2013年5月27日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月27日~6月2日

5月27日(月)マタイ26章69節~75節
   あなたもイエスの仲間だ!と言われて、ペトロは「 そうではない 」と必死に打ち消しています。呪いの言葉さえ口にするというのは、もし自分が嘘をついていたら呪われても構わないと言う意味です(74節)。そんなペトロも鶏が鳴いて、イエス様の言葉を思い出すと激しく泣き出しました(75節)。ペトロは、惨めで、情けなくて、こんな自分なんか、もう投げ出してしまいたい・・・自分自身に絶望しました。そんな自分のことを、イエス様はまるごと知っておられたのだ・・・そう思うと涙があふれたのです。イエス様は、私たちが落ちるところまで落ちて、もう全部投げ出してしまいたいと思う、その地点よりももっと低いところに立っていてくださいます。落ちてくる私たちを受け止めるために。

5月28日(火)マタイ27章1節~10節
   芥川龍之介、太宰治、キリスト者以上に聖書に深い関心を示しながらも、ついに信仰には至らず、自らの命を断って行った人々です。彼らはユダのことがとても好きだったと言われています。ユダの中に自分自身を見る思いがしていたのでしょうか・・・。そんなユダは、最後の最後まで自分自身に固執した人間でした。だから、自分のしたことを赦せないままに、自分で「 方を付けよう 」としました。イエス様に自分を委ねようとはしなかったのです。ユダはイエス様を大祭司に引き渡したことを後悔し、その責めを自分で処理しようとしたのです。しかし信仰というのは、愚かな自分さえも、固執せずにイエス様に引き渡し、委ねてしまうことなのです。ユダとペテロの違いがあるとすれば、その一点に尽きると思います。

5月29日(水)マタイ27章11節~14節
   ピラトの前のイエス様は、まったく申し開きをなさいません。大祭司たちのなすがままになっておられたイエス様は、ここでも不利な証言を前に、沈黙を守っています。ピラトが不思議がるほどに・・・。嵐を静め、死人を生き返らせたあのイエス様が、一言も口を開かず裁かれています。どうしてイエス様は沈黙を守り続けているのでしょうか?彼らの不当な裁判に、どうして声をあげられないのでしょうか?イエス様の沈黙は、父なる神の変わらぬ意志の現れなのです。それは私たちを愛し、救うために貫かれる「 御子に苦しみを負わせる 」という意志です。子が苦しむ時、それを見ている親はそれ以上に苦しんでいます。神はあなたへの変わらぬ愛を今日も貫いてくださる方であると、心に覚えて一日を歩み始めましょう。

5月30日(木)マタイ27章15節~26節
   バラバと呼ばれるイエスとメシアと言われるイエスと、どちらを取るか(17節 )と問われています。バラバもイエスという名前だったのですね。問われた群集は、ユダヤの国を力でローマから解放しようと企てた政治犯のバラバを選択しました(22節)。イエスとは「 主は救い 」という意味の言葉ですが、群集はどんな救い主を求めていたのか、考えさせられます。バラバは、イエス様が身代わりになったことで釈放されましたが、それは私たちのことでもありますね。私たちは、イエス様が私たちの罪の身代わりになられたことで、御赦を受けた者たちですから。

5月31日(金)マタイ27章27節~31節
   ある姉妹から「 つるうめもどき 」のつるで編んだリースをいただいたことがあります。私たちのために生まれてくださったイエス様の誕生を心から感謝しつつ、信仰を込めてこのリースを編んで下さったのでした。総督の兵士たちは、茨で冠を編んでイエス様の頭にかぶせました(29節)。冠は王を象徴するものなのですが、兵士たちはこの冠を「 侮辱 」を込めて編んだのです。今日、あなたは何をもって、その信仰生活を編み上げようとしているでしょうか?イエス様を落胆させるような、人を侮辱するような言葉をもってでしょうか?それとも、イエス様を喜ばせるような愛の言葉をもって、編み上げようとしているでしょうか?「 私の王の王はイエス様である 」ことを証しするような、愛の言葉をもって編み上げたいものですね。

6月1日(土)マタイ27章32節~44節
   十字架にかかられたイエス様を見上げて、そこを通りかかった人々、祭司長、律法学者たちは、嘲って言いました。「 他人は救ったのに、自分は救えない 」(42節)と。彼らはイエス様を侮辱して言ったのでしょうが、この言葉には「 何という賞賛の言葉か 」、と思わされる響きがあります。私たちは、悲しいかな・・・他人を見捨ててでも自分を救おうとする者です。そんな私たちであると自覚している者にとっては、賞賛に値する言葉としか聞こえません。そして、だからこそ、「 主を信じる者は、だれも失望することがない 」(ローマ10章11節)のです。

