2013年1月27日日曜日

2013年1月27日 説教要旨


「 主はあなたを捜される 」 ルカ19章1節~10節

 今朝は、ザアカイという人がイエス様と出会ったという出来事を読む。この出会いの出来事は、イエス様のこういう言葉で締めくくられている。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(10節)。つまり、このザアカイという人は「失われたもの」であったと言うのである。この「失われた」と訳されている言葉は、ルカ15章の「見失った羊のたとえ」で、「見失った」と訳されている言葉と同じである。100匹の羊を持っていた羊飼い、そのうちの1匹が群れから離れてしまい、迷子になってしまった。羊にとっては、命の支えとも言うべき羊飼いがいない状態、仲間の羊もいない、1匹だけで無防備に放り出されてしまっている状態。ザアカイはまさにそういう状態にいたのだとイエス様は言われたのである。しかし聖書には、彼は「徴税人の頭で金持ちであった」と記されていて、一般的に言うならば、彼は出世をして金持ちになり、言わば成功者としての姿をまとっていたのである。そのように、聖書が言うところの「失われている状態」というのは、誰が見ても「ああ、この人は確かに失われた状態にある人だ」とは分からない。だがその人の隠されている本当の姿を見抜く目をイエス様は持っておられ、その目で鋭くご覧になったところで、「この人は失われている羊だ。わたしは何としてもこの人を捜して、連れ戻さなければならない」と、1匹の羊をとことん追い求める羊飼いの心をもって、捜し求められるお方なのである。ここにいる私たちも、そのイエス・キリストの目に捜し出されて、ここにいる者となったのである。

 ところで、ザアカイ本人は自分が失われている状態にいるという自覚を持っていたのだろうか。彼は徴税人の頭であった。徴税人というのは、読んでの字のごとく、人々から税金を取り立てる人である。徴税人たちは、ローマ帝国の権力をバックに民から不法な取立てをし、私服を肥やすようなことをしていた。その上、信仰深いユダヤたちから見れば、自分たちの国を占領しているローマの手下として働いているわけで、いつまでもローマの植民地支配が続くように協力している、極めてけしからない人間、「神への信仰をも捨てた人間」と見られていた。そのように徴税人は人々から忌み嫌われる存在であった。ザアカイはそういう自分を「失われた状態にあるのだ」とは表現しなかったと思うが、自分は神からも他の人からも孤立してしまっている孤独な状態にいるのだということは、自覚していたであろう。なぜ、ザアカイがそんな嫌われ役の仕事に就いたのか、その理由を聖書は伝えていない。私の小さな経験からすると、人にひどく侮辱されて育って人間は、いつか人を見返してやろうと思うものなのである。そして出世して偉くなることが、その手っ取り早い方法だと考えるのである。もしかしたら、ザアカイも人々を見返すために、徴税人という仕事を選んだのかも知れない。しかし実際に徴税人になってはみたものの、その現実は彼が思い描いていたものとはずいぶん違ったものだったのではないかと思う。ザアカイの心の中には「俺の人生、こんなはずじゃなかった。今のままの自分では嫌だ。新しい自分になりたい・・・」。そういう思いがあったのではないか。だからこそ、ザアカイはそのまま徴税人としての人生を脇目も振らずに突き進むのではなく、イエス様に強い関心を持ったのであろう。イエスという方がこの町に近づいているらしい。噂によると、この人は自分のことを神と等しい者であると公言し、それでいて、自分のような徴税人たちをも、まるで親友のように接して一緒に食事までしてくれるという。一体、この人は本当に神なのだろうか。そして、この自分にも親しく接してくださるのであろうか。もしそうであるならば、この人生を新しいものに変えることができるかも知れない・・・ザアカイはそう考えた。

どうしてもイエスという方を見たい。背が低く、群集にさえぎられて見ることができなかったザアカイは木に登った。ザアカイに好意を示して、場所を譲ってくれる人はいなかったのである。ザアカイは、イエス様を見たかった(原文は、見ることを求めた、となっている)。イエス様もいなくなった1匹の羊を捜し求める羊飼いのように、ザアカイを捜しておられた。このエリコの町の中で最も失われた状態にある彼を。その両者の「捜す」が交わる一点、それが5節の「その場所に来ると」という「その場所」であった。その場所は、ザアカイが木に登っている場所、ザアカイの心の中にある思いが見える形となって現れ出た場所。本当のザアカイの姿がそのまま映し出されている場所。それが、イエス様とザアカイが出会った「その場所」である。人は誰でも、こんな惨めな自分、こんなに情けない自分、そんな姿をさらしたら、誰からも受け入れてもらえないだろうという自分を隠して生きている。だがイエス様はそういうありのままの姿のザアカイと出会い、その彼を赦し、愛される。今までの彼の人生すべてを贖ってくださる方。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイは思った。「なぜ、木の上にいることが分かったのか。そうだ。自分は捜していたつもりが、実は捜されていたのだ。この方に」。ザアカイはこの出会いを契機に新しい歩みを始める。神と共に、そして真の仲間と共に生きるための歩みを。ザアカイはそのための闘いに一歩踏み出した。それは私たちひとりひとりの経験である。

