2012年10月7日日曜日

2012年10月7日 説教要旨


「神から心が離れて」 ルカ15章11節~32節(Ⅱ)
 
 ヘッドホンをつけて、音楽を聴きながら歩いたり、電車に乗っている人をよく見かける。ヘッドホンで聞いている音楽は、本人にしか聴こえない。そういう姿を見ていて思う。イエス様もヘッドホンを持っておられたのではないか。それで周りの者が聞いていないような音楽を聴き続けておられたのではないかと。それはどんな音楽であるか、今朝の福音の言葉をもって私たちに教えてくださっている。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」。このとき、聴こえていた音楽というのはいなくなった弟息子が帰って来た。その喜びを表す音楽。イエス様はとってもイメージ豊かな方だから、このときに響いている音楽をたとえを語りながら、実際に聴いておられたに違いない。イエス様は、放蕩息子のたとえに先立つ2つのたとえで、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と語られた。言うまでもなく、イエス様が聴いておられた音楽というのは、この天使たちのうちにある喜びの歌、しかもイエス様には音楽が聞こえているというだけでなく、天使たちが喜び踊っている姿をも思い浮かべておられたであろう。

私たちも、洗礼を受ける方が教会に与えられる時の喜びを知っている。見失われていた者が神のもとに戻って来る。神を信じて生きて行くようになる。そういう出来事が起きると、私たちはとっても喜ぶ。そのとき、天においても同じ喜びが沸き起こっているのであって、私たちの喜びというのはその天に起こる喜びのエコー、こだまのようなものである。「音楽」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「シンフォーニア」。私たちの知っているシンフォニー、「交響曲」という言葉のもとになった言葉である。「シン」、「共に」という言葉と「フォーニア」、「音」という2つの言葉が合わさってできた言葉。つまり、音が共に響きあっているということ。天にある喜びと地にある喜びが響き合っている。あるいは、共に礼拝しているひとりひとりの救われた喜びが、ここで響き合っている。それが私たちの礼拝で歌われている賛美の歌。イエス様は、そういう天にある喜びを奏でる音楽をいつも聴いておられた。信仰というのは、ひとりの罪人であるこの私が救われたために、天に大きな喜びが生まれ、天に喜びの調べが響いている。その調べを、イエス様がいつも聴いておられたように私たちも聴き続けること。絶えず、心に響かせて生きること。それが信仰である。信仰生活が続けられる急所は、この私のためにも天に大きな喜びが起こっているのだということを、絶えず、心に響かせていることである。その調べを聴きそびれてしまうとき、私たちは、神様のもとから迷い出てしまう。このたとえ話を聴いていたファリサイ人や律法学者たちがそうであった。彼らはこの喜びの調べを聞き損なっていた。いや、聴こうとはしなかったのである。

徴税人や罪人と呼ばれている人たちが悔い改めて、主が一緒に食事をしている。そこでも、喜びの調べが奏でられていただろう。しかしファリサイ人や律法学者たちは、その喜びの調べを聴いて不愉快になった。恵みに与る資格なんかないと思っている者たちが、恵みに与る姿を見て、我慢ならなかったのである。これは、私たちの中にもあることではないか。奉仕や集会出席、献金などに対して、あまり熱心とは思えない人が自分と同じ恵みを受けるのだということに、どこか素直に喜べない。「もっと熱心になって」と言いたくなるのである。そういう現実を、主は兄息子の姿としてここでお語りになっておいる。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と、父は兄息子に言った。神が当たり前とする喜びがある。しかしその当たり前が必ずしも私たちの当たり前にはならない。むしろ不平となり、明確な対立を生む。そこに罪が現れてきている。神の喜びに対して、何が私の喜びとなるか、ということにおいて神と厳しく対立している。それは罪なのである。兄息子には、弟息子をそのまんま受け入れてしまう父親の対応が、決して当たり前のこととは思えなかった。自分はちゃんとやっているから、恵みに与る資格があると思う。でも、弟にはその資格はないと考える。何か、神の前に、自分で恵みに与る資格を用意しなければ・・・と、人は思う。これは弟息子も同じであって、彼は雇い人の一人となることを条件として提示しようとしたのである。しかし、神との関係というのは、私たち人間が何かの受け入れてもらえるための条件が提示できるかどうか、ということによって成り立つのではない。人間の提示する何らかの条件などは、この方の圧倒的な慈しみの前では何の意味も持たない。私たちが神の子として受け入れられる条件は、ただ神が私たちの常識を超えて慈しみ深い方であるという、ただその一点に拠るのである。そのことに心からアーメンと感謝して受け入れるとき、私たちの歌は真に天の喜びのエコーとなる。喜びの歌をもって世に証しして行こう。この世は何かの条件、資格を満たさないと受け入れてもらえない社会、それで深く傷ついている人たちが一杯いるのだから。