2012年9月30日日曜日

2012年9月30日 説教要旨


「自由を求めて不自由になる」 ルカ15章11節~32節() 

 放蕩息子のたとえ話は、イエス様が2000年も前に「人間は神様の目にどのような姿に映っているか」をお語りになった物語であるが、その姿は現代の人間にも当てはまる鋭さを持っている。「ある人に息子が二人いた。・・・弟息子は分けてもらった財産をすべて、お金に換えて、遠い国に旅立って行った」と、この物語は始まる。2人の息子は、父親の深い愛情のもとに暮らしていた。息子たちにとって、この父親の愛のもとにいるということ、それが彼らが生きられる根拠だった。ところが弟息子は、父親のもとにいるという「命のつながり」を「お金」に交換してしまう。そこから放蕩の旅が始まる。現代の社会は、「経済性」が最優先される。つまり、神とのつながりを、お金に換えて、お金を生きる基盤に据え換えてしまった時代である。30年後に原発0を目指すという閣議決定が、経団連の強い反発によって見送られたのは、世の中が経済優先で動いていることを象徴する出来事だった。経済性を最優先することによって、人は幸せをつかめると考えているのが現代である。しかし神とのつながりを捨てたところで、人は幸せになれるのであろうか。

弟息子は、父親から生前贈与を受け、得た財産をすべてお金に換えて父親の元を離れて遠い国に旅立つ。当時のユダヤでは、生前に遺産を相続させることで、子どもに生活の基盤を早めに作らせるという習慣があった。その場合、財産の運用に関しては父親の監督指導を受けねばならなかった。弟息子は、それを嫌った。あなたの言うことなど、いちいち聴いてはいられない。父親からの制約を受けず、自分のやりたいように生きるところに、本当に自分らしい生活があるし、自由も幸せもあると考えたのだ。だがそれは・・・幻想に過ぎなかったことが次第に明らかになる。

 弟息子は、何かの仕事をするわけでもなく、放蕩の限りを尽くした。そして財産を使い果してしまったところで、飢饉に遭う。おそらく財産があった間は、彼の周りにはたくさんの仲間いたに違いない。けれども、いのちのつながりをお金に換えた世界では、一文なしの弟息子の周りには誰も助けてくれる人はいなかった。それで仕方なく、弟息子はある人のところで豚の面倒を見ることになった。でも、あまりの空腹で「豚のえさで空腹を満たしたいとさえ」、思うようになった。堕ちるところまで堕ちた弟息子は、我に返って言った。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と・・・」。

「我に返った」という言葉は、原文ギリシャ語では「自分自身の中に戻って来た」という意味の言葉である。聖書の見るところ、弟息子は自分自身の中にいなかった。自分を失っていたのである。父の元にいたとき、そこから離れないと、自分らしく、自由に生きることができなくなると思って家出をした彼だが、それは本当の自分を喪失することでしかなかったのだと聖書は言う。本当に彼らしく、自由に生きられる場所は父親のもとにあったのだと言うのである。弟息子は、堕ちるとこまで堕ちて、やっとそのことに気がついた。お父さんのもとで、お父さんの言う事に耳を傾け、お兄さんとも仲良くし、当然、そこでなさねばならない義務を果たし、一生懸命に生活をすべきであった。時には、自分のやりたくないこともやらねば、一緒に生きていくことはできない。しかし、そこでこそ、本当の自分を見つけられるのであったと・・・。弟息子は、悲惨の原因を自分が父親のもとを離れたからだと認識した。運悪く飢饉が起きたからだと環境のせいにするのではなく、助けてくれる人が一人もいなかったからだと周りの人のせいにするのでもなく、自分自身の中に原因を認めたのである。弟息子は帰る。父への謝罪の言葉を胸に・・・。一方、父親はそんな息子の帰りをずっと待ち続けていた。父親は、毎日、毎日、弟息子の帰宅を待ち続けて外に立って、遠くを眺めていた。だから、弟息子がまだ遠くにいるうちに見つけることができたのである。父親は自分の方から走り寄り、弟息子を抱いた。当時の父親は威厳を保つために人前で走ることはしなかったと言う。だが、父親は走った。そしていちばん良い服と指輪と履物を与え、言葉ではなく、行動で彼が大切な息子であることを示した。弟息子は、父の懐に抱かれる中、準備してきた謝罪の言葉を最後まで口にすることはできなかった。父親がそれを言わせなかったのである。父の慈しみの中で、弟息子は自分の命を再認識する。そう、自分の命は待たれている命だったのだと・・。自分の命は、放り出された命ではなく、どこかを漂ってやがて消滅して行く「はかない命」でもなく、待たれている命なのだと。信仰とは自分の命が待たれている命であると知ることである。神によって愛され、待たれている命。経済優先のこの世を生きる中で、傷つき、ぼろぼろになってしまう命、自分でつけてしまった傷があり、自分では何の解決も出来ない、そんな傷を持った私たちの命をそのまま受け止め、包み込んでくださる方がいる。この命を待ってくださっている方に向けて私たちは生きる。私たちの人生の終わる日、神はゴール地点で私たちを受け止めようと慈しみの手を広げて待っていてくださる。マラソンランナーのゴールを、大きなタオルを広げて包み込もうと待つ仲間のように。それが私たちの命であり、信仰であり、希望なのである。

