2013年3月10日日曜日

聖書日課 3月11日〜3月17日


成瀬教会 <聖書日課>  3月11日~3月17日

3月11日(月)マタイ11章20節~24節
成瀬教会は2016年に設立50年を迎えます。これまでの教会の歴史、その歴史を造って来た伝道者、教会員一人一人のことを思うとき、この玉川学園の地でもイエス様は数々の奇跡を行なってくださったのだと感謝にあふれます。あなたが救われて、今、教会に通うようになっているというのは、まさにその奇跡のひとつですよね。神様の救いの光の中で、悔い改めの生活を重ねているあなたが、悔い改めを知らない不幸な町の希望の灯となりますよう祈ります。あなたがこの町に住んでいること、あなたがこの家庭の中にいるということは、そこに天に通じる門が開かれていることを意味しているのです。この町にはなお望みが開かれています。

3月12日(火)マタイ11章25節~30節
「 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである 」(29節~30節)。軛(くびき)とは、農作業をさせたり、荷を引かせるために2頭の牛を横一列に並ばせ、つなぎとめる器具です。私と並んで軛を負いなさいとイエス様は言われます。なぜなら、安らぎは何の荷もないところにあるのではなくて、イエス様と一緒に荷を負うところにあるからです。イエス様と共に荷を負いながら、そこで私たちは安らぎというものを知るのです。真の安らぎというものを。だから荷を負うことを恐れたり、避けたりしなくていいのですよ。

3月13日(水)マタイ12章1節~8節
法律を解釈する場合は、ただ字面だけを読むのではなく、その法律がどのような意図をもって作られたのか、それを十分に踏まえて読まねばなりません。少年法は少年を更生するために作られたものですが、その精神から離れて、犯罪をした少年を処罰するという視点から読めば、なま温い法律だと言うことになってしまうかも知れません。神の律法の精神はどうでしょうか。神は人間を愛し、憐れもうとされるお方です。人間同士が愛し合うことを求められるお方です。その実現のために神は律法を与えられた。それが律法の精神です。しかしその精神を見失ってしまったファリサイ人たちは、誤った解釈の律法を義務として人々に押し付けたのです。私たちが聖書から神の言葉を読む時も、同じ読み方が大切にされるべきです。

3月14日(木)マタイ12章9節~14節
「 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した 」(14節)。彼らの殺意は、この安息日の出来事によって決定的なものになりました。つまりイエス様は、片手の萎えた人を癒すことによって、自らの死を受けなければならなくなったのです。イエス様にとって、そのことは覚悟の上だったでしょう。イエス様にとって、人の命が生き生きとすることは、羊1匹の命よりもはかるに重いことだったのです。片手の萎えた人の悲しみを罠として利用するような彼らにはそのことが全く分かりませんでした。あなたが今日、生き生きと生きるために、イエス様はご自分の持てるすべてを注ぎ込んでいてくださるのです。

3月15日(金)マタイ12章15節~21節
「 彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない 」(20節)。預言者イザヤを通して預言されていた救い主のことが、今、イエス様において成就しています。あなたは今、傷ついていますか。あなたの心のともし火はくすぶってしまっていますか。20節の御言葉が今日、あなたにも成就するようにと、イエス様はあなたの今日一日の中に働こうとされています。あなたも勇気を出して生きられますよ。

3月16日(土)マタイ12章22節~32節
赦されない罪があるとイエス様は言われます。十字架の上でイエス様が「 父よ、彼らの罪をお赦しください 」と祈ったその祈りが届かないところがあると言うのです。こんなことを言われてしまったファリサイ人たちは一体、何をしたのでしょう。彼らは自分たちの知恵からすれば、主のなさっていることは測り難い、いやこれはサタンの仕業としか言いようがないと言ったのです。自分たちは神についての知識を誰よりも持っていると、彼らは自他共に認める存在でした。しかしイエス様において神の霊の働きが始まった時、自分たちの理解を超えたこの働きを認めて受け入れることは、自分の立場を揺るがし、失わせることになると恐れたのです。そしてそれを悪霊の働きだと決め付けた。自分の理解できないことでも神様のなされることですからと、謙虚に受け入れる姿勢が信仰においては決定的に大事なのです。

3月17日(日)マタイ12章33節~37節
「 人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである 」(34節)。日本語には「 心にもないことを言ってしまいました 」という言い方がありますね。でもそれは嘘だとイエス様は言われます。心にあるものしか出ないのです。人は・・・。「 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる 」(36節~37節)とは、あまりにも厳しくて、一体誰が耐えられるだろうかと思ってしまいます。でもこの言葉は、「 あなたはイエス・キリストという良い木に接木されたのだから、もう良い木になっているのですよ。良い実を結べるのですよ 」という慰めと励ましの言葉なのです。信仰とは、自分の力を信じることではなく、自分のうちに働かれる神の力をこそ信じることです。3