2013年8月26日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月26日~9月1日

8月26日(月)フィリピの信徒への手紙 2章1節~5節
 パウロは「 心を合わせ、思いをひとつに 」と勧めます(2節)。このことは「 そうだ 」と、自分で決心したところで、そう簡単にできるものではありません。だから、パウロはまことに丁寧に、慎重に「 あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら 」(1節)と語っていたのです。そうです。私たちが心をひとつにするには、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心、これだけの準備が必要なのです。神の力をいただかなければ・・・と言うことです。しかも、「 幾らかでも 」と言われています。パウロはあくまでも自分の力にではなく、キリストの救いに基づいて生きることを勧めています。

8月27日(火)フィリピの信徒への手紙 2章6節~11節
  キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした 」(6節~8節)。主は人間になってくださることによって、人間こそ仕え合う者であることを示してくださいました。本当の人間はこういう生き方をするのだ、と見せてくださったのです。人間は本来、利己心や虚栄心に生きるのではなく、相手を自分よりも優れた者として見ることができる存在なのです。私たちが虚栄心や利己心にとらわれる時、それはキリストの御業を無にしてしまうのです。

8月28日(水)フィリピの信徒への手紙 2章12節~14節
 「 従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい 」(12節)。パウロは、父なる神さまが自分の内ですでに始めてくださっている救いの業(13節)が全うされるように、自分の求められる努力を重ねようと呼びかけています。そこには当然、神様の御業に対する畏れが伴います。出エジプトの際、イスラエルの民は神様に導かれて約束の地に向けて荒野の旅を続けましたが、彼らは不平や理屈を口にして、散々モーセと神様にたてつきました。畏れのかけらも持たないかのように。しかし、彼らの旅は確かに救いに向かっている旅の途上にあったのです。「 私の救いを達成へと導こうとされる神様の御心に対して、畏れおののく心、従順な心を持とう。それがともなうとき、あなたは自分の救いの御業を達成する。分かるか? わたしの愛する人たちよ と呼びかけています。

8月29日(木)フィリピの信徒への手紙 2章15節~18節
  こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう 」(16節)。パウロの人生にはいろいろなことが起きました。迫害の体験や苦労して生み出した教会の分裂、使徒である自分への非難、そんなに苦労して大成功を収めたかと思えば、今彼は投獄され、殺されるかも知れない状況に直面しています。普通ならこんなに労苦して、何の実りもなければガッカリするでしょう。しかしパウロはその生涯を振りかえって「 無駄ではなかった 」と言います。負け惜しみではありません。そう言えるのは彼の人生が永遠に向かってのものだからです。ヨハネ6章26節を読みましょう。

8月30日(金)フィリピの信徒への手紙 2章19節~24節
 パウロは、自分がフィリピの教会に行けない状況にあるので、テモテを変わりに遣わそうとしています。そこでテモテの紹介をします。「 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています 」(21節、22節)。人は誰でも自分の事を考えます。自分が得することしか考えません。しかしテモテはそうではないとパウロは言います。パウロがテモテを信頼しているのは、彼が他の人のことを考えるからではありません。キリストのことを考える人物だからです。キリストのことを考える人は、他の人のことをも考えるのは自然な流れです。しかし人のことを考えることが、必ずしもキリストのことを考えることと一致しない場合があるのです。この順序は大事です。

8月31日(土)フィリピの信徒への手紙 2章25節~30節
 パウロがテモテをフィリピに送る前に、フィリピからパウロのもとにエパフロディトが遣わされて来ていました。しかし、彼は瀕死の重病にかかってしまったのです。フィリピの人たちの期待を担って来たのに、病気になってしまいパウロに仕えるどころか、かえって心配の種になってしまう。どんなにか彼は心苦しい思いをしたことでしょう。普通だったら、大事なところで役に立たない人と評されてしまうところでしょう。しかしパウロはこの事を神様の視点からとらえています。神様はそんな彼を、そして私をも憐れんでくださいました(27節)と。たったひとつの出来事も、見る視点を間違えると、全く違った結果を生んでしまうものです。

9月1日(日)フィリピの信徒への手紙 3章1節~11節(Ⅰ)
 「 信仰というのは、心の弱い人たちが持つものだ 」と言う人がいます。本当にそうなのでしょうか?ここで披瀝されるパウロの氏素性は、当時のユダヤ社会では目を見張る内容を持っています。エリート中のエリート、まさに強い人です。しかしそんな立場にいたことは、今では損失と見なしているとパウロは言うのです。キリストの内にとらえられている自分を知る(9節)ことの方が大きいことだと知るに至ったからです。神の手の中にある自分なのだと知る、その時人生は変わります。

