2013年12月29日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月30日~1月5日

12月30日(月) 詩 編 43編1節~5節
   詩編42編と43編は、「 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め 」という言葉が共通して見られます(6節、12節、5節)。そのことから、この二つの詩はもともとひとつの詩であったと考えられています。42編は、自己と対話する詩人の姿が描かれていました。自己と対話するときをあなたは持っていますか。なぜうなだれるのか、何を怒っているのかと。自己との対話はとても有益です。冷静になって自分を見つめることができます。しかしそれ以上に有益なのは、そこに神との対話が加わることです。43編はすべてが神との対話になっていますね。そのような対話を通して私たちの人格はより深められていくのです。

12月31日(火) 詩 編 44編1節~27節
   詩編44編は、国民的苦難の中で、神が彼らの先祖をどのように扱われたかを回顧し、その神がなぜ今、神の民を敵のあざけりの中に置いておられるのかという抗議にも似た嘆願をしている詩です。「 先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも、自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく、あなたの右の御手、あなたの御腕、あなたの御顔の光によるものでした 」(4節)。人生に本当に勝利をもたらすものは何でしょうか。神の光だけが罪の暗黒を吹き払い、神の愛だけが堅い心を溶かし、神の摂理だけが人生の不可解と言う鉄門を開くのです。人の力によるのではありません。ローマ8章28節、31節、37節のパウロの言葉も参照しましょう。

1月1日(水) 詩 編 45編1節~18節
   この詩編は、王宮の詩人が王の結婚式を歌ったものです。「 心に湧き出る美しい言葉、わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として 」(2節)。私の語る歌、私の詠む歌は、ひたすら我が王のためであることを光栄とする詩人の喜びがあふれている詩ですね。これは元旦に読むには、まことにふさわしい詩編だと思います。あなたは今年、どんな歌を歌いますか。どんな歌を詠みますか・・・。何事でも、どんな事でも、これは「 我が王なるイエスのためである 」との光栄に生きることができますように。さあ、2014年の始まりです。

1月2日(木) 詩 編 46編1節~12節
   この詩編は、ルターが「 神はわがやぐら 」という賛美歌を作るもとになった大変有名な詩編です。「 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる 」(2節)は、インマヌエルの信仰を証しするものですね。神は、私たちが苦難のとき、その苦難のさなかに共にいてくださり、共に苦しみを担ってくださり、その苦難を一緒に歩いて助け出してくださるというのです。いつか、私たちを助けに来てくださるという傍観者ではないのです。必ずそこにいまして助けてくださるのです。その助け方は、私たちが思い描いている方法とは違うかも知れません。いや、多くの場合、違うでしょう。でも、必ず、共にいて助けてくださるのです。そのために大切なことは、「 力を捨てよ、知れ、わたしは神 」(11節)とあるように、自分の小さな力にしがみつかないで、それを捨てることです。
  
1月3日(金) 詩 編 47編1節~10節
   この詩編には、神の王たることが歌われています。この詩編(2節)から坂本九さんの歌「 しあわせなら手をたたこう 」が作詞されたことをご存知でしたか(作詞は木村利人さん)。態度で示したくなる信仰の喜びがあふれています。5節の「 我らのために嗣業を選び、愛するヤコブの誇りとされた 」という言葉に目を留めます。あなたは自分の選びによって生きようとしていますか、それとも神の選びによって生きようとしていますか。神は選ばれます。私たちのために、私たちが進むべき道を。それはあなたが選ぶよりも、ずっとよりよい道なのです。主よ、選んでください、私のために・・・という謙遜と信頼を、ことあるごとに喚起しましょう。

1月4日(土) 詩 編 48編1節~15節

詩編46編から48編までは、内容が類似していて一組をなしています。48編はイスラエルの都シオン(エルサレム)との関係で、神をほめたたえます。シオンは、そこに住む者に祝福を与え、そこを蹂躙しようとする者の野望を打ち砕く都、そこは神がご自身のために定められた都だからです。「 城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ 」(14節)とは、私たちのことに言い換えるなら、成瀬教会の礼拝堂に入って見よ、でしょうか。そこには日の光を浴びた十字架が掲げられています。「 神よ、神殿にあってわたしたちは、あなたの慈しみを思い描く 」(10節)。

1月5日(日) 詩 編 49編1節~21節
 この詩編は、知恵の詩に属するものと言われ、信仰の恵みを証しする、どちらかというと黙想に近いものです。「 人間は栄華のうちに悟りを得ることはない 」(21節)と詩人は言います。とすれば、世の多くの人は悟りを得たいと思いつつ、それとは反対に悟りが得られない道に進んでいることになるでしょうか。心の深い部分では、本当は栄華を求めているからです。成功、繁栄、自負、誇り。高いところに立てば、何もかもが見渡せる。人が自分よりも小さく見えます。そして、なるほど、世の中とはこういうものかと達観した気分になります。しかし聖書は言います。そのとき、あなたは、本当は何も見えてはいないのだと・・・。目がかすんでいるのです。砕かれて、低くされて、はじめて人は真実を見るのです。栄華を誇ったソロモンを生かしておられた方を見るようになるのです。

先週の説教要旨 「 二つの決心の間で 」 マタイ1章18節~25節
  私たちの人生には、運・・・そういう言葉を使うのが適当であるかどうかはさておき、そういう言葉を使ってしか言い表せないような、人生の不条理、不可解、なぜ、自分の身にこういうことが・・・と、いくら考えても分からないことがある。しかも決定的な影響をもたらすものとして、私たちの人生のただ中に存在している。ヨセフは婚約中のマリアが自分の子どもではない、聖霊によって身ごもるという、何がなんだかよく分からない、運命的な問題にぶつかった。これは一見すると、ヨセフだけが経験した極めて特殊な出来事のように思われる。しかし考えてみれば、私たちも皆、程度の差こそあれ、同じように何がなんだか分からない運命的な問題に振り回されて生きているのではないだろうか・・・。健康の問題、家庭の問題、職業の問題、能力の問題、あるいは自分の性格の問題、お金の問題など、「 どうして、どうしてなの 」と、問うても答えの出せない運命的なことがたくさんある。そしてどうあがいても解決することもできず、さりとて投げ出すこともできず、その与えられた限界の中で生きている。宿命と言ったらよいのか、運命と言ったらよいのか、いずれにしても人間の手で片付けることを許さない、神の領域に属すると言うべきものに私たちは限界づけられ、支配されている。これは何も悲観的なことを言っているのではなく、ありのままに見た人生の事実を言っているのである。神は、私たちに「 限界 」というものを置かれる方である。神は、ヨセフに耐え難い不運を与え、つまり限界を、避けてはならないものとして与え、まさにそこで共におられるご自身であることを示されたのである。神は限界を置く神であり、そしてその限界において、出会ってくださる神なのである。もし、そういう限界がないならば、人は傲慢になり、神を見失い、神と出会うということもできないであろう。

