2013年4月29日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月29日~5月5日

4月29日(月)マタイ21章23節~27節
何の権威でこのようなことをしているのか 」といきり立つ祭司長たちは、自分たちこそ権威者であって、その我々の許可もなくこんなことをしやがって・・・という思いで、イエス様を詰問します。彼らの主張する権威とは、「 群集が怖い 」(26節)と恐れる程度の権威です。偽りの権威にこだわらず、本当の権威の前にひざまずくことを知る者でありたいですね。本物の権威に身を委ねる時、私たちは不安や恐れから解放されるのです。この道の権威と言われる医者に身を委ねる患者は皆、恐れから解放された平安な顔で手術室に向かいます。主は真の権威ですよ。

4月30日(火)マタイ21章28節~32節
  兄と弟を持つ父親の話。今日、ぶどう園に行って働けという父親の言葉に、兄は「 いやです 」と答えたが、「 後で考え直して 」出かけました。弟は「 承知しました 」と調子よく答えましたが、結局行きませんでした。私たちは父なる神様からの言葉にどのように応えているでしょうか。聖書の教えを知っていても、それは「 いやです 」と意地を張ってしまうことがありますか。でも大切なことは「 後で考え直して 」という逆転です。「 神様の望み通りに 」と言って逆転する人は幸いです。

5月1日(水)マタイ21章33節~46節
  ぶどう園の主人と農夫たちの物語は、神様と私たちの物語です。農夫たちは、神様の所有物であるぶどう園をお借りして、豊かな収穫を得ることを求められましたが、いつしか彼らはぶどう園そのものを主人の手から奪おうと考えるようになりました。そのためにぶどう園は流血の場、不毛の地に変わってしまいました。私たちも神様から人生と言う名のぶどう園を借りています。家族や職場、友人・・・それらのものも神様から貸し与えられているものです。ぶどう園はちゃんと収穫が得られるように、神様が丹念な準備をした上で貸してくださっているものですが(33節)、これは自分の所有物、自分が自由に支配できるところと思い始めるとき、人生は不毛の地に変わってしまいます。それでも神様は、私たちが捨てた御子をあなたのぶどう園再建の礎にしてくださいました。それはまことに不思議なことです。

5月2日(木)マタイ22章1節~14節
  婚宴に招かれていたのに、当日ドタキャンした人たちは、王の招きはすべての事情に優先するということを真剣に考えてはいませんでした。一方、代わって招かれたけれども礼服を着ていないと怒られた人もいました。着ていなかったのは彼ひとりで、彼が黙っていたことを考えると、非は彼にあったのでしょう。招かれて有難迷惑な人も、予定を変更せねばならないので困った人もいたでしょう。しかし、とにかく招かれて婚宴の席に入ったのです。ならば、もはやそこでは自分の都合を数え上げて、つぶやき続けるのは失礼というものでしょう。いろいろな都合はあるとしても、席に入った以上は「 おめでとう 」という気持ちで列席するのが礼儀です。招かれていながら、心そこにあらずということほど、非礼なことはありません。私たちも招かれて、信仰の道を歩み始めているのです。

5月3日(金)マタイ22章15節~22節
   皇帝への納税を認めるか否か、ファリサイ派の人たちはイエス様をはめようと質問してきました。納税を認めると言えば、ローマによるユダヤの植民地支配に協力すると言って群集の人気を低下させられるし、認めないと言えば、ローマに反逆者として訴えるという罠です。そういう彼らは皇帝にちゃんと税金を納めていたのです。ですから、皇帝のものは皇帝に返せと言うのは、あなたたちがいつもしているようにしなさいと言う意味です。その上でイエス様は、「 神のものは神に返しなさい 」と言われました。こちらの方がより重要なテーマです。私たちの人生、命は神のものです。ならば、それを神にお返しするように生きましょう。それは神に栄光を帰す生き方、私のすべてが神の栄光をあらわす歩みとなるように・・・です。 

5月4日(土)マタイ22章23節~33節
  サドカイ派は、イエス様から「 聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている 」と言われてしまいました。「 思い違い 」と訳された言葉はギリシャ語では、「 迷い出た 」という言葉で、あの羊のたとえ話に出てくる言葉です。単なる勘違いどころではなく、霊的な命にかかわる大問題だと言うことです。私たちにとって神の力が分からないというのは、それほどの問題になるのです。復活は当然あるとイエス様は言われます。生きておられる神は、ご自分の前にある死んだ者を生かさずにはおれないのです。神の愛がそれを激しく求めるからです。私が生きているのであなたがたも生きる、それで復活の証拠は十分だろうと言われるのです。この方の御前にあっては、死んだ者も無意味に思えた努力も、実を結ばなかった業も、すべてが生きる、すべてが意味を持つものとして起き上がってくるのです。

5月5日(日)マタイ22章34節~40節
  神である主を愛すること 」、そして「 隣人を自分のように愛すること 」。それが聖書の教えの核心です。神を愛することは難しいと私たちは考えてしまいます。でも、こう考えることから始めたらどうですか。愛するとは、まずもって相手の気持ちをそのまんま受け止めてあげることでしょう。神様は欠けだらけの私たちをどんなに愛してくださっていることか、まずその神様のお気持ちを受け止める。神様を愛することはそこから始まるのです。次に、神様が愛してくださっている自分なのだから、私もこの自分を愛してみようと思う。そうやって愛は広がるのです。

