2013年6月24日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月24日~6月30日

6月24日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章12節~20節
  コリントの教会の男性たちの中には、平気で買春する者がいました(15節)。信仰は精神的なものであり、魂に関する事柄である。だから救いとは関係ない肉体の欲望をどのように処置しようが問題ないと考えたのです。しかし、救いというのは魂だけでなく、肉体にも関わるものであるとパウロは言います(13節~14節)。聖なる神の霊は、私たちの肉体をその住まいとしてくださっているほどです(19節)。神の聖さを知る者には、これは驚くべき事です。この恵みの事実に立つならば「 わたしには、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない 」(12節)というパウロの言葉が、自分の行動基準となるでしょう。

6月25日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章1節~7節
  性欲が問題になっています。パウロにはコリント教会の人から質問が寄せられていて(1節)、それは6章16節~18節にあるように娼婦と交わることがいけないならば、それは性欲そのものを禁じると言う事ですか?と言う内容だったようです。パウロは夫婦以外の性関係は否定しますが(1節)、性欲そのものは否定せず、それを満たすために不品行をするなら、むしろきちんと結婚しなさい(2節)と言います。パウロはさらにこうも言います。結婚は、相手に縛られることである(4節)。自分は相手のためにあり、相手に対して責任がある存在になること、それが結婚。不自由と言えば不自由。しかしそのように互いを引き受けて行くことの中で深められて行くのが結婚の愛なのです。単に好きというレベルでは続かない生活なのです。

6月26日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章8節~16節
   未信者の連れ合いと結婚生活を送ることへの是非が問題になっていたようです。パウロの主張は、神はあなたがたが平和な生活を送るようにと召された(15節)ということにあります。ここでの平和な生活とは、何よりも神との平和を指しています。あなたが神からの平安をいただいて、その平安をもって連れ合いに接することが大事であって、自分が連れ合いを何とか信仰に導かないといけないと焦る必要はない(16節)とパウロは言います。14節の言葉は、神にすべてをお任せして、神の平安の中に立っているパウロの姿勢から生まれたものです。そのように、広い心で接していれば、もしかすると神が願いにまさる信仰の奇跡を連れ合いにも起こして下さるかも知れないという明るい望みを見ている人の言葉なのです。

6月27日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章17節~24節
 21節の言葉からパウロは奴隷制度を肯定していたと誤解されることがあります。でも違います。人は皆、何か気にすることを持っている。奴隷であるとか、容姿が悪いとか、口下手だとか、財産がないとか、家族にこういう者がいるとか・・。しかし、キリストの奴隷となった者は(22節)、気になることがなくなる。それらから解き放たれ、自由になる。けれども救われた後も、そういうことを気にするあまり、奴隷であることをやめようとするのはおかしい。救われた時の自分をそのまま受け入れ(24節)、それを気にしなくなる時から、本当の意味で、キリストの奴隷として自由に生き抜く歩みは始まるのです。何か気にしていることがありますか?

6月28日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章25節~40節
  コリントの教会の人たちは「 世の終わりが近い 」という切迫感を持っていました(26節、29節、31節)。そこで、こんな時に結婚を考えてもいいのか?という議論があったようです。その背景を無視してここから結婚の原則を読もうとすると誤解を生じます。しかし、私たちも定められた時が迫っている(主は来られる)という緊張感を忘れていないか?自らに問う必要はあるでしょう。主が来たりつつある時を私たちは生きているのです。そのことを知るとき、私たちの生活はどうすれば主に喜ばれるか(32節)、ひたすら主に仕える(35節)ことができるか?それを判断の軸にした生活になっていきます。この世に自分の命を預けてしまうような生き方(31節)は、自然とその姿を消して行くことでしょう。

6月29日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章1節~6節
  コリントの町には、たくさんの偶像の神々があり、町の市場には、それらの偶像に供えられた動物の肉が出まわっていたようです。そこで教会内にそのような肉を食べて良いのか?それを食べると滅びるのでは?という議論が起きました。パウロは、その問いへの具体的な答えを7節以降で示しますが、それに先だって考え方の基礎を提示しています。中心は4節です。偶像の神など存在しない。ありもしないものを恐れず、唯一の神が万物の源であると知りなさい(6節)。偶像何するものぞと、唯一の神に愛され、知られ、支えられていることを堅く信じればよい(3節)。

