2012年11月18日日曜日

2012年11月18日 説教要旨


「 神にその名を覚えられ 」 ルカ16章19節~31節②

 16章19節以下のたとえ話は、私たち誰もが関心を持っているであろう「死んだあとの世界」が舞台となっている。しかし、地獄とはこういうところだとか、天国はこういうところなのだとか、そういうことにだけ興味を持って読むと、イエス様がここで言わんとされていることを聞き違えてしまうだろう。なぜなら、イエス様は天国とか、地獄とか、死んだ後の世界については、あまり多くをお語りにならなかったから。あまり関心を持っておられなかったのである。もし関心がおありならば、もっとそういうお話をなさったと思う。ここでも、天国とか地獄はどんなところかが、主題なのではないだろう。このたとえ話は、いろいろな解釈がなされてきた歴史がある。生前苦しんだ人には、死後には報いられ、生前いい思いをした人は、あとで苦しむことになる。そうやって、逆転が起きる。人生とは、そうやってちゃんと帳尻が合うように定められているのだという理解。また、ヨーロッパの教会ではある一時期、このラザロという人物をヨーロッパの足元にあるアフリカ大陸の象徴ととらえ、物質的に豊かなヨーロッパのキリスト者たちが、貧しいアフリカの人たちを助けることなく、見捨てているならば、地獄に行くことになると解釈したこともあった。しかしこれらの解釈は、イエス様の真意ではないと思われる。なぜなら、お金持ちが地獄に行ったのは、貧しい人たちに不親切にしたとか、生きているときに良い思いをたくさんしたからだとは言われていないからである。むしろ、お金持ちは自分の家の前にラザロがいることを許していたわけだし、食卓の残りのものもちゃんと与えていたようなのだ。加えて、ラザロが天に迎え入れられたのも、彼が愛に富んでいたからだとも書かれていない。もっと別の理由から、彼らの行く末が決まったようなのである。イエス様は何を語っておられるのか。

 そこでまず考えたいのは、このたとえ話の主役は誰か、ということ。どう読んでも、金持ちだろうと思う。実際、ラザロには一言もセリフがない。ところが主役であるはずの金持ちには名前がなく、脇役のラザロには名前がある。これはどういうことなのだろうか。そこでいろいろ調べて見ると、イエス様がなさったたとえ話の中で名前がつけられているのは、このラザロたったひとりだけなのだ。あの放蕩息子にも、不正な管理人にも名前はない。ならば、このラザロという名前にはどんな意味があるのか、興味がわいてくる。ラザロは、ヘブライ語のエルアザルという言葉をそのまま音だけをギリシャ語に移したもので、「神は助ける」という意味を持つらしい。ある者はもっと踏み込んで、神は助けるということは、「神の助けなくしては生きられない者」ということ、それがラザロの意味することだと言っていた。ラザロ、「神は助ける」、ラザロ、「神の助けなくしては生きられない者」、このことは、このたとえ話の真意を理解する大切な鍵でなる。と言うのも、ここになぜ、ラザロは天国に迎え入れられ、お金持ちはそうではなかったのか、その理由を聞き取ることができるからだ。ラザロがなぜ、天に上げられたのか。神に助けられたのである。ラザロは神に助けていただく以外には生きられなかったのである。自分の力で食べ物を手に入れることのできないラザロ、日々、神に寄り頼むしかすべがなかったであろう。真剣に願いながら生きていたであろう。そして神は、お金持ちの心をも動かして、ラザロを養われたのである。一方の金持ちは「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と言う。労働者の70日分の賃金に値するという高価な紫の衣を着て、毎日遊び暮らしていた。この「遊び暮らしていた」という言葉をある人は、「毎日、お祭りをしていた」と訳していた。お祭りというのは、後先のことを忘れて、今このときに酔いしれるもの、それが祭りの特質。このお金持ちも、自分の今の豊かさに酔いしれていたのだ。今の豊かな生活に満ち足りていて、神に助けていただく必要など感じていなかった。神に助けていただかなければ生きて行けない、そんなことは露ほども考えられなかった。お金持ちは、ラザロの名前が示す「神の憐れみによってのみ生きる」ということが、自分にも当てはまる真理であることを忘れていた。この金持ちには名前がない。しかしもし、名づけるとしたならば、彼の名前もまたラザロなのである。イエス様が語られた数多くのたとえ話の中で、ただ一度、このラザロという名前だけをおつけになられたというのは、意味のないことではない。それは、すべての人間がラザロという名前になるのだということではなかったかと思われるほどのことである。あの放蕩息子の弟の名前もラザロ、兄の名前ももちろんラザロ。ここにいる私たちひとりひとりもラザロ・・・「神の助けなくしては生きられない者」・・・そういう者を「神は助ける」。ラザロ、それが人間の本当の姿であり、すべての人間の名前なのである。

 お金持ちであれば、世間の人たちは皆、その人の名前を知っていて、ちやほやするだろう。反対にラザロのような貧しい人の名前など、誰も覚えようとはしないだろう。けれども、人に知られていなかったけれども神には知られているのである。神は世の人々が評価する人間の名前を知らず、かえって、世の知らない人の名前をご存知であられる。そう、神に声をあげ続けなければ生きられない人の名前を。私たちは皆、神にその名前を覚えられている者なのだ。