先週の説教要旨 「 目を覚まして生きる 」 ルカ21章29節~38節

 東西冷戦時代と呼ばれる時代に「 世の終わり、終末 」という思想が世の中に流行ったことがある。作家の野坂昭如さんと東京神学大学の大木英夫先生がひとつの講演会で2人が同じ「 世の終わり 」というテーマで講演をしたことがある。野坂さんは小説家らしく、当時の時代状況をひしひしと感じているところから、人類はやがていろいろな面で行き詰まって破滅してしまうだろうと語った。それに対して大木先生は、人間の作り上げた技術とかがどうなろうと、人間が終わりを来たらせるのではない。神が来たらせるのだ。人間がどんなに愚かしいことをしたとしても、人間がこの世を終わらせることを神は許したまわない。それは神がなさること。そして、神が終わりを来たらせるとき、それは新しい始まりを意味すると語られた。 一般的な意味での終末は行き詰まり、破綻ととらえるが、聖書によると世の終わりは希望、そこから新しく始まるのである。

 その新しい始まりを迎えることができる者と、そうでない者とがいる。「 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない 」(32節、33節)。大地震が起きたり、方々で飢饉や疫病が蔓延したり、異常な現象が天地に起きる。国が国に敵対し、戦争が起こる。しかしそのようなことでこの世が滅んでしまうことはない。それはあくまでも予兆に過ぎない。なぜなら、終わりは神がご自身の手でもたらされるものだから。そのとき、天と地の間にある一切のものが滅びる。しかしただひとつ、滅びないで立ち続けるものがある。それが私の言葉であると主は言われる。主が「 わたしの言葉は決して滅びない 」と言ってくださるということは、その御言葉に耳を傾け、その御言葉にいのちを見出す者は滅びないということ。今ここに集まり、御言葉に聴いている私たちは、滅びないのだという約束である。私たちは生きたまま、世の終わりを迎えることになるのか、あるいは死んだあと、世の終わりを迎えることになるのか、それは分からない。しかしすべての者は世の終わりとと共に、神の御前に立ち裁きを受けることになる。そして新しい始まりに与る者とそうでない者とに分けられることになる。その決め手は御言葉に結びついているということ。

 その終わりのときがいつ来てもよいように、いつ来ても主の御前に立つことができるように備えているようにと主は言われる。「 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい 」(34節~36節)。放縦、自分勝手気ままな思いに走ろうとする生活。泥酔、自分から感覚を鈍くさせようとすることだが、目の前の現実に向き合わないでいいようにすること。そして、そういう酔いたくなる思いの中に潜んでいるのが世の思い煩い。生活の煩いである。主の御前にたつことを忘れ、それらのことばかりに心が向いてしまわないようにしなさいと言うのである。私たちの周りには、心を鈍くさせることが一杯あるのだ。主の前に立つ・・・私たちは毎週、日曜日に礼拝に集う。礼拝に集うということは、主の御前に立つということである。私たちは毎週、毎週、主の御前に立つということを繰り返しながら、やがていつの日か、目に見える形で主の御前に立つときを迎える。その意味では、毎週の礼拝というのは、私は終わりの時に主の御前に立つ者なのだという意識を深めていくときである。

主の前に立つと言うことを真剣に考えよう。毎週の礼拝を重ねながら、主の前に立つということの意識を深めて行こう。主の御前に立つ時が来る。そのとき、自分の地上の歩みに関して一体、どんな申し開きが出来るのか・・・。主は、私たちの心に潜んでいた思いも皆、知っておられる。良いことも、悪いことも皆、主に裁かれれば、私たちはその報いをそのまま受けるよりほかはない。そんな私たちだけれども、主の前に立つ時を恋焦がれる。なぜなら、主の御前に立って、自分の歩みのすべてが主によって贖い取られる以外に私たちに望みはないから。主の御前に立つ。そして裁きを受ける。それは私たちにとって新しい始まりの第一歩なのである。決して、恐れるべきことではない。私たちの罪をはらんだ、欠け多き歩みのすべてが贖い取られるのだ。私たちは主の御前に立つことができるのである。ローマの信徒への手紙14章1節~4節で、パウロは信仰の弱い人たちを裁くなと、信仰が強いと思われている人たちに命じている。それは主がその信仰の弱い人たちをも立たせてくださるから。「 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです 」(4節)。どんなに弱い者であっても、イエス様が再び来られるのを待っている者である限り、必ず、主はその人を立たせてくださる。その人のうちに強い信仰があるからではない。たとえ信仰が弱かったとしても、主はそのような人を立たせることがおできになる。終わりの時にはその人を立たせてくださるのだ。 (2013年4月21日)

2013年4月21日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月22日~28日

4月22日(月)マタイ19章16節~30節
  永遠の命を得たいと願っていた青年、彼は「 そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか 」(20節)とイエス様に尋ねました。イエス様は「 もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい 」(21節)と言われました。それを聞いて彼は悲しみながら立ち去りました。しかしそのとき、イエス様はもっと悲しまれていたのです。ご自分のもとを立ち去って行く彼のことを見つめながら・・・。そういうイエス様の愛を彼は分かっていなかったのです。お金は大切なものですが、それにも勝って自分がイエス様に愛されていることを知ることは大切なことです。そして、それが分からなくなることほど、私たちにとって悲しいことはないのです、本当は・・・・。

4月23日(火)マタイ20章1節~16節
  このぶどう園の主人はとても「 気前のよい 」(15節)方ですね。労働時間に関係なく、皆に同じ賃金を支払ったのですから。長く働いた者からすると、不当な扱いを受けたと思うのは当然かも知れません。でもこの主人は、契約違反をしたわけではないのです。約束通りの賃金を支払っていますから。1デナリオンは1日の生活に必要な賃金でしたから、長く働いた者たちは今日一日、ちゃんと食べられるぞという安堵の中で心地よい汗をかくことができました。でも、遅くまで雇われるのを待っていた人たちは、1日の糧を得られないのではないかと言う不安の中を待ち続けました。そういう気持ちを彼らは理解できませんでしたし、何よりもすべての者がその日一日をちゃんと生きられるようにと願う主人の心を理解できなかったのです。あなたがどれだけの業績をあげたか、それは神様の判断にはないのです。

