2013年3月24日日曜日

聖書日課 3月25日〜3月31日


成瀬教会 <聖書日課>  3月25日~3月31日

3月25日(月)マタイ13章34節~35節
イエス様は群集にたとえを用いて話されました。「 たとえ 」と日本語に訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「 パラボレー 」と言います。英語の「 パラブル 」(たとえ)の語源になった言葉です。「 パラ 」、「 そばに 」という言葉と「 ボレー 」、「 投げる 」という言葉が合わさって出来た言葉で、たとえとはそばに投げる、つまり伝えたいことの「 核心 」そのものに直接触れるのではなく、核心から少し外れたところに触れていると言う意味なのです。この話はどういう意味なのだろうかと関心を持った人は、すぐ近くにある核心に近づこうとするでしょうし、関心を持たなかった人は近づかずに離れて行きます。たとえは、そのように聴き手を「 関心があるかないか 」で、振り分けるという結果を生みます。イエス様の語り方は、私たちにさらなる関心を呼び起こそうとする語り方なのです。関心を持とう。

3月26日(火)マタイ13章44節~46節
畑に隠された宝と高価な真珠を買う商人のたとえは、ともに「 持ち物をすっかり売り払い 」(44節、46節 )、欲しい物を手に入れる点が似ています。人間は、みな良いものを手に入れたいと願っています。生きる上での喜び、幸福感、家族や仲間など・・。しかし、このたとえの登場人物たちは、良いものではなく、最上のものを求めていたのです(46節)。彼らは、最上のものが何かを見抜くことができました。そして最上のものを手に入れるためには、良いものさえ手放す準備もしていたのです。あれもこれもではなく、ただひとつという生き方です。最上のもの、それは天の国(神の支配のこと)です。私たちは最上のもの、すなわち真の宝を求めているのでしょうか、それとも良いものに過ぎないのでしょうか。

3月27日(水)マタイ13章47節~50節
世の終わりにある神の裁きのことを語っているたとえ話です。48節の「 良いもの 」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「 タ・カラ 」という言葉です。日本語の宝と同じ音ですね。これは偶然の一致です。より分けられる基準は、その人が本当に宝を宝として生きてきたか。それとも宝とは言えないものを宝のようにして生きてきてしまったか、ということなのです。お宝鑑定団という番組があります。宝だと思い込んでいた物が、プロが鑑定するとただのガラクタに過ぎなかった・・・ということがよくあります。他人事ではありません。あなたの宝は、何になっているでしょうか。真の目利きである方の鑑定が最後に待っているのです。

3月28日(木)マタイ13章51節~52節
イエス様は弟子たちのことを「 学者 」と呼ばれましたよ。そう、イエス様から学んだあなたは、すでに学者なのです。イエス様から「 天国学 」の学位を授けられたのです。天国学修士(マスター)は、この世界、そしてあなたの日々の生活を神様がご支配されているのだということが分かるようになります。そして「 自分の倉から新しいものと古いものを取り出す 」のです。それは、新約聖書(つまりイエス様の教え)と旧約聖書から、神のご支配がどういうものかを聞き取ることができるということです。いつでも、神の指先をそこに見ることができるのです。しかしそれは「 あなたの指先を見せてください 」という不断の祈りがあってのことだということを忘れないようにしましょう。

3月29日(金)マタイ13章53節~58節
「 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい・・・姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか 」(55節~56節)。イエス様の生い立ちを知っている故郷の人々は、それ以上聴こうとも学ぼうともしませんでした。そのためにイエス様は故郷ではあまり奇跡をなさらなかったと言うのです。私たちはイエス様を「 もう知っている 」つもりになり、求めを失うとき、力をなくします。主に対する求め、飢え渇きの中でだけ、私たちは生き生きと生きることができます。

3月30日(土)マタイ14章1節~12節
14章では、2つの宴席が続きます。ヘロデの誕生を祝う盛大な宴席とイエス様がしつらえたパンと魚の貧しい宴席です(13節~21節)。前者の宴席は、神の言葉を語ったヨハネの首をはねることにおいて、その特質を暴露しており、神の言葉さえ消してしまうようなおごり高ぶった集まりです。もう一方の宴席は、イエス様のもとにしつらえられたイエス様と共に「 天を仰ぐ 」(19節)宴席です。どちらの宴席にも喜びの声が響いていますが、どちらの喜びが真実なものなのでしょうか・・・・。そして、私たちはどちらを求めているのでしょうか・・・・。