6月2日(日)マタイ27章45節~56節
   わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか 」と、イエス様は十字架上で叫ばれました。「 なぜ、この私が・・・」と叫ばれたのです。十字架は、私たちの救いのために必要な事だったからだと簡単に考えることはできません。そうではなく、十字架は、本当は「 あってはならないこと 」だったのです。そうでないと十字架を引き起こした私たちの罪も本来「 あってはならないもの 」だったことが分からなくなります。しかし、その「 あってはならない 」十字架を、神は「 なくてはならないこと 」に変えてしまわれた・・・人が捨てた石を隅の親石にするという、まことに不思議な神のなさり方です・・・それが十字架の真相なのです。十字架はあってはならないことだったという理解は極めて重要です。

先週の説教要旨 「 主のもとにある平安から離れず 」 ルカ22章35節~38節

先週は子どもと大人が一緒に捧げる礼拝をしたが、普段している子どもたちだけの礼拝には大人の礼拝にはないプログラムがある。それは暗唱聖句、聖書の中の一節を覚えるのである。今月の暗唱聖句はヨハネ14章26節の「 父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる 」である。ペンテコステは神の霊である聖霊が信じる者ひとりひとりに与えられたという記念の日であるが、私たちにも与えられているこの聖霊、一体どんなことをなさる方なのかと言えば、この聖句が示す通り、「 キリストが私たちに語ってくださった言葉をことごとく思い起こさせてくださる 」ということ。「 ああ、そう言えば、イエス様がこんなことをお話しておられたね・・すっかり忘れていたけど思い出した 」というようなことではなく、「 ああ、あれはこういう意味だったのか。本当にそうだ。イエス様の言われる通りだ 」と、言われていたことの意味が分かる、納得させられるということである。

今朝のルカ22章35節からの御言葉、弟子たちにとってこれは難解な言葉だったのではないかと思う。あのイエス様が剣を買いなさいと言っておられる・・・。右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさいと言われた方が・・・誰よりも愛に生きることを大切にされていた方が、ここでは武器を買いなさいと言われる。これは一体、どういうことであろうか・・・。おそらく弟子たちがこの言葉の真意を理解できたのは、十字架と復活のあと、聖霊が弟子たちに与えられて、その聖霊の働きによって、初めて理解できた言葉であったに違いない。まずイエス様は「 財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか 」と言われた。これはルカ9章1節以下のことを語っておられるのであり、そのとき弟子たちは何も持たずに遣わされ、出て行った。持って行ったのは、弟子たちを遣わすイエス様への信頼のみ。弟子たちは心細かったと思うが、実際、信じて出て行ってみると、全く不自由することなく、思いがけない伝道の成果を与えられて戻って来たのである。イエス様はそのときのことを弟子たちに思い出させながら、しかし今は、財布を持て、袋を持て、剣のない者は、服を売ってそれを買えと言われる。弟子たちはイエス様の言葉にひっかかりを覚えたと思うが、「 主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります 」と答えた。最後の晩餐をしていた家の床の間には剣があり、それを宿の持ち主から買えばいいと弟子たちは考えたのだろう。イエス様は「 それでよい 」と言われた。「 それでよい 」は、原文では「 それで十分 」の意味。十数人の弟子がいるというのに、2本で十分とは・・・。これは明らかに、本気で一戦交えようとしている者の態度ではない。イエス様はこの剣に、何か象徴的な意味を見ておられるに違いない。しかし弟子たちにはそれが分からない。聖霊の助けがなくては分からない。一体、イエス様の剣を買えという言葉は何を意図した言葉なのであろうか・・・・。

 このときの弟子たちは、もうすぐにイエス様から離れて行く。イエス様が捕らえられるとき、弟子たちは恐怖のあまり、イエス様を見捨てて逃げる。イエス様はその弟子の姿と重ねながら「 私から離れて行く者は、どういう者とならざるを得ないか 」を語っておられるのである。弟子たちはどういう者となるか。それは、財布も、袋も、剣も必要な者になってしまう、ということ。イエス様から離れて行く者は、どうしたって、財布も、袋も、剣も必要な人間になる。イエス様は何と鋭く、人の心を見ておられることか。イエス様のもと離れて行く時、人は自分の手で自分を守らなければならなくなる。そこに不安が生まれる。不安を抱えるとき、財布が必要になる。パンを蓄えておくために袋をどうしても確保したくなる。そして、不安が求めて行く最後のものは剣。人を刺し殺す、人を殺すことによってしか、自分を守ることができない・・・・不安というものは私たちをそこまで追い込むものである。実際、弟子たちはこのあと、ひどい不安にとらわれ、復活のイエス様と出会うまで、皆でひとつの家に集って、戸を堅く閉じて、閉じこもる。片時も、剣を手放せないような、怯えきった状態になるのだ。人間が神への信仰を失ったとき、そこにはどんなに荒れた砂漠のような世界が広がることであろうか。皆、財布や袋にしがみつく。何の役にも立たない剣にしがみつかざるを得なくなる・・・。

