クリーム色のガウンに身を包み、祝福の手を大きく広げ、黒人のキリスト者たちに囲まれながら、雲の中へと引き上げられて行く姿である。キング牧師が天に上げられる姿を描いた人たちは、手を広げて弟子たちを祝福しながら、天に昇られるイエス様のお姿を心に描き、その祝福の中にキング牧師も置かれていることを信じたのである。キング牧師だけではない。ここに集まっているイエス様を信じる私たちも、同じこの祝福の中に生きている。そした絶えず宮にいて上神をほめたたえて生きるようにされたのである。そう信じてよいのである。私たちの人生という名の楽譜には、神の祝福のフラットがその初めにつけられていて、私たちの人生全体を支配しているのだ。暗く沈んだ曲調のときにもその支配は変わらずに続いているのだ。2013年8月25日)