ヨセフに与えられた限界を聖書はこう記す。婚約者のマリアが自分の知らないところで身ごもってしまった。ヨセフはマリアと離縁する決心をする。当時のユダヤでは婚約は結婚とほぼ同じであり、こういうケースでは神の律法に照らせば、マリアは姦淫罪で石打の死刑に処せられる。ヨセフは律法に忠実であろうとする正しい人であったが、マリアへの愛もあって悩んだ。そればかりか、マリアは聖霊によって身ごもったと言っている。もしそれが本当なら、マリアを罪に定めることはできない。だが、それを説明したところで周りの人たちは納得するだろうか・・・自分だって、自分みたいな者の家庭に救い主となる子が生まれるとは、にわかに信じがたいのだ。結局、これを「 表ざたにする 」、つまり裁判の場に持ち出すことなく、ひそかに離縁しようとヨセフは決心した。ところがヨセフは決心通りに離縁したかと言うと、すぐに決心を実行に移すのではなく、なおもそのことを考え続けるのである。20節の「 このように考えていると 」は、決心を実行に移せずに、再び思い巡らすヨセフの姿を現している言葉である。このヨセフの姿は、人間の手では片付けられないこと、いや、片付けてはいけないものに直面していることを思って、恐れおののきつつ、思い巡らしている人の姿なのである。人間には、これは神の領域に属する問題であって、自分の知恵で簡単に片付けてしまってはならないもの、神によって解決されることを求めなければならない、そういう神に委ねるべき問題があるのである。ヨセフはそういう問題を前にして、恐れおののき、思い巡らしている。そしてそういうヨセフに、神は夢を通してその片付け方をお示しになる。マリアを妻として迎え入れる、それが神の示された解決法。ヨセフはそれを受け入れ、離縁という最初の決心とは正反対の決心をするのである。二つの決心の間でヨセフの心は悩み、痛んだ。しかしこのヨセフの戦いなくして、クリスマスはなかった。その悩みの中で聖書全体の中心とも言うべき証言、「 インマヌエル、神は我々と共におられる 」という奥義が語られるのである。ヨセフは人生の不可解な問題を前にして、神の御心を切に知り、求め、それによって生きて行こうとする、迷い、疑い、問い続けることをやめない人であった。クリスマスはすべての人に与えられた。だが誰にでも分かるというものではない。人生の不条理に困惑し、迷い、求め、問い続ける人、問題を持て余し、てこずり、悩んでいる人、自分の手では片付かないものを無理に片付けず、その前に座って、思い巡らし続ける人のものなのである。ところで、神の示された道がなぜ、問題の解決となり得るのか。むしろ、問題を抱え込む苦難へと足を踏み入れることになるのではないか・・・。だが聖書は言う。マリアを受け入れるとき、受け入れたそのマリアが罪からの救い主を生み出す。つまり、問題を受け入れることが救いになると。なぜ、問題を受け入れると救いになるのか。過酷な運命が幸せな運命に変わるとでも言うのか、そんなことはない。「 インマヌエル、神が我々と共におられる 」ということが起こるからなのである。人にはたくさんの苦しみがある。たが信仰を持ったら、その苦しみ「 が 」なくなると神は約束されない。そうではなく、苦しみ「 で 」なくなるのだと言う。たったの一文字違いだが、この違いは大きい。つらい状況であることには変わりはない。だがインマヌエルによって、それが苦しみ「 で 」なくなる。神は人間の万策尽きた限界状況で私たちと共にいてくださる方なのだから。(2013年12月22日)

2013年12月23日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月23日~12月29日

12月23日(月) 詩 編 36編1節~13節
  この詩編は、前半が悪しき者の生活について黙想し、後半は神への賛美となっています。「 神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる 」(2節)。私の心の奥に聞こえる声はいかなるものか、問われる思いがします。詩人は、「 神に逆らう者に罪が語りかけるのが聞こえる 」と言い、滅びを招く自己の内面の課題を見据え、心の奥に届くものが圧倒的に賛美であるようにしたいと願っています。「 あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている 」(6節)という賛美であるように。神の慈しみは天に満ちている・・・。あなたには時に、神の慈しみが分からなくなる時がありますかそれは神の慈しみが圧倒的に大きいために、受け止めかねてしまうだけであって、神の配慮はとても深いと信じてよいのです。

12月24日(火) 詩 編 37編1節~40節
  アルファベット詩編のひとつです。ヘブライ語のアルファベットが各節の文頭にきれいに並んでいます。技巧的であることを求めたせいか、思想的な展開は見られませんが、「 悪事を謀る者のことでいら立つな 」(1節)と「 あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ 」(5節)、「 主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる 」(23節)は思想的なつながりをもって読めそうですね。他者のことでいら立つとき、自分で決着をつけてしまいたくなるでしょう。そうではなく、すべてを御手のうちに治めておられる主に委ねる。主は必ず御旨にかなう道を備えてくださいます。そうです、試練を逃れる道さえもね(Ⅰコリント10章13節)。

12月25日(水) 詩 編 38編1節~23節
  この詩編は悔い改めの7つの詩編と呼ばれるもののひとつで、その名の通り、罪を悔い改めている詩編です。詩人は自分の罪を神に示されて、うめいています。神に罪を指摘された魂は不安で揺れ動くものです。それを自分の手で始末してしまおうか、それとも神にすべてをさらけ出して告白し、神に始末をつけてもらおうかと、振り子のように二つの間で揺れ動きます。隠しておいて、そのまま葬り去ってしまうことは楽ですが、罪の解決にはなりません。主を裏切ったユダのように自分で始末をつけようとするのと、ペトロのように主に委ねるとでは、全く違う結果を生みます。「 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします 」(Ⅱコリ7章10節)。

12月19日(木) 詩 編 39編1節~14節
  詩人は悪しき者を前にして、自分の道を清く保とう、言葉による罪を犯すまいと決断しました。しかし人間としてのむなしさ、はかなさとしても、神からの懲らしめを受ける身としても、悪しき者と自分とにほとんど差がないと思うに至ります。そして主を唯一の望みとする信仰によりどころを求めます。主の御もとに身を寄せるもの、先祖と同じ宿り人と・・・。よりどころのないことほど、人を追い詰めることはありません。しかし私たちには決してなくならないよりどころがあります。

12月20日(金) 詩 編 40編1節~18節
  この詩編は、感謝の歌と嘆きの部分と、きれいに2つに分かれています。そのために、もともと別々の詩編がひとつに合わされたものと考える人もいます。「 わたしは自分の罪に捕えられ、何も見えなくなりました 」(13節)。罪にとらわれている心というのは、見えているようでいて、実は冷静さを失っており、何も見えてはいないのです。特に、神の真実の御手を見ることができなくなっています。怒り、憎しみ、不平、不満にとらわれているとき、今、自分は真実が見えてはいないのだと、自重することはとても大切なことです。そして「 主よ、走り寄ってわたしを救ってください 」(14節)と祈ることも・・・。走りよってくださる神、放蕩息子の父親の姿を思い起こさせる言葉です。

12月21日(土) 詩 編 41編1節~14節

詩人は重い病に苦しみ、神に祈りを求めて祈っています。詩人の周りには悪意に満ちた敵の姿もあるようです。もう二度と起き上がれないかも知れないという重病のとこに伏して、詩人は「 逆転した人生 」という悲哀を体験しました。詩人に臨んだ人生の逆転は深刻なものでした。しかしその悲哀の体験中で、「 主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください 」(5節)という祈りを捧げていますね。人生が逆転してしまった原因を自分の罪にあったと詩人は受け止めたようです。主の憐れみにすがらなくては生きられないという尊い自覚が深まっています。人生で経験する逆転のような悲哀は、時として、私たちが気づいていなかった、あるいは頭では分かっていても、骨身にしみて理解してはいなかった大切なことに気づかせ、分からせてくれます。マイナスの中にプラスが隠れていますよ。

12月22日(日) 詩 編 42編1節~12節
 詩編42編は、神への飢え渇きを歌います。鹿が谷川の水を慕い求めています。鹿にとって水は命の源。私たちにとって、神は命の源、神から離れた者は花瓶にさした一輪の花のよう。野に生えた草花とは違い、すぐに枯れてしまいます。詩人は今、自分が置かれている現状に神の御手を見出すことができず、苦しみ、飢え渇いています。そんな中、詩人は良き過去を振り返り、主を思い起こす(5節)ことによって、厳しい現実の中にも神の御手があることを確認して行くのです。「 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13章8節)。だから確かな「 恵みの過去 」があるならば、今も恵みの中にあるのです。