3月31日(日)マタイ14章13節~21節
「弟子たちはそのパンを群衆に与えた」(19節)とあります。もし彼らが群集に与えなかったならば、何も起こらなかったのです。弟子たちが受け取ったとき、パンは5つ、魚は2匹のままです。それを群集に手渡し始めるか、それとも立ち尽くしたままでいるか。もし食べ物を配り始めて何も起こらず、すぐに底を尽いたら彼らは群集の笑いものになります。群集の中でもらえた人、もらえない人が出て、騒ぎになるかも知れません。わずかなものを大群衆に差し出して行くのは、愚かな行為にしか見えなかったでしょう。しかしその愚かさの中に、キリストに従うがゆえの愚かさの中に、踏み込む決断をしたことによって弟子たちは奇跡に出会うことができたのです。安全を第一に考え、危険を避けるならば私たちは奇跡を失うのです。

2013年3月17日日曜日

2013年3月17日 説教要旨


「 すべてのことが意味を持つ 」 ルカ20章27節~40節

ある哲学者が「愛の最も由々しい敵が憎しみではなく無関心であるように、信仰の最も由々しき敵は退屈なのです」と言っている。なぜ、「生きておられる神様」を信じているにもかかわらず、その信仰が干物のように干からびた、生き生きとしない、退屈な信仰になってしまうのか。我々は真剣に「神は生きておられる」ということを、信仰をもって受け止め直さなくてはならないのではないか・・・と。イエス・キリストが地上の生活をしておられる時に戦われた、その戦いもまた「退屈になった信仰」を巡っての戦いであったと言える。信仰が退屈な生き方を生んでしまう、それは罪なのである。退屈の罪との戦い、退屈な信仰を生き生きとした信仰によみがえらせる、それがイエス様の戦いであったと言うことができるし、言い換えると、イエス様が戦ってくださらなければならないほどに、退屈な信仰から脱出することは我々には容易ではないということ。今朝はルカ20章27節以下を読む。復活を信じていないサドカイ派の人々が議論をしかけて来た。これは議論のための議論であって、それこそ退屈な話である。サドカイ派の人たちは、こういうことを真剣に考えるほどに、退屈な信仰になってしまっていたのだ。サドカイ派は、ファリサイ派と異なり、死者の復活を信じていなかったが、イエス様も復活を語っておられると聞き、イエス様を論破しようとやって来たのである。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というモーセの律法の掟を引き合いに、もし7人兄弟がいて、7人とも子を残さなかった場合、全員の妻になった女は、復活の時、誰の妻になるのか、というのである。神の掟は、一人の女性が同時に何人もの夫を持つことをよしとしていない以上、復活があるなら神の掟の中に矛盾が生じてしまうではないかと言う理屈である。これはただ相手を負かしてやっつけるという目的だけの、いわば議論のための議論に過ぎない。筋は通っているがそこには夫を失った妻に対する同上はひとかけらもない。一体私たちの生活において、ただ神の掟にそう書かれているからという理由で、まるで子どもを生むための機械のように次から次へと夫を取り替えてしまうことがあり得るだろうか。そういう想定をしてみせること事態が極めて非人間的だし、およそ現実離れした頭だけの信仰、生き生きとしていない、言わば干物のように干からびた退屈極まりない信仰の姿である。

