2012年12月30日日曜日

聖書日課 1月1日〜6日


成瀬教会 <聖書日課>  1月1日~6日

 今年の成瀬教会の活動標語は『神様と出会う』です。私たちが神様と出会うのは、何よりも聖書の言葉を通してです。日曜日の礼拝だけでなく、毎日、聖書を読むことを通しても、私たちは神様と出会うことができます。今年の前半は、マタイによる福音書を少しずつ読み進めて生きたいと思います。どうぞ、成瀬教会の聖書日課に参加し、皆で同じ御言葉に触れ、その恵みを互いに分かち合い、兄弟姉妹の絆をさらに深めてまいりましょう。


1月1日(火)マタイ1章1節~17節
  イエス・キリストの系図。あなたの家には、系図があるでしょうか。本来、系図というものは、その血筋を誇るために用いられますね。ところがイエス・キリストの系図はそうではありません。この系図の中には、ユダヤ人が蔑んだ異邦人のルツや遊女ラハブの名前、さらにはダビデが部下ウリヤから略奪した妻のことまでも書かれています。つまり、自ら恥をさらすような系図になっているのです。この系図は、イエス・キリストが人間の罪に連座してくださったという恵みを語る系図なのです。「 こんな私なのに 」と思うあなたに、キリストはつながってくださる方なのです。そしてあなたの罪という重荷を共に担い、引き受けてくださるのです。あなたは、自分ひとりで重荷を担っているのではありませんよ。

1月2日(水)マタイ1章18節~25節
 ヨセフは、いいなづけのマリアが自分の知らないところで身ごもったので、表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心しました。これは律法の規定に照らすと、かなり温情的な措置です。石打ちにさえ値する事柄でしたから。しかし、決心はしたものの、本当にこれで良いのかと、ヨセフはなおも考え続け(20節)、行動に移せないままでいました。そんなヨセフが、神の夢によるお告げを受け、決心と正反対の方向に進み出します。人間的判断で簡単に事を済まさず、本当にこれでいいのか、と神様の前に問い続け、考え続けることが神様の祝福につながったのです。あなたは、どうしていますか。

1月3日(木)マタイ2章1節~12節
 占星術の学者たちは、幼子イエス様を礼拝したとき、彼らの宝を捧げました。彼らが捧げた黄金、乳香、没薬は、占いをするときに使った道具だったと言われています。つまり、商売道具を手放してしまったわけです。私たちは、自分の生活のためのいろいろなことで思い煩ってしまいます。しかし、イエス様を礼拝して行くとき、どうしても手離せなかった生活上の問題を、イエス様にお委ねして行くことができるようになります。学者たちは、本当に捧げるべき方に、自分の大切な事柄を委ねたとき、平安のうちに帰っていくことができました。これは絶対に手離せない、手離したくないと言って、私たちはかえって自分の手の中でそれをつぶしてしまうのです。イエス様に向かってそれを手離してみよう。

1月4日(金)マタイ2章13節~15節
 神様は、私たちの人生を導いてくださっています。それは、逃げて、とどまっているような時があり、呼び出される時があります。それは、静かに待つ時があり、積極的に活動する時がある、と言い換えてもいいでしょう。でも、真相は静かに待つ時に蓄えられるものが、実際に活動する時を支える力になるのですよ。毎日、聖書日課をしていますか。このわずかな時が、あなたの一日の長い活動を支える力になるのです。聖書日課を読んだ日と読まない日では、一日の疲れ方が違ってくるものです。さあ、今日も御言葉から始めましょう。

1月5日(土)マタイ2章16節~18節
 ヘロデは残忍な王様ですね。でも、私たちはヘロデとかけ離れた人間なのだろうかと、考えるのです。ヘロデは自分の王位が、王として生まれた幼子によって奪われるのではないかという不安にかられていたのです。失う不安というものは、恐ろしいですね。人の心に入り込んだ不安は、次第に増長し、最後には「 自分を守るために(自分が失わないために)、相手を殺す(相手に失わせる) 」というところまで行き着いてしまうものなのです。大切なものをイエス様に手放し、平安のうちに出て行った占星術の学者たちとは対照的な姿を見る思いがします。「平和があるように」というイエス様のお約束の宣言をいつも心に響かせていないと、不安から逃れる術はありませんね。

1月6日(日)マタイ2章19節~23節
 13節~15節のところ、16節~18節のところ、そして19節~23節のところと、すべてのところに「 主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった 」という主旨のことが記されていますね。幼子イエス様の身には、父なる神様が予め定められたこと以外は起きなかったということです。すべてのことは・・・それがたとえ辛すぎることであっても・・・・神様の御手の外にあるような事ではないのです。神の御子イエス様と共に歩む私たちの身にも、同様に、父なる神様が予め定められたこと以外は起きないのです。それが信仰者である私たちに与えられている優れた慰めなのです。この出来事は、神様のあずかり知らぬところで起きている事なんだって・・・・そんなこと、考えただけでも恐ろしいことですね。御手の中で起こっている事だからこそ、希望はまだあると言えるのです。