先週の説教要旨 「 私たちも復活する 」ルカ24章36節~49節
  今朝の箇所には、弟子たちが復活を段々と信じていく様子と信じてから復活の証人として派遣されることが記されている。復活の主が弟子たちの真ん中に立たれたとき、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。するとイエス様はご自分の手と足を見せられた。でも弟子たちは喜びのあまり、まだ信じられず、不思議がった。それでイエス様は焼き魚を食べてみせた。そして弟子たちに聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いてくださった・・・。繰り返し、繰り返し、弟子たちを復活の信仰へと導かれるイエス様のお姿が描かれている。このように、弟子たちが復活を信じることができたのは聖書が伝えるところ、イエス様が繰り返し、繰り返し、弟子たちに働きかけ、復活の事実に触れさせてくださったからなのである。マグダラノマリア、エマオ途上の2人の弟子、そしてトマス、皆,信じられないでいる彼らをイエス様の方から訪ね、彼らを信仰へと導かれたのである。復活の信仰は、私たちがああだ、こうだと考えて、論理的に納得できたから信じるとか、そういうことで生まれるものではなく、イエス様の方から私たちに近付き、私たちを納得させてくださるところに生まれるものなのである。だから、今私たちが復活を信じているは、イエス様が私たちをとらえてくださっているしるしなのである。

復活の信仰を与えられた弟子たちは、復活の証人として遣わされる。イエス様がなさった「 心を開く 」という御業をイエス様に代わって引き継がれる聖霊、父から約束された聖霊と共に遣わされる。そこで語る福音は、何よりも「 罪の赦しを得させる悔い改め 」である(47節)。罪が赦されることを語るのである。今の時代、人が本当に生きて行くために必要なことは赦しが語られることであると切に思う。主の十字架の死は、私たちの罪がもたらしたものだが、その死に打ち勝って主が復活されたということは、私たちの罪が完全に赦され、贖われたということを示している。復活の証人、それはあなたの罪が完全に赦され、贖われるという喜びの証言者なのである。宮崎駿監督の「 風立ちぬ 」という映画を見た。宮崎監督は、今迄ファンタジーの世界を描いてきたが、今の時代は、ファンタジーに逃げるのではなく、今の時代にしっかりと足を降ろした生き方を問うことが不可欠だという認識に立って、この映画を作ったと言う。ゼロ戦を設計した若い飛行機技術者とその妻の物語なのだが、主人公は子どもの頃から、より軽く、より早く、より美しい飛行機を作るという夢を持ってきた。そんな彼を支える妻は結核に冒されているのだが、彼を励ますために彼女は空気のいい高原の療養所を抜け出して、彼のもとに身を寄せる。それは彼女にとって自分のいのちを削ることを意味した。主人公はそんな彼女の存在に励まされて、挫折を経験しながらもついにゼロ戦の開発に成功する。でもその結果、彼女は死んでしまい、そして彼の作ったゼロ戦は多くの若者のいのちを奪う結果を生む。もしゼロ戦が開発されていなければ、日本はもっと早く降伏していたかも知れないのだ。この映画は、風立ちぬというタイトルだが、私はこの風は戦時中という「 時代 」を現しているのだと思った。戦時中という時代の風に翻弄されながらも、2人は支え合い、力を尽くして夢を追った。しかし時代の風は残酷で結果は悲しい結末となった。もし、時代という風が悪い風であるならば、どんなに美しく、夢を描いて生きたとしてもそれが最悪の結果を招いてしまうことが起こり得る。意図せずして、自分が加害者となっていることがある。その上で、あなたは今の時代をどのように生きるのかと、宮崎さんに問われているような気がした。神の息吹を受けた風がこの時代を吹き抜けるのでなければ、人間にとって本当の救いはないのではないか、そんな感想を持った。映画を見て思い起こした言葉があった。非行少年と呼ばれる生徒たちに、「 加害者としての自覚を持て 」と促し続けたクリスチャン教育者の言葉である。非行少年たちは皆、被害者意識を強く持っている。自分は親のせいでこうなったのだと思っている。だが、自分は加害者だという意識を持つところからあなたたちの立ち直りは始まるのだと促すのである。これは非行少年に対する言葉にとどまらず、すべての人間にも向けられている言葉ではないかと思う。人は皆、被害者気分で生きてしまいがちである。でも同時に加害者でもあることを忘れてはいけない。意図のあるなしにかかわらず、自覚のあるなしを問わず、私たちが生きていること事態、絶えず何らかの意味で加害者になっているのだ。人は皆、誰かを踏み台にして生きている。加害者である自分を心から悔いる思いを持って欲しい・・・と。しかし聖書は罪を悔やんでいるだけではダメなのだと言う。その罪人である、私たちに心を開いていておられるキリストを見ることが大事なのだと言う。私たちのことを、私たちよりももっと深く理解し、受け入れ、神の子としてくださっている方の御業を知ること。そこに立てと。イエス様が託された福音は、時代の風に飲み込まれて、意図せずとも加害者となって生きてしまう、そういう私たちの罪が、この方の赦しに与ることができるという知らせ。その歩みのすべてがこの方によって赦され、贖われるという知らせ。復活の信仰に基づく完全な赦しなのであるから。だから、私たちはこの時代の中で、生きるべき勇気、次の世代へと伝えるべきメッセージを持つのである。 (2013年8月18日)

