成瀬教会 <聖書日課> 6月24日~6月30日
6月24日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章12節~20節
コリントの教会の男性たちの中には、平気で買春する者がいました(15節)。信仰は精神的なものであり、魂に関する事柄である。だから救いとは関係ない肉体の欲望をどのように処置しようが問題ないと考えたのです。しかし、救いというのは魂だけでなく、肉体にも関わるものであるとパウロは言います(13節~14節)。聖なる神の霊は、私たちの肉体をその住まいとしてくださっているほどです(19節)。神の聖さを知る者には、これは驚くべき事です。この恵みの事実に立つならば「
わたしには、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない 」(12節)というパウロの言葉が、自分の行動基準となるでしょう。
6月25日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章1節~7節
性欲が問題になっています。パウロにはコリント教会の人から質問が寄せられていて(1節)、それは6章16節~18節にあるように娼婦と交わることがいけないならば、それは性欲そのものを禁じると言う事ですか?と言う内容だったようです。パウロは夫婦以外の性関係は否定しますが(1節)、性欲そのものは否定せず、それを満たすために不品行をするなら、むしろきちんと結婚しなさい(2節)と言います。パウロはさらにこうも言います。結婚は、相手に縛られることである(4節)。自分は相手のためにあり、相手に対して責任がある存在になること、それが結婚。不自由と言えば不自由。しかしそのように互いを引き受けて行くことの中で深められて行くのが結婚の愛なのです。単に好きというレベルでは続かない生活なのです。
6月26日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章8節~16節
未信者の連れ合いと結婚生活を送ることへの是非が問題になっていたようです。パウロの主張は、神はあなたがたが平和な生活を送るようにと召された(15節)ということにあります。ここでの平和な生活とは、何よりも神との平和を指しています。あなたが神からの平安をいただいて、その平安をもって連れ合いに接することが大事であって、自分が連れ合いを何とか信仰に導かないといけないと焦る必要はない(16節)とパウロは言います。14節の言葉は、神にすべてをお任せして、神の平安の中に立っているパウロの姿勢から生まれたものです。そのように、広い心で接していれば、もしかすると神が願いにまさる信仰の奇跡を連れ合いにも起こして下さるかも知れないという明るい望みを見ている人の言葉なのです。
6月27日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章17節~24節
21節の言葉からパウロは奴隷制度を肯定していたと誤解されることがあります。でも違います。人は皆、何か気にすることを持っている。奴隷であるとか、容姿が悪いとか、口下手だとか、財産がないとか、家族にこういう者がいるとか・・。しかし、キリストの奴隷となった者は(22節)、気になることがなくなる。それらから解き放たれ、自由になる。けれども救われた後も、そういうことを気にするあまり、奴隷であることをやめようとするのはおかしい。救われた時の自分をそのまま受け入れ(24節)、それを気にしなくなる時から、本当の意味で、キリストの奴隷として自由に生き抜く歩みは始まるのです。何か気にしていることがありますか?
6月28日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章25節~40節
コリントの教会の人たちは「
世の終わりが近い 」という切迫感を持っていました(26節、29節、31節)。そこで、こんな時に結婚を考えてもいいのか?という議論があったようです。その背景を無視してここから結婚の原則を読もうとすると誤解を生じます。しかし、私たちも定められた時が迫っている(主は来られる)という緊張感を忘れていないか?自らに問う必要はあるでしょう。主が来たりつつある時を私たちは生きているのです。そのことを知るとき、私たちの生活はどうすれば主に喜ばれるか(32節)、ひたすら主に仕える(35節)ことができるか?それを判断の軸にした生活になっていきます。この世に自分の命を預けてしまうような生き方(31節)は、自然とその姿を消して行くことでしょう。
6月29日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章1節~6節
コリントの町には、たくさんの偶像の神々があり、町の市場には、それらの偶像に供えられた動物の肉が出まわっていたようです。そこで教会内にそのような肉を食べて良いのか?それを食べると滅びるのでは?という議論が起きました。パウロは、その問いへの具体的な答えを7節以降で示しますが、それに先だって考え方の基礎を提示しています。中心は4節です。偶像の神など存在しない。ありもしないものを恐れず、唯一の神が万物の源であると知りなさい(6節)。偶像何するものぞと、唯一の神に愛され、知られ、支えられていることを堅く信じればよい(3節)。
6月30日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章7節~13節
偶像の神々など本当は存在しないのだから、そこに供えられた肉を食べても全く問題はありません。しかし、そのような知識を誰もが持っているわけではなく、ある人はクリスチャンになった後もそれを食べると汚されると思い込んでいます(1節)。パウロは、そのような人たちを罪に誘うなと言います(9節)。つまり、知識を持たないそのような人が、堂々と肉を食べている人を見て、本当は心の中で整理がついていないにもかかわらず、見よう見まねで肉を食べる時、その人はいつまでも良心がさいなまれることになります(11節)。その場合、知識のある人は兄弟をつまずかせたのであり、キリストに罪を犯したことになるのです(12節)。食べても平気と分かっていても、兄弟に配慮して食べない。それが信仰者の判断です。