先週の説教要旨 「 私たちの姿勢 」 使徒言行録6章1節~7節 
 誰の人生においても、危機的な状況は訪れる。突然、家族の一人が病気になり、介護の必要が生じる。仕事を失って経済的な問題を抱える。自分の健康を失ったり、人間関係のトラブルが起きてしまう。そういう危機状況に直面したとき、私たちはどのような対応をすることで、危機を乗り越えていこうとするだろうか。使徒言行録6章には教会が深刻な危機状況に直面し、それを乗り越えて行く姿が証しされている。弟子たちの危機状況への対応、それは「 神の言葉をないがしろにしない 」ということであった。「 ないがしろにしない 」と訳された言葉は、後に残しておかない、後回しにしないという意味の言葉である。神の言葉を後回しにしない、それが弟子たちの対応だった。私たちは危機に直面したとき、必死になってその解決を図ろうと考え、行動する。そのとき、あなたの中で神の言葉はどのような位置にあるだろうか。解決のための中心に置かれているだろうか。それとも、神の言葉は後回しにされてしまうだろうか。先日の祈祷会に久し振りに出席された方がいた。自分の抱えている課題を信仰の仲間のところに持ってきて、御言葉と祈りによって解決を見出そうとされたのであった。

 弟子たちに訪れた危機は、こういうものであった。「 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである 」(1節)。弟子の数が増えてきたら、教会の交わりがうまくいかなくなった。ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間に問題が生じたのである。最初の教会は、持ち物を互いに持ち寄り、必要な人たちにそれを分かち与えていた。ところがその日々の配給で、多数派のヘブライ語を話すユダヤ人が自分たちの仲間を優遇してしまうようなことが起きた。ギリシア語を話すユダヤ人、しかも最も社会的に不遇であったやもめ、一番弱いところに置かれ、一番文句を言いにくい人たちが不遇な思いをさせられたというのである。生まれたばかりの教会が、初めて経験する分裂の危機である。下手に対応すると、話がこじれ、教会が分裂してしまう。その危機に際して、使徒たちが取った対応は「 神の言葉を後回しにしない 」という対応であった。もちろん、神の言葉を重んじるというのは、他のことはいい加減に扱ってもいいということでない。使徒たちは日々の配給に関しても、きちんとした手当てをする。「 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう 」(3節)。食事の世話というのは、教会にとって大切な愛の業。しかも争いごとを裁くのだから、いい加減にはできない。そこで使徒たちは、霊と知恵に満ちた評判のよい人7人を選び、その人たちに食事のお世話をお願いしようと提案した。5節に選ばれた7人の名前が記されている。ステファノ、フィリポ・・・7人は皆、ギリシア的な名前であることから少数派の中から7人を選んだのだろう。使徒言行録を読み進めて行くと、このステフアノ、フィリポは実に大きな働きをしていることが分かる。ステファノは教会で最初の殉教者になる。つまり、使徒たちに変わってこのことに対処するよう選ばれた人たちは、使徒たちにひけをとらない信仰者だったのだ。使徒たちは決していい加減に事を扱ったのではなかった。重大な問題だと認識していた。しかしそれ以上に、神の言葉が重んじられなくてはならないという姿勢を固持したのである。使徒たちは選ばれた7人に手を置いて祈った。按手と呼ばれる行為だ。ここにも、使徒たちが神の言葉を重んじて姿勢がよく現れている。候補者選びの条件提示、仕事の分散の動機、按手のことなど、これらはみな旧約聖書出エジプト記に記されていることであり、神の言葉から導き出されているものである。神の言葉を後回しにしない信仰が使徒たちわして旧約聖書に問いかけさせたのである。

ここに祈りと御言葉に仕える働きと並んで、食卓に仕えることをもっぱらにする務めが立てられた。執事と言われる務めの始まりである。教会は、まず使徒たちに神の言葉と祈りを徹底して重んじることを優先させ、それから必要とされる奉仕を担う他の者を立てることによって、教会の体制を整えて行った。そうやって危機を乗り越えた。その結果、「 こうして神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢、この信仰に入った 」(7節)。神の言葉を何よりも重んじるという対応が、さらに神の言葉が広がるという結果につながったのだ。これは教会が忘れてはならない姿勢であるし、私たちひとりひとりの生活においても、重んじられるべき姿勢である。私たちは様々な危機に直面する。そのとき、まず、神の言葉と祈りを重んじることの中で、解決を求めていくならば、あなたの生活の領域、隅々にまで神の言葉の力はますます広がって行くであろう。しかしもし、私たちが神の言葉を後回しにした解決を模索するのであれば、それはいなくなった羊のように、神のもとから迷い出た状況になってしまうのである。そのとき、イエス様は99匹の羊を野原に「 残して 」でも、あなたのことを必死に捜し求められるであろう。「 ないがしろにする 」と訳された言葉は、野原に「 残して 」という言葉と、原文ギリシア語では同じ言葉なのだから。(2013年12月15日)

2013年12月16日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月16日~12月22日

12月16日(月) 詩 編 29編1節~11節
  主の御声は荒れ野をもだえさせ、主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。主の御声は雌鹿をもだえさせ、月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える。『 栄光あれ 』と 」(8節、9節)。この詩編は、地中海に発生した雷雨がパレスチナ上空に来襲して、レバノン杉の木を折り砕き、カデシュの荒れ野をもだえさせるありさまを歌い、私たちの「 主の御声 」をその雷鳴のすさまじさにたとえている詩編です。そのような力を秘めた「 主の声 」すなわち主の言葉は、最終的にはクリスマスの日、人となってこの世に来られたイエス・キリストだったのでした。「 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた 」(ヨハネ1章14節)。幼子イエスはインマヌエル、神は我らと共におられることのしるしとしてお生まれになりました。あの雷鳴のような大いなる力が、現実に私たちと共にあるのです。

12月17日(火) 詩 編 30編1節~13節
  なきながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる 」(6節)。暗い悲しみの夜がどんなに長くても、必ず朝は来ます。夜、主のもとから遣わされた「 喜び 」が丘を飛び越え、野を走り、あなたの家の扉を叩いて、朗らかな声を響かせてくれます。主イエス様がよみがえられた復活の朝を体験するまで、弟子たちは恐れと不安に追い詰められて、眠れぬ夜を過ごしました。しかし、よみがえりの主が自分たちを赦し、自分たちと共に歩んでくださることが分かったときから、彼らは朝が来るのが待ち遠しくなりました。死に打ち勝つ方が私たちと共におられると知ったときから、彼らの見ている世界、人生が大きく様変わりしたのです。その日一日どんなことが起きるのか、彼らは恐れではなく、むしろワクワクした期待の中で生き始めたのです。私たち信仰者が迎える朝は、そういう朝なのです。

12月18日(水) 詩 編 31編1節~25節
   慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいました 」(8節)。いつくしみふかき友なるイエスは、世の友われらを棄て去るときも、祈りに答えて慰めたまわん、と賛美歌にあります。順調な時の友は、私たちが一端、逆境になると姿も見せなくなりますが、イエス様は違います。モーセは苦悩の尽きなかった荒野の旅を回顧して言いました。「 あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった 」(申命記2章7節)。そのような方が私を知っていてくださり、共にいてくださる。それでもまだ何か不足がありますか・・・・・。

12月19日(木) 詩 編 32編1節~11節
  いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は 」(2節)。主の赦しを知らない人は罪咎を隠し、絶えず自分に言い訳をしたり、弁解をしながら生きて行なくてはなりません。それで疲れ果ててしまいます。「 欺きのない人 」とは、神の赦しの光のもとに引き出され、もはや逃げも隠れもしない人のことです。そしてその時、人間は真実に楽になるのです。

12月20日(金) 詩 編 33編1節~22節
   御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。主は大海の水をせき止め、深淵の水を倉に納められた 」(6節、7節)。大海の水は、命を飲み込む勢力を意味します。深遠は、陰府の世界の開かれた口と考えられていました。押し迫る大海の水に、私たちは自分の命の木の葉のような軽さを思わないではいられません。しかし、そうした圧倒的な暗黒の力に厳しく限界が設けられていると聖書は言います。「 そこまで、それ以上は赦さない 」と。神の言葉から外れて、自由に暴れ狂うことなど、この世界に一つもないのだと言うことを、いつも心に留めていたいと思います。