聖書日課 1月28日〜2月3日


成瀬教会 <聖書日課>  1月28日~2月3日

1月28日(月)マタイ5章31節~32節
 「 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる 」(申命記24章1節)。こんな掟があると、何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときとは、どういうときを言うのか、といろいろ考え始めるものです。当時の男性はこれをわがままに解釈して実行していたようです。気に入る、気に入らないとか、好きだ、嫌いだと言うのは、そもそも結婚の正当な理由ではないのです。「 人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう 」(創世記2章18節)が示すように、結婚の理由は「 ふたりが一緒に生きるため 」、それに尽きます。そして、その理由は簡単には失われないのです。相手が召されない限り・・・・。

1月29日(火)マタイ5章33節~37節
「 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である 」(34節)。なぜ、こんなことがイエス様の口にのぼったかと言うと、当時の人たちは天をかけて誓った場合は神聖な誓いなので絶対守らなければならいが、他のことにかけて誓った場合は、守らなくてもいいみたいなことをしていたのです。そのことを戒められているのであって、私たちがする洗礼の誓約や長老就任の誓約、結婚の誓約など、すべての誓約が否定されているわけではありません。私たちがすべき誓約の姿勢は、ペトロの謙遜な告白の中に見出すことができます。「 はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです 」(ヨハネ21章15節)。主にすべてを委ねる心での誓約です。

1月30日(水)マタイ5章38節~42節
 「 悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい 」(39節)。人から意地悪をされ、苦しめられることがあります。生きていれば辛い目に遭うものです。イエス様は、だからと言って受身で生きていてはならない。受身で辛抱しているだけでは何も生み出さない。自分の方から相手に踏み込んで行くのだと言われます。もちろん、善をもって・・。子どもがいじめに遭っていたキリスト者の知人は、いじめる子どもたちを全員、家に招いて食事会をして、自分たちは神様を信じていて、こういうふうに生きているんだと伝えました。その日以来、いじめはまったくなくなりました。信仰に基づく勇気ある決断には、主が伴っていてくださいますね。

1月31日(木)マタイ5章43節~48節
「 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい 」(44節)。このイエス様の言葉は、人格の深まりについて考えさせてくれます。私たちが人として成長したと感じる時はたいてい、自分に嫌なことを言ったり、迷惑をかけてくる、いわば敵のように感じる人と関わり続けて来た時ではないでしょうか。人はそういう敵のような存在と向き合い、傷つき、痛み、打たれる経験を通して育てられるという部分を持っているのです。敵を受け入れまいとする防御の姿勢からは、人格の深まりは期待できないのです。

2月1日(金)マタイ6章1節~4節
「 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる 」(1節)。「 見てもらおうとして 」は、もともとの言葉は英語のシアターの語源になった言葉です。また2節の「 偽善者 」は、俳優、お芝居をする人の意味。俳優は人に見てもらうことを仕事としますね。神の目ではなく、人の目ばかりを意識した行為が信仰的なのか、そこに信仰はあるのかと、問われています。人の目を意識することは大切です。人の目を意識しないというのは、相手を無視する傲慢が潜みます。問題は、人の目だけになってしまい、神の目に見られていることを忘れてしまうことなのです。

2月2日(土)マタイ6章5節~8節
祈りの偽善について教えられています。祈りの偽善というのは、祈りの相手が神様でなく、人になったり、自分になったりすることです。それは祈りに何らかの手応えを求めるから、そうなるのです。人に聞かせようとする祈り、あるいは自分の中に祈った手応えが感じられることを執拗に求めてしまう、そうでなければ祈りが独り言のように感じられて空しくなる・・・。それらはすべて偽善の始まりです。祈りが満たされるところは天であり、天におられる父のところです。私たちの手を触れることができないところです。その意味では、私たちの祈りに空しさがつきまとうのは(手応えがないのは)、むしろ当然のことかも知れません。その空しさの中にあえて立つということこそ、本当に神様に向かう祈りの始まりなのです。

2月3日(日)マタイ6章9節
だからこう祈りなさい。「 天におられる私たちの父よ 」とイエス様は言われます。あなたも高い所に上ったことがありますよね。山の上とか、東京タワーとか(スカイツリーかな?)。そこでは、地上にいる時には全く見えていなかったものを、広い視野で見渡すことができますね。天におられる私たちの父は、地上に生きている私たちには決して見えないことをも、広い視野からちゃんとご覧になって、その上で私たちを導いていてくださいます。「 天におられる私たちの父よ 」という祈りの呼びかけの中にすでに大きな恵みが見えています。あなたの祈り意識も変わりますね。