4月24日(水)マタイ20章17節~28節
  十字架の予告の直後に、ヤコブとヨハネの母が、息子たちのためにいやらしい願い事をイエス様にしたことが記されています。子を思う母の願いがそうさせたのか、あるいは、ヤコブとヨハネが母親を使って願い出たのか、分かりません。イエス様は言われます。「 あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない 」(22節)。イエス様は、このような弟子たちのために予告通り、十字架におかかりになります。そして、「 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです 」(ルカ23章34節)と祈られました。イエス様の十字架は、私たちが正しい願い求めに生きられるようにして下さるためではなかったか!!今日も十字架の上からイエス様は呼びかけられます。あなたは私に何を求めているか?と。

4月25日(木)マタイ20章29節~34節
  祈りは、「 主よ、わたしを憐れんでください 」と主に求めることです。難しいことではありません。しかし祈ろうとすると、それを妨げようとするいろいろな力が働きかけます。他のことが頭をよぎったり、この祈りは聞かれないのではないかと疑いが生じたり・・・そして集中できなくなります。横道にそらせようとするそれらの妨げを振り払って、声を出して行くときに、祈りは祈りになっていくのです。

4月26日(金)マタイ21章1節~11節
  イエス様がロバに乗ってエレサレムの都に入城されます。そのお姿は預言者の預言そのままでした(ゼカリヤ9章9節)人々は歓喜してイエス様を迎え、自分の服を道に敷き、木の枝を切って道に敷きました。彼らはイエス様こそ、ローマ軍を打ち破り、ユダヤの国を解放する救い主だと考えていました。そこには自分たちを罪から解放する救い主という理解はありませんでした。つまり、彼らは誤解した期待を持って救い主を迎えたのです。しかしイエス様はその誤解を正そうとはされず、誤解の中を進まれます。私たちは人から理解されることを求め、誤解されると激しく怒りますが、イエス様はその誤解をすべて引き受けるようにして、神の御心が成就するために人々の歓迎の中を進まれます。私たちの救い主理解も誤解の含まれた怪しいものでしかないのかも知れません。しかし主は、それを拒否なさいません。

4月27日(土)マタイ21章12節~17節
  両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒され、激しい態度で神殿のありようを批判されるイエス様。聖書は、私たちの人格も神の聖霊が宿る神殿であると言っています(Ⅰコリント3章16節以下)。私たちの神殿は、どのような状態になっているでしょうか。祈りの家が強盗の巣になってはいないでしょうか。礼拝で捧げるいけにえを売り、神殿税を納めるための両替と、外見はいかにも神様を礼拝するための便宜を図っているのですが、その心は神様を礼拝する心からほど遠く自分の利益のために神様を利用し、商売していたのです。内なる神殿を主に清めていただこう。

4月28日(日)マタイ21章18節~22節
  いちじくの木がかわいそうな気がしますが、ここでのいちじくは、当時の人々の信仰を象徴的に現しているのです。葉だけが茂っていて実はない。それは、形だけが整っていて、内実はまったくズレてしまっている(強盗の巣になってしまっている神殿礼拝に象徴されています)状況と同じです。そのような人々の信仰のありようをイエス様は指摘されたのです。「 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる 」(22節)との素敵な約束は、いちじくの木事件との関連で聞くべき言葉でしょう。つまり、私たちの求めは他の何ものでもない、何よりも「 信仰の実を結ばせてください 」という祈りになるだろうということです。信仰の実についてはガラテヤ5章22節~23節を参照しましょう。

先週の説教要旨 「 裏切られない希望 」 ルカ21章20節~28節

 「 それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである 」(25節、26節)。ここを読んで2年前の東日本大震災のことを思い起こされた方も多いだろう。震災の前まで、私たちは「 もっと便利に、もっと快適に 」という生き方をしていた。しかしその生き方は、あの津波によってたちまちのうちに失われた。何年、何十年かけて努力し、築き上げて来たものが、一瞬のうちに失われた。私たちはあらゆるものが津波に飲み込まれて消えて行く映像を見て言葉を失った。自分の心が受け止めることの出来る範囲を超えたことが目の前で展開されていたから。あの大震災と津波で私たちの体験したこと・・・それは、この日常生活が終わりを迎えてしまうときがあるということだったのではないか。このままいつまでも続くであろうと思っていた生活が突然断ち切られたのだ。それは聖書が予告している「 神による世の終わりがある(その時、私たちの日常の営みはすべて完全に断ち切られる)」ということを強く意識させることになったのではないか。私たちのうちで、現実味を失いかけていた世の終わりを垣間見せられたのである。

そのような体験を強いられるところで、イエス様は「 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ 」(27節~28節)と言われる。身を起こして頭を上げなさい・・・・。日常生活が突然断ち切られる体験、それはうなだれて、縮こまり、ため息をつくような体験ではないか。だが、主はそのときこそ、身を起こして頭を上げよと言われる。「 希望が失われた 」と愕然とするところで、なお奪われない希望があなたにはある。キリストこそ、私たちの最後の希望、真の希望であることを「 信仰 」をもって見上げようと・・・。その希望が確かなものであったことは世の終わりの時にはっきりと確認されるのであるが、今は信仰の目によってしか、その確かさを見ることはできない。私たちは信仰によって、世の終わりの時のキリストの勝利を垣間見るのである。

