2013年3月17日日曜日

聖書日課 3月18日〜3月24日


成瀬教会 <聖書日課>  3月18日~3月24日

3月18日(月)マタイ12章38節~42節
しるしを見せてくれと迫る人々がいます。あなたが神から遣わされたことを示す、自分たちが納得できるしるしを見せろと言うのです。仮にイエス様が彼らが求めるようなしるしを見せてくださったとしてもそこに信仰は生まれないでしょう。イエス様が私たちにくださったしるしは、預言者ヨナのしるしです。十字架につけられ、三日によみがえられた十字架と復活、それがしるし。私たちには、それに優るいかなるしるしも必要ないということです。私は神に愛されていると思えない、私が神様に愛されている確かなしるしを他に見せてくださいと言う必要はないのです。

3月19日(火)マタイ12章43節~45節
きれいに家の掃除をしたら、汚れた霊が戻って来て、そこに住み着いてしまう。しかもたくさんの仲間を連れて来て、最初の状態よりも悪くなる。なんともおもしろい話ですね。信仰を持ち、心の部屋がきれいに掃除されて行くと、次第に人の欠点や間違いが目につくようになります。そして人を裁くようになります。いわゆる律法主義者になってしまうのです。イエス様が指摘されるように、そんな危険が私たちにはありますね。私たちの心をイエス様が掃除なさると、そこには憐れみと赦しが輝き出しますが、自分の力で掃除をすると、裁きのほこりが舞い上がります。

3月20日(水)マタイ12章46節~50節
イエス様は、ご自分の家族について語られました。と言っても、血のつながりによる家族のことではなく、信仰の血筋による家族、すなわち神の家族についてです。その絆は「 天の父の御心を行う 」(50節)ことです。父の御心について、聖書が繰り返し教えているのは、99匹の羊のたとえで語られた「 これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない 」(マタイ18章14節 )と言うことです。一人の人を救うために、祈りを合わせ、できる限りの力を注ぎ、協力し合う。そこに生きることこそ、神の家族、すなわち教会のありようなのです。あなたはイエス様の家族なのですから、あなたの御心(おこころ)ではなく、神の御心(みこころ)に生きることを大切に考えましょう。

3月21日(木)マタイ13章1節~9節、18節~23節
種まきのたとえを読むと私たちの関心は、すぐに自分はどの土地に当たるのかな?という方に向いてしまいます。自分は良い土地ではないと言う強迫観念みたいなものにとらわれているからでしょうか。しかし、良い土地はそう簡単にはできないものです。荒れた地を丹念に耕す作業と根気が必要です。速効肥料による農業は土壌の荒廃を招きましたね。「 涙と共に蒔く人は、喜びの歌と共に刈り取る 」( 詩編126編5節 )とあるように、飽くことなく祈りと聖書日課などを用いて聖書に親しむ生活に手間隙かけることが大事です。私たちに御言葉の種を蒔かれるイエス様は飽くことなく、今日もダメな土地の私にも繰り返し種を蒔いてくださるのです。

3月22日(金)マタイ13章10節~17節
天の国の秘密を悟ることが許されているとか、いないとか・・・何やら宿命論みたいなことが言われていると思うかも知れませんが、そうではありません。「 耳のある者は聞きなさい 」(9節)とイエス様は言われていたではないですか。そうです。イエス様は「 聞く耳を持って聞きなさい 」と呼びかけておられるのです。「 あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ 」(16節)。見えているというのは、さえぎるものがないから見えるのです。聞こえるのは、さえぎるものがないから聞こえるのです。私たちの知識や経験が足りないから見えないのではありません。かえってそれらのものがさえぎって、イエス様の語られる真理を見えなくし、聞こえなくしているのです。聞く耳をもって聞こう。

3月23日(土)マタイ13章24節~30節、36節~43節
天の国、つまり神の支配、神のなさり方が麦畑にたとえられています。だれかが毒麦を畑に蒔いたようで、大騒ぎになりました。僕たちの解決策は、毒麦を抜き取ることでした。毒麦があるからいけないのだ。それを除けと私たちは考えますね。しかし主人は、そのままにしておけ、その最終責任はわたしが持つからと言うのです。私たちには、それが良い麦なのか毒麦なのか分からないのです。分かったつもりになって、それを抜き、かえって神の畑を荒らしてしまうのです。私たちは引き抜くことではなく、育てることに力を注げばいいのです。それが本当の解決策です。育てる戦いをしている中で、神様は毒麦をもよいものに変えてくださるでしょう。あなたにとって、抜きたい毒麦とは何ですか。それを抜くな、と神は言われます。

3月24日(日)マタイ13章31節~33節
「 からし種のたとえ 」と「 パン種のたとえ 」、2つのたとえが語られていますが、2つとも同じメッセージを伝えています。その始まりは小さいけれども、その小ささの中にすでに決定的な力を秘めているというのがそのメッセージです。からし種は米粒よりももっと小さいものですが、成長すると2階に届くほどの大きさの木になります。パン種は小さいものですが、パンを大きく膨らませますね。両者とも小さいですが、爆発的な力を秘めています。私たちひとりひとりの信仰生活や私たちの教会は、その始まりがどんなに小さいものであっても、そこにはイエス・キリストという決定的な力を持った方が与えられており、共に歩んでくださっている、そういう歩みなのです。だから勇気を出して生きられます。