 弟子たちはイエス様が語っておられたことの意味を、聖霊が与えられ、聖霊の働きによってはじめて、こういうことだったのかと理解した。それと同時、あのときにはまったく心にも残らなかったもうひとつのイエス様の言葉が、とても意味を持つ言葉であったことを理解したに違いない。37節の「 その人は犯罪人の一人に数えられた 」である。イザヤ書からの引用であるが、そこでは「 罪人のひとりとして数えられた 」となっている。イエス様を離れた弟子たちの罪を背負い、弟子たちに代わってその罪の処罰を受けるために、主は罪人の一人に数えられたのだ。暗闇に閉ざされた中に、パーッと光が射して来る。イエス様を離れた自分たちがもう一度、イエス様のもとに戻ることができるように、イエス様は十字架にかかることによって、その道を開いてくださったのである。 (2013年5月19日)

2013年5月19日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月20日~5月26日

5月20日(月)マタイ26章14節~16節
   ユダの裏切りの計略です。銀貨30枚でユダはイエス様を引き渡す約束をしました。銀貨30枚、それは今日の数千円程度の金額でしかありません。だからユダはお金儲けのためにイエス様を引き渡したわけではないでしょう。ユダは救い主イエス様にローマからの祖国解放という期待・願いをかけていましたが、イエス様がその願いに応えようとしないことを悟ったとき、自分は裏切られたと思ったのです。神はちっとも私の期待に応えてくれない、私は神に裏切られたと思って生きることは不幸なことです。なぜなら、神はあなたの願いにはるかにまさる大きな祝福をあなたに与えることを願っておられるからなのです。たとえあなたの願いが破れても、神のその願いがあなたには注がれていることを信じましょう。

5月21日(火)マタイ26章17節~25節
   イエス様は最後の晩餐の席で12人の中から裏切る者が出ると言われました。それを聞いた弟子たちは、皆、心を痛め「 まさか、わたしのことでは 」・・・と言い始めます。皆、自分の信仰に確信が持てなかったわけですが、私たちは誰ひとり、「 自分は間違いない信仰に生き抜く自信がある 」などとは言えないのです。「 まさかわたしのことでは 」と言わざるを得ない不確かさを抱えているのです。そんな私たちのために、イエス様は祈り、たえず私たちを引き戻そうと働きかけていてくださいます。そのイエス様の働きの確かさを信じて、主に身を任せて進む、それしか私たちにはありません。ユダだけはイエス様の発言を自分に対するあからさまな発言と受け止めたでしょう。でもそれはユダを引き戻そうとされる働きかけでした。

5月22日(水)マタイ26章26節~30節
    最後の晩餐の席上で、イエス様は今まで決して語られなかった「 弟子の中からの裏切り 」を初めて口にされました。自分が弟子のようにかわいがり、育て、世話した人に裏切られることほど、悔しいことはありません。すべてが暗黒になったと思うでしょう。しかし、その暗黒のただ中で、イエス様は裏切りにも勝つ神の愛を高らかに宣言されています。「 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である 」(28節)と・・・。自分の罪に気づかされて、うずくまり、自分のことを投げ出してしまいたくなることがありますか。そんなあなたにもイエス様は裏切りに勝つ愛をもって私たちに近づいてくださいます。

5月23日(木)マタイ26章31節~35節
    イエス様は「 わたしは復活した後、あなたがたよりも先にガリラヤに行く 」(32節)と言われました。33節のペトロの発言は、31節のイエス様の言葉に反応したもので、「 しかし 」以下の32節の言葉には関心を示してはいません。でも、32節の言葉は実際に弟子たちがイエス様を捨ててしまったとき、弟子たちがとりすがる言葉となりました。ガリラヤ、そこはペトロら弟子たちの故郷であり、イエス様と出会った場所、イエス様に従い始めた場所です。イエス様を捨ててしまい、慙愧の念に耐えられなくなった弟子たちの足は、気がつくとそのガリラヤへと向かっていました。そうです。イエス様先回りして、彼らを迎え、彼らに再出発を促そうとしておられたのです。あなたも意気消沈して帰るガリラヤがありますね。イエス様はそこであなたを待っていて、そこからの再出発をさせてくださいます。