ジョン・バンヤンが書いた『 天路歴程 』は聖書についでよく読まれている書物であり、天国へと巡礼する信仰者の物語を描いたものである。途中、主人公は巨人絶望王の領地に入ってしまい、懐疑城に閉じ込められてしまう。絶望王はたびたびやって来ては「 もうここからは出られないのだから、自殺しろ 」と主人公をいたぶる。悩み、苦しみもだえ続けて一晩を過ごした翌朝、主人公はあることを思い出す。自分の懐には城のどこの鍵をも開けることのできる「 約束 」という名の鍵があることを思い出すのだ。どんな方法で城を抜け出すのかと期待をした読者は肩透かしを食らったようなものであるが、それが私たちの現実なのではないかと思う。約束を手にしていながら、それを持っていることを忘れて、絶望に閉じ込められて、疑いの中に入り込んでしまう・・・・。主こそ私たちの希望、主は私たちをその希望にすがるようにして身を起こし、頭を上げて生きられるようにしてくださる。

 世の終わりに人の子イエス様は、私たちに解放をもたらす(28節)。私たちは、自分を縛り付けていたものから解放されると言う。たがあの震災の時にも、その解放というものを垣間見せていただいたのではないか・・。あのとき、人々は変わった。すべての人が「 受けるよりも与える方が幸いである 」という聖書の教えを体現するような生き方を始めた。「 自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい 」という聖書の教えを実践するような生き方を始めた。隣人と競い合い、時には蔑み、あるいは隣人を自己の利益のために利用する日常生活から、「 愛 」を優先することに生き始めた。それは創世記1章に記されている神にかたどって造られた人間の姿を取り戻した姿ではなかったか。本来人間は、神が喜ばれることに喜びを感じ、神が悲しまれることに悲しみを感じる者として造られている。神にかたどって、すなわち神に似せて造られているのである。あの震災のとき、確かに人々の中に眠ってしまっていた「 神に似せて造られた面 」が目覚めたのだ。震災を契機にして、神の似姿として造られている本当の人間の姿が現れ始めたのだ。だが、それは長くは続かなかった。日常生活が戻ってくるに連れて、再び消え始めた。あれは非日常の生活をしていたときだけのことなのか。あの生き方をそのまま維持できないのであろうか・・・。否、それを維持させるのが礼拝なのである。聖なる神の御前で、神の言葉に触れる中で、私たちは聖い生き方へと絶えず引き戻されるのである。礼拝が行なわれる主の日のことを安息日と言う。ヘブライ語ではシャバットと言うが、これは「 断ち切る 」という意味の言葉なのである。安息日には、すべての日常生活を断ち切って神の御前に出る。だから神の御前に進み出ることは私たちにとって非日常の生活と言える。その非日常の中でこそ、私たちは日常生活で受けている様々な縛りから解放される。神に造られた人間としての姿を取り戻す。神の御前に進み出るという非日常を日常生活の一部として生きるところで、私たちは神の似姿としての歩みを維持することができるようになるのである。(2013年4月14日)

2013年4月16日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月15日~21日

4月15日(月)マタイ18章1節~5節

弟子たちは「 いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか 」と言いました。「 偉い 」と訳された言葉は原文では「 より大きい 」という言葉です。私たちは他者と自分を比較して、どちらがより「 大きいか 」、すなわち能力があり、存在価値が大きいかということを気にして、より大きいことに価値を見ようとします。弟子たちはその価値観を天国にまで持ち込もうとします。しかし神様のもとではそういう価値観は存在しません。天国では意味を持たない「この世の価値観」から解放されながらこの世を生きる。言い換えると、天国の価値観をこの世に持ち込んで生きること、それが信仰に生きることです。そこには当然、戦いや葛藤も生じますが、この世の価値観から「 解放されている 」という爽快感と自由があります。

 

4月16日(火)マタイ18章6節~9節

信じる者をつまずかせてしまうところの罪というものが、いかに恐ろしいものであるかが語られています。罪を犯す手足を切り取れと言われていますが、その通りに理解して、自分の手を切ったり、目をえぐり出したりする必要はありません。なぜなら、私たちに代わってイエス様ご自身がその肉体をもって、罪に対する報いを受けてくださったからです。この個所の「 気持ちが悪くなるような表現 」の中に、私たちはイエス様の十字架の出来事を読み取ることができる幸いを与えられているのです。イエス様の犠牲というところから、私たちは人をつまずかせる罪、あるいは人につまずく罪を真剣に考え直してみなくてはなりません。

 

4月17日(水)マタイ18章10節~14節

99匹の羊のたとえは、神様の民の家である教会においては、1>99という数式が生きて働くところであることを教えています。1匹の羊の存在は重いのです。1匹の羊のために、他の99匹が力を合わせて、迷い出て神様のもとを離れて行ったその1匹を救出する、教会はそういうところです。ある中学では、新年度のクラス編成が終わった後に、新しく転校生が来ることになり、その一人の転校生のためにクラス編成の作業をもう一度、一からやり直したそうです。中学校の判断は立派であったと思いますが、教会ではそれがあたりまえに通用するのです。小さな者のひとりでも滅びることがないように、それが神の御心だからです。

 

4月18日(木)マタイ18章15節~20節

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである 」(20節)。とても有名なイエス様の約束の言葉ですが、この言葉が語られた文脈は、罪を犯した教会の仲間がその罪を神様に告白し、赦しを得て再び教会の一員として歩み出せるように、という文脈の中で語られたのです。つまり、兄弟を得るために祈りを合わせる、そこに主が共にいて働いてくださると約束くださったのです。そのような祈りは必ず聞かれます(19節)。しかし、自分の犯した罪をかたくなに認めない者は、異邦人か徴税人のように扱え(17節)とあります。冷たく聞こえるかも知れませんが、そうではありません。徴税人はイエス様があえて彼らのところに出向き、招いた存在でした。普通の人以上にイエス様がその魂を熱心に求めた人たちなのです。教会はこのイエス様のお姿にならうのです。

 