2013年1月20日日曜日

2013年1月20日 説教要旨


 「 開かれた目が見るもの 」 ルカ18章31節~43節

 今朝は、ルカ18章31節から43節までを読む。2つの出来事が記されている。イエス様がエルサレムで十字架につけられて死ぬという3度目の予告をされたのだが、弟子たちには理解できなかった。それは信仰の目が開かれていなかったからというのが前半の出来事。後半はエルサレムに向かう途中、エリコの町の近くで、ひとりの盲人がイエス様によってその目を開かれるという事が起きたということ。2つの出来事を共通して、私たちが深く考えさせられることは、「見えるとは何か」ということだと思う。41節で、この盲人がイエス様から「何をしてほしいのか」と尋ねられて、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言っている。見えるようになりたいというのは、この盲人だけでなく、すべての人が持っている願いではないか。ある人は、先行きの見えない今の時代にあって、少しでも先を見通すことができるような目を持ちたいと願うだろう。またある人は、人の悲しみ、心の叫び、そういうものを見ることができる感性豊かな心の目を持ちたいと願うかも知れない。

 私たちは、「このことを見る目を持つことができたら」と、それぞれに願いを持っている。そういう私たちに今朝の聖書の物語は、「あなたが本当に見えるようになりたいと願っていることは何か。それは本当にあなたの願いとすべきことなのか。そしてそれが見えるということはあなたにとって何を意味するのか」と、問いかけているように思う。道端に座って物乞いをしていた盲人は、自分の目の前で何が起きているのか、分からなかった。騒々しい物音に何かが起きているということは感じていた。そこで道行く人に尋ねると「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせてくれた。すると彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めたという。ダビデの子という言い方は、当時のユダヤの人たちが期待して待ち続けていた『救い主』を指す呼び名。つまりこの盲人は、このイエスという方こそ、救い主であると信じたのである。イエス様のことについて、いろいろ噂を聞いていたのだろう。そして彼なりに、このイエスという方こそ救い主だと信じた。つまり、盲人の信仰の目は救い主のことが見えていたのである。一方、この盲人を叱りつけて黙らせようとした人々がいる。彼らは「こんな物乞いの盲人、救い主も相手にするはずない」と思った。つまり、救い主がどういう方であるか、見えていなかったのである。考えさせられることだと思う。この人たちだって、救い主を見たいと考えていたはず。でも見えていなかった。人って結局、自分の見たいようにしか見ていないのだと思う。目を開けて見ているつもりでも、「自分はこう見たい」という枠を作っていて、その枠を通して見るものだから、本当に見るべきものを見ることができない。親が愛する我が子の顔を見ているつもりでも、その子が今、何を悩んでいるか、全然見えていないということがある。「我が子はこうあってほしい」という親の願望がひとつの枠になって、目の前の子どもの現実が見えなくなってしまうのだ。人は自分にとって都合のいいものの見方しかしない。自分に都合のいい枠を作って、その枠を通してしか見ないし、それで見えたものがすべてだと思い込む。悲しいけれども、それが私たちの現実ではないか。でもそうやって自分で見たいものだけを見ていて何になるのだろうか。本当は、自分の理想とか願望とか、そう言う「枠」を越えたところに、神様の恵みの世界は開けてくるのではないか。自分の願望、理想がもう打ち砕かれてしまって、ただひたすらに「わたしを憐れんでください」としか言いようがない。そういうところで、今まで知らなかったほどの神様の大きな恵みが用意されていたことに気がつく。実は、それが神様の福音の真理なのである。だからこそ、今朝、私たちはこの盲人のように、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と、叫び声を上げるべきではないかと思う。この盲人は、見えるようになりたいとイエス様に願った結果、目を開いていただき、さらに大いなる事実に目が開かれていく。見えるようになった盲人は「神をほめたたえながら、イエスに従った」(43節)。

 その先、エルサレムの都で彼の開かれた目が見たものは、自分が「ダビデの子」と呼んだイエス様が、十字架につけられて殺される場面であった。自分が「ダビデの子よ。わたしを憐れんでください」と叫んだその叫びよりも、もっと激しくもっと深く「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、叫び続けるダビデの子の姿を見たのだ。のちに彼は、十字架につけられたダビデの子の姿の中に、「こんなにも自分は神様に愛されているのだ」という事実を見たに違いない。神様がその大切な独り子をこの私の罪の身代わりとして与えられたほど、自分は神に愛されている。その事実を救い主の十字架のうちに見た。他の何が見えなくたって、自分がこんなにも神様に愛されているのだという事実を見ることができる目を持っている人が一番、幸せな人なのではないか。もし、その目を持っているならば、たとえ肉体の目が見えなくても、癒されない病を抱えていても、困難な人生を歩かされていたとしても、その人は一番堅固な支えを持っている。いかなる人生の嵐にも耐えうる支えだ。盲学校の生徒たちが「とんぼのめがねの歌」を元気に歌ったように、見るべきものを見ている心の目、信仰の目があるなら、私たちはすでに幸いな者とされているのである。  

