2012年7月29日日曜日

2012年7月29日 説教要旨


安息日を聖とする 」  ルカ13章10節~17節 

今朝の福音の出来事は安息日に起きた。安息日は、神がイスラエルの民に与えられた掟のひとつであり、出エジプト記には「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と記されている。聖別するとは、どういうことであろうか。そこでこういうことを話してみたい。聖書の中に登場する祭司は、神と人々との間に立って宗教的儀式を執り行う。彼らは、聖なる神に近づいて儀式を行なうので、神からの清めを受け、聖なる者とされる。すなわち、神の聖さを身に帯びるのである。神の聖さを帯びた祭司は、さまざまな誓約を受ける。たとえば、家族以外の葬儀に出席することを禁じられる。聖さのグレードがさらに高い大祭司に至っては、家族の葬儀の出席も許されない。聖さを死に近づけてはならないのである。それは、神の聖さは命を象徴しているからである。聖さと命は深く結びついており、反対に汚れと死も深く結びついているのだ。したがって、安息日を聖別するというのは、それを命の満ちる日にしなさいということ、生きている喜びが満ち溢れる日にする、それが安息日を聖とするということの意味なのである。

 そういう観点から今朝の物語を読むとき、そこには命が満ち溢れるという喜びは、全く影を潜めてしまっているのではないか。18年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がったままの女性。彼女に同情を抱くものはいなかったのか・・・。彼女の苦しみを取り去ることができない自分たちの無力を嘆きながら、その痛みのために共に祈るものはいなかったのか。命が満ち溢れる安息日の礼拝であるならば、この女性の弱さや痛みが皆の配慮の中に置かれ、皆の祈りの中に置かれるべきでなかったか。もしそうされているならば、その病が癒されなかったとしても、彼女に仲間がいるという支えを得て、命が満ち溢れるということが起こりえたのではないか。だが、そのような気配は全く感じられない。むしろ、イエス様が彼女を癒されたとき、礼拝の責任を負っていた会堂長が腹を立て、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と文句をつけたほどである。イエス様の治療行為は、立派な労働とみなされ、安息日の戒めに反する行為であると非難されてしまったのである。しかしイエス様は、「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と反論された。安息日は、命が満ちる日であるべきだ。生きていることの喜びがあふれる日であるはずだ。私はその原点を取り戻すと言われるのである。イエス様は彼らの安息日に革命を起こそうとしておられるのだ。そこで私たちの安息日はどのようになっているかと考えさせられるのである。イエス様に革命を起こしてもらわないといけないようなものになっていないだろうか・・・・。

 安息日は、「いかなる仕事もしてはいけない」とある。これは実に深い意味を持つ言葉だと思う。なぜなら、多くの現代人は、何かの活動をし、何かの成果をあげる、つまり働くことによって、自分の価値を見出し、生きる喜びを味わおうとするからである。反対に、働くことをやめるというのは、何か自分が不必要な人間、もはや生きる意味のない人間になってしまったと感じているのである。安息日の戒めは、あなたがどんな働きをするかということによって、あなたの命の価値が計られてはならない。むしろ、あなたがただ存在しているということこそが、命が満ち溢れる根拠とならなければならないと告げているのである。私は思う。18年間腰の曲がった女の人は、仕事なんか全くできなかったのではないかと・・・。働くこともできなくなった自分は、ただ皆の足を引っ張るだけの存在で、とても生きる喜びなんて感じられない。むしろ、生きることは苦しみでしかないと感じていたのではないか・・・・。働いて何かの成果を生み出すことに大きな価値を見出そうとする社会は、この女性の存在価値を否定し、彼女の中に命が満ち溢れることを妨げる方向に作用していたのではないか・・・。それは今日の社会においても、あてはまることなのではないのかと・・・。安息日は、何よりもあなたの存在そのものを神が喜んでいてくださることを覚える日であり、その神の喜びを私たちの喜びとする日なのである(神の喜びを共有する日)なのである。イエス様は、そういう安息日を取り戻そうとしておられる。ちょうどロンドンオリンピックが始まった。メダルを取ることを期待されながらも、それに応えることができなかった選手が、自分の存在まで否定するかのような発言をしたり、メダルを取れたときに初めて自分の存在を認めてあげられるみたいな発言を聞くと、ひどく胸が痛む。私たちは労働の分野だけでなく、スポーツでも、あらゆる分野において功績主義のとりこになっており、功績を生み出せない者は存在する価値もないという恐ろしい価値観のとりこになっているのではないか。宮井理恵姉が幼子を腕に抱いて「生まれて来てくれただけでうれしい」と言っていた。存在がすでに大きな喜びとなっている。神様も私たちのことを同じように見てくださっているのだ。高齢になると、何もできなくなった自分は意味のない存在だと思えてくるかも知れない。しかし安息日規定はそういう思いと戦うことを私たちに求めている。皆で共に戦うことを。