4月19日(金)マタイ18章21節~35節

1万タラントトンの借金を帳消しにしてもらった家来が、100デナリオンの借金をしている仲間のそれを帳消しにしてあげなかったというたとえ。このたとえ話は、28節から始まっているものとして読むと、この家来の行動は当たり前で、非難されるべきことではないのです。でも問題は、この家来の物語が28節からではなく、24節から始まっていることなのです。24節~27節の前段階があるからこそ、家来の行動は非難されるのです。あなたはどこから始めていますか。私は誰かに貸しがある、あの人から取り立てる権利があるというところから生き始めていませんか。本当は、神様に借金(罪)を免除していただいたということから、あなたの人生は始まっているのですよ。どこから生き始めるか、それが重要です。

 

4月20日(土)マタイ19章1節~12節

旧約聖書に登場するアブラハムという人は、妻サラの死に遭遇して慟哭しました。あやしい空気の漂ったことも多々ある結婚生活でしたが、「 神が結び合わせてくださった 」ということが形となって現れるように、二人の絆は山越え、谷越え、次第に熟成されて行きましたね。それは麗しいありようなのですが、離婚は絶対にいけないと、杓子定規に聖書が教えているとは思いません。内実は離婚と同じような生活になってしまっていて、離婚して新しい歩みをそれぞれに模索した方が良いと思われるケースもあるでしょう。イエス様は離婚を悲しまれるでしょうが、ダラダラと不幸な関係を続けて、立ち直れないでいることも深く悲しまれるのです。離婚に関する教えが、赦しを教えるたとえに続いて語られている点を心に留めましょう。

 

4月21日(日)マタイ19章13節~15節

幼い子どもは、状況判断ができる年齢になっていないので、相手のことを考えずに思ったことをはっきり口に出したり、わがままな行動をすることがあります。イエス様が「 このような者たち 」(14節)と言っておられるのはそういう子どもの面ではなく、親に対する素直な信頼を持つ子どもの面です。子どもは親を絶対的な存在として信頼しています。そして、親がいないと自分は生きられないと思っています。だから失敗して親に叱られても、繰り返し、親のところに戻って来ます。

先週の説教要旨 「 耐え忍び命を勝ち取る 」 ルカ21章5節~19節

 私が洗礼を受けて間もない頃、せっかく信仰を持ったのだから、自分で聖書をしっかり読んでみようと思い、解説付きの聖書を買った。そして表紙をめくった最初のページに「 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です 」(ヘブライ10章36節)の御言葉を毛筆で書き記した。あまりにも字が下手なので、人にも見せないし、自分でもあまり見ないようにしている。だが本当は、この御言葉はどこかに隠してしまっておくようなものではなく、むしろ高く掲げていつもそれを見上げて歩むべき御言葉なのである。そしてこの御言葉と呼応するような御言葉が今朝の「 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい 」(19節)なのである。忍耐、これは聖書がしばしば教える信仰者の道である。忍耐を教える教えは、聖書でなくてもいくらでもあるが、聖書こそ真の忍耐を教えるものであると思う。耐えるということは、信仰者が真実に信仰に生きるために心得るべき鍵である。私たち信仰者にとって最も大切なことは、愛に生きることだということは皆が心得ているだろうが、その愛について語っている最も美しい言葉が記されている「 愛の賛歌 」と呼ばれるコンリントの信徒への手紙Ⅰ第13章には、「 愛は耐える 」ということが2回、繰り返して言われている。愛に生きるためには耐えることを知らないと、それは不可能なのであるとパウロは言う。

「 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい 」とイエス様は言われる。忍耐と訳されている言葉は、ある物の下にジーッと留まるという意味を持っている。部下などと言う言葉があるように、誰かの下にずっといるとか、ある状況のもとに居続ける。何かの下にいるというのは、重い、苦しい。だが、逃げ出したいと思っても、そこから出ないようにと自ら決意を保つ。それが忍耐の意味。私たちは今、ジーッと我慢していれば、やがてその重荷が取り除かれて、光が射して来るのだ。だから我慢しようと考える。しかし聖書の言う忍耐とは、それとは少し異なる。聖書が告げる忍耐とは、嵐の中にいても、すでに光が射し込んで来ている。その光に支えられるから耐えることができる、それが聖書の忍耐である。子どもの頃、台風の目というものに遭遇した。激しい嵐がやってきたかと思うと、突然、無風状態になり、やがてまた激しい嵐に戻る。激しい風雨に囲まれている中、ピンポイントで平安な静けさのある台風の目という場所がある。信仰にもそのような台風の目のようなものがある。忍耐を求められるような状況下にあっても、主がそこにおられるとき、そこには平安が生まれる。その主が与えてくださる平安に支えられて立っているというのが聖書の言う忍耐である。讃美歌529番「 主よ我が身を とらえたまえ 」を作ったジョージ・マセソン牧師は、かなりの年齢になってから失明し、しかもその時、愛した女性の愛も失って独身を強いられるようになった。その逆境にあって、かえって深い信仰に生き、多くの賛美歌と深い慰めを伝える人となった。マセソン牧師がよく祈った祈りの一つは「 不平を言いたくなるような嵐を過ぎ去らせてくださいというのではなく、今、この嵐の中で、絶望に落ち込むのが当たり前だと思う現実の中で、聖なる喜び、神を賛美する歌声が生まれますように 」であったと言う。ここに、聖書の言う忍耐に立っている人の姿を見る。

