2013年1月20日日曜日

2013年1月20日 説教要旨


 「 開かれた目が見るもの 」 ルカ18章31節~43節

 今朝は、ルカ18章31節から43節までを読む。2つの出来事が記されている。イエス様がエルサレムで十字架につけられて死ぬという3度目の予告をされたのだが、弟子たちには理解できなかった。それは信仰の目が開かれていなかったからというのが前半の出来事。後半はエルサレムに向かう途中、エリコの町の近くで、ひとりの盲人がイエス様によってその目を開かれるという事が起きたということ。2つの出来事を共通して、私たちが深く考えさせられることは、「見えるとは何か」ということだと思う。41節で、この盲人がイエス様から「何をしてほしいのか」と尋ねられて、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言っている。見えるようになりたいというのは、この盲人だけでなく、すべての人が持っている願いではないか。ある人は、先行きの見えない今の時代にあって、少しでも先を見通すことができるような目を持ちたいと願うだろう。またある人は、人の悲しみ、心の叫び、そういうものを見ることができる感性豊かな心の目を持ちたいと願うかも知れない。

 私たちは、「このことを見る目を持つことができたら」と、それぞれに願いを持っている。そういう私たちに今朝の聖書の物語は、「あなたが本当に見えるようになりたいと願っていることは何か。それは本当にあなたの願いとすべきことなのか。そしてそれが見えるということはあなたにとって何を意味するのか」と、問いかけているように思う。道端に座って物乞いをしていた盲人は、自分の目の前で何が起きているのか、分からなかった。騒々しい物音に何かが起きているということは感じていた。そこで道行く人に尋ねると「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせてくれた。すると彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めたという。ダビデの子という言い方は、当時のユダヤの人たちが期待して待ち続けていた『救い主』を指す呼び名。つまりこの盲人は、このイエスという方こそ、救い主であると信じたのである。イエス様のことについて、いろいろ噂を聞いていたのだろう。そして彼なりに、このイエスという方こそ救い主だと信じた。つまり、盲人の信仰の目は救い主のことが見えていたのである。一方、この盲人を叱りつけて黙らせようとした人々がいる。彼らは「こんな物乞いの盲人、救い主も相手にするはずない」と思った。つまり、救い主がどういう方であるか、見えていなかったのである。考えさせられることだと思う。この人たちだって、救い主を見たいと考えていたはず。でも見えていなかった。人って結局、自分の見たいようにしか見ていないのだと思う。目を開けて見ているつもりでも、「自分はこう見たい」という枠を作っていて、その枠を通して見るものだから、本当に見るべきものを見ることができない。親が愛する我が子の顔を見ているつもりでも、その子が今、何を悩んでいるか、全然見えていないということがある。「我が子はこうあってほしい」という親の願望がひとつの枠になって、目の前の子どもの現実が見えなくなってしまうのだ。人は自分にとって都合のいいものの見方しかしない。自分に都合のいい枠を作って、その枠を通してしか見ないし、それで見えたものがすべてだと思い込む。悲しいけれども、それが私たちの現実ではないか。でもそうやって自分で見たいものだけを見ていて何になるのだろうか。本当は、自分の理想とか願望とか、そう言う「枠」を越えたところに、神様の恵みの世界は開けてくるのではないか。自分の願望、理想がもう打ち砕かれてしまって、ただひたすらに「わたしを憐れんでください」としか言いようがない。そういうところで、今まで知らなかったほどの神様の大きな恵みが用意されていたことに気がつく。実は、それが神様の福音の真理なのである。だからこそ、今朝、私たちはこの盲人のように、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と、叫び声を上げるべきではないかと思う。この盲人は、見えるようになりたいとイエス様に願った結果、目を開いていただき、さらに大いなる事実に目が開かれていく。見えるようになった盲人は「神をほめたたえながら、イエスに従った」(43節)。

 その先、エルサレムの都で彼の開かれた目が見たものは、自分が「ダビデの子」と呼んだイエス様が、十字架につけられて殺される場面であった。自分が「ダビデの子よ。わたしを憐れんでください」と叫んだその叫びよりも、もっと激しくもっと深く「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、叫び続けるダビデの子の姿を見たのだ。のちに彼は、十字架につけられたダビデの子の姿の中に、「こんなにも自分は神様に愛されているのだ」という事実を見たに違いない。神様がその大切な独り子をこの私の罪の身代わりとして与えられたほど、自分は神に愛されている。その事実を救い主の十字架のうちに見た。他の何が見えなくたって、自分がこんなにも神様に愛されているのだという事実を見ることができる目を持っている人が一番、幸せな人なのではないか。もし、その目を持っているならば、たとえ肉体の目が見えなくても、癒されない病を抱えていても、困難な人生を歩かされていたとしても、その人は一番堅固な支えを持っている。いかなる人生の嵐にも耐えうる支えだ。盲学校の生徒たちが「とんぼのめがねの歌」を元気に歌ったように、見るべきものを見ている心の目、信仰の目があるなら、私たちはすでに幸いな者とされているのである。