2012年12月9日日曜日

2012年12月9日 説教要旨


先週の説教要旨 「 主は再び来られる 」 ルカ17章20節~37節

 世間でもクリスマスのお祝いがなされている。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日だという理解は持ちながら祝っているようだ。それはありがたいことである。しかし、教会のクリスマスの祝いと世間のそれとには決定的な違いがある。教会のクリスマスの祝いには、御子がお生まれになったことを喜ぶだけでなく、その御子が再びこの地上に来られることを待とうという希望が込められている。今朝の箇所は、御子の再臨についての言葉が語られている。その発端となったのはファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」との問い。彼らはまだ神の国は来ていないと思っていた。神の国というのは「神の支配」のこと。ファリサイ人たちは、もし神の支配がここに来たならば、ローマ帝国の植民地と化しているユダヤの国は今すぐ解放される。そしてダビデ時代のような繁栄した国へと復興されると考えていた。そのような解放をもたらす者こそ、救い主メシアなのだと考えていた。救い主であるイエス様は、もう彼らの間に来ておられるのだが、神の国の到来=ローマからの解放と考えていた彼らにはイエス様がなさっている働きを見ても、神の国が来たとは思えなかったのである。

神の国の到来に関して、旧約聖書が予言していることは足の不自由な人、目の不自由な人、耳の不自由な人が癒されるということが起きると言う。弱き者が立てるようになるのだ。あるいは、狼と子羊が共に住み、若牛と若獅子が草を食べ、乳飲み子がまむしの穴に手を入れるというように、弱肉強食の姿はなくなり、「愛の原理」が世を支配するようになる。神の国が来るとそういうしるしが現れるというのだ。愛に対立する原理は、罪の原理である。人間にエゴイスティックという罪がある限り、愛の原理が働く世の中になることはない。だからこそ、救い主は、人間の罪を取り除くための闘いをされているのだ。そのための究極の業として、主は十字架におかかりになる(25節)。救い主は、この世界が神の支配を中心とした愛の原理のみが働く世界とするための御業に集中される。それが救いなのであって、武力によるローマからの解放が救いなのではない。ファリサイ人たちにはそれが分からない。

 イエス様が来られたことによって、その救いの御業が始まった。神の国が始まったのである。だが、完成はしていない。その完成は、再び、イエス様が来られるとき、そう、再臨のときに完成するのである。その時までは、始まったけれども、途上にあるのである。それゆえに、弟子たちには戦いがある。神の国の完成へと向けて、少しでも愛の原理が働く世界となっていくための闘いがあるのである。忍耐が求められる。終わりまで耐え忍ぶことが求められる。そのことをおもんばかって、イエス様は弟子たちにも語られる(22節以降)。ここで言われていることの要点は、イエス様が再び来られるのは、突然のことであって、しかしそれは必ず、起こることだ。それを「確信」をもって待てばよいということ。イエス様は思いがけないときに来られる。稲妻がビカッと光るのが私たちにとって突然の出来事であるのと同様、イエス様も突然やって来られる。思いがけない時に来られるのだ。だから、イエス様が来られることにおのが目標を定めて、生きていなければならない。ノアの時代の人たちは、洪水が起こるなんて信じていなかった。ロトのときもそう。滅びが襲うなんて信じていなかった。それと同じように、人の子(救い主を指す表現)の再臨が起こるなんて全く信じられない、というようなことではいけないとイエス様は言われる。「人々は食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり」と、日常生活をしている。しかしその日常性はいつまでも続くものではないのだ。どこかで断ち切られる。主による終わりがある。その終わりを計算に入れて今を生きているかどうか、それが問題なのだと主は言われる。

 主の再臨が起きるとき、一人は連れて行かれ、一人は残ると言う(35節)。救われる者と滅びる者との一線が現れるのだ。それまで全く隠れて見えていなかった一線が突然現れる。これまでひとつの絆で結ばれていて、何もかも一緒に体験していると思い込んでいた者たちの間に、断絶が生まれる。日常生活では隠れていた一線が浮かび上がる。永遠との関わりはそのように厳しく人を分けるのだ。「死体のある所には、はげたかが集まる」という言葉の意味は、主の再臨は、救いと滅びを地にもたらすということなのである。

 私たちは再臨ということをどれほど期待しているだろうか。切望しているだろうか。再臨の時は、罪からの完全な解放であり、愛の原理が完全に私たちの生の原理となる時。そのことを切望する姿勢は、私たちが愛に真剣に生きようとすることなしには起きない。愛の原理に生き得ない社会の罪、そしてその社会を形作っている一員である自分自身の罪、それと向き合わされ、何としてもそれから解放されたいと切望させられるのでなければ、再臨信仰が私たちの生活の根幹となることはない。愛に生きることと再臨を待つこととは深く結びついている。主の再臨を切望し、自らの愛の貧しさに耐え続けているとき、その自分を背後から支えてくださっている方がおられることに出会う。だから前を見ることができる。先になお苦しみがあるとしても、背後にある主の苦しみが私たちを支えている。