6月30日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章7節~13節
 偶像の神々など本当は存在しないのだから、そこに供えられた肉を食べても全く問題はありません。しかし、そのような知識を誰もが持っているわけではなく、ある人はクリスチャンになった後もそれを食べると汚されると思い込んでいます(1節)。パウロは、そのような人たちを罪に誘うなと言います(9節)。つまり、知識を持たないそのような人が、堂々と肉を食べている人を見て、本当は心の中で整理がついていないにもかかわらず、見よう見まねで肉を食べる時、その人はいつまでも良心がさいなまれることになります(11節)。その場合、知識のある人は兄弟をつまずかせたのであり、キリストに罪を犯したことになるのです(12節)。食べても平気と分かっていても、兄弟に配慮して食べない。それが信仰者の判断です。

2013年6月18日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月17日~6月23日

6月17日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章10節~17節
  建物の土台は、建築家などの専門家でなければ、あまり人目をひかないものです。皆、土台の上にのっかっている部分だけに関心が向いてしまいます。しかし、建物を根底から支えているのは土台なのです。あまり人目につかないけれども、しっかりと建物を支えている、それが土台です。パウロは、私たちの人生の土台にはすでに「 イエス・キリスト 」が据えられているのだと語ります(11節)。その土台は、私たちのうつろいやすい目にはとまりにくいのですが、確かに私たちの人生を根底で支えていてくださるのです。だから、その土台にふさわしい上物(私たちの人生)を建て上げようとパウロは勧めます。

6月18日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章18節~23節
  だれも自分を欺いてはなりません 」(18節)。これは、すぐ前の17節で「 あなたがたはその神殿なのです 」と言われた言葉とつなげて読めば、「 すでに神の霊が住む神殿となっている自分を欺くな 」と言う意味であると分かります。それでは、自分を欺くはどういう事でしょうか?パウロは、それをこの世の知恵とのかかわりで述べます(18節~20節)。この世の知恵は、「 神などいない 」と言って自らの知恵を誇ります( 口語訳 詩編14編1節参照 )。しかし、キリスト者は、すべてが神のものであることを知っています(22節~23節)。キリスト者がまるで神などおられないかのような生活をしてしまうこと、それが自分を欺くことなのです。「 神を軽んじる生活は、実は自分自身をも傷つける生活になっている 」のです。

6月19日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章1節~5節
  コリントの教会では、パウロ、アポロなどの伝道者たちを裁いて( 評価して )、それぞれに自分の好みの伝道者を支持して分派活動が起こっていました。人を評価することは、ある意味でその人を支配することになります。しかしパウロは、あなたがたに評価されても少しも問題ではない、いやそればかりか自分で自分を評価することさえしないと言います(3節)。私たちの誘惑は、絶えず人々の評価にさらされるし、自分でも自分を評価する心から自由になれないところにあるでしょう。しかし評価すること、されることに心奪われることは、神が喜ばれることではありません。なぜなら、そのとき、すべての人を評価されるお方は、神様であることを忘れているからです(4節)。

6月20日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章6節~13節
  コリントの教会の人々は、神様からいただいた賜物が大きく豊かであったために、非常に高ぶって伝道者たちを裁き、勝手に上に立つ王様になっていました(7節~8節)。そこで、彼らに裁かれ続けているパウロの言葉です。「 わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています 」(10節)。「 侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています 」(12節~13節)。侮辱に対して呪いの言葉を返すのではなく、祝福を返す。下に立ちながら祝福するのです。十字架につけられたイエス様をほうふつとさせます。パウロのこの低さの秘密はすべての人の賜物は、神様からいただいたもの(7節)、との受け止め方にあります。心に刻みたい姿勢です。

6月21日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章14節~21節
  そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい 」(16節)。倣うとは、まねることです。「 わたしに倣え 」とは、ずいぶん傲慢な言葉に聞こえるかも知れません。しかし、昨日の箇所で教会の人々の高ぶりを戒め、低きところに立たれたキリストを指し示したパウロの言葉とあれば、決して高ぶりの言葉には聞こえません。そうです。これは、神様の恵みのみによって自分は生かされている、と実感しているからこそ言える言葉なのです。自分の立派さを誇る者には決して言えない言葉です。欠けの多いこんな私でも神様の恵みに支えられて、こうやって生きることができている。主を証しする信仰者の姿は、最後はそこに行き着きます。