5月24日(金)マタイ26章36節~46節
   イエス様は十字架にかかることが人間の企てであると同時に、それが神の企てでもあることを知っておられました。だから、できれば十字架を回避したいという自身の思いと、十字架を願う父なる神の求めの間で、激しく葛藤されたのです。その傍らで、弟子たちはイエス様のために祈るどころか、眠りこけています。他人の罪や至らなさに対しては、結構厳しい私たちですが、自分の至らなさやいい加減さ、自分の罪が、イエス様にこれほどの思いをさせてしまっているほどに深刻なものだとは少しも考えていない。それでも眠りこける者たちのためにイエス様は決心されました。御心に従うと・・・。その主のお姿を、目を覚して見ている者でありたい。

5月25日(土)マタイ26章47節~56節
   イエス様の逮捕の場面。ユダはイエス様の裏切りの合図として、愛の行為であるはずの接吻を用いました。そんなユダをイエス様は「 友よ 」(50節)と呼ばれます。イエス様はユダの中に、「 共に手をとって助け合い、共に苦しみ、働くべき友の姿 」を見ていたのです。やがて、捕らえられたイエス様への判決を知った時、ユダは後悔し、首を吊って死んでしまいます。彼のことを「 」と呼んだ唯ひとりの人、イエス様は、ユダが息絶えてから間もなく、同じ姿で十字架の木にぶらさがって死なれるのです。それはまるで、友であるユダを陰府にまで追っていたかのような姿です。たとえイエス様の愛を拒否してしまうことがあったとしても、ずっと拒否し続けたままであってはいけない。いつでも、立ち帰る道は開かれています。

5月26日(日)マタイ26章57節~68節
   イエス様の裁判が行なわれています。次々と登場する不利な証言をする人たち、しかしその証言は偽証でしかなかったことが明白になりました。にもかかわらず、大祭司はイエス様の「 ご自分がメシアである 」と明示する発言(64節)を、神への冒涜だとして服を裂き、死刑判決を下しました。自分の目的達成のためには、神さえも利用するという恐ろしい罪がうごめいているこの裁判。イエス様の言葉の前に、私たちは信実に心を裂いて、悔い改めることを知る人間でありたい。

先週の説教要旨 「 主に祈られる信仰 」 ルカ22章24節~34節

 イエス様は「 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい 」と言われた。この言葉によるならば、私たちに信仰を持っているというのは、兄弟たちを力づけるために持っているのだ、ということである。信仰は、自分と他の人とを比べて、「 ああ、自分の信仰の方があの人よりも立派だとか、ちゃんとしている 」と、得意になったり、反対に「 自分はあの人のような信仰は持っていない 」と落ち込み、自己卑下するためにあるのではない。兄弟を力づけるのではなく、相手を落ち込ませたり、あるいは自分が落ち込むための信仰になってしまっているならば、そのような信仰はふるいにかけられて落とされてしまった方がよいのである。

イエス様は最後の晩餐の席で、あなたがたのために十字架にかかって死ぬと宣言された。だが、こともあろうに弟子たちは、その直後に「 自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか 」という議論を始めたという。イエス様は「 この中にわたしを裏切る者がいる 」と、衝撃的な発言もなさったのだから、一体、誰がそんなことをするのかという議論の方が、誰が一番偉いかなどと言う議論よりも、はるかに重要なことであったはず。はるかに真剣に問うべきことを彼らはあっさりと捨てた。 誰が一番偉いか、「 偉い 」と訳された言葉は原文ギリシャ語では「 大きい 」という言葉が使われている。誰が一番、この中で大きいかを言い争ったのである。私たちは彼らのように表立ってどちらが大きいか、比べるようなことはしない。だが内心は、いつも自分と他の人を比べている。そして、この人よりは自分の方が大きいと思って安心したり、あるいはこの人の方が私よりも大きいと、悔しい思いをしたりしているのではないか。彼らが比べていた大きさは何よりも信仰の大きさだろう。イエス様が王位についたときに、誰が右の座、誰が左の座につくのか、そこにつくふさわしい信仰を持っているのは誰なのか・・・を議論した。このとき弟子の筆頭格を自認していたペトロはどうしていたのだろうか。もしかしたら議論に加わっていなかったかも知れない。なぜなら・・・そんなこと聞かなくたって、この俺が一番偉いに決まっている。何をいまさら、つまらん議論をしているのか・・・と思っていただろうから。だが、そんなペトロをイエス様は狙い撃ちなさる。

