2013年2月10日日曜日

聖書日課 2月11日〜17日


成瀬教会 <聖書日課>  2月11日~17日

2月11日(月)マタイ6章25節~34節
明日のこと、将来のことを心配するばかりに、今日という今の時が心おろそかになってしまう私たちです。イエス様は、明日のことを神様の手に委ねて今日一日を精一杯、心を込めて生きるようにと言われます(34節)。明日は炉に投げ入れられる野の花でさえ、神は美しく装ってくださいます。私たちの命は、炉に投げ入れられてしまうようなものではなく、永遠の神の御手の中に向かって導かれているあなたの命は今日、どんな姿をとるのでしょうか。神から与えられたこの一日を精一杯生きるとき、それは、それは美しい姿となるはずです。

2月12日(火)マタイ7章1節~6節
 人のことはよく見える・・・・つもり。それが私たちなのです。でも自分の目の丸太を取り除かない限り、相手をはっきり、正しく見ることなどできないのだとイエス様は言われます。丸太を取り除いてこそ、はっきり見えると言うのです。「 人を裁く 」なんてことは、そもそも私たち人間には不可能なことでしかないのです。それでは、どうやって丸太を取り除けるか。それは、イエス様の十字架という赦しと憐れみが、この私のためにあったのだと骨身に徹して分かる時、はじめて私たちの目の中の丸太は取り除かれるのです。人はイエス様の十字架を通してしか、他者を正しく見ることなどできないのです。今日、あなたが出会うひとりひとりを十字架を通してみることが出来るようにと、祈っています。

2月13日(水)マタイ7章7節~12節
「 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる 」(7節)。私たちの祈りの言葉は、空しく宙に消えていくのではない。それを聞いていて、対応してくださる方がおられるのだと言うのです。神様は、私たちの命に責任を持って対応してくださる方です。考えてみると、私たちは求めなくては、探さなければ、門をたたかなければ生きてはいけない存在です。一日たりとも生きてはいけない存在です。でも、そんなあなたの求めを、今か、今か、と耳をそばだてて乗り出してくださっている方がおられる。私たちの命は、求め、そして与えられるという循環の中で育てられていきます。

2月14日(木)マタイ7章13節~14節
寄らば大樹の陰。長いものには巻かれよ。これは、日本人特有のことわざなのかも知れません。赤信号、皆で渡れば怖くないと、芸人の北野たけしさんは言いました。私たち日本人は、人のやっていることを真似ることで世を渡っていくことを好みます。それは、聖徳太子の「 和をもって尊しとなす 」という美学が根底に根付いているからでしょう。和を乱さないことが最高の徳とされるのです。でも、人と同じようにすることを追い求めることによって、人は自分で考え、自分で決断するということをしなくなってしまうのです。福音はまさにひとりひとりが自分で考え自分で決断して踏み入れる道です。皆と同じであることを追い求める人には、狭く見えてしまい、決して見つけることはできない門なのです(ヨハネ10章9節も参照)。狭い門だけに、いろいろなものを携えて通っていくこともできません。天へと向かう道では、本当は必要ないものを手放すという決断も求められるのです。

2月15日(金)マタイ7章15節~20節
 十字架は、私たちの身代わりとなってイエス様が死んでくださった出来事です。そこでは「 あなたがたをまったく知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ 」と退けられたのは偽預言者ではなく、本物の預言者であったイエス様です。本物の預言者であるイエス様が、偽預言者として裁かれた。私たちが偽預言者として裁かれないですむために、イエス様は私たちが立つべきところに身を置いてくださった。偽預言者のように天の父の御心を損なってしまうような私たちを、神はイエス様の十字架において赦し、そこから再び始めさせてくださるのです。何度でも。

2月16日(土)マタイ7章21節~23節
「 わたしに向かって、『 主よ、主よ 』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである 」(21節)。こういう御言葉を前にすると、私たちは震えてしまうかも知れませんね。これって、私のことではないかと・・・。天の父の御心を行なうということは、まず、「 御心が行なわれますように。天におけるように、地の上にも 」と、祈ることから始まります。そして、こう祈っているならば、あなたは決して、「 あなたたちのことは全然知らない 」とは言われないのですよ。そして、この祈りは、「 わたしをあなたの御心を地になすための道具として用いてください 」という思いへと私たちを導いて行きます。

2月17日(日)マタイ7章24節~29節
「 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている 」(24節)。「 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている 」(26節)。賢い人と愚かな人の違いは、行なったか、どうかにあるのだと思ってしまいそうですが、そうではありません。イエス様の語る言葉を「 これは岩だ(わたしの人生と言う家を建てる上で、土台とすべきものだ) 」と認めたかどうかの違いなのです。「 聞くだけで行なわない人 」というのは、聞いてはみたものの、これは岩ではないとやり過ごした人のことです。毎日聖書日課に精を出しているあなたは、岩と認めているのですよ。