2012年9月23日日曜日

2012年9月23日 説教要旨


喜びを分かち合われる神 」 ルカ15章8節~10節 

 親は子どもに似てくる。小さい頃は、顔立ちが似ているだけだが、成長するにつれ、声やしぐさまでそっくりになる。親はそれを喜びとするものだが、信仰にも同じことが言える。私たちが信仰を持つと、私たちは神の子として新しく生まれる。そして信仰が成長するに連れて、親である神に似てくる。イエス様に似ると言ってもいい。だから誰かに「イエス様は一体どういう方か」と問われたとき、「私を見れば、イエス様という方がどういう方であるか分かります」と答えることができるのだ。例外なく、皆そう言えるのだ。そのことを否定することは一見、謙遜であるかのように思えるが、むしろイエス様の恵みの力を軽んじる傲慢なのである。

では一体、イエス様のどこに私たちは似ると言うのか。今朝のたとえ話は、そのことを明確に語っている。ある人がドラクメ銀貨を10枚持っていた。そしてそのうちの1枚をなくしてしまい、必死になって家の中を捜す。見つけたら友達や近所の女たちを呼び集めて、一緒に喜んでくださいというたとえ話である。先週読んだ「いなくなった1匹の羊」のたとえでも、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」とあった。こうして見てみると、私たちがイエス様に似るということが、どういうことかがはっきりしてくる。つまり、私たちはイエス様と同じ喜びを知る。同じ喜びを喜ぶようになる、その一点において、イエス様に似るのである。 救われた人がいるときに、「ああ、あの人と共にイエス様がいてくださるのだ。あの人の傍らにイエス様がいて、あの人の深い慰めとなってくださっているのだ」、それを心から喜ぶということ。病床で長く苦しんでいる信仰の仲間がいる。「あの人に寄り添うようにイエス様が傍らにいてくださり、共に悲しんでくださっているのだ」、それを喜ぶ。不安を抱いている者がいる。「その不安のただ中にイエス様も立ってくださり、恐れるなと、声をかけてくださっている」。イエス様が、そうやってひとりひとりを捜し出し、その傍らに共にいてくださるようになる。そのことを私たちは何よりの喜びとする。イエス様の元を離れていた者がイエス様に共にいるようになることを喜ぶのである。その一点において、私たちはイエス様に似るのである。

 このたとえ話では、一緒に喜んでほしいと言われているが、一緒に捜してくれ、捜す労苦を共にしてくれとは言われていない。捜して見つけるための労苦は、持ち主だけが担っている。この女性はともし火をつけて捜す。家の中で捜しているのだが、当時の貧しい家なので窓がない。薄暗い部屋の入口の戸を開けて、狭い戸口から入り込む光だけでは小さな銀貨は到底捜せない。そこでともし火をつけて、家中をホウキで掃く。家財を注意深く動かしながら、掃いて捜す。床は石地だから注意深く掃いているうちに、ひょっとすると銀貨が石に当たり、カチンと音を立てるかも知れない。だから聞き耳を立てて掃く。彼女はたった1枚の銀貨を目で捜し、手で捜し、耳で捜し、体全体で捜している。たが、その労苦は持ち主だけが担う。長い間、この御言葉は私にとって謎であった。だが、こういうことではないかと思う。 悲しいことだが、私たちには失われたひとりの者を連れ戻すまで追い求め続けるということに限界がある。弱さという限界、愛の貧しさという限界、あるいは罪に支配されてしまうという限界があって、イエス様と一緒に最後まで追い求めていくことがではない。どこかで限界になり、それ以上、心も体も動かなくなるのである。イエス様はその限界を越えて、あなたがボロボロになってしまうまで、一緒に捜してくれないと困るよ」とは、おっしゃられないのである。むしろ「ここから先はあなたたちが追い続けることができないだろう。ここから先は私が行くから、あなたたちはここでまっておれ 」、そう言って私たちが行くことの出来ないところまで、イエス様は追い続けてくださる、そういうことではないかと思う。私たちは、イエス様が担われる捜す労苦を私たちもできうる限り担いたいと思う。しかしそうできない私たちの現実があることを正直に認めなければならないと思うし、イエス様はそういう私たちのことを退けてしまわないのである。このたとえでは、捜す労苦を担っていない者たちが同じ喜びに招かれる。あなたは同じ労苦を担っていないから喜ぶ資格はありませんよ、とはならないのである。

かつて求道者の一人の青年を最後まで追い求めきれないという辛い体験をした。そのときの裏切り者のユダを追い続けられたイエス様と出会った。ユダの後を追いかけるようにして、ユダが木に首を吊って死んだ数時間後に、ご自分も十字架の木に自らを吊るされたイエス様。それまるで陰府にまでユダを追い求めて行かれたかのようであった・・・。後に、その青年はイエス様が捜し抜いてくださり、洗礼へと導かれた。本当にひとりの失われた人を捜し、最後までそれを追い求め続けるのは、愛なしにはできないこと。教会学校の子どもたちを引率して遠足に出かけ、迷子を出してしまったときの経験をある牧師が語っている。交番に届け出たが、「どんなズボンをはいていたか、靴は、リュックの色は・・・」と聞かれ、ひとつも答えることができなかったと言う。しかしその子の母親は電話口ですべての問いに答えることができた。本当にその人に向かう愛がなければ、捜す手がかりさえも見つけられない。しかしイエス様にはそれがおありなのだ。