6月22日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 5章1節~13節
  コリントの教会は、教会外の人が聞いても驚くような問題を抱えていました(1節)。しかし、そのような問題が現れてきた時に、彼らは何もせずに放置していました。パウロは一貫してそれを取り除けと言います(7節、13節)。そして主の十字架の出来事によって(7節)、私たちにはすでに罪というパン種のない清い心で過越を祝えるようにされているのだから(8節)、もし、なおそのところで誠実でなければ主の十字架の恵みを十分に受け入れることを拒否することになると言います。主の恵みに応えて精一杯、罪と闘うパウロ。私たちの立つべき所が示されています。

6月23日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章1節~11節
 コリントの教会では、教会内の争い事を一般の裁判所、すなわち信仰を持たない人々に訴えて解決しようとする動きがあったようです(1、4、6節)。そのような事をするあなたがたはすでに負けていると、パウロは言います(7節)。教会の外と内とでは、問題の解決の仕方が違うからです。外の裁判では、どちらかが正義でどちらかが不義という形で決着します。しかしパウロは「 なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのですか 」と問うています。信仰の世界では、相手が間違っていて自分が正しい状況にあっても、そこで自分の正しさを貫いたがために、相手の立ち直りを閉ざす結果となるなら、その対応は誤まりとなるのです。キリストは、どのようにして不義な私たちを立ち直らせてくださったか?これが教会の問題解決法です。

先週の説教要旨 「 主イエスの沈黙 」 ルカ22章63節~23章12節

  イエス様が十字架の死へと向かわれる受難の物語を読み進めている。祭司長たちに逮捕されたイエス様は、裁判にかけられる。今日はその裁判の箇所。それにしても何という皮肉なことか、イエス様が裁かれた。本来ならば、裁く方は神であるイエス様なのに、イエス様が人間の手によって裁かれている。イエス様が裁かれたこの箇所には、ずいぶん多くのイエス様に向けて「 信仰告白 」の言葉がある。67節「 お前がメシアなら 」、70節「 では、お前は神の子か 」、そして23章3節「 お前がユダヤ人の王なのか 」。すべて尋問の形だが、ここには確かにイエス様に対する信仰を私たちが告白する時に用いられる言葉がある。イエス様はメシア、神の子、そして王・・・。ピリポ・カイザリヤでイエス様がペトロにお尋ねになったことがあった。「 人々は私のことを何者だと言っているか ・・・あなたはどう思うか 」と。ペトロが「 あなたこそ、メシア、生ける神の子です 」と答えると、イエス様は「 あなたの上にわたしの教会を建てる 」との約束を宣言された。あなたがしたその信仰告白の上に、私は、わたしの教会を建てるのだと・・・。後にこのときの「 あなたこそ、メシア、生ける神の子です 」というペトロの告白の言葉は、教会の信仰の要となる告白になった。それほどに重い、信仰告白の言葉がここには出てきているのである。しかし・・・何と痛烈な皮肉か、イエス様を慕っていた者たちの口によってこのような告白がなされたのではない。イエス様を十字架にかけて殺したい、そう思っている人たちの口からこれらの言葉が出たのである。しかもこの告白の言葉が、イエス様の有罪、すなわち「 神への冒涜罪 」を確定させるための鍵の言葉になっているのだ。本来、イエス様が救い主キリストであるかどうかを問うということは、もっと真剣な、自分の生き方、人生の全てがそこにかかっているような問いであるはず。その問いへの答え次第で、自分の生き方が変わり、新しい人生が始まるような問いであるはず。そういう人生をかけた真剣さがこの問いには全くない。だからイエス様はお答えになられない。

