2012年11月4日日曜日

2012年11月4日 説教要旨


「 首尾一貫して 」 ルカ16章1節~13節

 なぜ、こんな話が聖書の中に書かれているのだろうか。読んだ第一印象で、そう思った方は多いと思う。イエス様がまるで不正を勧めておられるかのような、戸惑いを覚えるたとえ話である。たとえ話は通常、たとえの本体部分と、たとえの意味することを伝える解説部分とから成る(例外もあるが)。この不正な管理人のたとえでは、本体は8節の「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」までである。それ以降は解説に当たるが、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」、「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と解説がいくつも折り重なり、かえって分りづらいものとなっている。これは、このたとえを聴いた最初の人たちにもよく分からなくて、こうではないか、ああではないかと、イエス様が別の機会に語られた言葉のいくつかをここに持ってきて解説を試みたせいだと考えられている。それだけ、解釈が難しかったのである。一体、イエス様は何を言わんとしてたとえ話を語られたのか。

 そこでまず、注意したいのが、このたとえがイエス様の弟子たちに対して語られたものだと言うこと(1節)。15章では3つのたとえ話をもって、「神様のもとに戻って来るように」との招きが語られていた。弟子たちはそれを聞きながら、「我々はすでにイエス様の弟子になっているのだから、これらの話は卒業してもう関係がないのだ」と、いささか呑気に聴いていたのかも知れない。そこでイエス様は、その弟子たちに向かって、「それではあなたがたにもたとえを話そう。あなたがたは、放蕩息子のように、確かに神様のもとに帰って来た。そして私の弟子となった。それでは、これからはどのように生きるのかね」と、問おうとされたのである。放蕩息子のたとえでは、父親の元に帰って来た後、彼がどういう生活をしたかは書かれていなかった。再び息子として受け入れられ、父の財産を手にした彼は、その後、どのように生きようとしただろうか。父の愛を知ったところで、どう生きようとしたか。そのことを、弟子たち自身の問題として真剣に考えさせるために、この不思議なたとえ話をお語りになったのである。

 急に矛先が自分たちに向けられて、弟子たちはビックリしたかも知れないが、それ以上にたとえの内容に驚いたに違いない。不正を働く管理人を模範としてお語りになられたのだから・・・。この管理人は自分の利益ばかりを考えている人間で、主人に対して忠誠を尽くすなどということはひとつも考えていない。主人が自分を信頼して、財産の管理を任せてくれたことをいいことに、それを横領してしまう。それがばれてしまったときに反省するどころか、もっとあこぎなことを考えた。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。それで主人に負債のある人たちをひとりひとり呼んで、主人に対する負債を減額してあげることにする。そうやって恩を売って仲間にしておけば、自分がクビになったとき、彼らが自分を迎え入れてくれるだろうと考えたと言うのである。一体、こんな男のどこがお手本なのか。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあるように、イエス様は弟子たちを光の子らと呼ぶ。そして神から離れてこの世の価値観に従って生きているこの世の子らと区別しておられる。私たちがここではっきりと知ることができるのは、この男は徹底した態度を取っているということ。首尾一貫したやり方をしていて、悪いなら、悪いことに徹している。途中で、もう悪いことはやめて、反省してやり直そうなどとは思わない。悪く生きることに徹している。中途半端ではない。イエス様が弟子たちに問うておられるのは、この徹底であろう。あなたがたは光の子として、神様の愛の光の中で新しく歩み始めているではないか。その光の子としての生き方をあなたがたは徹底しているのだろうか。放蕩息子が、父親の元に戻って来て、再び、父親から財産をもらったときに、もう一度、あのときみたいな生活をしてみたいと逆戻りすることを果して望むだろうか・・・。そんなことはない。ならば、あなたがたはどうなっているか・・・・イエス様はそれを問うておられる。光の子として生きるときに、そこには何の苦労もなくなるということはない。依然として途方に暮れることもある。行き詰り、切羽詰まることがある。そのとき、「やっぱり神様だけでは頼りない。富にも頼らねば」と、神と富と仕えようとするのではなく、覚悟を決めて、首尾一貫して神の愛を信じて生きる光の子として生きようとするか・・・。この管理人は、自分が徹底して信頼し抜いたお金の力、お金さえあれば人の心さえも抱き込むことができるのだという思いを貫き通した。そこでイエス様は「あなたがたが知っている神の愛の力は、金銭に勝るではないか。なぜ、そのことに気がつかないのか。なぜ、そのことにもっと深く立とうとしないのか。あなたがたは私の弟子、私の同志ではないか。なぜ、その光に生き抜く賢さを持たないのか」と問うておられるのだ。神の愛の光は決して消えない。たとえ、行き詰まり、途方に暮れることがあっても、あなたは神の愛の光の中を生き始めている。祝福の中に立っている。それを信じていいのだ。