 「 シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい 」と。当然、シモン・ペトロは反論した。「 主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております・・・ 」。非常にペトロらしい、自分の信仰に対する自信が満ち溢れている。しかしこの後、その自信は見事に打ち砕かれる。ペトロはサタンのふるいにかけられて、その自信はすべて下に落ちてしまい、そこには何も残らなくなる。あれだけ強く、確信をもって語った自分の信仰は何ひとつ残らなかった。ならばイエス様が言われた「 わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った 」という言葉は力を持たなかったということなのか。否、実はペトロの中には、ふるいにかけられたときに「 残らなかった信仰 」と「 残った信仰 」とがあったのだ。残らなかった信仰とは、ペトロの覚悟だとか、ペトロの自信だとか、ペトロの力、そういうものによって支えられている信仰。残った信仰とは、イエス様がペトロのために祈られた。そのイエス様の祈りに支えられて立つ信仰である。自分の信仰が土台から崩壊してしまうような体験の中で、なお残る信仰がある。それはイエス様が私のために祈ってくださっているという信仰。それによって支えられ、立っている信仰である。この信仰だけが、真に私たちを立ち直らせ、そして兄弟を力づけられる信仰なのである。自分の力によって立っている信仰では、弱っている兄弟を力づけられない。弱って力がないのだから、立てと言っても所詮無理なのである。だが、あなたはイエス様に祈られている、あなたも支えられているのだということならば、弱った兄弟をも力づけることができる。立たせていただける。

サタンがペトロをふるいにかけることを願って、それが聞かれた。そんなに簡単にサタンの求めに応えてしまわれる神であっては困る、と思うかも知れない。だが、ペトロをふるいにかけたことに関して、神の目的とサタンの目的とは全然違うのだ。サタンはペトロを落とすためにふるいにかけた。しかし神は、打ち砕かれる経験を通してその先にある奉仕、兄弟を力づけられる人間へとペトロを変えるために、ふるいにかけられたのである。自分の決意や力に頼る信仰を取り除き、主に祈られているという支えによってだけ立つ信仰へと導くための試練。私たちは大小種々の苦しみを負いながら毎日を生きている。しかしその苦しみはそれを乗り越えた時にどうするのか、ということまで神によって計られた上で与えられる苦しみだと言ってはいけないだろうか。その先を、立ち直った時のことをも見据えたところで与えられる苦しみ。サタンが狙うような単に落とすためだけの苦しみではない。その苦しみの中で主に祈られて立つことを体験したあなただからこそできる、兄弟を力づける奉仕をも計ったところで与えられる苦しみなのである。(2013年5月12日)

2013年5月14日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月13日~5月19日

5月13日(月)マタイ24章36節~44節
  その日、その時は誰も知らない 」(36節)。イエス様がいつ来られる(再臨されるのか)、それは誰も知りません。父なる神様だけが知っておられます。ノアの時代の人たちは、洪水が来るその日まで食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだりしていました(38節)。つまり、この日常生活がいつまでも続くものだと信じて疑わなかったのです。しかし私たちの日常生活には終わりがあります。神様による終わりがあります。その終わりを計算に入れて生きることが求められている。それが私たちの人生なのです。目を覚ましているとは終わりを計算に入れていることです。

5月14日(火)マタイ24章45節~51節
  私たち信仰者は、イエス様が再び来られる再臨の日を待っている者です。待つと言っても、ただボーッとして待っているわけではありません。ここに記された忠実な僕と悪い僕の話は、その待つ姿勢/待つ生活を教えています。それは、目を覚まして、忠実な賢い僕でいることです。悪い僕は、当分主人は帰って来るまいと考え、好き勝手なことをしています。私たちは、主が突然来られた時に、その生活をのぞかれて困ってしまうような生活をしていないでしょうか。本気で、イエス様が来られることを信じて待つ生活をしているでしょうか。悪い僕は主人が戻って来ないと思い、仲間をいじめています。忠実な賢い僕は、仲間、すなわち他者をいじめるのではなく、他者を生かすために心を砕いて、主人の帰りを待つ僕でした。