2013年8月18日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月19日~25日

8月19日(月)フィリピの信徒への手紙 1章1節~7節
 フィリピの教会がどのようにして設立されたかは、使徒言行録16章に詳しく記されています。聖霊の導きによって、パウロたちがマケドニア地方(フィリピのあるところ)に行くことになり、そこでの人々との出会いが教会を生み出したのです。その出会いの出来事も不思議や奇跡に彩られており、まさに聖霊の力が働いていたことを証しています。そしてこの手紙を書いている今に至るまで、その聖霊の力が教会を育んできたことを確信して、パウロは感謝をささげています(3節~6節)。この手紙はパウロが獄中で記した手紙なのですが、他方、この手紙は喜びの手紙とも呼ばれています。それはパウロの目がいつも聖霊の働きを見る目だったことによるのです。現実の困難を透徹して聖霊の働きが見えてくる目を求めましょう。

8月20日(火)フィリピの信徒への手紙 1章8節~11節
   わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように 」(9節~10節)。伝道者が教会のために祈ること、それは愛が増えることです。教会に愛がなければ教会の命は絶えてしまいます。愛が豊かになるとはどのようなことにおいて豊かになることなのでしょうか?聖書は、知る力と見抜く力を身につけること、本当に重要な事が何かを見抜くことができる、それが身についたときに愛が豊かになったと考えているようです。愛は夢中になると分別がなくなるものだと考える向きもありますが、そうではありません。愛は賢いのです。相手の隠された思いをきちんと見抜いて思いやりますし、本当に重要なことをきちんと判断できて、それに対処するのです。そのような力はキリストによってすでに私たちに与えられ始めているのです(6節)。神は私たちの内に愛を造り始めておられます。最初から諦めてしまうのではなく、私において始まっている神の業を信じ愛に生き始めてみる事が大事です。

8月21日(水)フィリピの信徒への手紙 1章12節~14節
 パウロは、監禁され獄中に入れられてしまうときに、何を考えたでしょうか?これで自分の命が終わると思ったかも知れません。しかし獄中にとらえられてみて、驚くべきことを知らされたのです。14節です。自分の投獄が福音の前進をもたらしていると。パウロはキリストの僕である自分の身に起きている事柄の中で、主人であるイエス様が何をなされているかを知って驚嘆したに違いありません。僕は主人のすることをすべては知らないのですが、主人のすることは益になる事だと信じて良いのです。私たちも実際に投獄されなくても、いろいろなことにとらわれてしまうことがあります。まるで牢獄に置かれているように。でも心安じて良いのです。

8月22日(木)フィリピの信徒への手紙 1章15節~18節
 パウロが福音のために獄にとらえられたとき、それに励まされて愛の動機から勇敢に福音を伝える者が起こされました(16節)。しかし、不純な動機から福音を伝える人も出ました(17節)。具体的にどういうことなのかは、良く分かりませんがパウロはそれでもいいと言います(18節)。驚くべ発言です。パウロは、キリストご自身が不真実な人間の言葉を突き抜けてでも、ご自分を真理として明らかにしてくださるに違いないと考えているのです。どんな形であるにせよ、キリストが伝えられ、崇められるならばパウロはそれを喜ぶ(18節)。ただキリストのことだけを思う心が生んだ発言です。人の行動に惑わされない強さの秘密はここにありますね。

8月23日(金)フィリピの信徒への手紙 1章19節~26節

 「 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです 」(21節)。パウロは、世を去ってキリストと共にあることと、この世に生きて同胞たちの励ましとなること、二つの事の間で板ばさみになっています(23節~24節)。神の道を歩むとは、ただ自分にとって都合の良い事だけでなく、多くの人の益になる方を選ばせられることです。ゲッセマネの園におけるキリストの祈りもそうでした。神の御手は、いつも自分の好き嫌いで行動しようとする者にとっては苦しみとなりますが、逆らわずに身を任せる者には力強い支えとなります。

8月24日(土)フィリピの信徒への手紙 1章27節~28節
  ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい 」(27節)。ここで「 ふさわしい生活 」と訳されている言葉は、「 市民として生きる 」という意味の言葉です。市民とは、天国の市民という事です(3章20節参照)。天国の市民としての生きざまを具体的に示すのは28節です。それは福音に反対するものの誤りをきちんと見抜けること、言い換えると天国の価値観をきちんと身につけるということです。それはキリストのお姿をまぶたに焼き付けて行くことから始まります。

8月25日(日)フィリピの信徒への手紙 1章29節~30節
 「 あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです 」(29節)。何と驚くべき言葉でしょうか。世では、宗教は皆、苦しみから解放することができてこそ、その真価が認められるのですから・・・。しかしパウロは反対のことを言います。苦しむことも恵みだと。世には、恵みのための苦しみさえ、恵みと見られなくなるほどの苦しみが存在します。苦しみも恵みと言い切るパウロは、苦しみがキリストと自分を深く結び付けるものであることを知っていたのです。自分の苦しみを通して、私のためのキリストの苦しみの大きさを知ることができる。そのとき、苦しみも恵みとして受け止めるという変化が起きるのです。苦しみの時、キリストに目を向けてみましょう。

