2013年2月3日日曜日

聖書日課 2月4日〜10日


成瀬教会 <聖書日課>  2月4日~10日

2月4日(月)マタイ6章10節
「 御国が来ますように。御心が行われますように。天におけるように、地の上にも 」。神を信じる生活とは、神の御心が自分の生活の中で実現することを願う生活です。いつも私たちの生活の中で、神の御心を問いながら生きるのです。自分はいつまで働こうか、年老いた親とどのように暮らそうか・・・私たちの生活は、大小様々な決断のつながりです。信仰を持っている人間の場合、自分の決断だけで終わりません。自分の決心が最後のものにならないのです。何が神の御心であるかを問うのです。「 神はこの私にどうすることを求めておられるのだろうか 」と考える。それが最後の決断になるのが、信仰者の生き方です。

2月5日(火)マタイ6章11
 現代は「 飽食の時代 」です。好きな食べ物がいくらでも手に入る時代です。そういう時代に生きる私たちに対しても、「 わたしたちに必要な糧を今日与えてください 」と、祈るように呼びかけています。イエス様が神の力を持ってずっと先の時代のことも見通しておられ、今日のような飽食の時代においても、なおこの祈りは必要な祈りとして与えてくださっているならば、この祈りは、「 それでは、あなたは何を食べているのか。 何をそんなに食べ飽きているのか。あなたは本当に必要な糧を食べていると言えるのか 」と、問いかけてくるのではないでしょうか。私たちの胃袋は、主イエスが誕生した夜の、あのベツレヘムの宿屋のように、何かほかのもので満員になってはいないでしょうか。ぜひ、聖書日課も忘れずに。

2月6日(水)マタイ6章12節、14節~15節
「 負い目 」とは、負債、すなわち赦される必要のある罪のことです。私たちは人の罪など赦せないと簡単に言い切ってしまうことがあります。そのとき、私たちは自分が人の罪を赦すことをそれほど真剣に考えなくなっているのです。最初からそんなこと私には無理とあきらめて、人を赦さないままに、神様の前で祈っても少しの痛みも感じなくなっているのです。人を赦すことの闘いも、そこから生まれる深い悩みも、すっかり放棄してしまっているのです。それは、神様から与えられる自分の赦しをも真剣に考えているとは言えません。自分の罪が本当に神様から赦されなければならないものであると切実に感じてはいないでしょう。人の赦しを考えることは、(神からの)自身の赦しを考えることと深く結びついているからです。

2月7日(木)マタイ6章13節
「 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください 」という祈りは、ずいぶん極端な祈りです。誘惑とある程度戦いながら、そこで助けてください、というのではなく、最初から戦わないですむようにしてくださいと言うのですから。私たちは、そこまで徹底した求めをしたことがあるでしょうか。戦いを手助けしてくださいとは祈っても、ここまで弱さの極みに立つ祈りをしたことはないかも知れなません。イエス様は「 無力の極み 」という言葉が思い浮かぶようなこの祈り、完全に戦う意欲や自信を喪失している姿と言えるような、この祈りを祈りなさいと言われます。それでいいから祈れと言われます。イエス様は、私たちが万策尽きた、そういう場所に立ち至った時にも、なお、祈れる祈りがあるのだということを教えてくださっているのです。そして、その祈りを神様は聞いてくださるのだと・・・。

2月8日(金)マタイ6章16節~18節
人からの評価が気になります。なぜ、気になるかというと、今、ここで報われないと不安だからです。例えば、家でご馳走を作って、子どももお父さんも黙っていると、お母さんは気になるでしょう。「 味、どう?」って聞きたくなるでしょう。それでも何にも言ってくれないと空しいと思うでしょう。そういう空しさに勝たなければいけないと主は言われます。それは、神様を知っているということなのです。神様はすべてのことを見ておられる。隠れたことを見ておられるあなたの父は、見て、それにちゃんと報いてくださる。そういう神様の答えというものを、いつも知っている。そこ以外に、私たちが人の評価から自由になる道はありません。

2月9日(土)マタイ6章19節~21節
「 富は、天に積みなさい 」(20節)と言われています。地上に富を積むような地上の富に振り回されるような生活ではなく、「 天に富を積む 」生き方をしようと言うのです。バッハはあらゆる作品の最後に、「 ただ、神の栄光のために 」を略したSDG(ソリ・デオ・グロリア)という文字を書きました。そのように、何をするにしてもその最後に、「 ただ、神にのみ栄光があるように 」と書けるかどうか・・・。富を天に積む生き方とは、そういう「 神にのみ栄光を帰す 」生き方のことです。あなたの今日一日の始まりと終わりに、SDGと書けますように。

2月10日(日)マタイ6章22節~24節
澄んだ目とは、どんな目のことでしょうか。それは、2つのものを同時に見ない、一心にひとつのものを見つめている目のことです。宗教改革者M.ルターは、2つのことを同時に見ると頭が痛くなる。目つきも悪くなり、視線が定まらないから病気にもなるだろうと言いました。私たちの目つきが悪ければ、私たちの全ての生活がそこから歪み、病んで行ってしまいます。主は言われます。「 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない 」(24節)。私たちの心の目を開き、見るべきものを一心に見ようと、主は呼びかけておられます。