2012年7月22日日曜日

2012年7月22日 説教要旨


悔い改めなければ 」  ルカ13章1節~9節 

イエス様の時代、人が災害や不幸な出来事に遭うと、これを神の裁きだと理解する傾向があった。当時、ユダヤを支配していたローマの総督ピラトが、ガリラヤに住むユダヤ人を殺害した。彼らは過越の祭りで犠牲の動物を捧げている時に殺害されたようだ(1節)。言わば、礼拝の最中に殺されたのである。礼拝の最中に、しかも暴力によって・・・人々は、よほどこの人たちは罪深い人たちだったに違いないと思った。そういう思いをイエス様は見抜かれて、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(2節~3節)と言われた。つまり、それは災難だったのであり、天による裁きではないと・・・。シロアムの塔による事故も同じこと。それは天罰ではない。人が災難に見舞われるというのは、その人の罪が重いとか軽いとか、信仰があるとかないとか、あるいは信仰が強いとか弱いとか、そういうこととは関係がない。罪が重いから悲劇に見舞われたのでも、悔い改めて信仰を強めれば悲劇から逃れられるのでもない。信仰があったって、災難に遭うことはあるのである。

誰かに突如として襲いかかった災難を見ながら、これは何か罰を受けるに相当する理由があったからなのではないかとする考え方は、突き詰めると「私が災害を免れたのは私が罪深くなかったからだ。私はあの人たちとは違うのだ」という、言わば「分離」の考え方に根差す。そして「ああ、私でなくてよかった」という感謝からは、何も生まれないのである。災難に遭った人たちと自分を切り離してしまうだけである。そういう考えに対抗して、イエス様は「あなたたちも同じように悔い改めなければ滅びる」と言われる。「悔い改める」というのは、「向きを変える」こと。今までの生き方、その向きを変えることであり、神に背を向けた生き方から、神の方を向いて生きようと向きを変えるのである。誰かに災難が降りかかったときに、何かの理由があったのだろうと詮索して、「でも私にはそんな理由は見当たらないから安心だ」とする「分離」の考えは、神に背を向けた生き方でしかないのである。その生き方から向きを変えてなければ、皆滅びるとイエス様は言われる。分離ではなく、「連帯」なのである。「私は災難から免れて良かった」と感謝するのではなくて、この災難を自らの苦しみとして、災難に遭った人たちと一緒になってこれを受け止める、連帯して行くのである。それこそが神の方を向いた生き方なのである。

他者の受けた災難は、私たち全員に与えられた課題なのだ。どこまでその重荷を一緒に担えるか、共に苦しめるか、そのことを神様はご覧になっておられる。私たちに問うておられるのです。この世界で生きて行くために必要な悔い改めとは、襲いかかった災難を傍観するのではなく、自らの痛みとして共感し、可能な援助を模索することなのである。

創世記2章18節で主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われている。これは夫婦の関係を教える御言葉というだけでなく、もっと広く、人と人との関係は本来、助け合う関わりであることを告げている御言葉である。つまり、私たちは連帯する者としていのちを与えられているのである。

今、「長い棒に短い棒。支え合ったら人になる。支えるから人なんだ」というAC広告が流されている。漢字の「人」という字は、長い棒と短い棒、個性の違う2つの棒が支え合ってできている。支え合ってこそ、人になると言うのだ。これは、聖書の真理に合致するぞ、国が聖書の真理を広告しているではないかと、喜んで息子に伝えると、「僕には長い棒が短い棒を圧迫しているように見えるけど」と言った。これまでの彼の人生経験がそのように解釈させたのだろう。だが、案外多くの人が同じような思いを抱くのではないだろうか・・・。現代の社会は、長い棒、すなわち能力の高いものが、能力のより低い短い棒を支配し、利用する。あるいは分離し、端に追いやっている社会ではないのか。「二極化」は、まさにその現れでしかない。競争力を高めるとか、自立を促すというスローガンのもとに、支え合う仕組みが社会から失われるのは、聖書の真理に反する社会になっていることなのである。確かに競争は必要なこと。だが歯止めのない競争は、支え合う、助け合う仕組みを社会から奪い去る。イエス様はこの御言葉をもって、現代人の悔い改めるべき罪を見ておられるのである。悔い改めなければ、皆、滅びるほどの罪を見ておられるのだ。