イエス様は彼らに対して、復活はあるのだと言うことを聖書から論証なさる。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(37節、38節)。神は死んだ者の神ではない。生きている者の神、アブラハムも、イサクも、ヤコブも確かに死んだのだが、神は死んだ者を死んだままにしておかれない。神はいつでも生きている者の神であり続ける方だから、たとえ死んだ者であっても、神はそれをご自身の前に復活させる。生きた者とされる。神の激しい愛が死んだ者をそのまま放っておかないのだ。「私が生きているので、あなたがたも生きることになる。すべてのものは神によって生きる」。復活を保証するにはそれで十分ではないか。イエス様はそう言われるのである。これは何と、慰めと恵みに満ちた宣言であろうか。神が生きておられる限り、すべてのものが生きるようになる。死んだ者も復活する。いや、これは復活だけにとどまらない。神が生きておられる限り、神の御前にある「すべてのこと」が命を帯びてくるようになる。意味のあるものになっていると言うのである。神に愛でられている私たちにとって、無駄なことなど一切ないのだ。つまらない雑用も、無駄と思える努力も、空しく過ぎたと思える時間も、踏みにじられたあなたの愛の業も、役に立たなかった準備も、報いられなかった忍耐も、はかなくついえた希望も、皆、生きるのだ。孤独も、病気も、不幸も、悩みも、痛みも生きる。神の御前には、無駄なことなどまったく存在しないのである。皆生きる。すべてがいのちの輝きを帯び、意味あるものとして輝き始める。私たちの神はそのようなことをなさる方なのだ。私たちがこれは何の意味も無い空しいことではないかと思う、そのことを神は意味あるものとしてくださる。そのことが分かると、信仰は生き生きとした信仰にならざるを得なくなる。退屈な議論のための議論を繰り返す、頭だけの信仰に堕してしまうことなんか起こり得ない。すべてが生きるのだから。今、子どもが生まれない夫婦のために、別の女性のお腹を借りて、子どもが与えられるようにする医療技術が生まれた。また、iPS細胞は医療技術における夢の扉を開きつつある。大いなる期待を込めて苦しみに耐え、待ち続けている人たちもいる。だが倫理的な面からの問題も提起されている。どこまで人間の願いを貫き通してよいのか、踏みとどまるべき地点があるのではないか。それは「すべてのことは神によって生きる」という御言葉とどのように向き合っているか、というところで自ずと答えが出て来るはずだ。イエス様はサドカイ派の人たちを、そして私たちを、退屈な頭だけの信仰から「今も生きて働いておられる神」を信じるところに生まれる「生き生きとした信仰」へと招いておられる。

聖書日課 3月18日〜3月24日


成瀬教会 <聖書日課>  3月18日~3月24日

3月18日(月)マタイ12章38節~42節
しるしを見せてくれと迫る人々がいます。あなたが神から遣わされたことを示す、自分たちが納得できるしるしを見せろと言うのです。仮にイエス様が彼らが求めるようなしるしを見せてくださったとしてもそこに信仰は生まれないでしょう。イエス様が私たちにくださったしるしは、預言者ヨナのしるしです。十字架につけられ、三日によみがえられた十字架と復活、それがしるし。私たちには、それに優るいかなるしるしも必要ないということです。私は神に愛されていると思えない、私が神様に愛されている確かなしるしを他に見せてくださいと言う必要はないのです。

3月19日(火)マタイ12章43節~45節
きれいに家の掃除をしたら、汚れた霊が戻って来て、そこに住み着いてしまう。しかもたくさんの仲間を連れて来て、最初の状態よりも悪くなる。なんともおもしろい話ですね。信仰を持ち、心の部屋がきれいに掃除されて行くと、次第に人の欠点や間違いが目につくようになります。そして人を裁くようになります。いわゆる律法主義者になってしまうのです。イエス様が指摘されるように、そんな危険が私たちにはありますね。私たちの心をイエス様が掃除なさると、そこには憐れみと赦しが輝き出しますが、自分の力で掃除をすると、裁きのほこりが舞い上がります。

3月20日(水)マタイ12章46節~50節
イエス様は、ご自分の家族について語られました。と言っても、血のつながりによる家族のことではなく、信仰の血筋による家族、すなわち神の家族についてです。その絆は「 天の父の御心を行う 」(50節)ことです。父の御心について、聖書が繰り返し教えているのは、99匹の羊のたとえで語られた「 これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない 」(マタイ18章14節 )と言うことです。一人の人を救うために、祈りを合わせ、できる限りの力を注ぎ、協力し合う。そこに生きることこそ、神の家族、すなわち教会のありようなのです。あなたはイエス様の家族なのですから、あなたの御心(おこころ)ではなく、神の御心(みこころ)に生きることを大切に考えましょう。

3月21日(木)マタイ13章1節~9節、18節~23節
種まきのたとえを読むと私たちの関心は、すぐに自分はどの土地に当たるのかな?という方に向いてしまいます。自分は良い土地ではないと言う強迫観念みたいなものにとらわれているからでしょうか。しかし、良い土地はそう簡単にはできないものです。荒れた地を丹念に耕す作業と根気が必要です。速効肥料による農業は土壌の荒廃を招きましたね。「 涙と共に蒔く人は、喜びの歌と共に刈り取る 」( 詩編126編5節 )とあるように、飽くことなく祈りと聖書日課などを用いて聖書に親しむ生活に手間隙かけることが大事です。私たちに御言葉の種を蒔かれるイエス様は飽くことなく、今日もダメな土地の私にも繰り返し種を蒔いてくださるのです。

