2013年1月27日日曜日

2013年1月27日 説教要旨


「 主はあなたを捜される 」 ルカ19章1節~10節

 今朝は、ザアカイという人がイエス様と出会ったという出来事を読む。この出会いの出来事は、イエス様のこういう言葉で締めくくられている。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(10節)。つまり、このザアカイという人は「失われたもの」であったと言うのである。この「失われた」と訳されている言葉は、ルカ15章の「見失った羊のたとえ」で、「見失った」と訳されている言葉と同じである。100匹の羊を持っていた羊飼い、そのうちの1匹が群れから離れてしまい、迷子になってしまった。羊にとっては、命の支えとも言うべき羊飼いがいない状態、仲間の羊もいない、1匹だけで無防備に放り出されてしまっている状態。ザアカイはまさにそういう状態にいたのだとイエス様は言われたのである。しかし聖書には、彼は「徴税人の頭で金持ちであった」と記されていて、一般的に言うならば、彼は出世をして金持ちになり、言わば成功者としての姿をまとっていたのである。そのように、聖書が言うところの「失われている状態」というのは、誰が見ても「ああ、この人は確かに失われた状態にある人だ」とは分からない。だがその人の隠されている本当の姿を見抜く目をイエス様は持っておられ、その目で鋭くご覧になったところで、「この人は失われている羊だ。わたしは何としてもこの人を捜して、連れ戻さなければならない」と、1匹の羊をとことん追い求める羊飼いの心をもって、捜し求められるお方なのである。ここにいる私たちも、そのイエス・キリストの目に捜し出されて、ここにいる者となったのである。

 ところで、ザアカイ本人は自分が失われている状態にいるという自覚を持っていたのだろうか。彼は徴税人の頭であった。徴税人というのは、読んでの字のごとく、人々から税金を取り立てる人である。徴税人たちは、ローマ帝国の権力をバックに民から不法な取立てをし、私服を肥やすようなことをしていた。その上、信仰深いユダヤたちから見れば、自分たちの国を占領しているローマの手下として働いているわけで、いつまでもローマの植民地支配が続くように協力している、極めてけしからない人間、「神への信仰をも捨てた人間」と見られていた。そのように徴税人は人々から忌み嫌われる存在であった。ザアカイはそういう自分を「失われた状態にあるのだ」とは表現しなかったと思うが、自分は神からも他の人からも孤立してしまっている孤独な状態にいるのだということは、自覚していたであろう。なぜ、ザアカイがそんな嫌われ役の仕事に就いたのか、その理由を聖書は伝えていない。私の小さな経験からすると、人にひどく侮辱されて育って人間は、いつか人を見返してやろうと思うものなのである。そして出世して偉くなることが、その手っ取り早い方法だと考えるのである。もしかしたら、ザアカイも人々を見返すために、徴税人という仕事を選んだのかも知れない。しかし実際に徴税人になってはみたものの、その現実は彼が思い描いていたものとはずいぶん違ったものだったのではないかと思う。ザアカイの心の中には「俺の人生、こんなはずじゃなかった。今のままの自分では嫌だ。新しい自分になりたい・・・」。そういう思いがあったのではないか。だからこそ、ザアカイはそのまま徴税人としての人生を脇目も振らずに突き進むのではなく、イエス様に強い関心を持ったのであろう。イエスという方がこの町に近づいているらしい。噂によると、この人は自分のことを神と等しい者であると公言し、それでいて、自分のような徴税人たちをも、まるで親友のように接して一緒に食事までしてくれるという。一体、この人は本当に神なのだろうか。そして、この自分にも親しく接してくださるのであろうか。もしそうであるならば、この人生を新しいものに変えることができるかも知れない・・・ザアカイはそう考えた。

どうしてもイエスという方を見たい。背が低く、群集にさえぎられて見ることができなかったザアカイは木に登った。ザアカイに好意を示して、場所を譲ってくれる人はいなかったのである。ザアカイは、イエス様を見たかった(原文は、見ることを求めた、となっている)。イエス様もいなくなった1匹の羊を捜し求める羊飼いのように、ザアカイを捜しておられた。このエリコの町の中で最も失われた状態にある彼を。その両者の「捜す」が交わる一点、それが5節の「その場所に来ると」という「その場所」であった。その場所は、ザアカイが木に登っている場所、ザアカイの心の中にある思いが見える形となって現れ出た場所。本当のザアカイの姿がそのまま映し出されている場所。それが、イエス様とザアカイが出会った「その場所」である。人は誰でも、こんな惨めな自分、こんなに情けない自分、そんな姿をさらしたら、誰からも受け入れてもらえないだろうという自分を隠して生きている。だがイエス様はそういうありのままの姿のザアカイと出会い、その彼を赦し、愛される。今までの彼の人生すべてを贖ってくださる方。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイは思った。「なぜ、木の上にいることが分かったのか。そうだ。自分は捜していたつもりが、実は捜されていたのだ。この方に」。ザアカイはこの出会いを契機に新しい歩みを始める。神と共に、そして真の仲間と共に生きるための歩みを。ザアカイはそのための闘いに一歩踏み出した。それは私たちひとりひとりの経験である。