 だが耐えるということは、用意なことではない。「 堪忍袋の緒が切れた 」という言い方があるが「 緒 」とは糸を寄り合わせたものであって、ある限界に達すると切れるものである。ワイヤーロープのように強くはない。私たちの忍耐は、決して切れない丈夫なものではない、という先人の経験が生んだ言葉である。そんな弱い忍耐しか持ち合わせていない私たちが、本当に耐えられるだろうかと思うかも知れない。だが、聖書の言う忍耐は私たちの強さによるのではなく、主の強さによって支えられる忍耐なのである。この忍耐についてのイエス様の言葉は、世の終わりについての教えの中の一節である。世の終わりには政治的混乱、大地震、疫病や飢饉が起こり(10節、11節)、世は揺れ動く。だがそれに先立ってまず教会が揺れ動くと言われている(12節)。迫害が起こるのだ。その時、私たちは迫害する者たちの前で何を言おうかと心配しなくていい。主が語るべき言葉を与えるから・・・と言われる。この約束は、信仰とは「 自分の力に頼ること 」ではなく、「 自分のうちに働かれる神の力を信頼すること 」であることを示している。自分の内に働く神の力を信じるのだ。忍耐力のない自分の内に働く神の強い力を信じる。主はそのことを信じるように私たちに強い促しを与えておられる。この迫害を予告する言葉 を読んでいると、これはイエス様ご自身において起きることだと気づく。そう、私たちに先立って、イエス様はこの迫害の嵐を経験されるのだ。長く不登校が続いていた高校生の男の子・・・親や先生、周りの者が何を言っても心を閉ざしていた彼は、「 わたしも同じ不登校だったんだ。でも、大丈夫だよ 」と、牧師がそっと彼の肩を引き寄せて言った一言で、立ち上がる勇気を得た。同じ体験をした者が告げる一言には、人を立ち上がらせる力を持つ。私たちに先立って迫害を受けられたイエス様が、「 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい 」と私たちに言われる。そこには、主の確かな支えが約束されているのだ。 (2013年4月7日)

成瀬教会 <聖書日課>  4月8日~15日

 

4月8日(月)マタイ16章5節~12節

ファリサイ派とサドカイ派のパン種によく注意しなさい(6節)との主の言葉を弟子たちはパンを持ち合わせていなかったことを注意されたと誤解しました。両派はあまりの仲が良くないのですが、イエス様への殺意において一致していました(マルコ3章6節参照)。彼らの教えの特質は、イエス様をなきものとして生きようとすることです。まるで神がおられないかのように生きる。人は神なしで生きようとすれば、自分の努力、自分の力を頼みとする以外にはなくなり、一生懸命、自分に力を蓄えて、何かを獲得しようとする生き方にならざるを得なくなります。しかし信仰者の道は、自分の力を頼みとするのではなく、実力不足という現実(パンの奇跡が示すこと)を越えて前進させてくださる「主」が共におられ、その主に頼ることなのです。世の中はファリサイ人たちの原理によって突き動かされていますね。

 

4月9日(火)マタイ16章13節~20節

あなたがたはわたしを何者だと言うのか 」とイエス様に聞かれ、ペトロは「 あなたはメシア、生ける神の子です 」と答えました。その信仰告白の上に、イエス様はご自身の教会を建てると宣言されました。ですからその告白がぶれるとき、教会は教会でなくなってしまうのです。メシアである主以外のものが私の拠り所とならないよう、私たちは戦いつつ歩みます。ヒットラーと戦った告白教会のように。

 

4月10日(水)マタイ16章21節~28節

必ず 」(21節)というのは、父なる神の強い意志の現れで、イエス様を十字架につけることを強く欲しておられるということです。イエス様も自ら十字架へと向かう決意を言い表されています。しかしその強い意志が現されたとき、ペトロはそこから手を引かせようと主の前に立ちはだかりましたそのペトロを主は「 サタン、引き下がれ 」と叱責されましたが、「 引き下がれ 」は、ギリシャ語では「 私の後ろに行け 」となっています。どこか遠くへ行ってしまえというのではなく、私の後ろにつきなさい、私の背中を見つめて歩みなさいというのです。そこでこそあなたは真に命を得るのだと。25節~26節の「 失う 」、「 得る 」は羊のたとえの「 見失う 」と「 見つけ出す 」と同じ言葉です。イエス様の邪魔をして自己主張し始めると、私たちは迷子の羊のようであり、真の命を失っているのです。主の背中には私たちのための打ち傷が見えます。私たちはそこから感化を受けるのです。

 

4月11日(木)マタイ17章1節~13節

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった 」(2節)。山上の変貌と呼ばれるこの出来事は、イエス様の十字架と復活が旧約聖書の預言に合致するものであることを示す出来事だと理解されています。エリヤとモーセは旧約聖書を象徴する人物として登場しています。変貌されたイエス様のお姿は、受肉前の栄光のお姿であり、復活後の栄光の姿を表しています。しかし今、地上の歩みをされているイエス様の衣はひどく汚れていました。それは私たちの罪の汚れによるものと言ってもいいでしょう。栄光なるお方が私たちの生活のただ中に来られ、私たちの汚れをその身に負うてくださったのです。主は今日もあなたの罪をご自分の衣でそっと拭い、その衣を汚してくださいます。

 

4月12日(金)マタイ17章14節~20節

ペトロたち3人を除く(1節)残りの弟子たちは、彼らが不在の間にてんかんで苦しむ息子を癒してほしいと懇願されました。特別扱いを受けた3人だけでなく、俺たちだって・・・と気負ったことでしょう。彼らはイエス様が悪霊を追い出す振る舞いをつぶさに見て来ましたから、自分たちだってやればできると思いました。しかしできませんでした。弟子たちはイエス様のように振舞うことではなく、イエス様の元に連れて行くことが自分たちの務めであることを忘れていました。からし種一粒の信仰とは、あの方のもとにさえ連れて行けば・・・という信仰のことです。あなたが今抱えている問題も、どうぞ、イエス様のもとへ持って行ってください。

 

