2013年3月3日日曜日

2013年3月3日 説教要旨


「 これぞ神の愛 」   ルカ20章9節~19節

今朝のたとえ話は、イエス様が地上のご生涯においてなさった最後のたとえ話である。最後にこういう話を語らねばならなかったことをイエス様はどんなに悲しく思われたことだろうか。このたとえ話はぶどう園を舞台にした物語。イスラエルの民と神様の関係がぶどう園になぞらえて語られている。ぶどう園の主人は神様、ぶどう園で働く農夫たちはイスラエルの民を指している。ある人がぶどう園を造り、そのぶどう園を農夫たちに預けて長い旅に出た。その途中、ぶどうの収穫の季節になったので、その分け前をいただこうと、主人は僕を送った。ところが農夫たちは、送られてきた僕たちを次々と侮辱し、空手で送り返し、最後にはぶどう園の跡取り息子が送られて来たのだが、それをも殺してしまうという内容である。

このたとえで私たちがまず驚くことは、13節でぶどう園の主人が「どうしようか」と考えていることである。最初の僕が空手で帰って来た段階であれば、遣わした僕が良くない言い方でもして、農夫たちを立腹させたのかも知れないと考えることはあろう。だが2人目の僕が手ぶらで戻って来てもまだ「どうしようか」と悩み、そして悩んだ末に愛する息子、ぶどう園の跡取りとなる息子を遣わすのである。一体、何でそんな馬鹿なことをするのだろうか・・・。「それでもなお農夫たちを信頼していたからだ」という以外に理由は見つけられない。この主人が農夫たちを信頼していたということは、最初に農夫たちにぶどう園を任せてしまったきり、主人は収穫のときまで一切口出ししてこなかったということの中にも見られよう。問題はその信頼をいいことに、農夫たちがこのぶどう園を主人の手から奪い取ってしまい、自分たちがこのぶどう園の主人になろうと考えたことなのである。

このたとえ話は、神様とイスラエルの民のことを語っている。ぶどう園とは、神様が造られたこの世界である。イスラエルの民は、神様の喜ばれる収穫をこの世界から刈り取るために働くよう、神様から選ばれた民族だった。しかし彼らは神様に背き続けてしまい、神様は彼らを正そうと次々に預言者と呼ばれる人物を送り込んだ。しかし彼らは預言者たちを殺し、そうやって神様を無視し続けたのである。そして最後に神様は最愛の息子であるイエス・キリストを彼らのところに遣わされた。そして今、彼らはそのイエス様をも殺そうとしている・・・・。このたとえ話はイスラエルの歴史そのものなのである。だが考えてみると、このぶどう園の農夫たちは私たち自身のことでもあるのではないか。私たちも神様からいろいろなものをお借りしているのである。この世界、自分の人生、家族、友人、才能、持ち物、あなたが持つすべてのものは実は神様が私たちにお貸しくださっているもの。私たちはそれをもって、神様の喜ばれる収穫を得て、神様に「あなたからお借りしているものからこんな喜びが収穫できました」と、それを神様に捧げる。それが私たちの人生なのである。けれども私たちはイスラエルの民がしたように、自分が家庭や職場、自分の人生の主人になろうとして、神様からその座を奪い取ろうとしているのではないか・・・。何でも、自分の思い通りになることが大切なのではなく、本当の主人である神様の願い通りになることが大切なのである。子育てで言えば、自分の願い通りに我が子が育つことではなく、神様の願われる通りにこの子が育つことが大事なのである。親はそのことのために、神様から子を預かり、育てるのが役目なのである。そのように、信仰を持つということは自分の人生も、自分のまわりにあるすべてのものも、皆、神様からお借りしているものであって、自分のものではない。自分を喜ばす以上に、神様が喜ばれるような用い方をして行こうと考えるようになる。それが信仰を持つということであり、神様を信じるということなのである。

このたとえ話では、主人は農夫たちを信頼し切っているがゆえに姿を現さない。現代でも「神などいない。迷信だ」と揶揄されてしまうほどに、神様がそのお姿を隠しておられるのは、私たちを信頼しておられるからなのだ。そのことは聖書が主張する大事な信仰だ。農夫たちは主人が姿を現さないのをいいことに、主人を無視し続けた。やがて「戻って来る」(15節)主人を無視し続けたのである。私たちも毎週使徒信条を告白し、イエス様が再びこの地上に戻って来られるとの信仰を言い表している。だが本当に、主がやがて来られ、その主の前に自分は立つのだという真剣さが、自分の生活を造る動機になっているだろうか。主が戻って来られることを無視した生活になってしまってはいないだろうか・・・私たちも問われている。

最後には息子が殺されてしまうという結論まで聞いた人々は、立腹して「そんなことがあってはなりません」(16節)と言った。これは「断じてあってはならない」と訳せる、非常に強い言い方である。たが、そのあってはならないことが、この後起きてしまうのである。私は思う。キリストの十字架は本来あってはならないことだった。それが分からないと、十字架を引き起こした私たちの罪もまた、本来あってはならないことであったという理解が鈍くなり、罪を甘く考えるようになる。だが、その「あってはならないこと」を、私たちの救いのために神様は「なくてはならないこと」に変えてしまわれた。それが十字架の真相なのであり、それはまさに「捨てられた石が隅の親石」となる驚くべき出来事なのだ。