 元来、神様は私たちが信頼すべき方であって、私たちが裁く相手ではない。だがここでは全く反対のことが起こっている。だが、よくよく自分自身のことを顧みてみると、私たちもまたしばしば神を裁く過ちを犯してしまうのではないか。たとえば、説教を聞くということ。説教というのは、牧師という神によって召し出されたひとりの人間がしていることだが、そのときに、これを牧師という一人の人間の語る言葉として聞くのではない。このひとりの人間の口を通して、神が私たちに語っておられるのだ、そういう信仰をもって聞かれる言葉なのである。しかしながら、私たちは説教を聞きながら、自分が気に入ったことだけを神の言葉として聞こうとしてしまう。つまり、そこで裁いているのである。気に入った言葉は持って帰るけれども、気に入らない言葉はそこに置いて帰る。本来は、自分に気に入ろうが、気に入るまいが、これは神の言葉として、神が与えてくださろうとしている言葉として、神への信頼に立って聞く言葉なのである。しかし、それを自分が気に入るか、気に入らないか、ということで裁き、より分けて、聞こうとしてしまう。それもまた、神を裁くことなのではないか。神が語られる言葉であるならば、それをアーメンと言って受け止めます。それが信仰・・・。今朝の教会学校は、モーセがエジプトの王パロのもとに遣わされ、イスラエルの民を解放せよと、訴える場面。自信のないモーセに神は杖を持たせ、それを蛇に変えるという奇跡を授けた。だが、その奇跡を見てもパロは心を動かさず、かえって頑なになった。大人は、何でこんな役にもたたない奇跡を神は与えられたのかと、考えてしまうかも知れない。だが説教を聞いた1年生の子どもの受け止め方は全然違った。パロはモーセを通して聞かされた神様の言うことを聞かなかった・・・。でも僕は聞くよ。神様に造られたのだから・・・と言ったのである。神様に造られた自分なのだから、神の言われることを聞くのは当然だというのである。これぞ、幼子のような信仰だと、心を打たれた。幼子は全幅の信頼をもって神の言葉を聞く。これは役に立つ、これは役に立たないと、裁きながら、役に立ちそうな言葉だけを聞くようなことはしない。

 もうひとつ心に留めたい。ヘロデの裁判で、イエス様が沈黙されていたこと。なぜ、弁明なさらないのか。一般に、裁かれる人間はたとえ訴えられている通りの罪を犯しているとしても、何とかして言い逃れの道を探すもの。弁解する。少なくとも罪を軽くしてもらおうと必死になる。しかしイエス様は黙っておられる。なぜか。旧約時代の預言者イザヤは、その沈黙の秘密をこのように語ってくれていた。「 彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。・・・わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった 」。イエス様の沈黙から「 私はあなたがた罪人のために来たメシアだ。だからこれでいい 」との声が聞こえる。
                                                  2013年6月9日)

2013年6月10日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月10日~6月16日

6月10日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章4節~9節
   パウロの手紙は、口述筆記でなされています。パウロが語り、傍らで誰かが筆記したのです。パウロは、最初の挨拶に続いて何を書こうかと迷ったことでしょう。とにかくコリントの教会は、問題の多い教会でしたから・・・。しかし、パウロはあなたがたが神の恵みを受けていることを感謝することから始めます(4節)。そして、その恵みを具体的に挙げてみます(5節~9節)。パウロの問題解決法の原点、それは「 あなたがたはすでに恵みを受けている 」と、すでに神の御手の中にある自分たちに気がつかせることでした。私たちも様々な問題に直面する時、この視点からの見直しが必要でしょう。

6月11日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章10節~17節
  コリントの教会は、教会内部で分裂してしまっていたようです。パウロを支持するパウロ派、ケファ(ペトロのこと)派、アポロ派、キリスト派(??)と言った具合です(12節)。どの先生から洗礼を受けたかで、教会員が分裂してしまったのです(13節~16節)。パウロは言います。「 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか 」と。分派は、十字架の上で肉体を裂かれたキリストを再び、分けてしまうことなのだと言うパウロ。ここには、痛みの伴う教会内の問題を、キリストがどれほどの痛みを感じつつ、これをご覧になっておられるか?というキリストの視点からものを見ようとする姿勢がありますね。私たちもキリストのように考え、キリストのように感じる、キリストの視点からの見方を大切にしていきたい。

6月12日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章18節~25節
   ユダヤ人はしるしを求めます(22節)。しるしは、奇跡という意味の言葉で、「 奇跡を起こすほどの力があることを見せて見よ 」という要求なのです。このような姿勢は、自分が神様の力を評価し、自分が納得できるほどの力でなければ、私が従うべき神様には値しないという傲慢な考え方に結びつきます。私たちは神様とどのような関わりを持っているでしょうか?しかし、神の力と知恵は、自分の知恵で測り、神をあなどるような者を滅ぼす形ではなく、かえってその人を生かす形で現されました。それがイエス・キリストの十字架の出来事であり、「 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い 」(25節)とは、そのことです。主の憐れみに満ちた知恵と力とを私たちは信頼してよいのです。

6月13日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章26節~31節
 コリントの町は、自由人よりも奴隷の人口の方が多く、教会もそれを反映して奴隷が多く集まる教会でした。しかし教会の中では、奴隷も自由人も区別はなく、社会では奴隷でありながら教会では長老になっているという事も実際にあったと伝えられています。教会の中では、社会の価値観と全く異なる驚くべき事が起きていたのです。しかし教会生活が長くなると、そのような事も驚くべき事として見られなくなり、新鮮さを欠いた無感動の病に毒されることがあります。「 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい 」(26節)とは、いつも恵みの原点に立ち帰るように、とのパウロのすすめです。