4月13日(土)マタイ17章22節~23節

イエス様の十字架と復活の二度目の予告を耳にして、弟子たちは非常に悲しみました(23節)。しかしこの悲しみの意味は、まったく的外れなものでした。16章でペトロがイエス様をいさめたように、救い主は圧倒的強さでローマを打ち破り、ユダヤを解放してくれるものだと彼らは期待していましたから、このような発言を繰り返されるイエス様にひどく悲しみを覚えたのです。でも本当に悲しむべきは、イエス様を十字架へと追いやってしまった私たちの罪ですよね。世の悲しみではなく、御心に適った悲しみがあるのです(Ⅱコリント7章10節)。人は悲しみがないことを求めますが、信仰者には深めて行かなければならない悲しみがあるのです。

 

4月14日(日)マタイ17章24節~27節

地上の王は自分の子どもたちからは税金を取らないだろう。ならば、神殿の王であられる父は、御子である私から税金を取ろうとなさるまい、それがイエス様の主張でした。ペトロは16章16節で素晴らしい信仰告白をしていたのですが、告白したこととやっていることがちぐはぐですね。まるで自分を見ているようです。信じていることが、そのまま形となって現れてくるような、そういう信仰生活を祈り求めて行きましょう。イエス様の対応はユーモアがあり、その中でペトロは「 ああ、そういうことか 」と、信仰と生活を結びつけて行くことを学んだことでしょう。

先週の説教要旨 「あなたがたに平和があるように」 ヨハネ20章19節~29節

ディディモと呼ばれるトマス。双子と言う意味であるが、福音書を見る限り、双子の片方の兄弟は登場しない。そこから双子というのは信仰的な意味での双子、つまり復活の主を信じたいという思いと疑ってしまう思い、相反する2つのイエス様に対する思いが同居している。その意味で双子なのだと言われることがある。他の弟子たちが復活の主に会ったと喜んでいる中、トマスだけはその喜びの輪の中に飛び込んで行くことができないでいた。トマスは自分の気持ちに対して大変正直な人間で、自分の考えをしっかりと持っていた。それだけに自分で納得できるようになるまでは信じないと考えていたのだ。ヨハネ11章16節を見ると、トマスはイエス様と一緒であれば、どこへでも行くという心意気に満ちた人と分かる。とことんイエス様に傾倒し、主に従うことに本当に一途な思いを持っていた。だからひとたび、信じると決心すれば、一途に信じて歩んで行こうとする心づもりは人一倍、強く持っていたと思われる。仲間の弟子たちは、一途なトマスに何としても復活の主と出会う喜びを知って欲しいと願っていた。トマス本人もそういう仲間の気持ちは痛いほど理解していた。しかし自分に嘘をついてまで信じるとは言えなかった。「 あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければわたしは決して信じない 」と仲間に言った。トマスは自分の手で感じる確かさを信じていた。だが、トマスには恐れの心もあったのだ。そのために信じることができなかったのである。なぜなら、主の復活を信じるということは、私たちの目に見えることには、もはや信頼を置かないということなのであり、自分の手で感じる確かさ、目で見る確かさを手放し、もっと確かなものがあると信じることなのである。今まで支えとしてきたものを手放すわけだから、最初は恐れを呼び起こす。だがその呼び起こされる恐れを突き抜けたところにある平安、平和へと達すること、それが信仰なのである。

 復活の主は、そんなトマスを放っておけない。8日たった週の初めの日、トマスが他の弟子たちと一緒に鍵のかかった部屋にいるとき、主はそこを訪ね、「あなたがたに平和があるように」と祝福の言葉を語られると、すぐにトマスに言われた。「 あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい と。あたかも主は、弟子たちの中で一番疑いの深い、一番信じることのできなかったトマスを目指してお出でになって、そう言われたかのようである。このことは、信仰の弱い私たちにとって大きな慰めである。復活の主は、一番自分は信仰がダメだと思っているその人を目指してお出でになって、その人を信じることへと導かれるのだ。この時、弟子たちは部屋の戸を閉めて、鍵をかけていた。だがそのような妨げを突き抜けて主はそこに入って来られた。同様に、私たちどんなに固く心を閉ざしていても、どんなに自分自身の魂に鎧を身につけていたとしても、主は固く閉ざした壁を突き抜けて、あなたのところへ入って来られる。私たちを信仰に導こうとされる主を妨げる障壁などこの世に存在しない。イエス様は「 あなたの指をここに当て、あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい 」と言われた。自分が痛い思いをしようが、屈辱を受けようが、疑われようが、主の願いはただひとつ、トマスが信じる者になってほしいということ。

 トマスは、主の体に触れることはなかったであろう。トマスは自分の手、自分の目の確かさよりも、今目の前に立つ主の愛のほうがはるかに確かであることを悟ったから。自分を信仰に導こうとされているこの方の熱意、愛の方が自分の手や目で感じる確かさよりも、はるかに確かであると悟ったのである。トマスは「 わが主よ」わが神よ 」と言って主の御前にひれ伏した。トマスがこの信仰告白に込めて思いは、自分の不信仰をイエス様の御前に恥じると共に、しかしこのお方は、私が信じますと信仰を言い表せば、その信仰さえも助けてくださるに違いないという思いであった。信じ切れない、疑いを持ってしまう、そういう自分の弱さもすべて、このお方に委ねる思いで信仰を告白したのである。トマスの「 わたしの主よ、わたしの神よ 」という告白の言葉は、後の教会の歴史においてイエス様に対する大切な信仰告白の言葉として受け継がれるようになった。一番信仰が弱かった思われるトマスが、豊かに用いられたのである。私たちにとっても、大きな慰め、励ましである。

