2012年7月15日日曜日

2012年7月15日 説教要旨


正しい判断ができるために 」  ルカ12章49節~59節 

「画龍点睛」、絵に描かれた龍に画家が瞳を点じると、たちまちその龍にいのちが入り、龍が天に昇ったという故事から生まれた言葉。瞳を点ずることによって、死んでいたかのような龍がいのちを得る。いのちが入ると天にまで昇る。私たちの信仰にとっても、そういう画竜点睛がある。私たちにとって、その一点とは「イエス・キリストに結びついているということ」であり、問題は何によって結ばれているかということなのである。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)という御言葉は、主に結びつこうと願う私たちをはねのけるような、私たちになじまない御言葉である。しかしなじまないならば、それを受け流し、自分の心にスーッと入ってくる御言葉だけを繰り返して聞いていれば、それで良いということにはならない。ある画家の長老から聖句入りの絵ハガキをたくさんいただいたことがある。しかしそこには「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません 」(エフェソ4章26節)とか、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(ヨハネ3章15節)という御言葉が記されていた。思うに・・・・ここにこの方の信仰の根性が現れているのである。聖書の御言葉というのは、そのすべてが神から私たちに投げかけられているものであって、それを私たちの側で勝手に選別してよいものなのか、私たちはどんな御言葉であっても、それを神からのものとしてきちんと向き合う姿勢を持たなければいけないのではないか。そこにこそ、真実にキリストと結びつく信仰が育まれる道があるのではないか・・・、この方は、そういう信仰に立ってこれらの絵ハガキを作られたのだと思った。

 私たちは、自分の罪に気がつかせるような御言葉と向き合うことを素直に喜ばないところがある。今朝の御言葉はそういう御言葉である。たとえば49節に「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」とある。私たちが生きているこの世界には、すでにたくさんの火が燃えている。改めてイエス様に火を投じてもらう必要もないほどに。「戦火」という言葉のように、人を燃やし殺してしまう火が、怒りの炎が、憎しみの火が燃えている。それらの火はイエス様が燃やしたいと願われる火ではない。そしてイエス様が投じられる火というのは、そのような間違った火を燃やしてしまう私たち人間の罪を焼き滅ぼしてしまう「裁きの炎」なのである。

だが同時に、今朝の旧約、マラキ書3章1節以下にあるように、神の裁きの火は私たちを精錬する火、すなわち清める火でもあるのだ。私たちの罪を裁き、その裁きを通して私たちを赦し、清め、生かす火なのである。そうでなければ、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言うイエス様の言葉を理解することはできない。50節の「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」という言葉は、裁きの火が投じられるとき、その火は本来焼き尽くされるべき私たちではなく、イエス様ご自身を焼き尽くす火となることを示す、すなわち十字架を指し示す言葉である。

私たちは、主が十字架につけられている姿と向き合い、それを凝視するところでだけ、本当は厳しく裁かれるべき自分の姿を垣間見ることができる。裁かれるべき私たちの罪がどんなに恐ろしいものであるかを垣間見る。だが同時に、その裁かれる主のお姿の中に私たちは神の赦しを見る。罪と赦しを合わせ見るところで、私たちはキリストと真実に結び付けられるのだ。ヨハネ8章の姦淫の罪を犯した女性は、イエス様の「罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げよ」との一言によって彼女を裁こうと集まっていた人々が皆、その場を立ち去ってしまったにもかかわらず、彼女はただ一人残っておられた主のもとを離れようとはしなかった。彼女は知ったのである。自分の罪の問題は、この方を離れてはどこでも解決できないと。この方だけが私の罪を裁き、そして赦すことができるお方なのだと・・・。そのとき、彼女は自分の「罪とその赦し」という一点においてキリストと結びつき、画竜点睛の一点をその人生に書き込んだのである。

私たちがそうやってキリストと結び付けられるとき、私たちはそれまで結びついてきたものを振り落とさなければならない。それがどんなに自分の愛している家族であろうが、キリストへの結びつきを妨げるものは、一度、振り切られなければならない。それらのものをもう一度、主との関係から受け取り直せるために。

主が火を投じられるという御言葉の中に、主の招きの声が聞こえている、確かに聞こえている。イエス様は「時を見分けよ」(56節)と言われる。地上に火をもたらすイエス様が今、ここに来ておられる。あなたにとって、今は決断の時、かけがえのない時が来ているのである。だが、その時はいつまでも続くものではない。57節からの「訴える人と仲直りする」という話、仲直りのチャンスは裁判の場に到着するまでの間なのである。裁きの場に着いてしまってからでは手遅れとなる。この、あなたを訴える人というのは神様のこと。今の時を正しく判断して、イエス様を受け入れ、神と仲直りせよと主は招いておられる。