6月14日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章1節~5節
  パウロがコリントの町で伝道した時に、どのように伝道したかが語られています。彼は、「 衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした 」(3節)。彼は、自分の伝道の言葉が人々の心をとらえるか?不安にかられたのです。パウロが十字架の言葉に集中して語っていく時、人々はそれだけですか?と問い返すかも知れない。パウロの知識をもってすれば、そのような人々の要求に答える多くの言葉を語れたことでしょう。しかし、パウロは十字架につけられたキリスト以外は知るまい、語るまいと決めたのです(2節)。それは、人々が愚かだと思うような十字架の言葉こそが、神の力が圧倒的に働く場だからなのです。十字架につけられたキリストの言葉に根差そうとする生活は、神の力が圧倒的に働く場となります。

6月15日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章6節~16節
   霊は一切のことを、神の深みさえも究めます 」(10節)。聖霊は、神の霊ですから神の深みを究めるのは当然と思うかも知れません。しかし、パウロが言いたいことは、その聖霊が私たちにも与えられ、それによって神からの恵みを知ることができるようになった(12節)と言うことです。自分は聖霊が与えられていないのではないか?といぶかることはありません。キリストの十字架の出来事を恵みだと知る者は、確かに神の霊を受けているのです。私たちは、聖霊の働きによって、さらに神の恵みを深く知ることができるし、それが許されているのです。聖霊がいよいよ私たちの内に豊かに働かれることを祈りの中核としましょう。

6月16日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章1節~5節
 パウロは語ります。「 あなたがたには、霊の人ではなく、肉の人、つまりキリストとの関係では乳飲み子である 」(1節)と。とても厳しい言葉です。コリントの教会には豊かな賜物があり、自分たちこそは大人であるとの自負がありました。パウロはそのような人たちに、あなたたちの信仰は子どもだと言うのです。それは分派活動をし、ねたみや争いを捨てないからでした(3節~4節)。彼らは「 信仰において行動している 」と口では言いながら、実はちっとも神様を大切にしていないと言うのです。反対に信仰の大人は、人間の手によるすべての働きの背後に、神様のお働きをしっかりと見ようとします(6節~7節)。分派の相手の背後にさえも。

先週の説教要旨 「 恐れて裏切り 」 ルカ22章47節~62節

家で家族と話をしていて、ひょいと信仰のことを聞かれる。「 教会では、こういうことをどう教えているのか・・・」。それはね、と一応答えながら、心の中ではどうも自分が動揺していると感じる。それはね、と言ってしゃべっていることに自分は確信を持てていない。しゃべりながら、自分は本当に今、しゃべっていることを信じているだろうかと不安になる。そういう経験をなさったことがあると思う。自分の中に不確かさがあり、それゆえに私たちは確かさを求めようとする。しかし、そういう確かさを自分の中に求めることはやめた方がいいのである。そうではなくて、不確かな自分さえも、神様はとらえていてくださるし、そういう自分さえも神様は確かに用いていてくださる。自分の確かさではなく、神様の確かさを信じる、それが信仰の急所なのである。今朝のペトロの物語も、自分の確かさではなく、神の確かさに信頼することを語っている物語である。

ペトロは捕らえられたイエス様のあとを追い、大祭司の屋敷へと入り込む。このとき、ペトロには相当の覚悟があった。敵の本拠地に単身で乗り込んで来たのだから。ペトロの覚悟を支えていたのは、「 主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております 」と言ったあの言葉。一度は、イエス様を見捨てて逃げ出したものの、イエス様に自分の覚悟は確かなものであることを証明するためにも、勇気を出してイエス様のあとを追って来た。しかし、2度ならず、3度までもペトロはイエス様との関係を否定してしまう。1度目、2度目のときは、まだ自分はイエス様との関係を決定的に否定したとは思っていなかったのだろう。周りの目をうまくごまかしながら、イエス様に決定的な場面が訪れたら、自ら皆の前に出て行って「 私はあの人の弟子だ 」と言って、イエス様を守ろうと立ちはだかるつもりだったのかも知れない。しかし3度目にペトロが否認をした時、ペトロは初めて自分がイエス様を否認したことを認めざるを得なくなった。なぜか。3度目のときは、主が振り向いてペトロを見つめられたからである。「 主は振り向いてペトロを見つめられた 」。これはルカ福音書だけが書き残している言葉で、「 振り向いて 」という言葉はルカでは主語がいつもイエス様で、多くの場合、イエス様が振り向かれた後に大切に教えを述べ始められる。ところがここでは、イエス様は一言もおっしゃられない。ただ、じっとペトロを見つめられるだけ。しかしペトロはこのまなざしにとらえられたときに、イエス様の無言の語りかけを聞いた。そして「 今日、鶏が鳴く前にあなたは三度、私を知らないと言うだろう 』との主の言葉を思い出した。思い出したというのは、忘れていたということはなくて、その言葉を無視したということだろう。誰だって自分の弱さを指摘する言葉をあまり聞きたくはない。自分で自分の弱さや欠点を口にすることはできる。けれども、それを自分以外の人に言われると、しゃくにさわって受け入れがたくなってしまうのが私たちではないか。