6節からのたとえでは、イエス様と父なる神様とのやりとりが、園丁と主人の会話という形で表されている。私たちが悔い改めて、聖書の示すように、支え合い、助け合うという「実り」を結びようにと、忍耐し、とりなす姿を表したものである。主人は、実を結ぶ期間をもう3年も過ぎてしまっているのに、園丁のとりなしの言葉の通りに、待つことにする。園丁の方も、3年を無駄に待った上に、その上になお、「木の周りを掘って、肥やしをやってみよう」と言う。ここで言う「肥やし」とは、私たちがするように、不要な物の寄せ集めではない。この園丁は最も大切なものを肥やしとして与える。そう、自分の命を与えるのである。十字架の死・・・。私たちの人生には、主の命という肥やしが注がれている。

2012年7月15日日曜日

2012年7月15日 説教要旨


正しい判断ができるために 」  ルカ12章49節~59節 

「画龍点睛」、絵に描かれた龍に画家が瞳を点じると、たちまちその龍にいのちが入り、龍が天に昇ったという故事から生まれた言葉。瞳を点ずることによって、死んでいたかのような龍がいのちを得る。いのちが入ると天にまで昇る。私たちの信仰にとっても、そういう画竜点睛がある。私たちにとって、その一点とは「イエス・キリストに結びついているということ」であり、問題は何によって結ばれているかということなのである。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)という御言葉は、主に結びつこうと願う私たちをはねのけるような、私たちになじまない御言葉である。しかしなじまないならば、それを受け流し、自分の心にスーッと入ってくる御言葉だけを繰り返して聞いていれば、それで良いということにはならない。ある画家の長老から聖句入りの絵ハガキをたくさんいただいたことがある。しかしそこには「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません 」(エフェソ4章26節)とか、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(ヨハネ3章15節)という御言葉が記されていた。思うに・・・・ここにこの方の信仰の根性が現れているのである。聖書の御言葉というのは、そのすべてが神から私たちに投げかけられているものであって、それを私たちの側で勝手に選別してよいものなのか、私たちはどんな御言葉であっても、それを神からのものとしてきちんと向き合う姿勢を持たなければいけないのではないか。そこにこそ、真実にキリストと結びつく信仰が育まれる道があるのではないか・・・、この方は、そういう信仰に立ってこれらの絵ハガキを作られたのだと思った。

 私たちは、自分の罪に気がつかせるような御言葉と向き合うことを素直に喜ばないところがある。今朝の御言葉はそういう御言葉である。たとえば49節に「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」とある。私たちが生きているこの世界には、すでにたくさんの火が燃えている。改めてイエス様に火を投じてもらう必要もないほどに。「戦火」という言葉のように、人を燃やし殺してしまう火が、怒りの炎が、憎しみの火が燃えている。それらの火はイエス様が燃やしたいと願われる火ではない。そしてイエス様が投じられる火というのは、そのような間違った火を燃やしてしまう私たち人間の罪を焼き滅ぼしてしまう「裁きの炎」なのである。

だが同時に、今朝の旧約、マラキ書3章1節以下にあるように、神の裁きの火は私たちを精錬する火、すなわち清める火でもあるのだ。私たちの罪を裁き、その裁きを通して私たちを赦し、清め、生かす火なのである。そうでなければ、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言うイエス様の言葉を理解することはできない。50節の「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」という言葉は、裁きの火が投じられるとき、その火は本来焼き尽くされるべき私たちではなく、イエス様ご自身を焼き尽くす火となることを示す、すなわち十字架を指し示す言葉である。

私たちは、主が十字架につけられている姿と向き合い、それを凝視するところでだけ、本当は厳しく裁かれるべき自分の姿を垣間見ることができる。裁かれるべき私たちの罪がどんなに恐ろしいものであるかを垣間見る。だが同時に、その裁かれる主のお姿の中に私たちは神の赦しを見る。罪と赦しを合わせ見るところで、私たちはキリストと真実に結び付けられるのだ。ヨハネ8章の姦淫の罪を犯した女性は、イエス様の「罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げよ」との一言によって彼女を裁こうと集まっていた人々が皆、その場を立ち去ってしまったにもかかわらず、彼女はただ一人残っておられた主のもとを離れようとはしなかった。彼女は知ったのである。自分の罪の問題は、この方を離れてはどこでも解決できないと。この方だけが私の罪を裁き、そして赦すことができるお方なのだと・・・。そのとき、彼女は自分の「罪とその赦し」という一点においてキリストと結びつき、画竜点睛の一点をその人生に書き込んだのである。