12月21日(土) 詩 編 34編1節~23節
  主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない 」(6節)。主を仰ぎ見るのは助けを求めるためです。彼が何をしたいというわけではありません。何もできないから、神を仰ぎ見続けてきた。ただそれだけです。不思議なことです。しかし人はそのようにして輝くのです。強い人間が輝くのではなく、弱り果てて主を仰ぎ見る弱い人間が光り輝くのです。もうひとつ、「 味わい、見よ、主の恵み深さを 」(9節)。主の恵みは味わい深いもの。簡単に人の知恵で推し量ることはできません。辛い、悲しいと思われる事柄の中にも、必ず恵みは隠されています。それはやがて思いがけない形で現れ、私たちの人生を根底から変えるものになります。

12月22日(日) 詩 編 35編1節~28節
  主よ、わたしと争う者と争い、わたしと戦う者と戦ってください 」(1節)。世の中には、昔から今に至るまで大小、様々な戦いがあります。国と国との戦いで大きな犠牲を払った日本の国民は、もう戦争はこりごりだと思っています。しかしもっともっと身近なところで、争いは続き、戦いが絶えることはありません。家庭の中にさえ、骨肉の争いというものが起きます。職場や学校にも、争ってしまう相手がいます。この詩人は、そんな人生で経験する戦いを勝利させてくださいと、ストレートに神に祈ります。もし、私たちがその問題を本気で神の御前に持ち出す(祈り始める)とき、実は本当の敵が何であるか、見えて来るのです。それは相手ではなく、自分の中にある罪の思い、それが敵であったのだと気づくのです。

先週の説教要旨 「 辱められることを喜び 」 使徒言行録5章12節~42節 
 2013年も残すところ、あとわずか。今年、皆さんはどのような喜びを味わったことだろうか・・・。今朝の使徒言行録5章12節以下は、「 あなたの喜びは何か 」、そう私たちに問いかけている。「 使徒たちは、イエスの名のために辱しめを受けるほどの者にされたことを喜び 」(41節)とある。イエス様は山上の説教と呼ばれる箇所で、私たちの喜び/幸いがどこにあるかを集中的に語られた。それは今まで知らなかった新しい喜びの世界へと、私たちが開かれて行くようなことであった。今朝の箇所も、私たちを新しい喜びの世界へと招き入れようとしている。
  イエス様のことを伝えて行くに連れて、人々の間に賞賛の声が上がり始め、その中から信仰に入る者たちも与えられた。それを快く思わない大祭司やサドカイ派は、使徒たちを捕らえた。しかし牢屋に入れられた使徒たちは天使によって奇跡的に救出される。そのあと再び捕らえられるが、またもやガマリエルの発言によって、使徒たちは鞭で打たれた上で釈放され。そのとき、使徒たちはイエスの名のために辱しめを受けるほどの者にされたことを喜んだ。
 使徒言行録は、教会が生まれてきたとき、この世の人々に好意をもって迎えられたと書く。私たちの教会もコンサートをすれば、たくさんの人々が来てくださり、感謝の言葉を言ってくださる。好意を持たれていると感じる。しかしそれは教会の一面であり、教会が十字架とよみがえりのキリストを伝えて行くと、多くの人々は関心を持ってくれないばかりか、時として非難され、迫害されることさえ、起きる。それもまた教会の確かな一面なのである。イエスの名のゆえに、教会はそういう面を持つ生き方をしないわけにはいかないのである。
 それと深く結びついているもうひとつの生き方は「 人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません 」(29節)という生き方である。大祭司たちには「 あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに・・・」(28節)と、使徒たちに詰め寄った。しかし使徒たちはそう答えたのである。イエス様は「 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい 」(マタイ16章24節)と言われた。もし、私たちが人間にではなく、神に従おうとするならば、そこには必然的に負うべき十字架が現れる。使徒たちにとって、その十字架は迫害を意味した。そのことは、はまことに私たちに厳しい思いを抱かせる。
しかし私たちは、そのような事実をただ悲壮感のみをもって受け止める必要はない。ここには非常に厳しい現実が記されているはずなのだが、悲壮感のかけらも見ることができない。なぜなら、その厳しい現実の中に神の命があふれているからであろう。
 この箇所には、「 ところが 」という言葉が19節と34節に使われている。使徒たちの十字架を負い行く歩みの中で、神は「 ところが 」という形で働かれたのだ。そのような使徒たちの姿は、使徒パウロの次の言葉を思い起こさせる。「 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために 」(Ⅱコリント4章8節~10節)。イエス様の死を身にまとうとき、すなわち与えられた十字架を担い行くとき、そこにイエス様の命が現れる。その苦難の歩みの中に、どんなにキリストが私たちを深く愛し、私たちを神の命に生かしてくださっているかが現れ出てくるというのである。それは、私たちにとって苦しみの中でこそ、知る喜びなのである。私たちがキリストに従い行くとき、そこには様々な困難が巻き起こり、そのためにそれまでの順調であった自分の人生に大きな穴が開いてしまうようなことになるかも知れない。しかし、人生において本当に大切なことは、人生に空いてしまったその大きな穴を通して、初めて見えるようになるのだ。穴が開いていないときは見えない(気がつかない)。開いてしまったからこそ見える。ある女性が突然、婦人科系の手術を受けることになり、手術のあと、もしかしたらもう子どもを産めないかも知れないと宣告され、ひどくショックを受けた。付き合っていた彼が無類の子ども好きだったのである。彼女の人生に大きな穴が開いてしまった・・・。しかしいずれは分かることだからと、婚約破棄もやむなしと覚悟して正直に話すと、彼は「 子どもを産めるあなたと結婚するのではない 」と言って、そのままの自分を受けて入れくれたと言う。そのとき彼女は、彼がどんなに自分のことを愛してくれているかを知った。もし、穴が開かなかったら、彼の本当の気持に気がつかないままに結婚生活を送ってしまったかも知れないと・・・。使徒たちにとって迫害は、大きな穴が開くことだった。しかしその穴を通してイエス様の愛がはっきり見えた。だから使徒たちは辱められることを喜んだのである。キリストに従っている私たちも人生に開く穴を恐れなくていい。むしろ、その穴から本当に大切なものが見えてくるから。  (2013年12月8日)