5月15日(水)マタイ25章1節~13節
  賢いおとめと愚かなおとめの共通点、相違点はそれぞれどこにあるのでしょうか。共通点は、皆、花婿/イエス様が来るのを待っていたことです。イエス様を待ち望むという信仰を知っていたのです。2つ目は、10人皆、途中で眠り込んでしまったことです。相違点は、賢いおとめたちは、壷に予備の油を用意していたことです。賢いおとめも愚かなおとめも共に、眠り込んでしまいました。目を覚ましていなさいと力説されていたにもかかわらず(24章36節以下)。私たちは、この人間の弱さを忘れてはいけません。壷の油は、この弱さを自覚したおとめたちの適切な心配りだったのです。この油は聖霊を指していて、聖霊は弱い私たちを支えてくださる方なのです(ローマ8章26節)。聖霊の助けを求めつつ歩みましょう。

5月16日(木)マタイ25章14節~30節
  有名なタラントンのたとえです。このタラントン、元々はお金の単位なのですが、タラントンは何を意味しているのか。才能(タレント)だと理解する人もいますが、そのように理解すると15節はそれぞれの力に応じて才能を与えたという、意味の通らない文章になってしまいます。そこで私はひとりひとりが人生で神様から与えられる『 課題 』をタラントンは意味しているのだと理解します。その場合は課題はすべて、その人の力に応じて与えられているわけですから、私たちが人生で直面する課題は、自分の能力を超える課題は与えられていないということになります。そしてそのことが私たち信仰者の人生に対する基本的姿勢となるのです。

5月17日(金)マタイ25章31節~46節
   神様による世の終わりの時に行なわれる裁き、最後の審判について教えている箇所です。世の終わりにおける裁きの基準は、ただただ「 」であることが示されています。主に対する愛、隣人に対する愛です。主に評価されている人たちは、自分たちがした愛の業が小さかったゆえに、したことさえ忘れてしまっています。しかし、裁きの主はそれを覚えておられます。私たちが隣人対して行う小さな愛の業、自分でさえも忘れてしまうほどの業を、主はご自分になされた愛の業として受け止め、その心に刻み込むように覚えていてくださるのです。彼らのした愛の業は、決して打算的なものでなかったことは、彼らがそれを忘れてしまっていたことからも分かります。純粋に主を愛するがゆえに生まれた小さな愛の業だったのです。小さな愛の業を必要とする人と関わることは何らかの荷を引き受けることになります。しかしそこに踏み込まなければ、私たちは主と出会うことはないでしょう。

5月18日(土)マタイ26章1節~5節
  イエス様の十字架・・・そこにおいて神の企てと人間の企ては一致しました。大祭司、民の指導者たちはイエス様を憎み、殺そうと企んでいました。一方、父なる神様は、御子を殺すことにおいて顕になる私たち人間の罪を御子に負わせ、御子の十字架においてその罪を裁いて、罪の贖いをなそうと定められたのです。2節の言葉は、その神様の定めを示すものです。十字架において、神様と人間の企ては一致しましたが、十字架に関わられたその目的は、双方全く別次元のものでした。私たち十字架の真相を知る者の企てが、良い意味で神の企てと一致するように願います。

5月19日(日)マタイ25章6節~13節
  イエス様に香油を注いだひとりの女性。イエス様は彼女の行為を「 わたしを葬る準備をしてくれた 」(12節)と言われましたが、おそらく彼女自身はそういう思いでしたのではなかったでしょう。イエス様に対する愛と感謝の思いがその行動を取らせただけだったのだと思います。弟子たちはその行為を無駄遣いと言って非難しましたが、イエス様は「 世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう 」(13節)と、女性の愛と感謝から生まれた小さな行為をこんなにも大きく受け止め、そして用いてくださると約束されました。あなたの感謝からの小さな業が記念として用いられますように。

先週の説教要旨 「 私の願いが破れても 」 ルカ22章1節~23節

22章からイエス様の受難物語と呼ばれる箇所に入る。15節、「 苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた 」と主は言われる。切に願っていた・・・イエス様はずいぶんこの食事にこだわっておられたのだ。しかも7節~13節のところでは、その過越の食事の場所を用意するためにイエス様が事前に準備をしておられたことをうかがわせる事が記されている。イエス様のこの食事に対する切なる願いがあふれている。そこで思う。私たちは今までどれだけイエス様からの願いに耳を傾けてきたであろうかと。自分の願いにはいつも必死になる私たちであるが、今までどれだけイエス様のからの願いに自分の耳を傾けてきたことであろうか・・・。