3月22日(金)マタイ13章10節~17節
天の国の秘密を悟ることが許されているとか、いないとか・・・何やら宿命論みたいなことが言われていると思うかも知れませんが、そうではありません。「 耳のある者は聞きなさい 」(9節)とイエス様は言われていたではないですか。そうです。イエス様は「 聞く耳を持って聞きなさい 」と呼びかけておられるのです。「 あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ 」(16節)。見えているというのは、さえぎるものがないから見えるのです。聞こえるのは、さえぎるものがないから聞こえるのです。私たちの知識や経験が足りないから見えないのではありません。かえってそれらのものがさえぎって、イエス様の語られる真理を見えなくし、聞こえなくしているのです。聞く耳をもって聞こう。

3月23日(土)マタイ13章24節~30節、36節~43節
天の国、つまり神の支配、神のなさり方が麦畑にたとえられています。だれかが毒麦を畑に蒔いたようで、大騒ぎになりました。僕たちの解決策は、毒麦を抜き取ることでした。毒麦があるからいけないのだ。それを除けと私たちは考えますね。しかし主人は、そのままにしておけ、その最終責任はわたしが持つからと言うのです。私たちには、それが良い麦なのか毒麦なのか分からないのです。分かったつもりになって、それを抜き、かえって神の畑を荒らしてしまうのです。私たちは引き抜くことではなく、育てることに力を注げばいいのです。それが本当の解決策です。育てる戦いをしている中で、神様は毒麦をもよいものに変えてくださるでしょう。あなたにとって、抜きたい毒麦とは何ですか。それを抜くな、と神は言われます。

3月24日(日)マタイ13章31節~33節
「 からし種のたとえ 」と「 パン種のたとえ 」、2つのたとえが語られていますが、2つとも同じメッセージを伝えています。その始まりは小さいけれども、その小ささの中にすでに決定的な力を秘めているというのがそのメッセージです。からし種は米粒よりももっと小さいものですが、成長すると2階に届くほどの大きさの木になります。パン種は小さいものですが、パンを大きく膨らませますね。両者とも小さいですが、爆発的な力を秘めています。私たちひとりひとりの信仰生活や私たちの教会は、その始まりがどんなに小さいものであっても、そこにはイエス・キリストという決定的な力を持った方が与えられており、共に歩んでくださっている、そういう歩みなのです。だから勇気を出して生きられます。

2013年3月10日日曜日

2013年3月10日 説教要旨


「 神にお返しして生きる 」 ルカ20章20節~26節

今朝は皇帝への税金問題の箇所である。一見すると、先週読んだぶどう園のたとえとは全く関係ないように思えるが、実は同じテーマが問題にされている。あなたは神様のものを神様にちゃんとお返しするように生きているか、そのことをイエス様が私たちに問うておられるのである。ユダヤの指導者たちは、イエス様を殺したいと願ったが民衆の支持を受けているイエス様に簡単に手をかけられずにいた。それで彼らは回し者を使って「ローマの皇帝に税金を納めることは、神の律法に適っていることかどうか」と、問うて来た。もし、「ローマ皇帝に税金を納めるな」と答えれば、「あいつはローマ帝国に逆らって反乱を起こそうとしている政治犯だ」と訴えることができる。反対に「ローマ皇帝に税金を収めよ」と答えれば、「あの方こそ、救い主。ローマの支配からイスラエルを解放してくれる方だ」と叫ぶ人々の期待を裏切ることになり、イエス様の評判は一気に落ちる。どっちに転んでもイエス様を追いやることができると考えたのだ。だがイエス様は彼らの企みを見抜いて「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」。彼らが「皇帝のものです」と言うと「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われたのは、彼らがデナリオン銀貨をいつも所持していたからだ。そう、彼らはそれを使ってちゃんとローマに税金を納めていたのである。ユダヤ人は生活するためのユダヤの銀貨とローマに税金を納めるためのローマの銀貨と、2種類の銀貨を使っていた。彼らは、自分たちはちゃんと税金を納めておきながら、イエス様にはどうすべきかと問うたのである。明らかに矛盾している。つまり、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉は、いつもあなたがたがしている通りにしなさいという意味の痛烈な皮肉なのである。だが皮肉を言われるだけではなく、すぐにこう付け加えられた。