聖書日課 1月21日〜27日


成瀬教会 <聖書日課>  1月21日~27日

1月21日(月)マタイ5章7節
 若い人たちが歌っている歌は、テンポも早く激しくて、中年の自分にはとてもついていけないなあと思うことがあります。でも、よく聞いているとその歌詞は「 さびしい、優しくされたい、愛されたい、そして愛したい 」、人であれば誰しもが持つ欲求を歌っているのだということが分かります。皆、憐れみを必要としているのです。私たちが憐れみ深くなるには、イエス様からの憐れみを一杯に受けて、自分の中に憐れみがあふれる以外にほかはありません。キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)を、私たちの日々の祈りとしましょう。

1月22日(火)マタイ5章8節
心の清い人々は神を見る。献身ならぬ、見神(けんしん)生活の勧めですね。旧約の偉大な王ダビデは、部下の妻を無理矢理、自分のものにしてしまい、その罪を預言者に指摘されたとき、「 わたしのうちに清い心を創造してください 」(詩編51編12節)と祈りました。あの偉大なダビデが祈らずにおれなかったのが、清さというのは自分では造れない、修行では作れない、神様に造っていただくしかない、ということでした。元より、人は神様を見ることはできないのです。ただ、神様が自らへりくだって、ご自身を見せてくださるのでなければ・・・・。神様は、人のへりくだりという地点において、ご自身を見せてくださるのです。あなたは神様が見えていますか。神様はあなたのへりくだりを場としてご自分を現されるのですよ。

1月23日(水)マタイ5章9節~12節
 「 義のために迫害される人々は幸いである 」。義、すなわち正しいことをしたのに、なぜ苦しめられたり、悩まされたりするの・・・・って、私たちは思います。でもイエス様は、それは当然のことだと言われます。正しいことをすることは、正しいことをする者の苦しみや悩みなくしては、証されないものなのです。旧約聖書の預言者たちは、まさにそうでしたね。そして、イエス様も。正しいことをして苦しめられる時、落胆しなくていいのです。それは、あなたがたが天国の住民であることのしるしです。

1月24日(木)マタイ5章13節~16節
あなたがたは、「 地の塩、世の光 」だと言われています。塩と光、両者は対照的です。塩は、隠し味などと言われるように隠れてこそ、その真価を発揮します。しかも少量でいいのです。キリスト者は数が少ないからダメなのだという理屈は成り立ちませんね。家庭でも、会社でも、あなたひとりでも意味があるのですよ。反対に、光は隠しておいては何の意味も持ちません。光は照らすためにあるからです。世の腐敗を防いだり、世に味付けをするのが塩である私たちの役目であり、キリストの恵みの光を反射して、世を明るく照らすのも、光である私たちの役目です。それらの役目を時に隠れて、時に表で、自分への評価にとらわれず、自由にそれをすることができる。それがあなたたちなのだよ、と主は言ってくださっています。

1月25日(金)マタイ5章17節~20節
明治時代のキリスト者、内村鑑三という人が学んだ札幌農学校には、武士の子どもたちがたくさんいました。新しい時代になって、それまで支配者であった武士出身の者たちの中には、目標を失い、生活の荒れた者が多かったと言います。農学校の中でも、酒を飲んではけんかや賭け事をするなど、荒れた生活でした。どんなに厳しい規則を作ってみても駄目でした。そこに校長として赴任してきたクラーク博士は、それらの細かい規則を全廃して、ただひとつ「 ジェントルマンであれ 」という規則だけにしたのです。そこには、「 あなたもジェントルマンとして、すなわち誇りをもった一人の人間として生きられる 」という博士のメッセージがあったのです。この規則一つで、学校の雰囲気が一変したと言います。わたしが来たのは、「 律法や預言者 」(旧約聖書のことをそう呼びます)を廃するためではなく、完成するためである、とイエス様は言われます。「 あなたのうちに神の律法を成就させるのだ 」という主の宣言は、クラーク博士のそれと同じ響きを持っていますね。

1月26日(土)マタイ5章21節~26節
和解をしなさいと勧められています。赦し合い、和解することだけが人が共に生きることができる唯一の道だからです。争いというのは、こっちにも非があり、あっちにも非がある。どちらかが全く正しいということはありません。だから互いに相手の非を非難し続けるならば、それは平行線をたどり、徹底的に互いを追い詰め合うという結果を招くことになります。そこには、共に生きる余地がなくなってしまうのです。天国に入ることは楽しみですが、天国で絶対に会いたくない人がいるのは、本当に残念で、悲しいことだと思いませんか。和解を求める心を大切に。

1月27日(日)マタイ5章27節~30節
イエス様の罪に対する感覚は、恐ろしいほどに鋭いものです。旧約聖書の時代は、心の中はどうあれ、それが外側の行為となって現れなければ、罪として問われることはありませんでした。しかし、主は心の中で思うことをも、問うておられます(28節)。そのイエス様が、罪の恐ろしさを体の一部を切り取ってでも、地獄に投げ込まれない方がましなほどであると言っておられます。身の縮こまる思いです。しかし実際は、主は私たちが体の一部を切り取らなくても、罪を切り捨て得る道を開いてくださったのです。あの十字架の上で。あなたの体はもう神の栄光の器なのです。

