2012年9月2日日曜日

2012年9月2日 説教要旨


神の招きを断るな 」 ルカ14章15節~24節 

 ある主人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招いた。このある主人というのは神のことである。誰かを食事に招く時、相手の喜ぶ顔を想像しながら心を込めて準備をするだろう。こういう席は、結婚式の祝いのように、招待を受けた側よりも、招待した側の喜びの方がはるかに大きい。だから招かれるというのは、招く側の大きな喜びの中に招き入れられるのである。招く側にあるこの喜びを読み取らないのであれば、このたとえ話を正しく理解することはできない。今朝は、この礼拝で聖餐が行なわれる。この聖餐も神がご用意してくださった食事の席である。このささやかなパンとぶどう液の食卓には、地上のいかなる晩餐にも勝って、招いた側の大きな喜びが込められている。前任地の教会で、それまでに経験したことのない聖餐の体験をした。聖餐のスタイルは、成瀬教会と違って会衆が順番に前に進み出て来て受けるスタイルだった。教会員の中に信仰歴70年を越える90代のご婦人がいた。聖餐を受けるとき、転ばないようにいつも裸足になっていた。後に転倒の危険を避けるため、聖餐のスタイルを変更した。その経緯をご婦人に説明に行ったとき、彼女はこう言った。「確かに、高齢の者にとって、前に進み出ることは危険が伴います。でも前に進み出ることは、私にとっては喜ばしいことでもありました。神が『さあ、あなたも来なさい』と私を招いてくださっている。神の恵みを受ける資格など全くないこの私にも神が声をかけてくださっている・・・ そう思うと喜んで前に進み出たくなるのです」と。 恵みを受けるに値しないような者が、「さあ、あなたも来なさい」と言われたら、喜んで前に進み出たくなる ・・・。神の招きに答えるというのは、まさにこういうことなのだと思った。このたとえを話の中で招かれた人々も、そのような応答の姿勢が期待されていたのだと思う。しかしこの盛大な宴会のたとえ話では、その期待に応える者はいなかった。皆、次々と招きを断ってしまった。一体、なぜなのか。最初の人は、畑を買ったので見に行かねばなりませんと断った。大きな買い物である。現物を見ないで買うなんてことはできないだろう。ある意味、仕方のない理由で招きを断ったと言える。2人目は、牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べに行くと言って断った。牛10頭と言えば、ひと財産。それだって自分の目で確かめる必要がある。この人もある意味、仕方のない理由で招きを断った。3人目は、妻を迎えたばかりなので行く事ができませんと断った。当時、新婚家庭では妻を喜ばせるために兵役や公務が免除されるという律法があった(申命記24章5節)。彼はこの律法に従って招きを断ったと考えられる。この当時、招待は二重の手続きを経てなされた。まず1回目のお知らせを出し、その招きに対して応じた者に2度目の招待が届けられる。2度目の招待は、直接人がやってきて「さあ、もう用意ができましたからおいでください」と告げる。だからこの3人は、2度目の招待を待っている間に心変りをし、用事が入ったと2度目の招待を断ったわけである。このたとえ語は、もともとはイエス様がユダヤ人に対して語られたもの。この断った人たちはユダヤ人のことを指している。ユダヤ人は旧約聖書の時代に神の民となるよう選ばれた民で、彼らはその招きを受け入れたのである。そういう彼らに今、2回目の招きが届けられた。イエス様がこの地上に来られたというのは、2回目の招きがなされているということ。だが、彼らはそれを拒絶している。このことは、決して私たちと無関係ではない。私たちも洗礼を受けたときに、神の招きを受け入れ、喜びの中に招き入れていただいたのだ。しかしその後の歩みの中で、私たちは心変わりを起こして神の招きを断ってはいないだろうか。洗礼を受けたあとも、神はもっと深く喜びの深みへ私たちを導こうと絶えず招き続けておられる。その招きに対して私たちはどのような態度を取っているだろうか。私たちも自分の生活に差し支えのない限りにおいて、神の招きに応えようとしてはいないだろうか。自分の生活を成り立たせることの方が大切になってしまって、神の招きに応えることは2番目、3番目になってしまう。それは本当に神の招きを受ける道なのか。神はそういう「私たちの都合」を優先して造られている生活を、「神の都合」優先というところから建て直そうとされる。その意味では、神は私たちの人生という名の家をリフォームするのではなく、すっかり建て直してしまわれるのである。あなたの都合が優先されて造られた生活に神の恵みを加えて少しだけ手直しするのではなく、「自分の都合優先」という基礎を取り除き、「神の都合優先」という基礎に据えかえて、すっかり造り直される。そうやって、それまでに知ることのなかった大きな喜びへと神は私たちを招き入れるのだ。断った人たちに代わって、人々から神の恵みを受ける資格もないと軽蔑されていた人たちが招かれることになった。この結末は、福音がユダヤ人から異邦人へと届けられるようになることを意味しているのだが、ここにユダヤ人が神の招きを断った真の理由を見る。招かれる資格もないと思っていた人たちは、この招きを重く受け止め、これを逃すまいと招きに応えるが、自分たちには招かれる資格があると思っていたユダヤ人は、その招きの重みが分からなくなっている。招かれる資格があれば、断る資格もあると考え、次の機会に行けばいいと思ったのである。私たちはどうか。