2013年12月8日日曜日



成瀬教会 <聖書日課>  12月9日~12月15日
12月9日(月) 詩 編 22編1節~32節
  わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか 」(2節)。詩編22編はイエス様が十字架の上で口にされたことで有名です。あなたも2節の言葉を口にしたくなるようなときがあるかも知れませんね。神を遠く、遠くに感じるような時が・・・。そのとき、この詩編の言葉を自分の言葉として口にしてみてください。私の神よ、なぜですか・・・と。同じ言葉を口にされたイエス様をそのままに捨て置かれず、復活させられた父なる神が、あなたに近く見えてくるでしょう。
12月10日(火) 詩 編 23編1節~6節
   羊飼いは、狼などの外敵から羊を守るために鞭と杖を持っていました。それらは外的に向けて振り下ろされるものでしたが、時として羊自身に対しても振り下ろされることがあったそうです。羊に危険が近付いていたり、迷子になる危険があるときには、羊飼いは羊の背を鞭で打ったそうです。「 愛の鞭 」という言葉があるように、それは決して羊を痛めつけるための行為ではありませんでした。私たちの信仰生活においても、時として痛みを伴うようなことが与えられますが、必ず、その痛さの意味を知るときがやってきます。羊のように迷いやすい私たちの信仰の歩みには、羊飼いの鞭と杖が必要なのですね。
12月11日(水) 詩 編 24編1節~10節
   24編は、栄光の王なる神が聖所に入られることを歌っている詩編です。栄光の王は、「 主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた 」(2節)と言われています。私たちが生きる舞台である「 」、「 世界 」は、大海の上に置かれ、潮の流れの上に築かれているのですから、「 たえず揺さぶられる 」ことは覚悟していなければなりません。ガリラヤ湖を舟で渡る弟子たちのように・・・。しかしその揺らぐ「 」、「 世界 」を神は根底から支えていてくださる方です。私たちの「 」を一番深いところで支えているのは、「 揺らぐ地 」ではなく、地を据えられた神、揺らぐものの上に、あえてあなたの「 」を据えられた神の意志なのです。
12月12日(木) 詩 編 25編1節~22節
   この詩編は、日本語の「 いろは歌 」のように、各節の文頭にきれいにヘブライ語のアルファベットの文字が並びます。技巧的な詩であるため、繰り返しが多く、個人の嘆き、神への信頼と賛美など、いろいろな調子が混ざっている歌です。15節の「 わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に 」という告白には、人生のさまざまな問題に足をからませ、それを振り払おうともがく詩人の姿を見、そこに私たち自身の姿をも重ねて見る思いがしますね。私たちは自分でからみつく網を振り払おうとしますが、実はそのような力は私たちにはありません。私たちを網から解放する方は神なのです。だからひとりでもがくよりも、目を上げて神に目を注ぐことが大切なのです。
12月13日(金) 詩 編 26編1節~12節
  わたしは完全な道を歩いてきました 」(1節)のような祈りに出会うと、わたしたちはひるんでしまいますね。しかし、詩人はこうも言っています。「 わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください 」(11節)。詩人は自分の弱さを知らない人ではなく、むしろ主の慈しみ(3節)なくしては、歩めない者であることを自覚していました。そして主という方は、完全な道を歩ませてくださいと願うならば、そのように歩める力と導きをも与えてくださる慈しみ深い方であることを知っていたのです。私にはそんな道は歩めないと、はなからあきらめて願わないこともまた、主の御心にかなうものではないのです。
12月14日(土) 詩 編 27編1節~14節
   ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを 」(4節)。ひとつの願望、ひとつの目的が、この詩人の人生を造っています。片時もその思いを忘れないのです。詩人の願いは、命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得ること。あなたの行くところ、どこであってもそこが聖所のように、主と共にあり、主を喜び仰ぐ場所となることを・・・・。あなたが商人ならば売買をしながら、主婦であるならば家事をしながら、会社勤めをしているならば勤めを果しながら、教師であるならば教えながら・・・・そこが主を仰ぎ望んで喜ぶ場となるように。あなたはあまりにも多くのことを願いすぎて、ただひとつの真実な願いを忘れていませんか。
12月15日(日) 詩 編 28編1節~9節
 28編は、何かの危険の中で助けを求めて叫んでいる詩編です。「 主よ、あなたを呼び求めます・・・わたしに対して沈黙しないでください 」(1節)との嘆きは、自分の潔白を訴え、神に逆らう者と同じ運命にあわせないでくださいとの訴え(3節~5節)を経て、「 主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました 」(6節)と、嘆きが聞かれたとの告白となります。ここに祈りの真価を見る思いがします。嘆かざるを得ない不安が、祈ることを通して安堵と確信に変えられる。詩人を取り巻く状況は変わらなかったかも知れませんが、詩人の心は確かに変化しています。祈りは状況ではなく、まず祈る者自身の心を変える。祈りの真価です。


先週の説教要旨 「 献げる教会 」 使徒言行録4章32節~5章11節
 今朝の聖書箇所にはアナニアとサフィラという夫婦が登場するが、この2人がしたことは歩み始めたばかりのキリスト教会にとって痛恨の極みだった。彼らは聖霊の導きによって造られ始めていた教会の交わりを、神を欺いたと批判されるような行為によって壊してしまったのだ。「 最初が肝心 」という言葉があるが、その言葉に照らしてみるならば、教会はとてもいいスタートを切ることができていた。「 信じた人々の群れは心も思いも一つにし」(32節)とあるように、教会の特色は何かと言えば、それは「 皆が心と思いを一つにしている 」ということだった。その「 心も思いも一つ 」ということは、持ち物の所有ということにおいても現れて来た。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。世の中では、お金というのは持っている人のところに集まり、持っていない人のところからは直ぐに離れていく、それがお金の流れであると言われる。だが、そこに神が立たれるとき、お金の流れは逆流する。持っているものから持たないものへと流れ始めるのである。それは4節にあるように、決して強制的ではない。自発的である。教会の人たちは「 自分たちは神様の祝福の中を生き始めたのだ。自分たちは申命記15章4節で言われている祝福を受け継いでいる群れなのだ 」という強い確信を持っていたから、その祝福されている姿を証して行こうと考えたときに、彼らは自分たちの中に貧しい者がいなくなるようにしようと、互いに働きかけたのだ。たとえば、バルナバと呼ばれる人は、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。しかしアナニアとサフィラはそういう教会の交わりを、あたかも素晴らしい行為をしているかのように装い壊してしまったのだ。持っている土地を売り、そのお金を捧げたがその代金の一部を手元に残しておきながら、まるですべてを捧げたかのように振舞ったのだ。

 ペトロは2人に言った。「 なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか 」・・・。そして2人は死という報いを受けたのである。ペトロはかつて「 サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている 」と言って、戒められたことがある。そのペトロの罪は赦され、アナニアとサフィラの罪は赦されなかった。悔い改める機会さえも与えられなかった。そのことは私たちを困惑させるかも知れない。あまりにも厳しいと・・・。2人は、このことを計画し、実行に移すまでの間に、繰り返し内なる聖霊の警告、指摘を受けたに違いない。しかしそれをも押しつぶしての反抗だったから・・・ということなのだろうか。なぜ、2人は即「 死 」という報いを受けたのか、正直なところ、よく分からないのである。しかしもし私たちが2人に起こった神の裁きをとやかく論ずることに心を奪われて、神を欺くことへの恐ろしさを忘れてしまうのであれば、それは教会にとって本当に恐ろしいことだ。実際に今日の教会では、神を欺いた途端に息が耐えるようなことが起こっていないように思える。しかし教会にしても信仰者にしても、神を欺いていたら、おかしな言い方だが、無事ではすまないと思う。滅びを招くと思う。「 神を欺いてはいけない。つまり、罪にまみれたままの教会であり続けることはできない 」のである。

 教会の人たちはこの衝撃的な出来事に直面し、「 こういうことでは着いていけない 」と、ひどく動揺して、教会生活につまずいてしまっただろうか。いや、そういうことはなかった。教会の若者たち、青年たちは、怒りやショックを過度に増幅させて、2人の死体を粗野に扱ったりすることなく、丁寧に葬った。つまり、このような混沌とした事態のただ中にあっても、この混沌から善きものが生まれる可能性を信じる者のように行動したのである。混沌を積極的に評価し、その混沌の中から善きものが生まれる可能性が潜んでいることを信じた・・・。果たして、それは本当に現れたのであろうか・・・。現れたのだ。「 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた 」(5節)、「 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた 」(11節)にあるように、人間を罪深い行為から遠ざけさせる「 聖なる恐れ 」が生じたのである。混沌の中から善きものが確かに生まれた。最初が肝心・・・教会の歩みの最初において、このようなことが起こり、教会の人々は襟を正した。この恐れを味わえたのは、教会の人たちにとっては祝福であったと言える。神は、やはり人間を愛し、祝福される方なのだ。聖なる神は、人間の不敬虔を徹底して退けつつも、砕かれた謙遜な心で近づいてくる者をどこまでも祝福される方であることを教会は知らされた。その雰囲気が教会に満ちたのは、大いなる祝福である。

私たちは、動揺したり、落胆したり、憤ったり、悲嘆に暮れたりするようなことに出会う。しかしどんなときにも、そこに善きものが生まれる可能性が潜んでいることを信じることが大切だ。それは神の霊が生み出してくださる可能性。どういう状況においても、なお聖霊の力強い支えがあることを信じて、なすべきことをなしていくならば、神は必ず祝福を現わしてくださる。 2013年12月1日)