先週の説教要旨 「 目には見えなくても 」ルカ24章28節~35節
 イエス様が十字架の上で息を引き取り、3日経った。2人の弟子はエルサレムの都を後にする。2人はイエス様にすべての望みをかけていた。しかしそのイエス様はエルサレムでとらえられ、十字架につけられ、殺されてしまった。ガックリと肩を落とし、トボトボと歩いていく2人。そこにイエス様が現れ、2人と一緒に歩いてくださった。しかし2人はそれがイエス様だと気がつかなかった。イエス様は2人に聖書を説き明かしてくださる。しかし2人はまだ分からない。やがて日没を迎える。彼らはイエス様を呼び止め、一緒にお泊りくださいと願い、イエス様はその呼びかけに応えてくださる。一緒に食事をしているときに、イエス様が賛美の祈りを唱え、パンを裂いたとき、2人は気がつく。「 ああ、この方はイエス様ではないか 」・・・。するとイエス様の姿が見えなくなる。今朝はここに目を留めよう。どうしてイエス様は2人が分かった瞬間に見えなくなったのか・・・。ヨハネ20章に、主の復活を信じることができないトマスという弟子に、イエス様が「 見ないで信じる者は幸いである 」と言われたことが記されている。確かに見ないのに信じる人は幸いだと思う。けれども、見えた方がはるかに幸いなのではないか、見えた方がはるかに信じやすいのではないかと私たちは考えるかも知れない。特に苦しいとき、こう思う。「 ああ、イエス様が今見えたら、どんなにかいいか。今見えたらもっともっと確信をもって信じることができるのに・・・・それなのにイエス様の姿は見えない。しかし本当に目に見える方がいいのだろうか。ルカ福音書を読んで来て思うのは、イエス様を見ることができたからと言って、人はイエス様を受け入れて信じるわけではないということ。イエス様の奇跡を見ても、イエス様の力強い教えを聞いても、やはり信じない人たちはいた。そうすると、イエス様が見えたから信じやすいとか、見えないから信じにくいとか、そういうことはなである。

 イエス様はここでは、いなくなったのではない。姿が見えなくなっただけ。私たちは下手をすると、姿が見えなくなると、もういなくなったと考えてしまう。煙のように消えてなくなり、イエス様はどこかに行ってしまったと・・・。しかし聖書はそうは言っていない。「 その姿は見えなくなった」。姿が見えなくなっただけだ。イエス様はそこにおられたのだ。2人の弟子たちと共に。もう2人の弟子たちは、イエス様のお姿を見る必要がなくなったのだ。2人はイエス様が生きておられることを悟った。もう、見えていようがいまいが、復活のイエス様が共におられることを信じることができるようになったのだ。だからイエス様は目で見えるお姿をお隠しになられたのだ。実際、2人の弟子はイエス様が見えなくなったことを嘆いてはいない。「 イエス様、どこに行かれたのですか。早く戻って来てください 」と言ったとは一切書いてない。それどころか、2人は喜びに満たされて、他の弟子たちのところへ報告しに行くであるの。イエス様は生きておられる。2人は喜びに満たされて、エルサレムに引き返して行く。

 あるご婦人のお連れ合いが重篤な病になり、病院に入院していた。毎日、毎日、来る日も来る日も、ご主人の病院に通い、家に帰るのはもう日が暮れた夜・・・。暗い夜道をひとりで歩きながら、最初はこれから起こることを考えて不安になり、ため息ばかりをついていた。けれども、ある時、礼拝でこのエマオ途上の物語の話を聞いて、「 そうだ。イエス様は目に見えないけれども、この私とも一緒にあの夜道を歩いていてくださるのだ 」と気づかされた。それ以来、この方は病院の帰り、夜道を歩く時に、讃美歌を歌うようになった。賛美歌を歌いながら、目には見えないけれども今も復活の主が、この暗い夜道を自分と一緒に歩んでいてくださるという平安に包まれた。夜道はもう暗くはなかった・・・。2人の弟子が、エルサレムへと戻る道は、もう真っ暗な夜道になっていたに違いない。エマオに着いたときが、もう夕方だったのだから・・・。しかし2人には暗くはなかった。主が共にいてくださるから。その言葉を互いに歌い合うようにして、彼らはエルサレムへと急いだのではないか。イエス様のお姿は2人にはもう見えない。でも2人は知っていた。イエス様は私たちと一緒にいてくださるのだ。暗い夜道を軽やかに歩いていく姿。これがよみがえりの主と共に生きる私たち自身の姿なのである。

復活は、目に見えるということが問題なのではなく、「 イエス様は今も生きておられる 」ということに目が開かれ、そのことが分かるということなのである。復活のイエス様は御言葉の説き明かしと聖餐(パン裂き)を通して、分からせてくださった。御言葉を通して、2人の弟子の心は少しずつ燃やされて行った。主のよみがえりが聖書によって定められていたことの成就であることが説き明かされ、パンを裂かれるその仕草から弟子たちは、それがイエス様だと分かった。この2人の弟子は、最後の晩餐の席にいた弟子だとは考えられていないが、おそらくイエス様の最後の晩餐から十字架に至るまでのことは、11人の弟子たちから繰り返し、聞いていたであろう。それでパンを裂くイエス様のお姿に敏感に反応できたのだろう。復活の主は今も私たちと共に歩んでいてくださる。目には見えないが、礼拝の説教と聖餐を通して、私たちにも分からせてくださるのだ。 (2013年8月11日)