2013年1月13日日曜日

2013年1月13日 説教要旨


 神の国の論理 」 ルカ18章15節~30節

金持ちの議員の物語は、マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書に記されている。主の伝えられた福音がどういうものかを伝えるのに、とても大切な出来事であったと、福音書著者たちは思ったのだろう。だがそれぞれに、その伝えるところが少しずつ異なっていて、登場人物に関して言えば、ルカは金持ちの議員、マタイは金持ちの青年、マルコはただ金持ちと書いている。それらのことを総合すると、この人はお金持ちの青年で、かつ議員でもあったということになる。議員として選ばれるほどに才能豊かで、人々からも信頼され、多くの財産も持っていた人物なのだ。しかも彼は、小さい頃から神の戒めをきちんと守ってきた。非難の余地がない人物、世の中の多くの親は、自分の子どもがこういう青年であってほしいと思うのではないだろうか。だがそんな彼が満足できていない。不思議なことである。彼は、永遠の命への欲求を持っていたという。それは、神が人間をお造りになられたとき、永遠を思う心をお与えになられたからである(コヘレトの言葉3章11節)。この永遠を思う心は、普段はいろいろな欲が茨のように覆いかぶさって、永遠を思う心が表に現れないようになっている。だが死に直面したり、ふとしたときに、永遠を思う心が顔を覗かせるのである。彼は、神が人に与えられた永遠を思う心に突き動かされて、永遠の命をどうしたら受け継ぐことができるか、永遠の命という救いを手に入れるためには、どうしたらいいのかと、主のところに訪ねて来たのである。

そこでイエス様ははっきりと、「あなたは自分で自分を救えない。神様があなたを助け、あなたを救うのだ」と教えられたのである。この人は「何をすれば救われるのか」と尋ねたが、イエス様は「何をするかだと?あなたが何をしても救われない。救うのは神である 」、そうお答えになられた。それが今朝の聖書の内容。イエス様は「掟は守ってきました」と胸を張るこの人に、「あなたは自分で自分を救おうというのか、そんな自分を手放しなさい。すべてを捨てて、神の救いにこそ信頼して私に従え」と命じられたのである。「あなたは自分で自分を救うことはできない 」・・・これが、この人には分からなかった。だから、彼は非常に悲しんだ。「大変な金持ちだったからである」とあるが、財産とはつまり、それで自分を救おうとするもののこと、すべてなのである。それがお金なのか、健康なのか、知識や何らかの業績なのか、ともかく自分で自分を救おうとかき集めて、すがりつくもの・・・財産はそれを象徴しているのだ。そうとあれば、当然、財産をたくさん持っていれば、いるほど、救いが見えなくなる。財産があるというのは、そういうことなのである。

 イエス様は、そのことを分からせるために、彼にひとつのことを求められた。持っている財産をすべて売り、貧しい人たちに分け与えよと。もちろん、そういう善行を積めば、救われると言っておられるのではない。このあと、弟子たちが「この通り、私たちは自分の持ち物を捨ててあなたに従っています」と言っているが、その弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろうか」と言っているではないか。それは正しい問いなのだ。持ち物をすべて手放すという善行が、あなたにはまだ足りないと主は言われたのではない。この人にはまだ足りないことがある。それは、貧しい隣人なのである。彼の持っているものを分かち与えられることによって祝福に与るようになる隣人が足りないのだ。それらの隣人と同じところに立って生き始めるとき、彼は本当に救いのために必要なものが何であるかを、知るようになるのだ。おそらく、この青年から分けてもらう必要のある貧しい人たちは、救いのために本当に必要なものを持っていたであろう。それは、神様に寄り頼む姿勢である。人の助けがなければ生きられなかった彼らは、まず、人に頼む以前に神様に頼む。「神様、どうぞ、あなたが働いて、今日、私たちに必要なものを与えてくださる人を送ってください」と・・・。彼らは何も持っていないが、ただひとつ持っているもの、それは、この青年が持っていなかった「神に寄り頼む」という姿勢である。

 この物語は、3つの福音書にすべて記されている。それぞれに少しずつ、異なる伝えられ方がしているのだが、3つの福音書に共通することがひとつある。それはこの物語が、イエス様が子どもを祝福するという出来事としっかり結びついて伝えられていることだ。この物語は、イエス様が子どもを祝福された記事と切り離して、読むことは許されない。もし、そのように読むと、イエス様の伝える福音が何であるかを聴き損なう危険が生まれる。そういうことであろうと思う。乳飲子はイエス様の祝福を受けたが、何か善きことをしたわけではない。ただ、一方的にイエス様から恵みを受けただけだ。この出来事は、救いにおける神と人間の関係を究極的に現わしている。私たち人間が神から救いを受けるのは、ただ神の恵みによる。人に求められるのは、それを感謝して受ける姿勢だけである。イエス様に従って行くとき、その妨げとなり得るものがたくさんある。財産はそのひとつかも知れない。これだけは手放せない。これを手放したら生きていけないと・・・しがみつくものがあるのではないか。だが、神様があなたをしっかりと捕らえてくださっているから、もうそれらのものを手放しても大丈夫である。あの木登り体験のように。人には不可能なことを、神様があなたにしてくださるのだから。

