2012年9月16日日曜日

2012年9月16日 説教要旨


見つける喜び失う悲しみ 」 ルカ15章1節~7節 

 いなくなった1匹の羊を捜す羊飼いのたとえ話、幼い頃から教会学校に通っていた経験のある方は、この話を何度も聴いたことがあり、このたとえ話を題材にした賛美歌もよく歌ったことがあるだろう。子どもたちの大好きなお話のひとつである。イエス様も、このお話をするのは、大好きであったと私は思う。迷い出ていなくなった1匹の羊を捜し求める羊飼いの姿、「これは私のこと。私の全生涯をあらわしている物語」、そんな思いでこれを繰り返し、事あるごとに語られたに違いない。それを裏付けるように、この話はマタイとルカでは、別々の聴き手に対して語られている。マタイでは弟子たちに向けて、そしてルカではファリサイ人、律法学者に向けて語られている。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」(1節~3節、)。徴税人や罪人と呼ばれる人たちはイエス様に関心を持ち、この人の話なら聴いてみたいと集まって来たのである。徴税人、罪人と呼ばれる人たちは、当時の社会の中で、神に背いた売国奴であり、神の律法を無視する、ユダヤ人の誇りを捨てた人たち、神様が決して関心を持たないような人たちと見られていた。周りの人たちから何の関心も寄せられない、無関心にされていた人たちであった。だが、そんな自分たちでも、このイエスという方は私たちに関心を持ち、まるで家族の一人であるかのように接してくれるらしい。そんな噂を聞いて、彼らはイエス様の元に集まって来ていたのである。しかも食事まで一緒にしている。ユダヤの社会では、共に食事をするというのは、その人と運命を共にするというとても強い意味があった・・・。そういうイエス様を見てファリサイ人たちは不平を抱いた。「曲がりなりにも神の律法を教えている人間が、なぜ、そんなことをするのか。それは、われわれの地位をおとしめるような行為ではないか」と・・・。そこで、イエス様はこのたとえをお語りになった。私にとって、この人たちはいなくなった1匹の羊に等しい。私はこれらのいなくなった1匹を連れ戻すために、捜し求めているのだ。そして、もし見つかったら、喜んで、近所の人たちを招き、一緒に喜んでくれと言う。あなたがたは、今、こうして彼らが私と共に食事をしているとき、天に、どれほどの喜びが起きているか、想像もできないのかと問われるのである。

 イエス様はこのたとえを通して、私たちに天を覗き見させてくださっている。しかも、そこで聞くのは思いがけなく、私たちに関心が注がれているということ。この地上に生きている私のために、天で心を煩わせる方がおられる。しかも、私たちを十把ひとからげにしてではなく、ひとりひとりに心が向けられていると。この私のために心を煩わせる神様がおられると言うのだ。私たちは、自分がどう思われているか、ということを随分気にするところがある。朝から晩まで、ほとんど、そのことばかりを気にしているのかも知れない。だから「誰々さんがあなたのこと、こんなふうに言っていたわよ 」などと聴いたときには、顔は平静を装っても、心の中はピリピリと神経を立てる。そして、それが思わぬ誤解を生んだり、いさかいの種になったりすることがある。そんなふうに自分のことを周りの人が、どう考えているかということは、それこそ病的に神経質でさえある私たちなのだが、神様がそんな自分のために、どんなに深く心にかけていてくださるかということについては、まことに呑気なのではないだろうか。神様は私たち、ひとりひとりの生活に心を注いでくださっている。誰にも見えないところで、あなたが心の中だけで流す涙に、神様は目を留めてくださっている。誰も理解してくれないような私の苦しみに、神様のまなざしが注がれている。こんなに無数の人々の中で、何でこの私に・・・と思うかも知れないが、あなたは確かに神様にとって特別な1匹、99匹を野原に残して、追い求めるべき1匹なのである。

 この羊飼いがいなくなった1匹を見つけたときの喜びようは、半端ではない。しかしそれは裏返すと、失っていたときの悲しみはそれほど深かったということ。見つける喜びと失う悲しみは、表と裏の関係。信仰とは、自分が神のもとから迷子になり、失われた状態にいる時、深い愛に突き動かされて私たちを捜し求める方がいることを知ることではないか。そのことを喜んで受け入れることではないか。それが信仰。このたとえ話の結語には、悔い改めという言葉が出てくるが、このたとえ話では、悔い改めは、徹底して受け身である。悔い改めとは羊飼いの愛に心を開くということでしかない。この愛を受け入れ、愛に求められ、愛に連れ戻されることなのである。イエス様は、このたとえ話をファリサイ人たちに対して語られた。彼らは、罪人や徴税人を失われている大切な1匹とはみなしていなかった。だからイエス様は語られた。「あなたがたの中に・・・いるとして・・・見失った1匹を捜しまわらないだろうか」と・・・。彼らを失われた1匹とみなして欲しい。私と一緒になって彼らを求めるものになってほしいと。羊飼いは失われた羊を求めれば求めるほど、自分自身を危険にさらし深く傷ついて行く。その道は最後には十字架へと至る。私たちはそのようして見つけられた者なのだ。