2013年1月13日日曜日

2013年1月13日 説教要旨


 神の国の論理 」 ルカ18章15節~30節

金持ちの議員の物語は、マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書に記されている。主の伝えられた福音がどういうものかを伝えるのに、とても大切な出来事であったと、福音書著者たちは思ったのだろう。だがそれぞれに、その伝えるところが少しずつ異なっていて、登場人物に関して言えば、ルカは金持ちの議員、マタイは金持ちの青年、マルコはただ金持ちと書いている。それらのことを総合すると、この人はお金持ちの青年で、かつ議員でもあったということになる。議員として選ばれるほどに才能豊かで、人々からも信頼され、多くの財産も持っていた人物なのだ。しかも彼は、小さい頃から神の戒めをきちんと守ってきた。非難の余地がない人物、世の中の多くの親は、自分の子どもがこういう青年であってほしいと思うのではないだろうか。だがそんな彼が満足できていない。不思議なことである。彼は、永遠の命への欲求を持っていたという。それは、神が人間をお造りになられたとき、永遠を思う心をお与えになられたからである(コヘレトの言葉3章11節)。この永遠を思う心は、普段はいろいろな欲が茨のように覆いかぶさって、永遠を思う心が表に現れないようになっている。だが死に直面したり、ふとしたときに、永遠を思う心が顔を覗かせるのである。彼は、神が人に与えられた永遠を思う心に突き動かされて、永遠の命をどうしたら受け継ぐことができるか、永遠の命という救いを手に入れるためには、どうしたらいいのかと、主のところに訪ねて来たのである。

そこでイエス様ははっきりと、「あなたは自分で自分を救えない。神様があなたを助け、あなたを救うのだ」と教えられたのである。この人は「何をすれば救われるのか」と尋ねたが、イエス様は「何をするかだと?あなたが何をしても救われない。救うのは神である 」、そうお答えになられた。それが今朝の聖書の内容。イエス様は「掟は守ってきました」と胸を張るこの人に、「あなたは自分で自分を救おうというのか、そんな自分を手放しなさい。すべてを捨てて、神の救いにこそ信頼して私に従え」と命じられたのである。「あなたは自分で自分を救うことはできない 」・・・これが、この人には分からなかった。だから、彼は非常に悲しんだ。「大変な金持ちだったからである」とあるが、財産とはつまり、それで自分を救おうとするもののこと、すべてなのである。それがお金なのか、健康なのか、知識や何らかの業績なのか、ともかく自分で自分を救おうとかき集めて、すがりつくもの・・・財産はそれを象徴しているのだ。そうとあれば、当然、財産をたくさん持っていれば、いるほど、救いが見えなくなる。財産があるというのは、そういうことなのである。

 イエス様は、そのことを分からせるために、彼にひとつのことを求められた。持っている財産をすべて売り、貧しい人たちに分け与えよと。もちろん、そういう善行を積めば、救われると言っておられるのではない。このあと、弟子たちが「この通り、私たちは自分の持ち物を捨ててあなたに従っています」と言っているが、その弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろうか」と言っているではないか。それは正しい問いなのだ。持ち物をすべて手放すという善行が、あなたにはまだ足りないと主は言われたのではない。この人にはまだ足りないことがある。それは、貧しい隣人なのである。彼の持っているものを分かち与えられることによって祝福に与るようになる隣人が足りないのだ。それらの隣人と同じところに立って生き始めるとき、彼は本当に救いのために必要なものが何であるかを、知るようになるのだ。おそらく、この青年から分けてもらう必要のある貧しい人たちは、救いのために本当に必要なものを持っていたであろう。それは、神様に寄り頼む姿勢である。人の助けがなければ生きられなかった彼らは、まず、人に頼む以前に神様に頼む。「神様、どうぞ、あなたが働いて、今日、私たちに必要なものを与えてくださる人を送ってください」と・・・。彼らは何も持っていないが、ただひとつ持っているもの、それは、この青年が持っていなかった「神に寄り頼む」という姿勢である。

 この物語は、3つの福音書にすべて記されている。それぞれに少しずつ、異なる伝えられ方がしているのだが、3つの福音書に共通することがひとつある。それはこの物語が、イエス様が子どもを祝福するという出来事としっかり結びついて伝えられていることだ。この物語は、イエス様が子どもを祝福された記事と切り離して、読むことは許されない。もし、そのように読むと、イエス様の伝える福音が何であるかを聴き損なう危険が生まれる。そういうことであろうと思う。乳飲子はイエス様の祝福を受けたが、何か善きことをしたわけではない。ただ、一方的にイエス様から恵みを受けただけだ。この出来事は、救いにおける神と人間の関係を究極的に現わしている。私たち人間が神から救いを受けるのは、ただ神の恵みによる。人に求められるのは、それを感謝して受ける姿勢だけである。イエス様に従って行くとき、その妨げとなり得るものがたくさんある。財産はそのひとつかも知れない。これだけは手放せない。これを手放したら生きていけないと・・・しがみつくものがあるのではないか。だが、神様があなたをしっかりと捕らえてくださっているから、もうそれらのものを手放しても大丈夫である。あの木登り体験のように。人には不可能なことを、神様があなたにしてくださるのだから。