聖書日課 1月14日〜20日


成瀬教会 <聖書日課>  1月14日~20日

1月14日(月)マタイ4章12節~17節
 「 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた 」(12節)。ヨハネを捕らえたのは残忍な王ヘロデです。イエス様はヘロデを逃れて、ガリラヤに行ったかのような印象を与えますが、そうではありません。ガリラヤはそのヘロデが支配する地方だったのです。しかもガリラヤはイスラエル領土の最北に位置し(ゼブルン族とナフタリ族の領地)、戦争になると北からの攻撃者たちの手にいつも最初に落ちるという定めを負っていました。そのガリラヤに行かれたということの中に、より貧しいところ、より悲しいところ、より深く涙のあふれているところに行こうとされるイエス様の心を読み取ることができます。寒さが厳しくなればなるほど大地が美しい真っ白な霜柱を咲かせるのに似て、この地上の醜さ、悲しさ、不幸が深まれば深まるほど、より深い憐れみがイエス様からあふれてくるのです。

1月15日(火)マタイ4章18節~22節
 イエス様に「 わたしについて来なさい 」 (19節)と、声をかけられた弟子たちは、すぐにイエス様に従いました(20節)。これは彼らの「 従いっぷり 」の良さを示している言葉ではなく、従うための何の準備も求められることなく、イエス様にグイッと引っ張られたことを意味しているのだと思います。私たちがイエス様に従うときも同じことが起きているのです。従うための何の準備もない私たちをイエス様が捕らえるという主の御業が先行しているのです。あなたが何かの奉仕や責任を担った経験があるならば、このことはとてもよく分かると思います。

1月16日(水)マタイ4章23節~25節
 ここに描かれている病気や苦しみに悩む者たちは、毎日の生活の中で汲々としていたと思います。自分の生活のことにあくせくしながら、現実に埋もれていく生活だったことでしょう。イエス様のために何か奉仕をするというような信仰の生活とはほど遠い生活をしていると、本人たちは感じていたかも知れません。しかし、そのような人々のところをイエス様の方から近寄って下さり、人々の間を訪ね歩いて御業を行なってくださいました。意識のない母を看病する8年間の生活に、何の意味も見出せず、悩み、苦しんでいたあるご婦人は、その生活をもイエス様は見ていてくださると知り、深い慰めを得たのでした。そしてそのような慰めを受けたとき、人々はイエス様に従ったのです(25節)。自分なりの精一杯のやり方で。

1月17日(木)マタイ5章1節~3節
 「 心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである 」という御言葉は、徴税人ザアカイ( ルカ19章 )や罪深い女の物語( ルカ7章 )と合わせて読むと、意味がよく分かると思います。あるいはルカ18章9節以下のファリサイ人と徴税人のたとえを読むのもいいでしょう。「 心が貧しい 」とは、原文ギリシャ語では「 霊において貧しい 」となっており、「 神様に対して何も誇るものを持たない 」という意味なのです。・・・・天の国とは、神の力であり、神が共におられるという喜びです。それを手にすることは、人生という荒波に翻弄されても、決して漂流してしまわない堅固な錨に結ばれるようなことなのですよ。

1月18日(金)マタイ5章4節
「 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる 」・・・なんと世間の価値観と対立する言葉なのでしょうか、これは・・・・。悲しまない人こそ、幸いだと人々は考えます。このイエス様の御言葉は、ヨハネの黙示録21章の「 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・・見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである 」という世の終わりの時の祝福を、人生のゴールと見定めていない限りは、決して納得できるものではありませんね。

1月19日(土)マタイ5章5節
 柔和な人々は幸いであるとイエス様は言われます。聖書がイメージする柔和は、イエス様のエルサレム入城を思い浮かべると良いのです。ロバの子に乗って入城するイエス様を聖書は「 柔和な王が入って来られる 」と言っています。イエス様を出迎えた人々は、ユダヤをローマの支配から力ずくで解放してくれる救い主として、歓呼のうちに迎えたのでした。しかしイエス様は強い軍馬ではなく、弱いろばの子に乗って進まれます。より強い力で、相手を打ち倒し、自らの力を誇示する道( 世界の指導者たちは皆、そうしますが )をイエス様は進まれませんでした。それを聖書は柔和と言います。強さを誇るのは、しばしば裏側にある弱さを隠すためです。弱さを隠すのではなく、あえて弱さの中に立つ。そこにこそ、この世界が神の祝福を代々に引き継いで行くことを可能とする道があることを忘れないように。

1月20日(日)マタイ5章6節
義に飢え渇く者は幸い・・・あなたは義に飢え渇いていますか。義に飢え渇くというのは、悪と不正がまかり通るこの世界の中に、神の正義が行われることを切望することです。ルカ18章1節以下の「 裁判官とやもめのたとえ 」を思い出します。やもめは、正義の裁きが行なわれることを切望しました。私たちも神の正義が行なわれる主の再臨の時を飢え渇くように切望して、祈りましょう。気を落とさずに絶えず「 再臨の時を求めて 」祈ることを、主が私たちに求めておられますよ。