 しかしイエス様のまなざしによる無言の語りかけで、ペトロは自分がイエス様の言われた通りの人間だということをどうしても認めざるを得なくなってしまった。自分の覚悟は不確かなものでしかなかった。イエス様の言葉こそが確かだったと・・・。ペトロは外に出て激しく泣いた。だからと言って「 自分は悪かった。間違ったことをした 」と、大祭司の中庭に戻って来て「 自分もあの人の仲間だ 」と言ったのではない。そこに不確かさを抱えた私たち人間の悲しみが極まっていると思う。

だが、イエス様がペトロに向ける思いは、挫折したペトロを冷たく見捨ててしまうものではない。今朝は、民数記6章のアロンの祝福を合わせて読んだ。「 願わくは主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように 」。旧約聖書は、神が御顔を向けてくださることこそ、神の祝福だと語る。それゆえ詩編には、御顔を向けてください、御顔を背けないでくださいとの祈りが頻出する。神が御顔を向けてくださるとは、あなたを祝福しようとなさる神の意志のあらわれであることをユダヤ人は知っていた。ペトロは・・・イエス様が振り向いて御顔を向けてくださった、そして無言のまなざしを向けてくださったことに、変わることのない自分への主の祝福を感じたのである。そこに涙があふれた。ペトロはこのとき、「 シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った 」という主の言葉もまた、思い出していたかも知れない・・・。不確かさを抱えるがゆえに、転ぶペトロ。そのたびに主の愛の確かさによって立ち上がらせていただける、それが私たち信仰者の歩みなのである。「 七転び八起き 」という言葉は、起き上がりが1回多い。これは赤ちゃんが生まれて初めて立ち上がったときのことを1回と数えるかららしい。赤ちゃんの最初の立ち上がりは、赤ちゃんの自力によるものではなく、無力のままに生まれてきても、周りの人たちの支えがあって立ち上がれたということ。そしてそれ以降の7回の立ち上がりもすべて、守りの人の支えがあっての立ち上がりを示しているそうだ。これは私たちの信仰によく似ている。不確かさを抱える私たちは7の70倍も倒れることがあろう。だがそのたびに主の確かさが7の70倍も私たちを立たせてくださるのである。2013年6月2日)

2013年6月4日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月3日~6月9日

6月3日(月)マタイ27章57節~61節
   アリマタヤ出身のヨセフ。彼は金持ちで、まだ誰も入っていない新しい墓を所有していました。彼は、長くイエス様のことを思っていましたが、恐れからそれを公に告白出来ないでいました(ヨハネ19章38節)。しかし、イエス様の死に直面したとき、思い切ってイエス様の遺体を引き取り、自分の墓に収めようと決心したのです。最後の最後で勇気を出したヨセフの墓は、イエス様の復活の光が輝く場となりました。人を恐れるあなたの生活も、イエス様のためにと、少し勇気を出して一歩踏み出せば、そこはイエス様の復活の栄光が輝く恵みの場としていただけるのです。消極的な信仰でも神様はちゃんと働く場所を用意していてくださいますよ。

6月4日(火)マタイ27章62節~66節
   イエス様の復活は、ある人々にとっては「 前よりもひどく惑わされることになります 」(64節)という不安をもたらしました。イエス様のことを「 人を惑わすあの者 」(63節)と言い放った人々は、不安にかられ、良心のうずきを押さえ込むのに汲々としたのです。しかし、信じる私たちにとっては、復活のイエス様に出会うことは、大きな平安をもたらします。死んだらすべてが終わりという考えが根底から覆され、その日から世界観がまったく変わってしまう、見るものすべてが新しく見える素晴らしい出来事となるのです。神があなたと共におられるのですから。死の恐れから解放されている者ほど、この世で強く、そして自由な者はありません。