2013年12月1日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月2日~12月8日

12月2日(月) 詩 編 15編1節~5節
  主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか 」という問いから始まるこの詩編。2節以降にその答えが続くのですが、そこを読むと、私は聖なる山に住む(礼拝をするという意味です)資格はないと思わずにおれなくなるでしょう。それにも関わらず、私たちが聖なる神に近づいて、神を礼拝することができるのは、イエス・キリストが十字架について私たちの罪を贖ってくださっているからなのです。旧約聖書を読むと、本来、私たちが越えることのできない大きな溝をすでに越えさせていただいていることに気づかされます。中東の人たちは自分の天幕に迎えたひとを徹底的にもてなし、守る習慣があります。

12月3日(火) 詩 編 16編1節~21節
  測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました 」(6節)。エジプトを脱出し、カナンに定住したイスラエルの民は、土地を分けるとき、自分の好む場所を選ぶのではなく、はかり縄を投げ、それが落ちた地を自分に与えられたものとして受け取りました。神が選びに選んで、私に与えてくださったのだという信仰に立ったのです。ハンセン氏病(昔は、らい病と言われていました)の人が、「 らい 」という字は「 やまいだれ 」の中に「 」と書く、私にとってこの病は私がキリストに出会い、キリストを信頼して生きるようになるために、神が選びに選んで与えられた病だったと言いました。神は私に選びに選んだ人生を与えてくださっているのだと信頼できますように・・・・。

12月4日(水) 詩 編 17編1節~11節
   詩編17編は、苦境に立たされたダビデの眠れない夜の祈りだったと言われています。「 主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません 」(1節)。ダビデは何のやましいところもないのに、サウル王に誤解され、憎まれ、嫌われ、いのちを狙われ、追い回されました。あなたにも、良心のとがめもないのに、人から曲解され、責められ、非難されたことがあるかも知れませんね。そんなとき、いたずらに攻撃的になったり、復讐心を持ったり、誰かに言い訳して味方になってもらおうと焦ったりしない方がいいのです。まず神に訴えるのです。なぜなら、最後的に裁かれるのは神だからです。

12月5日(木) 詩 編 18編1節~51節
   18編は、主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたときに歌ったものです。47節の「 主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ 」は、「 主は生きておられる。わたしの・・・」と訳している聖書の方が多いようです。その方が原文に忠実ですし、ダビデの実感がよく伝わってきます。心の底から、「 主は生きておられる 」と叫べる人は幸いです。現代人は、神は死んだ、神などいない、神の働きなど全く感じられないと言います。果たして本当に神は死んだのでしょうか。いいえ、私たちが神に答える感覚、信仰、悔い改め、砕けた心で見上げる信仰の目の方が死んでしまっているのです。砕けた魂の叫びに神は必ず、ご自身を現してくださいます。イザヤ書59章1節、2節を参照。

12月6日(金) 詩 編 19編1節~15節
   詩編19編は、自然を通してお語りになる神への賛歌、聖書を通してお語りになる神への賛歌、人の良心を通してささやかれる神のへの祈りが記されています。最初の部分では、神の創造された自然の代表として太陽の姿が生き生きと描かれています。太陽は、愛と恵みと力と、いのちの象徴、神を映し出す鏡のようです。太陽は、地を温め、闇を払います。どんなに暗い夜も、必ず陽の射す朝が来ます。神のなさりようも同じです。創世記1章で神がすべてのものを造られたとき、すべての日が「 夕べがあり、朝があった 」という言葉で締めくくられていますね。神の御業はそのよう闇から光へと向かわせる性質を帯びています。あなたの人生もそうなのですよ。

12月7日(土) 詩 編 20編1節~10節
   詩編20編は「 苦難の日に主があなたに答え 」(2節)、「 我らは、我らの神、主の御名を唱える 」(8節)とあるように、苦難の日に、主の御名を唱えるあなたであるように、と語りかける詩編なのです。「 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者 」(8節)と言うのは、苦難のときに、自らの力をより頼もうとすることなのでしょう。イエス様の日々の歩みは、寝る時間も惜しまれるほどの忙しさに満ちていました。しかしそんなイエス様の日々の活動を支えているのは、これであったと言わんばかりに、イエス様が静まりの時(祈り)を持ち、父なる神を呼んでいたことが奇跡の出来事や教えの合間に現れてくるような書き方を福音書はしていますね。忙しい活動を支える静まり、イエス様でさえ、そこから力をいただいていたのです。

12月8日(日) 詩 編 21編1節~14節
 詩編21編は、神が王に与えられた祝福と、その祝された王を通して民にもたられさる神の祝福に対する感謝の賛美です。祝福された者の心の躍動が伝わってきますね。神は「 彼を迎えて豊かな祝福を与え 」(4節)られると、あります。神は渡した痴話祝福しようと待ち構えておられる・・・あなたがこの世に生まれ出るとき、親はあなたのためにいろいろな物を備えて、待ち構えておられたことでしよう。そのように神は私たちを祝福しようと迎え、待ち構えられる方です。一度は罪に陥った人間を、再び、御子の十字架もって迎え、祝福しようと待ち構えておられた・・・。

2013年11月24日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月25日~12月1日

11月25日(月) 詩 編 8編1節~10節
  この詩編の詩人は、神の創造の御業の前に圧倒される思い(4節)で、「 そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは 」(5節)と告白しています。この詩編には、神と人間と人間以外の被造物という三者の間にそれぞれ一線が引かれていることを喜びとする信仰が告白されています。人が神との一線を乗り越えて、自分が神のように振舞いだすと、この喜びは失われます。人が動物との一線を越え、獣のように振舞い出すと、多くの人が傷つき、命が奪われ、この喜びが失われます。人間がこの喜びを保ち、真に健やかに生きる道は、それらの一線を越えずに踏みとどまることなのです。5節の心で生きること、それが私たちの求める姿なのです。

11月26日(火) 詩 編 9編1節~21節
  主よ、御名を知るものはあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない 」(11節)。もし、あなたが神に依り頼まないのであれば、それは神を知らないからです。神の神たることを知ったならば、どうして神に依り頼まないことがありましょうか。人が信仰の小ささを嘆くことがありますが、それは神を知ることの少なさに原因があるのです。私たちがその人を本当に知るようになるには、多くの関わりが必要です。神を知るというのであれば、なおさらです。「 あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は・・・」(マタイ7章11節)、主の言葉を思います。

11月27日(水) 詩 編 10編1節~18節
  主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし、みなしごと虐げられている人のために、裁きをしてくださいます 」(17節、18節)。神は心の貧しい人の祈りを聞いてくださいます。ならば、心の貧しくない人の祈りは聞かれないのでしょうか・・・・。いいえ、そうではありません。心の貧しくない人は祈らないのです。だから神がその祈りを聞こうにも聞けないのです。しかし自分の心の貧しさを知っている人間は、祈ります。祈れずにはおれないからです。人間関係でもあなたがある人にずっと声をかけないでいたとすれば、その人からは「 自分はあの人の中ではいないも同然の存在なのだ 」と思われてしまうことでしょう。「 どうしても祈れない 」ということはあると思いますが、それとは違って「 祈らない 」と言うことは、その人にとって神はいないのと同じなのです。

11月28日(木) 詩 編 11編1節~7節
  主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか、『 鳥のように山へ逃れよ 』」(1節)。困難な現実に直面するとき、私たちの心の中にひとつの誘惑が生じます。「 逃げてしまえ・・・」と。困難を前にして逃げ出してしまう・・・。それは、手っ取り早い解決方法に見えるかも知れません。しかし、問題を避けてそこから逃げ出そうとすればするほど、かえってその問題に縛りつけられ、苦しい思いになって行くものです。困難な現実から逃げずに、そこの中に踏み込んでいくとき、思わぬ形で解決の道が与えられます。主を避けどころとする人は、目の前の困難から逃げずに、そこで解決の道を与えられます。