2013年1月6日日曜日

2013年1月6日 説教要旨


「 神様と出会う 」 コヘレトの言葉12章1節~14節

 日本人の平均寿命は世界でトップである。これは一面喜ばしいことだか、半面、高齢化社会をどう生きたらいいのか、という戸惑いも与えている。日本には、高齢化社会をどう生きたらいいのか、そのモデルがないから。なぜなら、高齢化社会というのは世界の歴史においても、今までに例がないから。高齢化社会はここ数10年の間に、急速な医療技術の進歩と経済の発展によって、もたらされたものだからである。高齢化社会をどう生きたらいいのか、その問題を一層、難しくしているのは、私たちが歩んできた高度経済成長期に日本社会に植えつけられた価値観である。高い能力を身につけ、それによって効果をあげ、評価されるという、言わば『能力主義』の価値観は、体力や記憶力などが衰えてしまった高齢の人たちを、もはや自分は生きる価値を失ったのだと、生きる意味を見出せないように縛ってしまっている。この問題の解決の鍵は、高度経済成長期を支えてきた価値観に代わる、全く『別の価値観』を私たちが持つことができるか、ということであろう。これは、日本社会全体の課題であり、ここにいる私たちひとりひとりの課題である。そのことを踏まえ、成瀬教会は2013年の主題聖句をコヘレトの言葉第12章1節とした。

 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」(1節)。「青春の日々にこそ」と言われているが、新共同訳聖書は、極めて残念な翻訳になってしまったと思う。他の日本語訳聖書は、「あなたの若い日に」と、原文ヘブライ語に忠実に訳している。「青春の日々」と訳してしまうと、10代、20代のうちに、ということになってしまう。だが、「あなたの若い日」と言うのであれば、いくら年を重ねても、今年のあなたは来年のあなたよりも若いと言えるし、今日のあなたは、明日のあなたよりも若いと言うことができる。つまり、「あなたの若い日に」という言葉は、「今」という機会を逃してはならない、という意味が込められていると理解することができるのである。おそらくコヘレトの言葉が強調したいのはその点であろう。「あなたの若い日に、お前の創造主に心を留めよ」。これは、創造主なる神様を心に留めることができる機会を逃すなと、若者だけでなく、高齢の人たちにも含む、すべての人たちに向けて語られている言葉なのである。

コヘレトの言葉はこの12章において、人間の「老いと死」について語る。それは、あたかも私たちの前に、めいめいの姿を映し出す鏡を立てかけるようなことである。その鏡には、これから私たちがどのようになって行くかを映し出されている。その鏡の中をのぞくことは、真に厳しい思いがする。だから、コヘレトはそれをあからさまに語ることをしないで、婉曲に(えんきょく)に描写する。コヘレトの思いやりなのだろう。3節から7節は、私たちの体の各器官、腕や手、足腰、歯、耳、目、声の衰えていく様子や、階段や坂を怖れるになることを語っている。3節から7節をそういう目で読み直してみると、比喩の内容が理解できるはずだ。それほど難しくはない。そういう厳しい現実を描写しながら、コヘレトの言葉は、そういう日が来ないうちにあなたの創造主を心に留めよと呼びかける(1節)。あなたの若い日、「今」という機会を生かして、造り主を覚えなさい。体の各器官が衰える、その日が来る前に、体のすべてを生かして、あなたの創造主を心に留めなさい、造り主と日々、出会うということを大切にしなさいと・・・。歯が抜け落ちないうちに神が与えてくださる食べ物を感謝して食べなさい。神が祝福をもって作られた世界を、祈りの目をもってしかと見よ。声があるうちに神を讃美しなさい。目の機能があるうちに聖書を読みなさい。歩けるうちに信仰者の集いに集いなさいと・・・。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」(1節)。年を重ねることに喜びはないと、多くの日本の高齢者の方々が思っているだろう。それは誰もが感じる確かな現実である。そして、その思いに対抗するには、お前の創造主を覚える喜びを知るしかないのだと、コヘレトの言葉は語る。神様と出会う喜びを知る以外にはないと。これは永遠の視点に立つ新しい価値観だ。ベテスダ奉仕女と呼ばれる人たちは、その生涯を奉仕に捧げ、年を取り引退すると、1ヶ所に集まって暮らす。その生活の日々を彼女たちは、「婚礼前夜」と呼ぶ。奉仕から離れた悲しみではなく、神様と顔と顔とを合わせてお会いするその時が近づいているという「期待」に胸を膨らませて過ごすのだ。老齢期は、神様と顔と顔とを合わせてお会いするという私たちの人生の究極のゴールに向けて、その期待を膨らませて過ごす時だ。その期待は、日々、聖書を通してまだ目で見ることが出来ない神様と出会う経験を重ねて行くことで、高められて行く。今年、私たちの教会は聖書日課を発行する。神様と日々出会う経験の一助となることを願って・・・。年を取り、何も分からなくなると、自分ではもう神様を覚えることすらできなくなってしまうことを恐れるかも知れない。だが、いなくなった放蕩息子を毎日覚え、彼の姿をとらえようと来る日も来る日も、遠く眺めていたあの父親のように、神様はご自分の方で私たちのことを覚えていてくださる方だ。だから安心していい。