6月5日(水)マタイ28章1節~10節(Ⅰ)
   復活の日の朝、2人のマリアは一路イエス様の遺体の収められた墓に向かいました。葬りが安息日間近であったため、正式な埋葬処理をしてあげられなかったからです。イエス様を思う気持ちが2人の婦人を早朝から動かします。しかし実のところ、2人の婦人の思いをはるかにしのいで、イエス様ご自身が婦人たちのために大いなる事、そう、「 復活 」をしていてくださったのです。私たちがイエス様のために何かをしてさしあげようと心を定めて動き出すとき、反対にイエス様の方が自分のために恵みを用意していてくださっていたのだと気づかされることがあります。主は、いつも私たちに先立って事を進めていてくださる方です。

6月6日(木)マタイ28章1節~10節(Ⅱ)
  行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる 」(10節)。ガリラヤはペトロら漁師であった弟子たちがイエス様と出会い、その生涯を主に捧げて歩もうと決心した場所です。今、弟子たちはイエス様の死を前にして、その夢が破れ、師を捨てた自らのふがいなさの故に散り散りになってしまいました。イエス様はそのような弟子たちをもう一度ガリラヤに呼び集められます。そしてもう一度、彼らに弟子としての再スタートを切らせようとしておられるのです。復活の主は、私たちのおぼつかない弟子の歩みを何度でも再スタートさせてくださる恵みのお方のです。いつも主のもとへ回帰しましょう。

6月7日(金)マタイ28章11節~15節
  マタイ福音書の構造は、キリストの復活の出来事(1節~10節)の前後に、復活を否定し、覆い隠そうとする人々の企てが記されています(27章62節~66節と28章11節~15節)。まるで左右から挟み込んで、その出来事を隠してしまおうとするような空しい振る舞いです。しかし、番兵(27章66節)も、封印も(66節)、多額の金も(12節)、デマも(13節)、復活の出来事が宿す力には、圧倒されてしまいました。主の復活を伝える教会を今日も主は同じように人々の策略から守ってくださいます。私たちの教会も、この復活の力に守られています。
 
6月8日(土)マタイ28章16節~20節
   復活のキリストが言われた「 行って 」(19節)、「 授け 」(19節)、「 教えなさい 」( 20節)は、原文ギリシャ語ではすべて「 ~し続けなさい 」という継続を表す言葉になっています。福音宣教の使命に世の終わりまで燃え続ける教会こそが、「 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる 」(20節)という約束を、深い慰めとしてかみしめて行けるのです。それにしても「 しかし、疑う者もいた 」(17節)という証言は、福音の宣教を託され、これから出て行こうとする群れにとっては衝撃的なことですね。疑いを持ちつつの宣教なんて・・・大丈夫?と思ってしまいます。でも、そのような疑い、確信のなさという問題を内包しつつも、教会は宣教のために遣わされます。「 主が共にいてくださる 」ということによって、その問題をすでに乗り越えていると、主は見ておられるからです。

6月9日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1節~3節
   今日からコリントの信徒への手紙Ⅰを読みます。一般に手紙の序文を読むと、差出人と受取人の関係が分かるものです。差出人パウロと受取人コリントの教会の信徒は、イエス・キリストを主とし、主を呼び求めるという一点で結ばれています(2節)。コリントの教会は、問題の多い教会でしたから、この後パウロは手紙の中でたくさんの忠告をします。人に忠告することは難しいことです。「 主の導きに対しては心を開く人である 」と相手を信頼すること(相手の信仰を信頼すること)、そして自分も祈りを込めて語らなければ(3節)、忠告の言葉は相手の心に届かず、かえって関係を悪化させるものです。パウロもコリントの信徒も、互いに相手のうちに御霊が働いてくださることを信じること、そういう信仰のチャレンジを受け止めて進んで行くときに、教会は教会になって行きます。人間的な集まりの域を越えて・・・。

先週の説教要旨 「 御心にひざまずき 」 ルカ22章39節~46節

私たちは礼拝のとき、讃美歌を歌うときは立ち、祈るときは座わって祈る。日本の多くの教会がそうしている。しかし聖書の時代、祈りは立って祈った。立って祈るというのは、私たちの座り込んでしまいたくなるような心が、祈ることによって立ち上がる、そういう心の姿勢を表現しているのかも知れない。立って祈ることが習慣であった時代に、イエス様が「 ひざまずいて祈られた 」ことが書かれている。「 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『 父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください 』 」(41節~42節)。これは、父なる神の御心、すなわち神の意志にひざまずき、あなたの御心に従いますという心の姿勢を表すものなのだと思う。