それにしてもイエス様がそれほどまでに力を込めておられた願いと何なのか。「 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『 これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行ないなさい 』。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『 この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である 』」という19節の御言葉がその願いが何かを示しているように思う。過越の食事は、イスラエルの民がモーセの時代からずっと行なってきた祭りの中の重要な儀式だが、神の律法によると、その食事の席で父親は子どもと問答をしながら、その儀式の持つ意味を教えるように命じられている。子どもが「 お父さん、この羊の血をどうして家の柱に塗ったの 」と質問し、父親は「 かつて我々の先祖はエジプトの国で奴隷となって苦しんでいた。先祖が神に叫び求めると、神は指導者モーセを与えて先祖をエジプトから脱出させられたのだ。エジプト脱出の前夜、先祖は1匹の傷のない羊をほふり、その血を家の柱に塗った。すると血の塗られた家だけは、神の裁きが通り過ぎ、血が塗られていなかったエジプト人の家には神の裁きが下った。それに音を上げたエジプト人は先祖たちを解放したのである 」と言った具合に、過越の食事の儀式に込められている意味を説き明かしたのである。イエス様は、弟子たちと一緒にその過越の食事をしながら、あたかも彼らの父親のように、この食事の意味を、イエス様ご自身によって与えられる食事への新しい意味付けを説き明かされた。それは十字架の予告。イエス様が過越の羊のごとく、十字架の上で、その体を裂き、血を流して死ぬ。それによって神の裁きはイエス様のところで止まってしまう。弟子たちのところにまでは及んで来ないようになる。あなたがたは私の十字架での死によって、その罪を贖われ、赦される。かつて先祖がエジプトの奴隷時様態から解放されたように、あなたがたは罪奴隷状態から解放されることになる。イエス様の願いとは、この食事の席上でそのことを弟子たちに伝えることであったのだ。一体、何という願いであろうか・・・。この願いを知らされた者は、もはや罪の奴隷状態にとどまることはない。解放されるのだ。それは願いがかなわない「 絶望 」という名の罪からの解放と言うこともできるだろう。

ところで、受難の物語はユダの裏切の出来事から始まっている(1節~6節)。ユダがどうしてイエス様を裏切ったのか、それは聖書の謎のひとつとされている。いくつかの理由が推測されているが、そのひとつはこうである。ユダは、イエス様に強い願い、期待を持っていた。「 この方こそ、イスラエルをローマから解放し、救う方なのだ 」と。だが、イエス様はユダが願っているような行動をお取りにならなかった。むしろ、反対に捕まって殺されるとまで言い始めた。そのときユダは「 自分は裏切られた、自分の願いは破られた 」と思ったのではないか。そのことがユダを裏切り行為と走らせた・・・。「 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ 」(22節)。イエス様はそんなユダのことを嘆いて、悲しんでおられる。ユダはイエス様を裏切ったあと、自分のしたことを深く後悔して自殺して行く。自分の願いが完全に破れ、自分はもう死ぬしかないと思ってしまったのだ。だが先ほどの19節の御言葉はそんなユダに向けて語られた言葉なのではないか。ユダもいたあの食事の場にイエス様の思いが響いている。「 ユダよ、今こそ、わたしの願いを思い起こしてほしい。わたしの願いは、あなたのために体を裂き、血を流すこと。わたしの願いは、あなたの罪を赦し、あなたがもう一回、神の御前で生き直すこと。だからわたしの願いを思い起こしてほしい。あなたの願いが破れても、わたしの願いは破れていないのだから・・・」。残念ながら私たちの願いは破れる時がある。その願いがどんなに正しい願いであったとしても、破れてしまうときがある。しかしイエス様の願いは破れない。私たちのために十字架を背負い、罪を赦し、私たちがもう一回、神の前で生き直すことを切に願う、そのイエス様の願いは破れない。私たちを生かす願いはここにある。アニー・サリヴァンさんもヘレン・ケラーさんも、このイエス様の願いに支えられるようにして、絶望の淵から立ち上がり、主の栄光をあらわす人生を送られた人たちだ。私たちは今、聖餐に与る。主の切なる願いを私たちうちに刻み込もう。 (2013年5月5日)

2013年5月6日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月6日~5月12日

5月6日(月)マタイ22章41節~46節
  先の34節のところから、聖書をどう読むかが問題になっています。ファリサイ人たちは、メシアをダビデの子と呼び、ダビデ王のようにユダヤの国の繁栄を回復されてくれる者というイメージを抱いていました。自分の願いから聖書を読み込んでいたのです。でも、救い主メシアはユダヤを支配していたローマ人にとっても救い主となるような、もっとスケールの大きな救い主だったのです。本当の救い主は、ユダヤ人のための、という領域を越え出ています。大切なことは、霊を受けて(43節)、聖書を読むことです。それは、聖書によって自分自身の生き方が読み込まれて行くことであって、自分の願いから聖書を読み込むのではないのです。聖書によって自分の生き方が読まれ、そして正され、導かれて行く読み方をしましょう。