聖書日課 1月7日〜13日


成瀬教会 <聖書日課>  1月7日~13日

1月7日(月)マタイ3章1節~6節
 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ 』」(3節)。この人はバプテスマのヨハネと呼ばれる人ですが、私たちすべてのキリスト者には、このヨハネのように誰かがイエスとお会いするための道備えの役割を担っているのだと思います。道備えをする人という意識を持って歩んでいると、神様はいろいろな形で道備えの場を私たちのために用意してくださっていることに出会えます。あなたは、あなたの家族のヨハネなのかも知れません。お友だちのヨハネなのかも知れませんよ。

1月8日(火)マタイ3章7節~12節
 バプテスマのヨハネの悔い改めを迫る激しい言葉に圧倒されてしまいますね。「
手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる 」(12節)などと言われると、バプテスマのヨハネ後に来られる救い主は、ヨハネよりもさらに恐ろしい裁きをなさるのだと怖気づいてしまいます。しかし、救い主イエス様が実際になさったことは、裁きを受けるべき私たちに代わって、ご自分を父なる神の裁きの火の中に投げ入れてくださるということでした。その恵みを知る中で、真実の悔い改めは起こります。頭ごなしに悔い改めを迫られても、人の心はそんなに柔らかくないのです。

1月9日(火)マタイ3章13節~17節
 イエス様の洗礼の記事です。イエス様が私たちと同じように洗礼を受けられたというのは、私たち人間の一人になってくださったと言うことでしょう。イエス様が水の中から上がられると、天が開き、神の霊が鳩のように降り、天からの声が聞こえました。このときから、イエス様の救い主としての公生涯が始まります。救い主としての使命に生きる生活が始まるのです。私たちの人生もひとりひとり、神様から何らかの使命をいただいます。その生活は、洗礼を受け、天からの声に導かれることによって進められていきます。天からの声を聴くこと、聖書を通して神様からの語りかけをいただくことを怠らないようにしましょう。使命に生きるために。

1月10日(木)マタイ4章1節~3節
 「 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた 」(1節)。洗礼を受けて、救い主の使命に生き始めた途端、神の霊はイエス様を荒野に導かれました。快適な環境へと導かれたのではありません。私たちは洗礼を受けたら、その後の歩みは快適な歩みが待っているに違いないと神様に期待するかも知れません。しかし、そうではないのですね。神の霊は、私たちを荒野のようなところへと導かれることもあるのです。あなたが今、荒野のようなところを通されていることは、神の導きからはぐれてしまったということではないのです。むしろ、あなたをそこへ導いた神の霊の「 導き 」の中にあなたはいるのです。

1月11日(金)マタイ4章4節
「『 人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる 』と書いてある 」(4節)。荒野で悪魔の誘惑を受けるイエス様。創世記には、最初の人間アダムが悪魔の誘惑に負けて、神に背いたことが記されています。救い主は、その悪魔の誘惑に打ち勝ち、悪魔を滅ぼすことによって、私たちを悪魔の手から取り戻されるのです。その戦いが今、始まりました。悪魔に貶められたアダムには、日ごとのパンを得るための厳しい労働が課され、エバには産みの苦しみが与えられました(創世記3章)。パンを得るための労苦は大変です。それと同じように、神の口から出る言葉、霊のパンをいただくことも、簡単なことではないのです。日々、御言葉に耳を傾けるための戦いが誰にでもあるのです。楽してパンを得ることはできません。時間を聖別するための戦いを忘れずに。

1月12日(土)マタイ4章5節~7節
 イエス様は悪魔の誘惑に対して、聖書の言葉をもって対抗しておられますね。悪魔は、神殿の屋根の端にイエス様を立たせて、「 神の子なら、飛び降りたらどうだ。『 神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える 』と書いてある 」と言いました。「 あなたの神である主を試してはならないとも書いてある 」それがイエス様の答えでした。神様の愛をいたずらに試すことは許されてはいないのです。愛は、それが深ければ深いほど、後になって分かるものです。親の子に対する愛がそうであるように・・・。だから簡単に、父なる神様の愛が私たちに理解できると思ってはなりません。時として、「 どうしてこんなことが 」という事も与えられることがあります。

1月13日(日)マタイ4章8節~11節
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「 もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう 」と言います。イエス様は、「 あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある 」と言われました。本当に仕えるべき方に仕え、拝むべき方を拝み始めるとき、私たちはこの世の栄華などに誘惑も魅力も感じなくなって行きます。神に仕える喜びがそれらのものよりも圧倒的に喜ばしいものになるからです。幼子イエス様を拝んだ星占術の学者たちは、安心して宝物を手放して、帰って行きましたよね。本当に拝むべき方を拝むことができた喜びが彼らを包んでいたからです。