実はこの祈りを境にして、このあとイエス様の言葉が極端に減る。長い沈黙に入るのだ。その沈黙は、預言者イザヤがイエス様の十字架を預言して言った、「 屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった 」という言葉を思い起こさせる。イエス様はどんな思いで十字架に向かわれたのか、何も話されない。だが、この祈り場面ではイエス様の十字架への思いが前面に表れ出てきている。「 父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください 」、それがイエス様の十字架に対する思い。「 この杯 」と言うのは神の怒りの杯。この杯の中を見てみれば、そこには人間の罪に対する神の激しい怒りがふつふつと沸き立っている。聖なる神は、罪の汚れとは共存できない。だからそれを排除なさる・・・。父なる神はイエス様にこれを飲み干すことを求められた。イエス様が、私たち人間に代わって、その罪の罰を引き受けること、そうすることによって人間を滅ぼさずに罪の汚れを排除し、神が人間と共存することができるようになる・・・。イエス様はその神の意志をよく知っておられた。しかしそこには激しい葛藤がある。すんなりと、「 はい、従います 」とは言えない。だから「 父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と言われる。イエス様はここまで、実に堂々とご自分の十字架のことを語って来られた。あるときは、弟子のペトロが十字架の予告をされたイエス様をいさめると、「 サタンよ、退け!」と言ってペトロを叱りつけた。そのくらい堂々と、毅然とした態度で、イエス様は十字架に向かって歩んで来られた。しかしここに来て、恐れ、もだえ、そして、この杯をわたしから取りのけてくださいと祈っておられる。これは、どういうことなのだろうか・・・・。 ペトロがそうであったように、イエス様も死ぬことにおびえ、前言を撤回しようとしておられるのだろうか・・・。

  かつてイエス様の十字架を忠実に再現しようとした映画「 パッション 」が上映された。見てきた方の多くが、「 感動したけれども、所々、多くの血が流れ、目を覆いたくなった 」との感想を言われた。実際、イエス様の十字架では多くの血が流れたことだろう。だが聖書は、イエス様の血が流れたということを一言も書いていない。分かり切ったことだから書かなかったのか。いや、そうではない。イエス様は肉体の苦しみよりも、もっと大きな苦しみを受けておられたのだ、ということを聖書は伝えようとしているのだ。そこから私たちの目線をそらさせないように注意深く、十字架の出来事を伝えているのだ。もっと大きな苦しみ、それは神に見捨てられる苦しみ。このあと、イエス様は十字架の上で「 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか 」と叫ばれる。イエス様は単に肉体の死を恐れておられたのではなくて、神から見捨てられ、引き離され、神のもとから排除されてしまうことを恐れておられたのだ。本当に互いを尊敬して、信頼しあっていた夫婦がいて、その一方が召されるというのは、遺された者は死ぬ以上の苦しみを担うことになる。相手の素晴らしさを誰よりも知っているからこそ、この人と別れることが本当につらいのである。でも、相手の素晴らしさをよく分かっていないならば、それほど辛いことにはならいだろう。イエス様は、誰よりも父なる神の素晴らしさを知っておられたから、私たち以上に父なる神と共にあることの喜びを知っておられたからこそ、この方と引き離されてしまうことが何にも勝る苦しみとなったのである。   「 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください 」とイエス様は祈られるそのとき、父なる神は一言も語らず、沈黙しておられる。わが子が「 助けて 」と苦しみ、叫ぶのに沈黙し続ける親がいるだろうか。否、父なる神は御子と共に耐えておられるのだ。私たちの救いのために、御子と共にその苦しみに耐えておられる。御子と御父がそのような救いの業を完成させようとしておられるときに、傍らで祈るようにと言われていた弟子たちは眠りこけていた。弟子たちは自分たちの罪を神が贖うために、それほどの苦しみを必要としていたとは全く理解していない。これは私たちの姿。人の罪には敏感で厳しい私たちだが、自分の罪が神にこれほどの思いさせるものであると気がつかない。しかし神は人の思いも手も届かないところで、そんな私たちのための御業をなしてくださった。
                                                  2013年5月26日)