2013年8月13日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月12日~18日

8月12日(月)ガラテヤの信徒への手紙 4章21節~5章1節
 パウロは、自分の力で律法を守ることによるのでなく、神の約束に対する信仰を通して救われた者がアブラハムの祝福を相続する子孫であることを、旧約聖書から例証します。アブラハムには2人の子がいました。神がその誕生を約束してくださっていた正妻のサラを通して与えられたイサク。そしてイサクが中々与えられなかったときに、焦ったアブラハムが自力で子を残そうと、女奴隷ハガルによって設けたイシュマエルの2人です。祝福を受け継いだのは、約束によって与えられたイサクで、自力で設けたイシュマエルではありませんでした。同様に、私たちが神の祝福を受け継げるのは、私たちの正しい行いをすることが理由なのではなく、私たちが神の約束を信じているということによるのです。それにしても神の約束は何と力強いことでしょう。人間の罪による不信をも突き破って必ず成就するのですから。

8月13日(火)ガラテヤの信徒への手紙 5章2節~6節
  律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います 」(4節)。パウロは、神の恵みか、律法厳守か、二者択一を迫ります。キリストを完全に必要とするか、あるいはまったく必要としないか、中途半端に必要というのはありません。パウロは、割礼を受け、律法を守る必要はない。必要なのは<愛の実践を伴う信仰>だと言います(6節)。原文では、<愛を通じてエネルギーを発揮する信仰>です。自分の力で律法を守り、神の前に立てるなどと考えるところに神に対する愛は芽生えません。それはギブアンドテイクの対等な関係でしかありません。神の約束を信じることで何の功もない者を赦してくださるところにこそ、愛の関係は芽生えるのです。

8月14日(水)ガラテヤの信徒への手紙 5章7節~12節
  ガラテヤの教会の人たちを惑わす者に大変厳しい言葉を語るパウロです。自分の力でもって(律法を守って)、信仰生活の正しさを作って行って、「 自分は神の恵みを持っている、自分は神に救われている 」と自信を持って言える道を求めることは、再び不自由な生活に戻ることなのです。人は「 キリストの恵みだけで生きている 」という頼りないことでは困ると考え、「 自分の力で 」という面をことのほか大事にしようとします。それが人間らしい生き方だと思うからでしょう。しかし聖書の示す人間の生き方は、水泳をするのに似ています。自分の力で水に浮いて泳ごうとするといずれ力尽きて沈んでしまいます。体を水に委ね、水に支えられるとき、はじめて自分の力が泳ぐための有効な働きとなります。信仰もそれと同じなのです。

8月15日(木)ガラテヤの信徒への手紙 5章13節~15節
 「 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい 」(13節)。私たちは自由を与えられるために召されました。神がキリスト者に与えられた自由は肉の働く機会としても用いることができるし、愛の道に生きることもできます。「 隣人を自分のように愛しなさい 」(14節)、隣人を愛することなく、自分を正しく愛することはできないと聖書は言います。隣人を憎み、排除しているとき、必ずどこかで自分を深く傷つけているはずだと言うのです。自分を愛し、隣人を憎むような器用な生き方は私たちにはできないはずだと聖書は言うのです。

8月16日(金)ガラテヤの信徒への手紙 5章16節~26節
 ここでは、御霊に導かれる生活と肉の思いに突き動かされている生活と、2種類の生活が挙げられています。キリスト者の生活というのは、御霊に導かれる生活であって、自分の意志や決意によって歩む生活ではありません。「 わたしはこの道を行く 」と心定め、自分の前途を切り開いていくのではないのです。御霊が導いてくださるところに、私たち信仰者の進む道はできるのです。だから御霊の導きを求める祈りが必要ですね。旧約のイスラエルの民は、モーセを通して、神に導かれ、道なき荒野に道を見つけて進みました。しかしその道は神の与えてくださる約束の地へとちゃんとつながっていましたね。

8月17日(土)ガラテヤの信徒への手紙 6章1節~10節
  昨日の個所で御霊に導かれて歩もうと語ったパウロ。御霊に導かれて歩む中に生ずる実の最初のものは愛でした(5章22節)。ここでは、その愛が具体的にどういう形をとるかを語って見せています。もし兄弟が誤った道に陥ったら、正しい道に立ち帰らせるのです(1節)。マルコ1章19節を読むと、ヤコブとヨハネが舟の中で一緒に座り込んで網を繕っている情景が描かれています。兄弟を立ち帰らせるとは、兄弟の傍らに一緒に座り込んで、その人の破れた網を一緒になって繕い始めることなのです。破れた網を押し広げるような言葉を浴びせることではありません。

8月18日(日)ガラテヤの信徒への手紙 6章11節~18節
  11節を根拠に、パウロは目が悪かったのだと言われます。しかし、パウロは実際に目が悪くても、物事をきちんと見分ける目は確かでした。信仰者はどこに自分の望みを見出すか?パウロは自分の誇り、自分の喜びのありかをきちんと見分けています。「 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません 」(14節)。「 わたしはイエスの焼き印を身に受けている 」(17節)。当時、奴隷は主人のイニシャルの焼き印を体に押されました。屈辱的なしるしなのですが、パウロはイエス様の奴隷であることをこの上ない喜びと受け取っています。あなたはどこに自分の望みを見出しますか?