2012年9月23日日曜日

2012年9月23日 説教要旨


喜びを分かち合われる神 」 ルカ15章8節~10節 

 親は子どもに似てくる。小さい頃は、顔立ちが似ているだけだが、成長するにつれ、声やしぐさまでそっくりになる。親はそれを喜びとするものだが、信仰にも同じことが言える。私たちが信仰を持つと、私たちは神の子として新しく生まれる。そして信仰が成長するに連れて、親である神に似てくる。イエス様に似ると言ってもいい。だから誰かに「イエス様は一体どういう方か」と問われたとき、「私を見れば、イエス様という方がどういう方であるか分かります」と答えることができるのだ。例外なく、皆そう言えるのだ。そのことを否定することは一見、謙遜であるかのように思えるが、むしろイエス様の恵みの力を軽んじる傲慢なのである。

では一体、イエス様のどこに私たちは似ると言うのか。今朝のたとえ話は、そのことを明確に語っている。ある人がドラクメ銀貨を10枚持っていた。そしてそのうちの1枚をなくしてしまい、必死になって家の中を捜す。見つけたら友達や近所の女たちを呼び集めて、一緒に喜んでくださいというたとえ話である。先週読んだ「いなくなった1匹の羊」のたとえでも、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」とあった。こうして見てみると、私たちがイエス様に似るということが、どういうことかがはっきりしてくる。つまり、私たちはイエス様と同じ喜びを知る。同じ喜びを喜ぶようになる、その一点において、イエス様に似るのである。 救われた人がいるときに、「ああ、あの人と共にイエス様がいてくださるのだ。あの人の傍らにイエス様がいて、あの人の深い慰めとなってくださっているのだ」、それを心から喜ぶということ。病床で長く苦しんでいる信仰の仲間がいる。「あの人に寄り添うようにイエス様が傍らにいてくださり、共に悲しんでくださっているのだ」、それを喜ぶ。不安を抱いている者がいる。「その不安のただ中にイエス様も立ってくださり、恐れるなと、声をかけてくださっている」。イエス様が、そうやってひとりひとりを捜し出し、その傍らに共にいてくださるようになる。そのことを私たちは何よりの喜びとする。イエス様の元を離れていた者がイエス様に共にいるようになることを喜ぶのである。その一点において、私たちはイエス様に似るのである。

 このたとえ話では、一緒に喜んでほしいと言われているが、一緒に捜してくれ、捜す労苦を共にしてくれとは言われていない。捜して見つけるための労苦は、持ち主だけが担っている。この女性はともし火をつけて捜す。家の中で捜しているのだが、当時の貧しい家なので窓がない。薄暗い部屋の入口の戸を開けて、狭い戸口から入り込む光だけでは小さな銀貨は到底捜せない。そこでともし火をつけて、家中をホウキで掃く。家財を注意深く動かしながら、掃いて捜す。床は石地だから注意深く掃いているうちに、ひょっとすると銀貨が石に当たり、カチンと音を立てるかも知れない。だから聞き耳を立てて掃く。彼女はたった1枚の銀貨を目で捜し、手で捜し、耳で捜し、体全体で捜している。たが、その労苦は持ち主だけが担う。長い間、この御言葉は私にとって謎であった。だが、こういうことではないかと思う。 悲しいことだが、私たちには失われたひとりの者を連れ戻すまで追い求め続けるということに限界がある。弱さという限界、愛の貧しさという限界、あるいは罪に支配されてしまうという限界があって、イエス様と一緒に最後まで追い求めていくことがではない。どこかで限界になり、それ以上、心も体も動かなくなるのである。イエス様はその限界を越えて、あなたがボロボロになってしまうまで、一緒に捜してくれないと困るよ」とは、おっしゃられないのである。むしろ「ここから先はあなたたちが追い続けることができないだろう。ここから先は私が行くから、あなたたちはここでまっておれ 」、そう言って私たちが行くことの出来ないところまで、イエス様は追い続けてくださる、そういうことではないかと思う。私たちは、イエス様が担われる捜す労苦を私たちもできうる限り担いたいと思う。しかしそうできない私たちの現実があることを正直に認めなければならないと思うし、イエス様はそういう私たちのことを退けてしまわないのである。このたとえでは、捜す労苦を担っていない者たちが同じ喜びに招かれる。あなたは同じ労苦を担っていないから喜ぶ資格はありませんよ、とはならないのである。