私の仲間の牧師が、赴任先の教会で幼い子を残して召された若い女性の葬儀を経験した。彼女の愛唱讃美歌「 主のまことはくしきかな 迷い悩むこの身を とこしなえに変わらざる 父のもとに導く 大いなるは主のまことぞ 朝に夕にたえせず みめぐみもて支えたもう たたえまつらん わが主を 」を葬儀、前夜の祈りと何度も歌った。しかしこの歌に納得できなかったと言う。どこに主のまことを見出せるのかと。しかし葬儀が終わって後に、その牧師は分かったと言う。あの葬儀のとき、本当にそれを歌う気分が自分にあるかどうか、それが大切なのではなく、悲しみが最も深いあの日にこそ、主のまことを歌うべきだったのだ。自分の心に逆らってでも、主のまことを歌うべきだったと。自分の感情の確かさにではなく、主の愛の確かさに立つとき、主の平和が私たちを包み込む。 (2013年3月31日)

成瀬教会 <聖書日課>  4月1日~7日

 

4月1日(月)マタイ14章22節~33節

イエス様は、弟子たちを「 強いて 」舟に乗せられました(22節)。イエス様の「 強制 」には、いつも明確な目的があります。ペトロは自分が信仰の薄い者であることを悟らされましたが、それ以上に彼が学んだことは、叱られてしまうような自分がイエス様の肩を借りるようにして「 嵐の中 」を舟まで歩いて戻れたこと(32節 )、そしてイエス様が惨めな自分と共に「 嵐の中 」を歩いてくださったということでしょう。ペトロのイエス様理解は、そこで一歩前進しています。ペトロにその恵みが起こるようにと、イエス様は離れた所でペトロのために祈っておられました(23節)。嵐の中に置かれてしまうことは辛いことですが、嵐の中でも歩めるようにしていただけることを知る素晴らしい幸いというものがあります。

 

4月2日(火)マタイ14章34節~36節

人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた 」(35節、36節)。お地蔵さんに触れると、病気が治るという、よく耳にするようなことが聖書にも書かれています。イエス様のことをよく知らないままに、とにかく触れば病気を治してもらえるというのは不十分な信仰でしょう。しかしそんな不十分な信仰にもイエス様は応えられたというのです。長年同じところを触られまくったイエス像のその部分が溶けたように小さくまるまっているのを見たことがあります。イエス様は人々の病気を癒す一方で、それと引き換えにご自分の身を削られるために差し出される方なのです。

 

4月3日(水)マタイ15章1節~20節

ファリサイ人たちは、神様の前に聖なる生活を送ろうと一生懸命努めた人たちです。聖なる生活を大事にしようとの志は、私たちも学ぶべき点があります。しかし、自分の存在に深く根付いている罪の現実を悟るという点では、大きな誤りを犯していました。自分の力で神様の前に聖なる者として立てると思っていたのです。私たち人間にとって、自分の罪を悟るということがどんなに難しいことか、思わずにおれません。私たちは自分の罪を悟ることに鈍いくせに、他者の罪には敏感で、すぐにそれ批判するようなファリサイ的な生き方にすぐに陥ります。信仰の真髄は「 主よ、憐れみたまえ 」という祈りがいつも口をついて出てしまうような自己洞察の中にこそ、あるのです。食前の手洗い以上に、心が洗われることを願う熱意を!!

 

4月4日(木)マタイ15章21節~28節

カナンの女に対するイエス様の言葉は冷たすぎるのでしょうか(24節)。神様は万民の救いについて、一つの順序を定められました。そのことに関して、私たちは何も不平を言うことはできません。そのまま謙遜に受け入れるだけです。カナンの女はそのような慎ましい信仰を持っています。私は、本来なら神様の恵みをいただけるような者ではないという謙遜な姿勢があります(27節)。しかし、異邦人の地であるここに今、主が来られているということは、まさにパン屑が食卓から落ちたと言うことではないでしょうか?と、食い下がります。「 主の憐れみはどこまでも深く、広いものだ 」と信じて食い下がる姿は、主の憐れみを引き出しました。「 主の恵みと憐れみの大きさに対する徹底した信頼 」を私たちも真似ましょう。

 

4月5日(金)マタイ15章29節~31節

病気の人たち、そして体の不自由な人たちが大勢癒されたことが記されています。この人たちの喜びの賛美が群集の賛美(31節)に混じって聞こえてくるようです。でも、この人たちがその後、再び病気になってしまったら、それでも賛美を歌い続けているのでしょうか?癒しの恵みに与ることは素晴らしいことですが、その恵みに与る中で、気づくべきことがあります。それは、最大の恵みというものがあり、それは「 主があなたと共におられる 」ということ。その恵みはいかなる状況によっても取り去られないのだということ。たとえ再び病気になったとしても・・・。

 

4月6日(土)マタイ15章32節~39節

主は弟子たちを呼び寄せて、群衆に食べ物を与えようと言われました。群衆のために恵みの御業を行おうと弟子たちに呼びかけられたのです。弟子たちは、その業を共に担うよう呼び込まれましたが、環境の悪さ、自分たちの手に負えないほどの人数、それらを理由に無理だと判断しています(33節)。主が恵みを行われるのに環境の悪さや手数の不足、あるいは手遅れなどということは問題になりません。私たちはしばしばそれらの事を理由にあきらめて、自分で勝手に判断して主に期待することをやめてしまいますが、それでいいのですか?と問われています。

 

4月7日(日)マタイ16章1節~4節

ファリサイ派とサドカイ派の人々は、イエス様に「 天からのしるし 」を見せてほしいと願いました。神様から遣わされたという「 しるし 」を求めたのです。彼らは自分たちの納得できるような神の支配のしるしを要求していたのです。考えさせられることだと思います。私たちも、ほんの小さな不幸においても神の支配が見えなくなります。神様は生きておられるのか?と疑い始めます。そして自分の納得できる「 しるし 」を見せてくださいと要求します。しかし信仰というのは、神の存在やその支配を打ち消すような目に見える現実が起きたとしても、なおそれに逆らうようにして「 神様は生きておられる 」と信じて行くことなのです。自身の感覚にではなく、聖書の約束の言葉に、軸足を置いた信仰生活をしましょう。