先週の説教要旨 「 主はあなたと共に歩まれる 」ルカ24章13節~35節
 2人の弟子のことが書かれている。2人は深い失意と悲しみの中にいる。その悲しみを互いに語りながら夕暮れの道を歩いている。聖書には、その彼らのところに、復活されたイエス様ご自身が近づいて、一緒に歩き始めたと書かれている。しかし2人の目はさえぎられていて、それがイエス様だと気がつかなかった。彼らの悲しみがあまりにも深かったからである。イエス様が死んでしまったという失望があまりにも大きかったから気がつかなかったのである。自分たちの人生をかけていたイエス様が殺され、望みを絶たれてしまった彼らに残され唯一の道は、かつて捨てたはずの生活に戻って行くことであったそれで2人は故郷のエマオの町へと向かっているす。時はもう夕暮れ、2人の心を映し出すかのようにあたりは次第に闇が深まっていく。彼らは本当の救い主であるイエス様のことが分からなくなってしまっていた。「 わたしたちは、あの方こそ、イスラエルを解放してくださると望みをかけていました 」とあめように、彼らはローマ帝国の手から祖国を解放する救い主であるとイエス様のことを見ていた。だが、イエス様はローマに捕らえられたとき、何の抵抗もせずに、あっさりと殺されてしまったのだ。それで救い主が何であるか、分からなくなってしまっているのだ。2人の悲しみ、失意、それらの根っ子にあることは「 救い主としてのイエス様 」が分からないということ。そのように、私たちも何か心くじけてしまう時、途方に暮れてしまう時、行き詰まり、失意に陥る時、私たちは「 救い主であるイエス様が分からなくなっている 」のではないか。「 今、共に歩んでおられるお方が・・・、この方が私に何をしてくださる救い主なのか 」、分からなくなっているのではないか。しかしもしイエス様のことが分かるようになれば、話は断然、違ってくる。「そうすると、私たちの人生は失意で終わらなくなる。くじけたままであることはなくなる。傷ついた心は癒され、途方に暮れたままで、人生の夕暮れを迎えることはなくなるのである。

 このあと、2人とイエス様との間には聖書を中心とした対話が生まれ、対話しながら歩いて行く。28節に「 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった 」とあるが、2人の弟子たちはエマオに着いた。そこはイエス様を信じる前にしていた生活を再び始めようとしている場所、失意のままの生活が始まる場所なのである。だがイエス様は、彼らの目指したエマオよりもなお先に進もうとされる。それはあたかも、「 失意のままで終わる生き方を、あなたたちのゴールとしてはならない。私たちはなおその先に進むのだ。このままで終わらせるわけにはいかない 」というイエス様の強い意志を示されているかのようである。

 イエス様は、救い主のことが分からなくなっている2人にそっと近寄って、一緒に歩き始められた。そして聖書から本当の救い主の働きについて、説明してくださった。その結果、2人の弟子たちの心は燃えた。イエス様との対話を通して、2人の心の傷は癒され、失われていた希望も復活して行く。最初、2人はつぶやいていたが、イエス様が一緒に歩き始めてくださると、そのつぶやきは訴えに変わり、訴えは会話となり、やがて信仰の告白となって行く。そうやって2人の魂は次第に癒され、魂は満ちたり、安らいで行く。私たちも礼拝の場で聖書の説教を通してイエス様と対話をし、つぶやきが、訴えに、訴えが信仰の告白へと変えられていく経験をする。そのようにしてイエス様は私たちを導き、私たちにと一緒に歩んでくださっている救い主がどういうことを私たちにしてくださるのか、分からせてくださる。

 夕暮れの道を歩く弟子たち、彼らの背後には、残してきたこと、成し遂げることができなかったことが一杯ある。失った大事なものが彼らの背後にはある。あるいはとりかえしのつかない失敗がある。できることなら、引き返して行って、その恥ずかしいことを流してしまいたいような数々のことが自分の過去を真っ黒に彩っている。そういうものを背負いながら夕暮れの道を歩いている・・・。私たちにもつらいこと、悲しいことが一杯ある。無念なことが一杯ある。ああすればよかった、こうしておけばよかったと思うことが一杯ある。とりかえしのつかないことが一杯、背後にある。私たちはそういうものを自分の肩の上に乗せて、この道を歩いている。人生と言う道を。だが、その私たちと一緒に復活の主も歩いていてくださる。そして私たちの言葉に耳を傾けていてくださる。悲しい話、悔しい話、つらい話、恥ずかしい話、キリストはそばで耳を傾けて、聞いていてくださる。私たちはどんなことだって、この方に話すことができる。なぜならこの救い主は、私たちの罪を知り、誰よりも私たちの罪を深く知り、そしてそういう私たちを受け止め、赦し、失敗だらけの私たちの人生をまるごと贖うために十字架についてくださった方だから。

このエマオ途上の物語は、有名な絵となって知られている。その絵は、夕暮れの絵ではなくて、朝の光が射す森の道をイエス様と共に歩く絵になっている。弟子たちは前方に広がる大きな光に向けて歩いている。作者は、復活の主と共に歩む道は前方に広がる光へと進んで行く道であり、次第に暗くなって行く歩みではないと、信仰を込めて、そのような絵にしたのであろう。私たちは夕暮れの道でなく、前方に光が広がる道へと、復活の主と共に進んでいるのである。2013年8月11日)