11月29日(金) 詩 編 12編1節~節
  2節の「 主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました 」という告白は、日本に生きるキリスト者が共感する言葉ですね。私たちは、「 信仰のある人は消え去りました 」と言わねばならないような社会に生きていますね。今は確かに、社会倫理が破れてしまった時代です。私たちはそういう時代に、信仰を持つ者としてこの時代に生を受け、生きています。それは、「 主よ、お救いください 」と言う祈りを、この世のすべての人を代表として祈るようにと、神から使命をいただいているということなのではないでしょうか。いちじくの木を呪って枯らしてしまわれたイエス様のお姿は、神の民イスラエルの中に信仰を持つ人を必死に探し求めておられた姿でしたね・・・・。

11月30(土) 詩 編 13編1節~6節
  いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか 」(2節、3節)。こういう「 いつまでなのですか 」という言葉を口にしたくなることがありませんか。待つことはとても辛いことです。しかし、「 待つ辛さ 」を知ったものは、もはや人を待たせることをしなくなります。「 いつまでなのですか 」と口にしたくなるとき、ちょっと立場を変えて考えてみましょう。神はこの私に対して「 いつまでなのですか 」と、待っておられるということを・・・・。そのとき、あなたの心で何かが変わります。

12月1日(日) 詩 編 14編1節~7節
 「 神を知らぬ者は心に言う。『 神などない 』と 」(1節)。私たちはこの言葉を幾度となく、隣人から聞かされたのではないでしょうか。しかし「 信仰がなければ神に喜ばれることはできません 」(ヘブライ11章6節)。魚は水の中であれば自由に生きられます。そのように、神に造られた人間は信仰の中でこそ、自由に生きられるようになります。信仰の外に飛び出してしまうとき、罪の力に束縛され、窒息してしまいうのです。ストウ夫人の『 アンクルトムの小屋 』のトムは奴隷でしたが、主人レグリーとは対照的に自由な生き方をしていましたね。

先週の説教要旨 「 祈る教会 」 使徒言行録4章23節~31節

教会は、十字架につけられたイエス・キリストがあなたの主であると証する聖書の言葉を大胆に語り、伝道することを、その使命とする。しかし伝道という業は、いつの時代であっても簡単なことではない。困難が伴う。教会は、そこで知る困難な問題を、自分たちの知恵だけで解決しようとはせず、神に向かって声をあげることによって克服させていただき、伝道の働きを担い続けて来た。今朝の箇所は、そういう教会の姿を伝えている。

神殿の門のそばで、物乞いをしていた足の不自由な男の人を癒したことがきっかけとなって、ペトロは周りに集まった人たちに向かって伝道を始めた。しかしそのことが神殿の運営責任を負っていた指導者たちの耳に入り、ペトロたちは捕らえられ、「 決してイエスの名よって話したり、教えたりしにいように 」と脅されてしまう。このとき教会は、教会の命とも言うべき伝道の業を禁じられるという危機に直面したのである。釈放された2人は、仲間のところへ行き、祭司長や長老たちの言ったことを残らず話した。残らず話した・・・つまり、問題を皆で共有しようとしたのである。皆が問題を共有することをまず第一のこととしたのである。報告を聞いた教会の人たちはどうしたか。「 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った 」(24節)。まず、祈った・・・。「 声をあげて 」の「 あげる 」は、「 わたしの軛を負い、わたしに学びなさい 」とのイエス様の言葉の「 負う 」と訳されている言葉であり、「 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい 」の「 背負う 」と同じ言葉である。つまり、教会の人たちは今、自分たちが危機的な状況にあるということを知ったとき、皆が、「 この危機に際して、私もまた負うべきことがあるならば、それを負います 」という決心をして、その決心において皆がひとつ思いになって神に向かって祈りの声をあげた、ということなのである。彼らは一体、何と祈ったのか・・・・。24節から30節に祈りが記されている。彼らは、神はすべてのものの造り主であって、すべてのことをその御手のうちに治めておられるお方。世の指導者たちが、私たちの大切な2人の伝道者を裁いて、脅したけれども、その彼らがこの世を支配しているのではない。この世を支配しておられるのは神、この危機的な状況さえも、神の手の中にあるのだという信仰をまず告白している。続いて詩編第2編を引用し、神が立てたメシヤと主に世の諸王が逆らうとのこの詩編の言葉は、イエス・キリストの十字架において成就した。指導者らはそのことに気づかないままに、今も「 イエス・キリストの名によって話すな、教えるな 」と、イエス・キリストの存在を抹殺してしまおうと企てているけれども、すべてのことを支配しておられるのは主である。その主に「 今こそ彼らの脅しに目を留め・・・大胆に御言葉を語ることができるように・・・どうか、御手を伸ばし 」と祈った。困難な状況に直面したとき、私たちはまずそれを神に向けて差し出すことができるのだ。「 主よ、今こそこの問題に目を留めてください 」と。問題を神に向けないで、自分ひとりで抱え込んで「 ああでもない、こうでもない 」とするのは、遠回りとなる。神は、「 苦難の日にわたしを呼べ、わたしはお前を救おう 」(詩編50篇15節)と約束してくださっている方だから、自分だけこんな大変な思いをしていると言いながら、それをひとりで抱え込んでいるならば、「 何とみずくさい。私とあなたのかかわりはそのようなものなのか 」と言われてしまうだろう。神はいつだって、私たちの状況に目を留めてくださいと言われることを期待しておられるし、あなたの問題に手を差し伸べようと待っておられる方なのである。もし人が、神に向かうべきところで、神に向かわずに、自分ひとりで問題を抱え込んでしまうと、どういうことになるのだろうか。「 なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか 」という詩編第2編の言葉が引用されているが、詩編第2編を開いて読んでみると、「 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか 」となっている。もし人が、神に向かうべきところで、神に向かわずに、自分ひとりで問題を抱え込んでしまうのであれば、そこで発せられる声は、むなしく、空に響くだけになってしまう。それは「 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った 」(24節)と、実に対照的である。神に向かって声をあげるとき、それは祈りとなる。だからその声には、ふさわしい手応えが与えられる。彼らは、大胆に御言葉を語らせてくださいと祈った結果、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした(31節)。「 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから 」(詩編121編)。天地を造られた方のもとから来る助け、それは「 祈り 」という道を通して、私たちのところへ来るのである。私たちは空しく声をあげる生き方ではなく、神からの祝福という応えをいただくような声をあげる生活をしよう。「 一同の集まっていた場所が揺れ動き 」(31節)とあるように、教会の人々は困難な状況によって揺り動かされるのではなく、聖霊に揺り動かされた。こんな幸いなことはない。ここに描かれている教会の人たちの姿は、ここにいる私たちの姿でもある。  (2013年11月17日)

2013年11月17日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月18日~11月24日

11月18日(月) 詩 編 1編1節~6節
   今日から詩編を読みます。詩編の言葉は、ユタヤ人たちが祈りの言葉として用いたり、賛美の言葉として用いたりしたのです。そのことは2節の「 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ 」という言葉にも表れていますね。「 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす 」(2節、3節)。主と親しく生きる者には、実を結ぶという約束が与えられています。しかし、ときが巡り来れば・・・とあるように、急いではなりません。寒い冬、暑い夏、それらのときを経て、実りの秋が訪れるように、私たちにも「 待つ 」ということが必要なのです。待ち通したときに、あなたの人生にも、豊かな実が実るのです。

11月19日(火) 詩 編 2編1節~12節
   この詩編は、神様が支配される歴史の壮大なパノラマを描いて見せているものですが、イエス様がすべてのものの王として即位されたことを預言したものとしても理解されています。それにしても「 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるの 」(1節)でしょうか。人間は神様に与えられた知性を用いて、原子力を開発し、臓器すら移植できるようになりました。しかし世界の1/3と言われる飢えた人の額のしわの意味が分からず、核で脅し合うことをやめようとせず、平和運動を展開する人たちが争っているのが実情です。歴史を支配しておられる方を忘れる時、人は騒ぎたち、空しい声をあげざるを得なくなるのです。