かつて求道者の一人の青年を最後まで追い求めきれないという辛い体験をした。そのときの裏切り者のユダを追い続けられたイエス様と出会った。ユダの後を追いかけるようにして、ユダが木に首を吊って死んだ数時間後に、ご自分も十字架の木に自らを吊るされたイエス様。それまるで陰府にまでユダを追い求めて行かれたかのようであった・・・。後に、その青年はイエス様が捜し抜いてくださり、洗礼へと導かれた。本当にひとりの失われた人を捜し、最後までそれを追い求め続けるのは、愛なしにはできないこと。教会学校の子どもたちを引率して遠足に出かけ、迷子を出してしまったときの経験をある牧師が語っている。交番に届け出たが、「どんなズボンをはいていたか、靴は、リュックの色は・・・」と聞かれ、ひとつも答えることができなかったと言う。しかしその子の母親は電話口ですべての問いに答えることができた。本当にその人に向かう愛がなければ、捜す手がかりさえも見つけられない。しかしイエス様にはそれがおありなのだ。

2012年9月16日日曜日

2012年9月16日 説教要旨


見つける喜び失う悲しみ 」 ルカ15章1節~7節 

 いなくなった1匹の羊を捜す羊飼いのたとえ話、幼い頃から教会学校に通っていた経験のある方は、この話を何度も聴いたことがあり、このたとえ話を題材にした賛美歌もよく歌ったことがあるだろう。子どもたちの大好きなお話のひとつである。イエス様も、このお話をするのは、大好きであったと私は思う。迷い出ていなくなった1匹の羊を捜し求める羊飼いの姿、「これは私のこと。私の全生涯をあらわしている物語」、そんな思いでこれを繰り返し、事あるごとに語られたに違いない。それを裏付けるように、この話はマタイとルカでは、別々の聴き手に対して語られている。マタイでは弟子たちに向けて、そしてルカではファリサイ人、律法学者に向けて語られている。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」(1節~3節、)。徴税人や罪人と呼ばれる人たちはイエス様に関心を持ち、この人の話なら聴いてみたいと集まって来たのである。徴税人、罪人と呼ばれる人たちは、当時の社会の中で、神に背いた売国奴であり、神の律法を無視する、ユダヤ人の誇りを捨てた人たち、神様が決して関心を持たないような人たちと見られていた。周りの人たちから何の関心も寄せられない、無関心にされていた人たちであった。だが、そんな自分たちでも、このイエスという方は私たちに関心を持ち、まるで家族の一人であるかのように接してくれるらしい。そんな噂を聞いて、彼らはイエス様の元に集まって来ていたのである。しかも食事まで一緒にしている。ユダヤの社会では、共に食事をするというのは、その人と運命を共にするというとても強い意味があった・・・。そういうイエス様を見てファリサイ人たちは不平を抱いた。「曲がりなりにも神の律法を教えている人間が、なぜ、そんなことをするのか。それは、われわれの地位をおとしめるような行為ではないか」と・・・。そこで、イエス様はこのたとえをお語りになった。私にとって、この人たちはいなくなった1匹の羊に等しい。私はこれらのいなくなった1匹を連れ戻すために、捜し求めているのだ。そして、もし見つかったら、喜んで、近所の人たちを招き、一緒に喜んでくれと言う。あなたがたは、今、こうして彼らが私と共に食事をしているとき、天に、どれほどの喜びが起きているか、想像もできないのかと問われるのである。