2013年8月5日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月5日~11日

8月5日(月)ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~21節
 ユダヤ人は、「 律法を持つユダヤ人=救われている、律法を持たない異邦人=罪人であり、救われない 」と、考えていました。しかしパウロは、人が救われる( 神に義と認められる )のはイエス・キリストを信じる信仰によるのであって、律法を持ち、それを守ることによるのではないと訴えます。それにしても20節の「 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです 」という御言葉は、何と慰めに満ちた言葉でしょうか。私たちはさまざまな重荷を負って生きています。しかしその重荷を、あなた一人で背負っているように思わなくてよいのです。キリストが背負ってくださっていると言えるほどに、キリストがあなたの人生を共に生き始めてくださっているのですから。

8月6日(火)ガラテヤの信徒への手紙 3章1節~6節
  ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち。・・・目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか 」(1節)。キリストを信じる信仰によって救いの道に入ったのに、いつのまにか律法を守って救われようとする、もとの考えに戻ってしまったガラテヤの人たち(3節)。私たちはいつも、目の前に十字架につけられたキリストを見ているように生きましょう。そうでなければ、私たちの生き方がどんなに成功しているように見えても、神の前には物分りの悪い生き方でしかないのですから。3節の「 はっきりと示された 」は、原語ではプラカードを掲げるという意味の言葉です。十字架につけられたキリストが描かれたプラカードを掲げたパウロが、威勢よく声を上げながら私たちの先頭を歩いています。

8月7日(水)ガラテヤの信徒への手紙 3章7節~14節
 10節以下で、祝福と呪いという言葉が交互に出てきます。呪いか祝福のどちらかしかない、二者択一だと言うのです。神の祝福のないところ、それは呪いでしかない。神様の祝福と呪いの間に「 中間 」はないのです。私たちは、いつでも自分は神様からの祝福が必要だと思ってはいない。しかしそうかと言って、呪われてもいいとも思わない、そんなどっちつかずの曖昧な信仰生活を送っていないでしょうか。どっちに立つか、聖書の福音は二者択一の選択を求めます。キリストは十字架につけられたご自分の姿を見せながら、今日も私たちを祝福へと招いておられます。

8月8日(木)ガラテヤの信徒への手紙 3章15節~20節
 パウロは、モーセを通して与えられた律法よりも、アブラハムを通して与えられた神の約束/契約の方が「 優位である 」ことを語ります。神のアブラハムとの契約は不変であり、その契約の後に登場するモーセの律法によって契約が破棄される事はないと。これは、神の約束/契約を信じることの方が、律法を守るということに先立っており、救いは律法を守るということではなく、信じることによるのだという論理です。約束/契約こそ聖書信仰の基調です。世間では、何かの取引する際に契約書が大事なことを知っていますから、絶えずその契約書を取り出してその内容を確認します。ならば私たちも日々、< 神との契約の書である聖書 >を取り出して、神の約束が今日も私の生活に生きていることを確かめましょう。

8月9日(金)ガラテヤの信徒への手紙 3章21節~29節
 神の約束が優位であるなら、律法は何のために存在するのか?パウロはその問いに答えています。律法はキリストのもとに導く養育係りであると(24節)。すなわち、律法は人間の罪を暴露しつつ( 人間は神の聖さの基準に到達できないものであることを示し )、私たちにはキリストの恵みが必要であることを指し示すのです。そして、キリストの恵みのみに生きる道を見出すよう働きかけるのです。それがキリスト者にとっての、神の律法のひとつの位置づけです。27節の「 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです 」には、大いに励まされます。たとえ凍えるような人生の歩みをしているときであっても、私たちは万全な防寒着を着させていただいているのですよ。

8月10日(土)ガラテヤの信徒への手紙 4章1節~7節
 律法を厳守することによって救われようとする( 律法の奴隷状態 )ことから解き放たれ、キリストを信じる信仰によって救われた私たちは、すべて神の子であるとパウロは語ります(26節)。そして今、私たちは御霊の働きによって、神を父と呼ぶことができるようにされています(6節)。私たちが神を父と呼ぶということは、大変難しいことなのです。御霊が与えられた初めて、神を父と呼べるようになるのです。もしあなたが自分の信仰に不安を覚えていても、祈りにおいて神を父と呼ぶことができるのであれば、あなたには間違いなく御霊が働いています。あなたにおける神の霊の働きを信じてよいのです。

8月11日(日)ガラテヤの信徒への手紙 4章8節~20節
  キリストのもとから落ちてしまったガラテヤの人たちのことを思い、深く悲しむパウロの心が伝わってくる箇所です。「 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます 」(19節)。パウロは途方に暮れて、教会のためにもう一度苦しもうとしています(20節)。このパウロのうめきは、イエス・キリストの十字架上でのうめきによって担われていますね。キリストも神の子を世に産み出すために、十字架の上で産みの苦しみを味わわれました。ひとりのキリスト者が生まれ、形作られるまでに、その陰で産みの苦しみを担ってくれた人がいるのですね。あなたの誕生の影にも。

