2012年7月22日日曜日

2012年7月22日 説教要旨


悔い改めなければ 」  ルカ13章1節~9節 

イエス様の時代、人が災害や不幸な出来事に遭うと、これを神の裁きだと理解する傾向があった。当時、ユダヤを支配していたローマの総督ピラトが、ガリラヤに住むユダヤ人を殺害した。彼らは過越の祭りで犠牲の動物を捧げている時に殺害されたようだ(1節)。言わば、礼拝の最中に殺されたのである。礼拝の最中に、しかも暴力によって・・・人々は、よほどこの人たちは罪深い人たちだったに違いないと思った。そういう思いをイエス様は見抜かれて、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(2節~3節)と言われた。つまり、それは災難だったのであり、天による裁きではないと・・・。シロアムの塔による事故も同じこと。それは天罰ではない。人が災難に見舞われるというのは、その人の罪が重いとか軽いとか、信仰があるとかないとか、あるいは信仰が強いとか弱いとか、そういうこととは関係がない。罪が重いから悲劇に見舞われたのでも、悔い改めて信仰を強めれば悲劇から逃れられるのでもない。信仰があったって、災難に遭うことはあるのである。

誰かに突如として襲いかかった災難を見ながら、これは何か罰を受けるに相当する理由があったからなのではないかとする考え方は、突き詰めると「私が災害を免れたのは私が罪深くなかったからだ。私はあの人たちとは違うのだ」という、言わば「分離」の考え方に根差す。そして「ああ、私でなくてよかった」という感謝からは、何も生まれないのである。災難に遭った人たちと自分を切り離してしまうだけである。そういう考えに対抗して、イエス様は「あなたたちも同じように悔い改めなければ滅びる」と言われる。「悔い改める」というのは、「向きを変える」こと。今までの生き方、その向きを変えることであり、神に背を向けた生き方から、神の方を向いて生きようと向きを変えるのである。誰かに災難が降りかかったときに、何かの理由があったのだろうと詮索して、「でも私にはそんな理由は見当たらないから安心だ」とする「分離」の考えは、神に背を向けた生き方でしかないのである。その生き方から向きを変えてなければ、皆滅びるとイエス様は言われる。分離ではなく、「連帯」なのである。「私は災難から免れて良かった」と感謝するのではなくて、この災難を自らの苦しみとして、災難に遭った人たちと一緒になってこれを受け止める、連帯して行くのである。それこそが神の方を向いた生き方なのである。

他者の受けた災難は、私たち全員に与えられた課題なのだ。どこまでその重荷を一緒に担えるか、共に苦しめるか、そのことを神様はご覧になっておられる。私たちに問うておられるのです。この世界で生きて行くために必要な悔い改めとは、襲いかかった災難を傍観するのではなく、自らの痛みとして共感し、可能な援助を模索することなのである。

創世記2章18節で主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われている。これは夫婦の関係を教える御言葉というだけでなく、もっと広く、人と人との関係は本来、助け合う関わりであることを告げている御言葉である。つまり、私たちは連帯する者としていのちを与えられているのである。

今、「長い棒に短い棒。支え合ったら人になる。支えるから人なんだ」というAC広告が流されている。漢字の「人」という字は、長い棒と短い棒、個性の違う2つの棒が支え合ってできている。支え合ってこそ、人になると言うのだ。これは、聖書の真理に合致するぞ、国が聖書の真理を広告しているではないかと、喜んで息子に伝えると、「僕には長い棒が短い棒を圧迫しているように見えるけど」と言った。これまでの彼の人生経験がそのように解釈させたのだろう。だが、案外多くの人が同じような思いを抱くのではないだろうか・・・。現代の社会は、長い棒、すなわち能力の高いものが、能力のより低い短い棒を支配し、利用する。あるいは分離し、端に追いやっている社会ではないのか。「二極化」は、まさにその現れでしかない。競争力を高めるとか、自立を促すというスローガンのもとに、支え合う仕組みが社会から失われるのは、聖書の真理に反する社会になっていることなのである。確かに競争は必要なこと。だが歯止めのない競争は、支え合う、助け合う仕組みを社会から奪い去る。イエス様はこの御言葉をもって、現代人の悔い改めるべき罪を見ておられるのである。悔い改めなければ、皆、滅びるほどの罪を見ておられるのだ。

6節からのたとえでは、イエス様と父なる神様とのやりとりが、園丁と主人の会話という形で表されている。私たちが悔い改めて、聖書の示すように、支え合い、助け合うという「実り」を結びようにと、忍耐し、とりなす姿を表したものである。主人は、実を結ぶ期間をもう3年も過ぎてしまっているのに、園丁のとりなしの言葉の通りに、待つことにする。園丁の方も、3年を無駄に待った上に、その上になお、「木の周りを掘って、肥やしをやってみよう」と言う。ここで言う「肥やし」とは、私たちがするように、不要な物の寄せ集めではない。この園丁は最も大切なものを肥やしとして与える。そう、自分の命を与えるのである。十字架の死・・・。私たちの人生には、主の命という肥やしが注がれている。