 イエス様はこのたとえを通して、私たちに天を覗き見させてくださっている。しかも、そこで聞くのは思いがけなく、私たちに関心が注がれているということ。この地上に生きている私のために、天で心を煩わせる方がおられる。しかも、私たちを十把ひとからげにしてではなく、ひとりひとりに心が向けられていると。この私のために心を煩わせる神様がおられると言うのだ。私たちは、自分がどう思われているか、ということを随分気にするところがある。朝から晩まで、ほとんど、そのことばかりを気にしているのかも知れない。だから「誰々さんがあなたのこと、こんなふうに言っていたわよ 」などと聴いたときには、顔は平静を装っても、心の中はピリピリと神経を立てる。そして、それが思わぬ誤解を生んだり、いさかいの種になったりすることがある。そんなふうに自分のことを周りの人が、どう考えているかということは、それこそ病的に神経質でさえある私たちなのだが、神様がそんな自分のために、どんなに深く心にかけていてくださるかということについては、まことに呑気なのではないだろうか。神様は私たち、ひとりひとりの生活に心を注いでくださっている。誰にも見えないところで、あなたが心の中だけで流す涙に、神様は目を留めてくださっている。誰も理解してくれないような私の苦しみに、神様のまなざしが注がれている。こんなに無数の人々の中で、何でこの私に・・・と思うかも知れないが、あなたは確かに神様にとって特別な1匹、99匹を野原に残して、追い求めるべき1匹なのである。

 この羊飼いがいなくなった1匹を見つけたときの喜びようは、半端ではない。しかしそれは裏返すと、失っていたときの悲しみはそれほど深かったということ。見つける喜びと失う悲しみは、表と裏の関係。信仰とは、自分が神のもとから迷子になり、失われた状態にいる時、深い愛に突き動かされて私たちを捜し求める方がいることを知ることではないか。そのことを喜んで受け入れることではないか。それが信仰。このたとえ話の結語には、悔い改めという言葉が出てくるが、このたとえ話では、悔い改めは、徹底して受け身である。悔い改めとは羊飼いの愛に心を開くということでしかない。この愛を受け入れ、愛に求められ、愛に連れ戻されることなのである。イエス様は、このたとえ話をファリサイ人たちに対して語られた。彼らは、罪人や徴税人を失われている大切な1匹とはみなしていなかった。だからイエス様は語られた。「あなたがたの中に・・・いるとして・・・見失った1匹を捜しまわらないだろうか」と・・・。彼らを失われた1匹とみなして欲しい。私と一緒になって彼らを求めるものになってほしいと。羊飼いは失われた羊を求めれば求めるほど、自分自身を危険にさらし深く傷ついて行く。その道は最後には十字架へと至る。私たちはそのようして見つけられた者なのだ。

2012年9月9日日曜日

2012年9月9日 説教要旨


主の弟子になる道 」 ルカ14章25節~35節 

 「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)とある。厳しすぎる言葉だろうか。「捨てる」という言葉、これはニュアンスとしては「神にお返しする」という感じである。捨てると言っても、ゴミ箱に入れるわけではない。そもそも神からいただいたものなのだから、全部、神にお返しするのである。私たちは何ひとつ持たず、裸で生まれてきた。本来、自分のものは何ひとつない。自分の持ち物ではないのに、自分のものだと思い込んで、絶対に離すまいと握り締めていたら、それをつぶしてしまう。「握り締めずに離しなさい。そうすれば、最高のものが得られる」と主は語っておられるのだ。中々そんなことはできないと思うかも知れないが、たとえばオレオレ詐欺事件に見られるように、自分の子どもを助けたいと思ったときには、親はいくらだってお金を払う。一番大切なもののためには、二番目以下のものを手離すことは本来、人間にとってできないことではないのである。その意味では、私たちにとって当たり前のことを主は語っておられると理解することができる。イエス様の弟子たる者にとって一番大切なものは神であって、神を優先順位一位にして生きるのが弟子である。そして一番大切なものを大切にするために、二番目以降のことをどうやって手離して行くかにチャレンジする。その戦いを信仰の仲間と共に励まし、支え合いながら続けて行くのが信仰生活なのだ。手離すのは惜しいことである。しかし手離すとき、全部もらえるのである。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6章33節)と主が言われたように。多くの場合、私たちは離すまいと握りつぶしてしまうのだ。自分の子どもがかわいいからと言って、ずっと手の中に入れておこうとすれば、子どもはつぶれてしまう。恋人だって、手の中に入れて管理するみたいになれば、相手は窒息すると言うだろう。私たちはこれが大事と言って離すまい、離せないと言って握り締めるのだが、それによってかえって、失ったり、つぶしたりしてしまうのである。そういう失敗をしてしまう私たちに主は、あなたが握り締めるのではなく、神に向かってそれを手離し、神にお委ねして行けば、それらのものはすべて加えて与えられるという喜びの世界を語っておられる。それが弟子として生きる者に与えられる祝福なのだ。