先週の説教要旨 「 あの方はここにはおられない 」ルカ24章1節~12節

空になった墓の前で途方に暮れる婦人たち。この婦人たちについては8章1節~3節で「 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち・・・彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた 」と紹介されている。彼女たちにとってイエス様は命の恩人、イエス様にすべてを捧げ、喜ばれることをしたい、それが彼女たちの喜びとなり、イエス様に従っていた。しかし、あっと言う間にイエス様への反対者が起こり、一夜の裁判で、イエス様はあっけなく十字架につけられてしまった。婦人たちは自分の心が押し潰されるような気持ちになった。心の中心、自分を支えていた、頼りにしていたイエス様を失った。その絶望の中で婦人たちは、「 墓穴の中にあるイエス様の遺体を生涯かけて守ること 」、そこに唯一の慰めを見出そうとした。婦人たちは安息日が明けるとイエス様の本格的な葬りをしようとすぐに行動を開始した。ところが墓についてみると、墓の入り口の大きな石が転がしてあって、イエス様の遺体がない。墓は空になっている。婦人たちイエス様を奪われた喪失に、上塗りをされるような喪失を体験することになった。奈落の底に突き落とされた婦人たちは、最後の慰めをも奪われ、墓の中が空っぽというだけでなく、彼女たちの心も空っぽになってしまった。そして途方に暮れて墓の前に立ち尽くしている。人は生きていてれば、様々な喪失体験や無力さを味わう経験をする。しかしそれが主の御前にあるならば、その体験は空しいままでは終わらない。人は倒れてもいいのだ。主の御前に倒れるのであれば・・・。

婦人たちの前に突然、輝く衣を着た二人の人が現れる。天使だ。そのまばゆいばかりの光に触れて婦人たちは地にひれ伏した。光の圧倒的な力の前に身を伏せた。それはあたかも神の世界と人間の世界とが衝突したまさにその地点に立たされたようであった。婦人たちは塵と灰からなる人間として、地に顔を伏せた。ただ聴く者としてある他はなかったのである。そこに御言葉が語られる。「 なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか 」と。 イエス様の復活を告げる神の言葉が、地に身を伏せるものたちのところに到来した。天からの光は夜の最も深いところに到来した。一切のことの果て、人間の理性の尽きるところ、自分の願望といったものの終わりの地点に立つ者のところに到来したのだ。倒れてもいい。主の御前になら。この祝福があるから。婦人たちは天使の言葉を聞いてイエスの言葉を思い出した。ここでの思い出すは、思い当たると言い換えるとよい。自分の中にとどまっていた言葉が、何かの経験、何かの出来事を契機として思い起こし納得すること、それが思い当たること。納得するのである。私たちは礼拝で御言葉を聞き続けている。聞く御言葉は、今日は役に立たないかも知れない。だが、それは決して無意味なことではないのだ。私たちも「 思い出しなさい 」と語られる時が来るかも知れない。いつか思い出す時のために、私たちは御言葉を聴き続ける、そういう面もあるのである。

途方に暮れていた婦人たちの虚しさは、単にイエス様の遺体がなくなってしまったという外面的な問題だけでなく、「 イエス様は救い主であると思ってついて来たけれども、そのイエス様がどういう方であるか分からなくなってしまっている 」、そういう内面的な問題も含まれている。イエス様はいかなる救い主であるのか。彼女たちは生涯かけてイエス様の遺体の番をすることで、ささやかにも自分のイエス様への愛を全うし、そこに最後の慰めを見出そうとした。だが、そのような生き方は死の支配する領域の中に救い主イエス様を閉じ込めてしまうことであり、それは正しい仕え方ではない。自分が慰めを必要とする時にいつでも自由に取り出すことのできる人間の管理下に置かれている救い主は、真の救い主とは言えない。復活のイエス様はそのような小さな救い主ではないのだ。イエス様は死を突き破った命の世界、永遠の命へと広がる世界に立っておられる救い主なのである。私たちは、死んだらすべてが終わりという世の人生観に生きていて、それでいてそのような地上の人生を有意義にしてくださる方として救い主を仰いでいることはないか。そのような信仰は必ず空しい空の墓を見させられる結果を招く。たとえそれが婦人たちのように熱心な信仰であっても・・・。復活を信じる私たちは、死に支配されない、死を越えた望みに生きることができる。その生活の中でイエス様に仕えるのである。

 今朝の箇所には、もうひとりの大切な人が登場する。弟子のペトロ。彼もこのとき、無力さに立ち上がれないでいた。イエス様を裏切ってしまった弱さと無力感の中にいた。他の弟子たちは婦人たちの証言を「 たわ言 」と片付けたが、ペトロは違った。立ち上がって墓に向かって走った。この「 立ち上がる 」という言葉は「 復活 」と訳される言葉である。この時点でペトロがイエス様の復活を信じたとは書かれていないが、このときからペトロの立ち直りは始まったのだと、ルカは記しているのである。死という限界に足踏みすることなく、走り始めるペトロの姿は、イエス様に聞いて生きる私たちの姿なのではないか。  2013年7月28日)