「神のものは神に返しなさい」・・・。このイエス様の言葉の真意は何であろうか。皆、誰でも税金を払うのは嫌だ。ユダヤ人だけではない。私たち日本人だって税金を払うのをあまり好ましいこととは思わないところがある。だから税金を収めるとは言わないで、税金を取られると表現する。税金は、社会の役に立つと知りながら、どうも金額が大きくなると嫌だなあと思う。なぜなのか。せっかく自分で稼いで、自分のものになっているものを出さなければならないから。しかも献金みたいに喜んで自由にしているのではなく、何パーセントと勝手に決めて持って行かれてしまう。そうなると、自分のものを取られたような気がする。そうやって、稼いだものは皆自分のもの、人になんかやるものかという生き方の根源に大切な問題が潜んでいないか、とイエス様は問われたのである。あなたが、これは自分のものだと思い込んでいるもの、自分のものだと主張してやまないもの、それは本来神様のものなのではないか。本当は、それを神様にお返しするように生きるべきなのではないか、そう問われたのである。神のものとは何か。デナリオン銀貨には皇帝の銘が刻まれていた。それはこれが流通する地域、そこにあるすべてのもの、人は皇帝のものであるとする自己主張。しかし創世記1章26節には、「人は神にかたどって造られた」と記されている。つまり、人間には神の姿が刻まれているのであり、人間は本来、神のものなのだと聖書は言うのである。私たちの命そのものがすでに神様のものとしてあなたに貸し与えられているもの。この世界も、自分の体も才能も、家族や友人、様々な出会いも実はすべて神様のものであって、神様から貸し与えられているものに過ぎない。それらが自分のものであるかのような生き方をしないで、神様にお返しするように生きなさいとイエス様は言われるのである。東日本大震災から2年が経つ。あの被災地で、神のものを神に返す生き方に挑戦しているひとりのキリスト者がいる。「海よ、よみがえれ」と祈りながら、山に木を植える畠山重篤さん。気仙沼で牡蠣の養殖を行っていて、もう70歳を越えておられる。震災で家族を失った。畠山さんは、長く牡蠣養殖を行う中で、海の豊かさは森の豊かさと連動していることに気づく。そして森は海の恋人と称して、植樹の働きをずっと担って来られ。たが大震災によって畠山さんの養殖筏はそのほとんどが津波にさらわれてしまった。一緒に働く人々もその財産の全ても奪われた。ゼロからの再出発。しかし畠山さんは、今まで同様、森の再生から始める。「海よ、よみがえれ」と祈りながら、山に木を植え続けている。回復までどれくらいの時間を要することだろうか。神様が造られた一体化した自然、それを取り戻そうと祈りつつ、地道な作業を続ける。これはまさに神様のものを神様にお返しするという生き方が、どのようなものであるかを示すひとつの生きた証であろう。神様にお返しする生き方にはひとつの特徴がある。それは自分の命の長さをはるかに越えたもっと長期的な働きのために、自分の命を注ぎ込むという特徴である。自分の人生の長さをはるかに越えて進められる神様の御業を見据えて、それに自身を注ぐのである。

聖書日課 3月11日〜3月17日


成瀬教会 <聖書日課>  3月11日~3月17日

3月11日(月)マタイ11章20節~24節
成瀬教会は2016年に設立50年を迎えます。これまでの教会の歴史、その歴史を造って来た伝道者、教会員一人一人のことを思うとき、この玉川学園の地でもイエス様は数々の奇跡を行なってくださったのだと感謝にあふれます。あなたが救われて、今、教会に通うようになっているというのは、まさにその奇跡のひとつですよね。神様の救いの光の中で、悔い改めの生活を重ねているあなたが、悔い改めを知らない不幸な町の希望の灯となりますよう祈ります。あなたがこの町に住んでいること、あなたがこの家庭の中にいるということは、そこに天に通じる門が開かれていることを意味しているのです。この町にはなお望みが開かれています。

3月12日(火)マタイ11章25節~30節
「 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである 」(29節~30節)。軛(くびき)とは、農作業をさせたり、荷を引かせるために2頭の牛を横一列に並ばせ、つなぎとめる器具です。私と並んで軛を負いなさいとイエス様は言われます。なぜなら、安らぎは何の荷もないところにあるのではなくて、イエス様と一緒に荷を負うところにあるからです。イエス様と共に荷を負いながら、そこで私たちは安らぎというものを知るのです。真の安らぎというものを。だから荷を負うことを恐れたり、避けたりしなくていいのですよ。

