2013年2月17日日曜日

2013年2月17日 説教要旨


「 平和への道をわきまえていたら 」 ルカ19章41節~48節

 巡礼者の一団がオリーブ山からエルサレムを目指して進んで行く。その途中、エルサレムの都がその視界に現れたとき歓声があがった。弟子の群れは一斉にほめ歌を歌いだした。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」。ルカ2章にはクリスマスの時に天使たちが「いと高きところには栄光、地には平和」と歌ったと書かれている。「地には平和」と天使たちは歌い、弟子たちは「天には平和」と歌った。まるで天と地がイエス様を中心として互いに祝福の歌を歌い、互いに祝福し合っている。素晴らしい光景だ。しかし、その歌声を聴いて焦った人たちもいた。群衆の中に混じっていたファリサイ人だ。オリーブ山からエルサレムへと上る途中に、アントニオの塔と呼ばれるローマ軍の監視塔がある。ローマ軍はユダヤの中心地エルサレムを特に注視していた。この時はユダヤ民族のシンボルとも言うべき、過ぎ越しの祭りが始まろうとしていた。ローマ軍もピリピリしていたに違いない。そこでファリサイ人はこう考えたのである。この歌がローマ軍に聞こえたら大変だ。特に「王」と言って歌っている。クーデターが起こったと勘違いされたら大変だ・・・。ファリサイ人もローマからの独立を切望していたが、弟子たちのようにイエス様によってそれがなされるとは考えていなかった。言わば誤ったクーデター。それに巻き込まれては大変だと思ったのである。それで歌をやめさせるように、イエス様に言ったのだ。だがイエス様は「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と、それを拒否された。

 イエス様は石についてこうも言われた。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。実際、この出来事から40年後に起きたローマ軍とヤダヤ人の戦争によって、エルサレムの都、神殿はローマ軍の手によって徹底的に破壊されてしまう。そのことを見通しておられるイエス様は、エルサレムを見つめながら、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」と涙を流された。平和への道とは何か。それは、あの歌が歌われている光景だ。イエス様を中心にして天と地が互いに祝福を交し合っている。神がイエス様を通して、人々を赦し、人々を愛し、人々を祝福してくださる。そしてそれを受け止め、人々が神に向けてほめ歌を歌う。天と地との間にそういう絆が生まれている。それがイエス様の言われる平和の姿なのだ。この平和の姿をわきまえなかったエルサレムはイエス様の預言の通りになってしまう。

 エルサレムというのは、町のことを言っているのではなくて、そこに住む人たちのことを指している。神に愛されている者たちということ。それは私たちのことでもある。だから私たちも、この平和の姿を軽んじてしまうとき、その生活はガラガラと音を立てて崩れ始めてしまう。私たちは平和を作ろうとあらゆる努力をする。大きな事で言えば国と国の間で。小さなことで言えば、家庭で、職場で、社会で、平和を作ろうと考え、努力する。しかしそうやって平和を作ろうと努力するとき、私たちはこの歌を歌う平和をいつも考えているだろうか。この歌を抜きにしたところで、平和が作られると誤解しているのではないだろうか。天との結びつき抜きで平和を作れると・・・。

 ファリサイ派も平和を作りたいと考えていた。ローマ軍と折り合いをつけ、歌をやめることで平和が作れると・・・。だが主は言われる。この世とうまく折り合いをつけることで、平和は作れるのか。天と地が祝福し合っている。天と地が強く結ばれている。そこにこそ平和は生まれるのだと・・・。人は誰だって平和を願う。その努力をする。しかし現実には、その努力はかえって平和を遠ざける皮肉な結果を生んでいないだろうか。軍事力を高めれば、相手から攻撃されず、平和を維持できると考える。その考えは本当に平和を生んでいるのか。神様のことを大事にしようとすると、家族や職場の平和が乱れるのではないか、信仰のことは持ち出さない方が平和に過ごせるのではないか・・・。だが平和が生まれるために愛がなくてはならないのだ。その愛が私たちにあるかと問えば、ないことを認めざるを得ない。敵をも愛する愛をお持ちのこの方に、私たちと他者のとの間に立って導いていただかなければ、私たちは平和を作ることはできない。イエス様はその道をわきまえない人々を思い、涙を流される。そのときの人々の生活の様子が45節以下に記されている。神殿では盛んに礼拝が行なわれている。だが、そこに真実の祈りが聞こえて来ないのだ。イエス様が聞きたいと願われた祈り、それはルカ18章9節以下のファリサイ人と徴税人のたとえで示されている。ファリサイ人の祈りの中身は、私は立派にやれています。神の力を必要としないほどに、というもの。反対に徴税人は近づくことも許されないような自分だけれども、どうしてもあなたから離れるわけには行かない。あなたがいなければ生きていけませんというものだった。神抜きでは生きられない、その心に根差す祈りが聞こえないとイエス様は嘆かれる。平和への道は小さくて見えない。だが確かにここにあるのだ。