5月7日(火)マタイ23章1節~12節
  言っていることと行なっていることが違うということ(3節)、これは小さいことではありません。要するに虚偽・偽善なのですが、この虚偽・偽善は良いことを言いながら悪いことを企んでいるとか、出来もしないことをさも出来るかのように装っているとか、建前で本音を巧妙に隠しているとか、単にそういうものではありません。虚偽・偽善とは、自分を守り通すためには一切を、たとえそれが神であろうと、一切を利用としてはばからない『 自己神格化 』なのです。人間を駄目にするのは、まさにこの『 虚偽・偽善 』という罪なのです。

5月8日(水)マタイ23章13節~28節
  イエス様から厳しい非難を受けてしまっているファリサイ派の人々や律法学者たち。彼らは「 偽善者 」(15節)、「 外側は美しく見えるが、内側はあらゆる汚れで満ちている 」(27節)と言われています。結局は、彼らの自分を見る目が曇っていたということではないでしょうか。私たちの自分を見る目は常に自己弁護によって曇っています。冷静に反省しながら自分を見ていると思うかも知れませんが、違うのです。自分におもねり、自分に味方する心が常にあるために、気がつかないだけなのです。自分が自分の敵となり、自分と格闘することなしには、それに気がつくことはありません。自分との格闘なき反省は、巧妙な自己弁護に他なりません。自分を見る目を比較的信用できるのは、自分自身と格闘しているときだけです。

5月9日(木)マタイ23章29節~39節
  旧約聖書からイエス様の時代にかけてのイスラエルの歴史は流血・殺人の歴史です。エムサレムでは多くの人たちの血が流されました。彼らは正義の名をもって、預言者たちを殺し、そしてイエス・キリストを殺しました。今日でも、人々の唱える正義の名によって、エムサレムでは血が流されています。人を殺してまでも守らなければならない正義って、一体、何なのでしょうか。そんな正義、本当に存在するのでしょうか。一体、いつから私たちはそんな錯覚を抱くようになったのでしょうか。唯一の神を見失い、それぞれが小さい神々に成り上がり、自己流の正義を振り回し始めた時からでしょうか。エルサレム、エルサレムと嘆かれるイエス様の声が今も世界中に響いています。

5月10日(金)マタイ24章1節~14節
  はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない 」(2節)。建てるのに46年もかかった神殿ですが、やがて崩れ去るということをイエス様は見通しておられました。神殿が壊れると聞いた弟子たちは、いつ、そのようなことが起きるのですかと尋ねると、イエス様は世の終わりの時について語り始められました。世の終わりには、すべてのことが明らかになります。私たちが自分の人生において、長い年月をかけて築き上げて来たもの、自信、家庭、地位、業績、財産、伝統、制度、人生観・・・。「 残ることはない 」(2節)ものだけで、あなたの人生が構築されているとしたら残念なことです。最後まで残るものによって、あなたの人生が造られていますように(Ⅰコリント13章13節参照)。

5月11日(土)マタイ24章15節~28節
  イエス様が再び来られる時、世はいまだ経験したことのない艱難を味わっています(21節)。そのような苦しみの中で、主は無理に戦わずに「 逃げなさい 」(16節 )と言われています。この大いなる悩みの日には、信仰を軽んじていた人々が、信仰者の裾をつかんで、あなたが神と共にいることがわかったから、私も一緒に連れて行ってくれと言うことでしょう。私たちがどんな困難に遭っても確信に満ちて信仰を棄てない姿を見るからではありません。信仰者も逃げざるを得なくなるのです。しかし神を信じ、望みを持って逃げる姿に、彼らは心動かされるのです。主は私たちの「 悩みの中にあって生きる姿 」をよく知っていて下います。

5月12日(日)マタイ24章29節~35節
  はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない 」(34節、35節)。人間がどんなに愚かなことをしたとしても、この余波滅びることはないと主は言われます。なぜなら、この世に滅びをもたらすことがおできになるのは神、おひとりだからです。神は、ご自分以外の者が世を滅ぼすことをお許しにならないのです。神がこの世を滅ぼされる時、それは新しい天と地がなるときです。滅びることなき主の言葉につながっていた者は皆、滅びを逃れ、新しい天地に生きることになります。神による世の終わりは、信じる者にとっては新しい始まりなのです。