3月13日(水)マタイ12章1節~8節
法律を解釈する場合は、ただ字面だけを読むのではなく、その法律がどのような意図をもって作られたのか、それを十分に踏まえて読まねばなりません。少年法は少年を更生するために作られたものですが、その精神から離れて、犯罪をした少年を処罰するという視点から読めば、なま温い法律だと言うことになってしまうかも知れません。神の律法の精神はどうでしょうか。神は人間を愛し、憐れもうとされるお方です。人間同士が愛し合うことを求められるお方です。その実現のために神は律法を与えられた。それが律法の精神です。しかしその精神を見失ってしまったファリサイ人たちは、誤った解釈の律法を義務として人々に押し付けたのです。私たちが聖書から神の言葉を読む時も、同じ読み方が大切にされるべきです。

3月14日(木)マタイ12章9節~14節
「 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した 」(14節)。彼らの殺意は、この安息日の出来事によって決定的なものになりました。つまりイエス様は、片手の萎えた人を癒すことによって、自らの死を受けなければならなくなったのです。イエス様にとって、そのことは覚悟の上だったでしょう。イエス様にとって、人の命が生き生きとすることは、羊1匹の命よりもはかるに重いことだったのです。片手の萎えた人の悲しみを罠として利用するような彼らにはそのことが全く分かりませんでした。あなたが今日、生き生きと生きるために、イエス様はご自分の持てるすべてを注ぎ込んでいてくださるのです。

3月15日(金)マタイ12章15節~21節
「 彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない 」(20節)。預言者イザヤを通して預言されていた救い主のことが、今、イエス様において成就しています。あなたは今、傷ついていますか。あなたの心のともし火はくすぶってしまっていますか。20節の御言葉が今日、あなたにも成就するようにと、イエス様はあなたの今日一日の中に働こうとされています。あなたも勇気を出して生きられますよ。

3月16日(土)マタイ12章22節~32節
赦されない罪があるとイエス様は言われます。十字架の上でイエス様が「 父よ、彼らの罪をお赦しください 」と祈ったその祈りが届かないところがあると言うのです。こんなことを言われてしまったファリサイ人たちは一体、何をしたのでしょう。彼らは自分たちの知恵からすれば、主のなさっていることは測り難い、いやこれはサタンの仕業としか言いようがないと言ったのです。自分たちは神についての知識を誰よりも持っていると、彼らは自他共に認める存在でした。しかしイエス様において神の霊の働きが始まった時、自分たちの理解を超えたこの働きを認めて受け入れることは、自分の立場を揺るがし、失わせることになると恐れたのです。そしてそれを悪霊の働きだと決め付けた。自分の理解できないことでも神様のなされることですからと、謙虚に受け入れる姿勢が信仰においては決定的に大事なのです。

3月17日(日)マタイ12章33節~37節
「 人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである 」(34節)。日本語には「 心にもないことを言ってしまいました 」という言い方がありますね。でもそれは嘘だとイエス様は言われます。心にあるものしか出ないのです。人は・・・。「 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる 」(36節~37節)とは、あまりにも厳しくて、一体誰が耐えられるだろうかと思ってしまいます。でもこの言葉は、「 あなたはイエス・キリストという良い木に接木されたのだから、もう良い木になっているのですよ。良い実を結べるのですよ 」という慰めと励ましの言葉なのです。信仰とは、自分の力を信じることではなく、自分のうちに働かれる神の力をこそ信じることです。3

2013年3月3日日曜日

2013年3月3日 説教要旨


「 これぞ神の愛 」   ルカ20章9節~19節

今朝のたとえ話は、イエス様が地上のご生涯においてなさった最後のたとえ話である。最後にこういう話を語らねばならなかったことをイエス様はどんなに悲しく思われたことだろうか。このたとえ話はぶどう園を舞台にした物語。イスラエルの民と神様の関係がぶどう園になぞらえて語られている。ぶどう園の主人は神様、ぶどう園で働く農夫たちはイスラエルの民を指している。ある人がぶどう園を造り、そのぶどう園を農夫たちに預けて長い旅に出た。その途中、ぶどうの収穫の季節になったので、その分け前をいただこうと、主人は僕を送った。ところが農夫たちは、送られてきた僕たちを次々と侮辱し、空手で送り返し、最後にはぶどう園の跡取り息子が送られて来たのだが、それをも殺してしまうという内容である。

