2012年7月1日日曜日

2012年7月1日 説教要旨


悩みが消える 」  ルカ12章13節~34節 
 遺産の問題は家族の分裂を招きかねない深刻な問題。しかしイエス様は遺産の問題の処理してもらおうとやって来た人の求めを断られた。そして、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われた。この返答には、遺産が公正に分けられれば、それで物事は解決するのか。世の中の不公正を解決すれば、人間の問題のすべては解決するのか、それで人は幸せに生きられるのか、という問いかけが込められている。イエス様はその問いに対して、人の命は財産によってどうすることもできないと、明確にご自身の考えを提示される。そしてさらにそのことを深く考えさせるためのたとえ話をされる。

このたとえの中の金持ちは、一般に人が考える理想の生活がある。これから先、何年も生きて行くだけの蓄えがあり、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめと言える生活なのである。しかしそれで人は幸せに生きられるのか。大塚野百合さんは、「本当は恐ろしいオズの魔法使い」という話の中で、苦しみがなく、欲しいものは何でも手に入る、これほど恐ろしいことはない。そういうことで人は幸せになれるのか、と問うている。イエス様の言葉で言えば、財産でもって人は命の問題を解決できるのか、と言うということである。

 この金持ちは「愚か」と言われているが、この「愚か」という言葉は、原文ギリシャ語では「理性がない」となっている。だが、彼の行動は実に理性的ではないのか。将来を見通した目を持ち、現状に甘んじない冷静さを持ち、かつ倉を建て替える柔軟さもある。それに加えて、見事な決断力と実行力を持つ。これを理性的と言わずして何を理性的と言うのだろうか、と思うほど。だが主は、彼のことを「愚かな者よ」と呼ばれる。なぜなのか。

 ギリシャ語で読むと、彼のセリフにはいちいち「わたし」という言葉がついているのが分かる。私の作物、私の倉と言った具合に。つまり彼は、神が貸し与えてくださった財産、穀物をすべて自分のものだと勘違いしているのだ。それが愚かと言われる理由だと、ある人は指摘する。またある人は、19節の言葉は通常、祭司が祝福として人に告げる言葉なのだが、彼は自分で自分を祝福してしまっており、それが愚かな理由だと言う。結局のところ、彼の愚かさは一つに集約される。つまり、彼はすべて神抜きで考えていると言うこと。神様を計算に入れていないのである。聖書は、神様を抜きにした理性は愚かなものであると言うのである。彼は賢く振舞ったが、それは神抜きの賢さ、この世の賢さに過ぎない。今日、そして明日をつかさどっている神を忘れている。

 そしてイエス様は、「思い悩むな」とお語りになる。どんなに思い悩んだとしても、私たちは自分の寿命を延ばすことはできない。そう、人間の手の届く領域というものがあり、どんなにしたって手の届かない領域というものがある。なぜ、手の届かぬ領域のことであるのに、あたかも自分の手が届くかのように思い悩むのか。自分の領域を越えて、思い悩むな。烏を見よ。烏はえさをして一生懸命生きてはいるが、それは自分の手の届く範囲内でのこと。彼らは自分の手の届かぬ範囲のことを思い悩むことはない。それなのに、あなたたちは何てことまで思い悩んでいるのか。それは神がお考えになること、神の領域のことではないか。なぜもっと、あなたを養っている神を信頼できないのか。もっともっとわたしを信頼してもいいのだよとイエス様は私たちに語りかけられる。
 神学校を卒業し田舎の教会に赴任した仲間の牧師は、今度の牧師が音を上げたら、もう教会を閉鎖しようという状況の教会に赴任した。彼は悩んだ。そして誰もいない礼拝堂でよく祈った。祈っていくうちに、ここは神の教会、私が仕えてはいるが私の教会ではない。神の教会だという当たり前のことに気がつき、ならば「あなたの教会なのですから、あなたが何とかしてください。あなたが悩んでください」と祈るようになった。するとその後、教会は多くの出会いが与えられ、多くの教会員を迎えることができ、今では会堂建築にまで話が及んでいるそうだ。子どもの悩み、仕事の悩み、健康の悩み、いろいろな悩みが、私たちにはある。悩むなといわれても無理だ。だが、私たちは際限なく悩むことはしない。歯止めが効いた悩み方をする。なぜなら、神の領域のことまで私たちは悩まないでいいのだから。神に任せていい領域があるのだから・・・。 

 主は「神の国を求めよ」と言われる。「神抜き」ではなく、神を計算に入れた生き方をせよということ。多くの人は、神抜きの生き方をしている。そこは財力と武力が物を言う世界。だが、そこでどんなに勝ち続けても、それで人は幸せにはなれない。9.11の事件で、財力と武力の象徴である貿易センタービルが破壊された。あの事件で夫を失った若妻は「夫の突然の死を通して、この世界が和解と寛容と赦しの精神なしには存在できないことを知った」と、人の力だけではどうにもならない、神の力に頼らなくては乗り越えられない現実が、この世にはあることを告白した。神を無視した所で人は悩みから解放されることはない。