信仰の父と呼ばれるアブラハムは、自分の独り息子イサクを神にいけにえとして捧げようとした。イサクは彼にとって大事な跡取りであり、神の約束の担い手となる人間だった。しかしアブラハムはその子を神の命令に従い、捧げようとした。神は寸前のところでそれをやめさせ、アブラハムに再び、イサクを与えられた。この出来事は、アブラハムが二番目に大切なものを神に向かって手離す。神を信頼して委ねる。そのとき、神はそれ以上のものを与えてくださる方であることを体験した出来事である。兄弟、姉妹、家族、こんなに大事なものはないのだが、それを本当に大事にするためにも、一度、神にお返しして、神から受け取り直すことが必要だ。この子は自分のものではない。神のもの、神からお借りしている者であるから、自分の手の中に入れて支配しようとするのではなく、神のものとして、神が喜ばれるようにこの子を育てよう。それが親の務めだと考え直すようになる・・・。神から受け取り直すとき、そういう考えがその人の中に生まれる。子どもだけではない。財産、持ち物、そして自分の命、あらゆるものを一度、神にお返しして、神からお借りするものとして、これを受け止め直す。そうして行くときに、本当の意味で私たちは家族にとって祝福となる。塩のような働きを担えるようになる。

 私たちは、健康やお金、情報を握り締めようとし、いろいろなものを抱え込んでいるが、そういうものを神に向かって手離す、委ねるのだ。そうやって何もかも手離したかに見える空っぽの手を、神は持てるすべてを注いで満たしてくださる。それが信仰であり、弟子の道なのだ。神はそうやって空っぽになった手をご覧になると、満たさずにはおれない方なのだ。考えてみると、自分の手の中に一杯何かを残していたら、神が何かを与えようとしても、もう手の中には入らないではないか。今朝は敬老のお祝いをする。年を重ねるということは、今まで持っていたものをひとつひとつ手離して行くことである。自分の能力や財産、家族・友人、そして教会での集まり、そういうものをひとつひとつ神に向かって手離していく。最後は何も分からなくなってしまうこともある。それは本当にすべてを手離してしまった状態に近い。だが神はその人を満たしてくださる。永遠の命の祝福をもって。だから、年を重ねるというのは、弟子として歩みの仕上げをしていることだと思う。神に向かって、すべてのものを手離して、もっとすばらしいもので満たしていただくという信仰の仕上げのとき。今朝の箇所には、2つのたとえが組み込まれている。2つとも、「賢くある」ことを教えている。その賢さとは、神を信頼する賢さである。手離そうとしない私たちに、神は計算を超えた圧倒的な力と恵みをもって、迫って来られる。その方を前にして、「我」を張ったところで一体、何になろう。神の恵みに降参して、「あなたにお任せします」と、自分を神に明け渡すのだ。私たちの計算を超えた神の祝福が私たちに注がれるのだから。