このたとえで私たちがまず驚くことは、13節でぶどう園の主人が「どうしようか」と考えていることである。最初の僕が空手で帰って来た段階であれば、遣わした僕が良くない言い方でもして、農夫たちを立腹させたのかも知れないと考えることはあろう。だが2人目の僕が手ぶらで戻って来てもまだ「どうしようか」と悩み、そして悩んだ末に愛する息子、ぶどう園の跡取りとなる息子を遣わすのである。一体、何でそんな馬鹿なことをするのだろうか・・・。「それでもなお農夫たちを信頼していたからだ」という以外に理由は見つけられない。この主人が農夫たちを信頼していたということは、最初に農夫たちにぶどう園を任せてしまったきり、主人は収穫のときまで一切口出ししてこなかったということの中にも見られよう。問題はその信頼をいいことに、農夫たちがこのぶどう園を主人の手から奪い取ってしまい、自分たちがこのぶどう園の主人になろうと考えたことなのである。

このたとえ話は、神様とイスラエルの民のことを語っている。ぶどう園とは、神様が造られたこの世界である。イスラエルの民は、神様の喜ばれる収穫をこの世界から刈り取るために働くよう、神様から選ばれた民族だった。しかし彼らは神様に背き続けてしまい、神様は彼らを正そうと次々に預言者と呼ばれる人物を送り込んだ。しかし彼らは預言者たちを殺し、そうやって神様を無視し続けたのである。そして最後に神様は最愛の息子であるイエス・キリストを彼らのところに遣わされた。そして今、彼らはそのイエス様をも殺そうとしている・・・・。このたとえ話はイスラエルの歴史そのものなのである。だが考えてみると、このぶどう園の農夫たちは私たち自身のことでもあるのではないか。私たちも神様からいろいろなものをお借りしているのである。この世界、自分の人生、家族、友人、才能、持ち物、あなたが持つすべてのものは実は神様が私たちにお貸しくださっているもの。私たちはそれをもって、神様の喜ばれる収穫を得て、神様に「あなたからお借りしているものからこんな喜びが収穫できました」と、それを神様に捧げる。それが私たちの人生なのである。けれども私たちはイスラエルの民がしたように、自分が家庭や職場、自分の人生の主人になろうとして、神様からその座を奪い取ろうとしているのではないか・・・。何でも、自分の思い通りになることが大切なのではなく、本当の主人である神様の願い通りになることが大切なのである。子育てで言えば、自分の願い通りに我が子が育つことではなく、神様の願われる通りにこの子が育つことが大事なのである。親はそのことのために、神様から子を預かり、育てるのが役目なのである。そのように、信仰を持つということは自分の人生も、自分のまわりにあるすべてのものも、皆、神様からお借りしているものであって、自分のものではない。自分を喜ばす以上に、神様が喜ばれるような用い方をして行こうと考えるようになる。それが信仰を持つということであり、神様を信じるということなのである。

このたとえ話では、主人は農夫たちを信頼し切っているがゆえに姿を現さない。現代でも「神などいない。迷信だ」と揶揄されてしまうほどに、神様がそのお姿を隠しておられるのは、私たちを信頼しておられるからなのだ。そのことは聖書が主張する大事な信仰だ。農夫たちは主人が姿を現さないのをいいことに、主人を無視し続けた。やがて「戻って来る」(15節)主人を無視し続けたのである。私たちも毎週使徒信条を告白し、イエス様が再びこの地上に戻って来られるとの信仰を言い表している。だが本当に、主がやがて来られ、その主の前に自分は立つのだという真剣さが、自分の生活を造る動機になっているだろうか。主が戻って来られることを無視した生活になってしまってはいないだろうか・・・私たちも問われている。

最後には息子が殺されてしまうという結論まで聞いた人々は、立腹して「そんなことがあってはなりません」(16節)と言った。これは「断じてあってはならない」と訳せる、非常に強い言い方である。たが、そのあってはならないことが、この後起きてしまうのである。私は思う。キリストの十字架は本来あってはならないことだった。それが分からないと、十字架を引き起こした私たちの罪もまた、本来あってはならないことであったという理解が鈍くなり、罪を甘く考えるようになる。だが、その「あってはならないこと」を、私たちの救いのために神様は「なくてはならないこと」に変えてしまわれた。それが十字架の真相なのであり、それはまさに「捨てられた石が隅の親石」となる驚くべき出来事なのだ。

聖書日課 3月4日〜3月10日


成瀬教会 <聖書日課>  3月4日~3月10日

3月4日(月)マタイ10章1節~4節
「 十二使徒の名は次のとおりである 」と言って、まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ・・・それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである、と使徒たちの名前が伝えられています。12人の使徒たちは教会の核になる人たち。その中に裏切るものが含まれていた・・・つまり、教会はその最初から痛みを内包していたというのです。教会は痛みを抱きつつ、うめき、苦しみながら形成・成長させられていく集まりなのです。何の問題もないスムーズな環境で成長するものではありません。真珠貝が痛みの涙によって真珠を形成するように、教会も痛みのうちに成長します。そしてそういう群れを主は宣教の器としてお用いになるのです。