11月20日(水) 詩 編 3編1節~9節
  ダビデは息子に王位をつけ狙われる中で、「 主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか 」(1節)と言いました。私たちは自分を悩ませる事があると夜も眠れなくなりますね。ダビデはこの状況で「 身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます 」(6節)と告白します。悩み事の多くは、自分が悩んだところでどうにもならないことが多いものです。むしろ、その悩み事をも支配しておられる主を信頼し、委ねて眠ることです。ダビテはそのことをよく悟っていたのです。

11月21日(木) 詩 編 4編1節~9節
  主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください 」(7節)。このダビテの祈りをあなたはしたことがありますか。暗く沈んだ顔で街中を歩く人たちが増えましたね。あなたもそのような人たちのひとりになっていませんか。「 主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない 」(詩編34編6節)とあるように、輝く主の御顔を拝する者は、自分の顔にも輝きを取り戻します。エマオ途上の二人の弟子たちは暗い顔をしていたけれども、輝く明るい顔に変えられましたね。さあ、私たちも「 主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください 」と祈りましょう。

11月22日(金) 詩 編 5編1節~6節
   主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます 」(5節)とダビデは祈りました。朝ごとに、私たちの声を聞いてくださる神様がおられます。私たち信仰者の一日は、自分ひとりで始めるのではなく、朝ごとに私たちの声を聞いてくださる方と共に始まるのです。自分の思いや決心から一日を始めるのではなく、神様にあなたの声を聞いていただくことから、あなたの一日を始めてみませんか。今までとは全く違った一日を歩めたと、夜、床に就くときに感謝で一日を終えることができますよ。

11月23日(土) 詩 編 6編1節~1Ⅰ節
 「 主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる 」(10節)。この詩編の詩人は、深い嘆きの中にいたようです。「 主よ、いつまでなのでしょう 」(4節)の言葉からは、詩人の心の中で、期待する心と失望する心が綱引きをしている様子が想像されます。3節に、「 主よ、癒してください 」との言葉がありますから、この詩人は病気に苦しんでいたのでしょう。6節からは死の予感さえ感じさせられます。嘆きに遭遇しない人生はありません。大切なことは、その嘆きを祈りとして神様の御前に注ぎ出すことです。嘆きを祈りに!!使徒パウロは伝道の妨げになるような病を担っていました。その「 肉体のとげ 」を取り去ってくださるようにと、神様に祈る中で、私にとって「 病気は恵みだったのだ 」という発見に導かれたのです(Ⅱコリント12章7節以下参照)。嘆きを祈りにしてみませんか。

11月24日(日) 詩 編 7編1節~18節
 第7編は「 訴えられる者の祈り 」と言われています。ダビデは何もやましい心も、謀反の企てもないのに、サウル王から疑われ、いのちをつけ狙われてしまいました。そういうとき、私たちだったら、どうするでしょうか・・・。ダビデは人の「 心とはらわたを調べる方 」(10節)の御前に自分を持って行きました。私はかつて胃カメラを飲んだことがありました。もちろん、楽しい経験ではありませんでしたが、疑いのあるはらわたを調べてもらったわけです。その結果、「 異常は認められませんでした。あなたの胃は牛の胃のように立派です 」との診断をいただき、戸惑いつつ??、安堵した経験があります。誤解されたり、疑われてしまうとき、私たちはまず、魂の医者である方のところに赴きましょう。主がすべてを知っていてくださるところから始めるとき、私たちの心は平安に支えられます。

先週の説教要旨 「 この名のほかに 」 使徒言行録4章1節~22節
   使徒言行録4章には、エルサレムの神殿において足の不自由な男の人を癒したことがきっかけになって、ついにペトロたちが逮捕され、裁かれるに至った経緯が記されており、そのときの弁明がイエス・キリストを証しする伝道になったことが伝えられている。この箇所から伝道ということを学んでみたい。

 ペトロたちを裁いた議会の議員たちは、何の権威によって、だれの名によってあのような奇跡をしたのか、と尋問した(7節)。それに対して、ペトロは「 あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。・・・ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです 」(10節、12節)と答えた。福音を語るときに、しばしば問われるのは、世の中にたくさんの宗教があるのに、なぜ、キリスト教でなければ救われないのか、ということである。自分たちの信じる宗教でなければ救われないなどと言うから宗教の争いが起きるのではないか。もっと他の宗教に対して寛容になるべきだとの非難も聞こえてくる。しかし教会は「 この名のほかに救いはない 」ということを大切に信じてきた。私たちもこのことをよく心得ていたい。しかしこのことは礼儀知らずに、乱暴に他宗教を退け、非難するような傲慢な言葉を口にして良いということではない。いつも謙遜でいなければならないし、他の宗教の人にこのことを説得することはできないのである。この主張は信じてみないと分からないのである。信仰生活を重ねて行く中で、「 私はこのキリストによる以外には決して救われ得ない人間であった 」と、その認識が深まる中で得ることができる確信なのである。だから信じてみないと分からない、納得できないことなのである。だが、この確信がないと伝道の意欲が薄れてしまうのも事実。だから私たちは「 キリストによる以外には私は決して救われ得ない人間であった 」との、イエス様との結びつきを日々、深めて行きたいと願う。

 イエス様の裁判の場では、怖くなってイエス様を見捨てて逃げ出したペトロたちが、ここでは堂々と裁きを受け、イエス様のことを証言している。驚くべき変化である。8節に「 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った 」とあるように、この変化は聖霊による御業なのであり、伝道というのは聖霊に満たされないとできないということなのである。しかし聖霊に満たされさえしたら、誰にだって伝道はできることなのである。そう、弱さを抱えている私たちであっても・・・。聖霊に満たされるとは、ここでは「 主イエス以外に救いはない 」と信じて、主に身を委ねること。ただそれだけのこと、そしてその主に用いられて生きることである。「 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった 」。イエス様と共にいた・・・今もイエス様と共にいる・・・ペトロたちはそれ以外に何もない人なのである。主の御名が私たちのすべてだと言っていい。そういう私たちになっている。その時、伝道の不安も、迷いも、破れもまた主に背負われている。そのすべてをまるごと、主が受け入れ、用いてくださる。だから私たちにも伝道ができるのである。

13節に「 ペトロとヨハネの大胆な態度を見 」とある。人々に向かって大胆に語るペトロ、そうやって伝道する者と共に、ここにはもうひとり、違った形で伝道の働きを担っている者がいる。生まれつき足不自由であった男である。彼については「 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった 」と記されている。この人は何も語っていない。黙って立っているだけ。しかしイエス・キリストの力によって生かされて、今こうして自分はあるのだということを、その存在を通して語っている。伝道する人生というのは、立派な人格者になるということではない。優れた人物、ひとかどの有能な人物になることでもない。むしろ、主イエス以外には何もない人、主イエスの救い以外には、究極的には何もない「 ただの人 」になることではないか・・・。そしてそれは「 不思議な人間 」になることなのである。人々はペトロたちを見て驚いた。不思議に思ったのである。どうしてあのような無学のただの人があんなにも大胆に、雄弁に・・・・。それは説明のつかないことであった。キリスト者というのは、説明がつかない人生を生きるのである。その人生は「 ただ、イエス・キリストと一緒にいた 」ということからだけ、説明がつくのである。主イエス様が共にいるということを抜きにしたら、説明のつかない人生を送るのである。それ以外の尺度をあてがうと理解できないのである。ずいぶん無駄に見えるということもあるだろう。変わり者に見えるということも、愚か者に見えるということもあるだろう。世の知恵からすれば、なんともったいない、なんであそこまで・・・と不思議に思われることが多々あろう。私たちキリスト者は、主イエス様が共におられるということからしか、理解できない人生を生きる。しかしそうやって生きる人生は素晴らしい人生であり、人々を驚かせ、惹きつける何かを持つ人生なのである。2013年11月10日)