2013年1月20日日曜日

聖書日課 1月21日〜27日


成瀬教会 <聖書日課>  1月21日~27日

1月21日(月)マタイ5章7節
 若い人たちが歌っている歌は、テンポも早く激しくて、中年の自分にはとてもついていけないなあと思うことがあります。でも、よく聞いているとその歌詞は「 さびしい、優しくされたい、愛されたい、そして愛したい 」、人であれば誰しもが持つ欲求を歌っているのだということが分かります。皆、憐れみを必要としているのです。私たちが憐れみ深くなるには、イエス様からの憐れみを一杯に受けて、自分の中に憐れみがあふれる以外にほかはありません。キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)を、私たちの日々の祈りとしましょう。

1月22日(火)マタイ5章8節
心の清い人々は神を見る。献身ならぬ、見神(けんしん)生活の勧めですね。旧約の偉大な王ダビデは、部下の妻を無理矢理、自分のものにしてしまい、その罪を預言者に指摘されたとき、「 わたしのうちに清い心を創造してください 」(詩編51編12節)と祈りました。あの偉大なダビデが祈らずにおれなかったのが、清さというのは自分では造れない、修行では作れない、神様に造っていただくしかない、ということでした。元より、人は神様を見ることはできないのです。ただ、神様が自らへりくだって、ご自身を見せてくださるのでなければ・・・・。神様は、人のへりくだりという地点において、ご自身を見せてくださるのです。あなたは神様が見えていますか。神様はあなたのへりくだりを場としてご自分を現されるのですよ。

1月23日(水)マタイ5章9節~12節
 「 義のために迫害される人々は幸いである 」。義、すなわち正しいことをしたのに、なぜ苦しめられたり、悩まされたりするの・・・・って、私たちは思います。でもイエス様は、それは当然のことだと言われます。正しいことをすることは、正しいことをする者の苦しみや悩みなくしては、証されないものなのです。旧約聖書の預言者たちは、まさにそうでしたね。そして、イエス様も。正しいことをして苦しめられる時、落胆しなくていいのです。それは、あなたがたが天国の住民であることのしるしです。

1月24日(木)マタイ5章13節~16節
あなたがたは、「 地の塩、世の光 」だと言われています。塩と光、両者は対照的です。塩は、隠し味などと言われるように隠れてこそ、その真価を発揮します。しかも少量でいいのです。キリスト者は数が少ないからダメなのだという理屈は成り立ちませんね。家庭でも、会社でも、あなたひとりでも意味があるのですよ。反対に、光は隠しておいては何の意味も持ちません。光は照らすためにあるからです。世の腐敗を防いだり、世に味付けをするのが塩である私たちの役目であり、キリストの恵みの光を反射して、世を明るく照らすのも、光である私たちの役目です。それらの役目を時に隠れて、時に表で、自分への評価にとらわれず、自由にそれをすることができる。それがあなたたちなのだよ、と主は言ってくださっています。

1月25日(金)マタイ5章17節~20節
明治時代のキリスト者、内村鑑三という人が学んだ札幌農学校には、武士の子どもたちがたくさんいました。新しい時代になって、それまで支配者であった武士出身の者たちの中には、目標を失い、生活の荒れた者が多かったと言います。農学校の中でも、酒を飲んではけんかや賭け事をするなど、荒れた生活でした。どんなに厳しい規則を作ってみても駄目でした。そこに校長として赴任してきたクラーク博士は、それらの細かい規則を全廃して、ただひとつ「 ジェントルマンであれ 」という規則だけにしたのです。そこには、「 あなたもジェントルマンとして、すなわち誇りをもった一人の人間として生きられる 」という博士のメッセージがあったのです。この規則一つで、学校の雰囲気が一変したと言います。わたしが来たのは、「 律法や預言者 」(旧約聖書のことをそう呼びます)を廃するためではなく、完成するためである、とイエス様は言われます。「 あなたのうちに神の律法を成就させるのだ 」という主の宣言は、クラーク博士のそれと同じ響きを持っていますね。

1月26日(土)マタイ5章21節~26節
和解をしなさいと勧められています。赦し合い、和解することだけが人が共に生きることができる唯一の道だからです。争いというのは、こっちにも非があり、あっちにも非がある。どちらかが全く正しいということはありません。だから互いに相手の非を非難し続けるならば、それは平行線をたどり、徹底的に互いを追い詰め合うという結果を招くことになります。そこには、共に生きる余地がなくなってしまうのです。天国に入ることは楽しみですが、天国で絶対に会いたくない人がいるのは、本当に残念で、悲しいことだと思いませんか。和解を求める心を大切に。

1月27日(日)マタイ5章27節~30節
イエス様の罪に対する感覚は、恐ろしいほどに鋭いものです。旧約聖書の時代は、心の中はどうあれ、それが外側の行為となって現れなければ、罪として問われることはありませんでした。しかし、主は心の中で思うことをも、問うておられます(28節)。そのイエス様が、罪の恐ろしさを体の一部を切り取ってでも、地獄に投げ込まれない方がましなほどであると言っておられます。身の縮こまる思いです。しかし実際は、主は私たちが体の一部を切り取らなくても、罪を切り捨て得る道を開いてくださったのです。あの十字架の上で。あなたの体はもう神の栄光の器なのです。