3月5日(火)マタイ10章5節~15節
 同胞ユダヤ人のところへ伝道のために遣わされる弟子たち。自分たちのことがよく知られているところへ出て行くのです。伝道の証は特別な行為ではありません。苦しいと言ってはうめき、悲しいと言っては泣き、自分の弱さに何度もつまずきながら、神様に寄りすがって生きて行く、そのような生活の姿そのものが証なのです。それは必ずしもカッコいいものではありません。でもそれでいいのです。証は、自分の所有している何かを見せることではなく、弱い罪人に過ぎない私たちがなお支えられて立っている、その根拠を紹介することなのです。

3月6日(水)マタイ10章16節~25節
「 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ 」(16節)。羊は無力です。闘うための牙を持たず、敵から逃れる術もありません。そういう羊として、私たちは狼の待つこの世に遣わされるのです。狼は牙を持っており、羊を傷つけることができます。しかし羊は羊であり続けなければなりません。羊が狼のようにこの世の強さを身につけようとしてはならないのです。羊の強さは羊になり切る強さ、言い換えると羊飼いの強さによってだけ闘う強さです。この世の強さに競合しようとするとき、教会はかえって伝道の力を失うのです。

3月7日(木)マタイ10章26節~31節
「 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい 」(28節)。神様への恐れを奨めるイエス様の言葉は、その前と後に「 恐れるな 」という言葉が3回繰り返されます(26節、28節、31節 )。その中で、神様への恐れが語られるのです。これは、神様を恐れることを知っている人間は、神様以外のものは、何も恐れることはなくなることを意味しています。反対に神様を恐れることを知らない人間は、何も怖がっていないかと言うとそうではなく、実に様々なことを恐れて生きています。もし私たちが何かに対して恐れや不安を抱いてビクビク生きているならば、それは神様を恐れることをまだ知らないからなのです。神様を恐れることは知識の初めです。

3月8日(金)マタイ10章32節~39節
未信者の家族を持つ者にとっては、とりわけ厳しい言葉が聞こえてきます。「 わたしを愛するのか、それとも家族との生活を愛するのか 」と。主の言葉を真剣に聞く時、そこには痛みが生じ、生身を引き裂かれるような思いが生まれます。主は、神様が第一とされるところに真の平和があると言われます。主を中心にお迎えすることにおいて、家族もまた真の家族と成っていくのです。真の家族となるために、先に救われた者が、生身を引き裂かれるような思いの中で祈り続けることがあります。しかし、その祈りの中で深く知らされることは、主の投げ込んだ剣は私たちに向けられたものではなく、主ご自身に向けられていたものだったと言うことです。主を第一としていない私たちの罪を、ご自身が代わって引き受け、十字架におかかりになられたのですから・・・・。厳しい言葉の中にも恵みが響いていますよ。

3月9日(土)マタイ10章40節~11章1節
私たちを受け入れる者は、主を受け入れることなのだ(40節)と言われています。「 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける 」(42節)。畏れ多い言葉です。主の弟子である私たちに対する接した方でもって、その人の永遠の定めが決まってしまう。「取り扱い注意」の札が付けられているようなものです。私たちはそれほどに大きな値打ちを持っているのです。主に救われていることの重みを感謝をもって、よくわきまえなければなりません。私たちはその恵みの大きさに生き、そこから生まれる言葉をもって、神の恵みを告げる者でありたいと思います。

3月10日(日)マタイ11章2節~19節
獄中のヨハネは、主が来るべき方であるかどうか確信がなくなり、迷っています。彼は主を指して、靴のひもを解く値打ちさえ私にはないと言った人物です。主を指し示すことに自分の全存在を賭けてきた人です。その人が今、主のゆえに牢獄にとらえられた時、イエス様がメシアであるかどうか分からなくなってしまったと言うのです。メシアが来られたのに、なぜ世は変わらないのか。なぜ自分は投獄されたままなのか。すでに始まっているメシアの支配が信じられないのです。ヨハネのしていた戦いは、私たちの戦いでもあります。一方で主の支配を信じつつ、もう一方では「なぜ、こんな事が!!」というとことが起こるのです。それでもなお、主につまずかない者は幸いだとイエス様は言われます。「にもかかわらず」の信仰です。