2012年7月8日日曜日

2012年7月8日 説教要旨


目覚めて生きる 」  ルカ12章35節~48節 
 今朝、私たちが心に刻みたいイエス様のお言葉は「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(35節、36節)である。これは、主人が帰って来たときに、足元を照らし、すぐに主人の足を洗うことができるように備えていなさいと言うことである。使徒信条で告白しているように、天に昇られた主は再び、この地上に来られる(再臨)と私たちは信じている。これは聖書の中の最も大切な信仰のひとつである。私も牧師としてこの再臨の信仰に支えられていることをよく実感する。牧師は人の死に立ち会う。ご遺体を火葬するために釜の中に入れる時は、最もつらい時である。しかし、そこで思う。これで終わりではない。やがてイエス様が死の彼方から再び来てくださり、故人を永遠の命へとよみがえらせてくださる。これで終わるのではないと・・・。もし、その信仰がなければ私たちにとって死は空しいものでしかない。私たちは再臨の信仰に立って、愛する者の肉体をイエス様の命の約束の中に置くようにして、火葬にふすのである。再臨信仰は大切な教えだ。

 ところが、この再臨を待つ信仰が崩れ始めるという事態が、このルカ福音書が書かれた時代の信仰者たちの間で生じていた。その頃の信仰者は、イエス様はすぐにでも天から戻って来られると信じていた。ところが、いつまで待ってもイエス様はお戻りにならない。不安になる。疑いが生まれる。そこでルカは、主の再臨を期待して待つようにと、これらの言葉を福音書の中に書き残したのである。

「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て」(46節)とあるように、主はいつ再臨なさるか、それは私たちには知らされていない。だが、いつか分からない時を待つことは人間にとってストレスとなり、苦痛となる。ある信仰者は、再臨を待つ姿勢を崩さないために、自分を戒める文章を書き、それをことあるごとに自らに読み聞かせていた。私たちは自分の信仰生活の中で、再臨を待つという信仰をどれほど大切なこととして位置づけているか、問われる思いがする。

 ところで、再臨を待つ姿勢とは具体的にはどういうことであろうか。ただボンヤリしながらその時を待つのではない。用意しながら待つのである。その用意とは、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる 」とあるように、主人の心を知っているのだから、その心に応じて生きているのである。それが用意をしているということ。つまり「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」(42節)と言われているように、他者、隣人に対して糧を与える者、隣人を養うものとしての働きに打ち込むことである。自分が何とか生きていればよいと言うのではなく、隣人に関わり、隣人を生かすことによって、隣人に糧を与えることによって生きる。隣人と一緒に生きる、それがイエス様を待つ姿勢、用意している姿なのである。その反対は、「下男や女中を殴ったり」(45節)、つまり生かさないで殺す、否定することなのである。他者の命を尊べないでいるこの僕、用意のできていない僕は、自分自身のことも尊ぶことができていないのである。自分を愛することができたとき、はじめて私たちは他者を愛することができるようになるのだから。この僕は、自分自身の人生に対して、自分のしている業に対して、自分自身に対して、それを受け入れることができず、どうせ自分なんて・・・どうせ私のしていることなんて・・・と否定的にしか受け止められないでいるのである。確かに、他者を生かすための私たちの業というのは、小さく、時として何の実りもえられずに挫折し、空しいものにしか感じられないことがある。しかし再臨の主は、私たちの小さな業を受け止めてねぎらってくださる方、私たちの傍らに立ち、「よくやった忠実な僕よ」と声をかけてくださる方なのである。

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる 」(37節)と言う。主人が帰ってくると、その主人にせっせと僕たちが仕えるのではなく、主人が僕たちに仕えるという反対のことが起きるとイエス様は言われる。仕事に出かけた母親を待つ姉と弟は、帰って来るお母さんを喜ばせようと料理を作って待つことにした。しかし料理などしたこともない。いつもお母さんがしていることを思い起こしては、それをまねて料理をする。やっとの思いで不恰好な2品が完成。そこに母親が帰宅。それを見た母親は子どもたちを席につかせ、腰にエプロンを締め、手際よく料理の続きを始める。そしてすべてが整ったとき、子どもたちの作った不恰好な料理はテープルの真ん中に堂々と置かれ、その食卓は愛と喜びにあふれるのである。主が再臨されるとき、それと同じことが私たちの身に起きるのだ。主が私たちのつたない働きを受け止め、それを喜び、完成させてくださるのだ。だからどんなに小さな業であっても、隣人を生かす業を私たちは心を込めて行い、主を待とう。再臨は私たちにとって喜びのときなのだから。ベテスダ奉仕女たちは引退後、皆で集まって暮らす。その最後の日々を彼女たち「婚礼前夜」と呼ぶ。その時が近づいた喜びと期待を胸に。