2013年3月10日日曜日

2013年3月10日 説教要旨


「 神にお返しして生きる 」 ルカ20章20節~26節

今朝は皇帝への税金問題の箇所である。一見すると、先週読んだぶどう園のたとえとは全く関係ないように思えるが、実は同じテーマが問題にされている。あなたは神様のものを神様にちゃんとお返しするように生きているか、そのことをイエス様が私たちに問うておられるのである。ユダヤの指導者たちは、イエス様を殺したいと願ったが民衆の支持を受けているイエス様に簡単に手をかけられずにいた。それで彼らは回し者を使って「ローマの皇帝に税金を納めることは、神の律法に適っていることかどうか」と、問うて来た。もし、「ローマ皇帝に税金を納めるな」と答えれば、「あいつはローマ帝国に逆らって反乱を起こそうとしている政治犯だ」と訴えることができる。反対に「ローマ皇帝に税金を収めよ」と答えれば、「あの方こそ、救い主。ローマの支配からイスラエルを解放してくれる方だ」と叫ぶ人々の期待を裏切ることになり、イエス様の評判は一気に落ちる。どっちに転んでもイエス様を追いやることができると考えたのだ。だがイエス様は彼らの企みを見抜いて「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」。彼らが「皇帝のものです」と言うと「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われたのは、彼らがデナリオン銀貨をいつも所持していたからだ。そう、彼らはそれを使ってちゃんとローマに税金を納めていたのである。ユダヤ人は生活するためのユダヤの銀貨とローマに税金を納めるためのローマの銀貨と、2種類の銀貨を使っていた。彼らは、自分たちはちゃんと税金を納めておきながら、イエス様にはどうすべきかと問うたのである。明らかに矛盾している。つまり、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉は、いつもあなたがたがしている通りにしなさいという意味の痛烈な皮肉なのである。だが皮肉を言われるだけではなく、すぐにこう付け加えられた。

「神のものは神に返しなさい」・・・。このイエス様の言葉の真意は何であろうか。皆、誰でも税金を払うのは嫌だ。ユダヤ人だけではない。私たち日本人だって税金を払うのをあまり好ましいこととは思わないところがある。だから税金を収めるとは言わないで、税金を取られると表現する。税金は、社会の役に立つと知りながら、どうも金額が大きくなると嫌だなあと思う。なぜなのか。せっかく自分で稼いで、自分のものになっているものを出さなければならないから。しかも献金みたいに喜んで自由にしているのではなく、何パーセントと勝手に決めて持って行かれてしまう。そうなると、自分のものを取られたような気がする。そうやって、稼いだものは皆自分のもの、人になんかやるものかという生き方の根源に大切な問題が潜んでいないか、とイエス様は問われたのである。あなたが、これは自分のものだと思い込んでいるもの、自分のものだと主張してやまないもの、それは本来神様のものなのではないか。本当は、それを神様にお返しするように生きるべきなのではないか、そう問われたのである。神のものとは何か。デナリオン銀貨には皇帝の銘が刻まれていた。それはこれが流通する地域、そこにあるすべてのもの、人は皇帝のものであるとする自己主張。しかし創世記1章26節には、「人は神にかたどって造られた」と記されている。つまり、人間には神の姿が刻まれているのであり、人間は本来、神のものなのだと聖書は言うのである。私たちの命そのものがすでに神様のものとしてあなたに貸し与えられているもの。この世界も、自分の体も才能も、家族や友人、様々な出会いも実はすべて神様のものであって、神様から貸し与えられているものに過ぎない。それらが自分のものであるかのような生き方をしないで、神様にお返しするように生きなさいとイエス様は言われるのである。東日本大震災から2年が経つ。あの被災地で、神のものを神に返す生き方に挑戦しているひとりのキリスト者がいる。「海よ、よみがえれ」と祈りながら、山に木を植える畠山重篤さん。気仙沼で牡蠣の養殖を行っていて、もう70歳を越えておられる。震災で家族を失った。畠山さんは、長く牡蠣養殖を行う中で、海の豊かさは森の豊かさと連動していることに気づく。そして森は海の恋人と称して、植樹の働きをずっと担って来られ。たが大震災によって畠山さんの養殖筏はそのほとんどが津波にさらわれてしまった。一緒に働く人々もその財産の全ても奪われた。ゼロからの再出発。しかし畠山さんは、今まで同様、森の再生から始める。「海よ、よみがえれ」と祈りながら、山に木を植え続けている。回復までどれくらいの時間を要することだろうか。神様が造られた一体化した自然、それを取り戻そうと祈りつつ、地道な作業を続ける。これはまさに神様のものを神様にお返しするという生き方が、どのようなものであるかを示すひとつの生きた証であろう。神様にお返しする生き方にはひとつの特徴がある。それは自分の命の長さをはるかに越えたもっと長期的な働きのために、自分の命を注ぎ込むという特徴である。自分の人生の長さをはるかに越えて進められる神様の御業を見据えて、それに自身を注ぐのである。