2012年9月2日日曜日

2012年9月2日 説教要旨


神の招きを断るな 」 ルカ14章15節~24節 

 ある主人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招いた。このある主人というのは神のことである。誰かを食事に招く時、相手の喜ぶ顔を想像しながら心を込めて準備をするだろう。こういう席は、結婚式の祝いのように、招待を受けた側よりも、招待した側の喜びの方がはるかに大きい。だから招かれるというのは、招く側の大きな喜びの中に招き入れられるのである。招く側にあるこの喜びを読み取らないのであれば、このたとえ話を正しく理解することはできない。今朝は、この礼拝で聖餐が行なわれる。この聖餐も神がご用意してくださった食事の席である。このささやかなパンとぶどう液の食卓には、地上のいかなる晩餐にも勝って、招いた側の大きな喜びが込められている。前任地の教会で、それまでに経験したことのない聖餐の体験をした。聖餐のスタイルは、成瀬教会と違って会衆が順番に前に進み出て来て受けるスタイルだった。教会員の中に信仰歴70年を越える90代のご婦人がいた。聖餐を受けるとき、転ばないようにいつも裸足になっていた。後に転倒の危険を避けるため、聖餐のスタイルを変更した。その経緯をご婦人に説明に行ったとき、彼女はこう言った。「確かに、高齢の者にとって、前に進み出ることは危険が伴います。でも前に進み出ることは、私にとっては喜ばしいことでもありました。神が『さあ、あなたも来なさい』と私を招いてくださっている。神の恵みを受ける資格など全くないこの私にも神が声をかけてくださっている・・・ そう思うと喜んで前に進み出たくなるのです」と。 恵みを受けるに値しないような者が、「さあ、あなたも来なさい」と言われたら、喜んで前に進み出たくなる ・・・。神の招きに答えるというのは、まさにこういうことなのだと思った。このたとえを話の中で招かれた人々も、そのような応答の姿勢が期待されていたのだと思う。しかしこの盛大な宴会のたとえ話では、その期待に応える者はいなかった。皆、次々と招きを断ってしまった。一体、なぜなのか。最初の人は、畑を買ったので見に行かねばなりませんと断った。大きな買い物である。現物を見ないで買うなんてことはできないだろう。ある意味、仕方のない理由で招きを断ったと言える。2人目は、牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べに行くと言って断った。牛10頭と言えば、ひと財産。それだって自分の目で確かめる必要がある。この人もある意味、仕方のない理由で招きを断った。3人目は、妻を迎えたばかりなので行く事ができませんと断った。当時、新婚家庭では妻を喜ばせるために兵役や公務が免除されるという律法があった(申命記24章5節)。彼はこの律法に従って招きを断ったと考えられる。この当時、招待は二重の手続きを経てなされた。まず1回目のお知らせを出し、その招きに対して応じた者に2度目の招待が届けられる。2度目の招待は、直接人がやってきて「さあ、もう用意ができましたからおいでください」と告げる。だからこの3人は、2度目の招待を待っている間に心変りをし、用事が入ったと2度目の招待を断ったわけである。このたとえ語は、もともとはイエス様がユダヤ人に対して語られたもの。この断った人たちはユダヤ人のことを指している。ユダヤ人は旧約聖書の時代に神の民となるよう選ばれた民で、彼らはその招きを受け入れたのである。そういう彼らに今、2回目の招きが届けられた。イエス様がこの地上に来られたというのは、2回目の招きがなされているということ。だが、彼らはそれを拒絶している。このことは、決して私たちと無関係ではない。私たちも洗礼を受けたときに、神の招きを受け入れ、喜びの中に招き入れていただいたのだ。しかしその後の歩みの中で、私たちは心変わりを起こして神の招きを断ってはいないだろうか。洗礼を受けたあとも、神はもっと深く喜びの深みへ私たちを導こうと絶えず招き続けておられる。その招きに対して私たちはどのような態度を取っているだろうか。私たちも自分の生活に差し支えのない限りにおいて、神の招きに応えようとしてはいないだろうか。自分の生活を成り立たせることの方が大切になってしまって、神の招きに応えることは2番目、3番目になってしまう。それは本当に神の招きを受ける道なのか。神はそういう「私たちの都合」を優先して造られている生活を、「神の都合」優先というところから建て直そうとされる。その意味では、神は私たちの人生という名の家をリフォームするのではなく、すっかり建て直してしまわれるのである。あなたの都合が優先されて造られた生活に神の恵みを加えて少しだけ手直しするのではなく、「自分の都合優先」という基礎を取り除き、「神の都合優先」という基礎に据えかえて、すっかり造り直される。そうやって、それまでに知ることのなかった大きな喜びへと神は私たちを招き入れるのだ。断った人たちに代わって、人々から神の恵みを受ける資格もないと軽蔑されていた人たちが招かれることになった。この結末は、福音がユダヤ人から異邦人へと届けられるようになることを意味しているのだが、ここにユダヤ人が神の招きを断った真の理由を見る。招かれる資格もないと思っていた人たちは、この招きを重く受け止め、これを逃すまいと招きに応えるが、自分たちには招かれる資格があると思っていたユダヤ人は、その招きの重みが分からなくなっている。招かれる資格があれば、断る資格もあると考え、次の機会に行けばいいと思ったのである。私たちはどうか。