私たちがそうやってキリストと結び付けられるとき、私たちはそれまで結びついてきたものを振り落とさなければならない。それがどんなに自分の愛している家族であろうが、キリストへの結びつきを妨げるものは、一度、振り切られなければならない。それらのものをもう一度、主との関係から受け取り直せるために。

主が火を投じられるという御言葉の中に、主の招きの声が聞こえている、確かに聞こえている。イエス様は「時を見分けよ」(56節)と言われる。地上に火をもたらすイエス様が今、ここに来ておられる。あなたにとって、今は決断の時、かけがえのない時が来ているのである。だが、その時はいつまでも続くものではない。57節からの「訴える人と仲直りする」という話、仲直りのチャンスは裁判の場に到着するまでの間なのである。裁きの場に着いてしまってからでは手遅れとなる。この、あなたを訴える人というのは神様のこと。今の時を正しく判断して、イエス様を受け入れ、神と仲直りせよと主は招いておられる。 

2012年7月8日日曜日

2012年7月8日 説教要旨


目覚めて生きる 」  ルカ12章35節~48節 
 今朝、私たちが心に刻みたいイエス様のお言葉は「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(35節、36節)である。これは、主人が帰って来たときに、足元を照らし、すぐに主人の足を洗うことができるように備えていなさいと言うことである。使徒信条で告白しているように、天に昇られた主は再び、この地上に来られる(再臨)と私たちは信じている。これは聖書の中の最も大切な信仰のひとつである。私も牧師としてこの再臨の信仰に支えられていることをよく実感する。牧師は人の死に立ち会う。ご遺体を火葬するために釜の中に入れる時は、最もつらい時である。しかし、そこで思う。これで終わりではない。やがてイエス様が死の彼方から再び来てくださり、故人を永遠の命へとよみがえらせてくださる。これで終わるのではないと・・・。もし、その信仰がなければ私たちにとって死は空しいものでしかない。私たちは再臨の信仰に立って、愛する者の肉体をイエス様の命の約束の中に置くようにして、火葬にふすのである。再臨信仰は大切な教えだ。

 ところが、この再臨を待つ信仰が崩れ始めるという事態が、このルカ福音書が書かれた時代の信仰者たちの間で生じていた。その頃の信仰者は、イエス様はすぐにでも天から戻って来られると信じていた。ところが、いつまで待ってもイエス様はお戻りにならない。不安になる。疑いが生まれる。そこでルカは、主の再臨を期待して待つようにと、これらの言葉を福音書の中に書き残したのである。

「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て」(46節)とあるように、主はいつ再臨なさるか、それは私たちには知らされていない。だが、いつか分からない時を待つことは人間にとってストレスとなり、苦痛となる。ある信仰者は、再臨を待つ姿勢を崩さないために、自分を戒める文章を書き、それをことあるごとに自らに読み聞かせていた。私たちは自分の信仰生活の中で、再臨を待つという信仰をどれほど大切なこととして位置づけているか、問われる思いがする。

 ところで、再臨を待つ姿勢とは具体的にはどういうことであろうか。ただボンヤリしながらその時を待つのではない。用意しながら待つのである。その用意とは、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる 」とあるように、主人の心を知っているのだから、その心に応じて生きているのである。それが用意をしているということ。つまり「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」(42節)と言われているように、他者、隣人に対して糧を与える者、隣人を養うものとしての働きに打ち込むことである。自分が何とか生きていればよいと言うのではなく、隣人に関わり、隣人を生かすことによって、隣人に糧を与えることによって生きる。隣人と一緒に生きる、それがイエス様を待つ姿勢、用意している姿なのである。その反対は、「下男や女中を殴ったり」(45節)、つまり生かさないで殺す、否定することなのである。他者の命を尊べないでいるこの僕、用意のできていない僕は、自分自身のことも尊ぶことができていないのである。自分を愛することができたとき、はじめて私たちは他者を愛することができるようになるのだから。この僕は、自分自身の人生に対して、自分のしている業に対して、自分自身に対して、それを受け入れることができず、どうせ自分なんて・・・どうせ私のしていることなんて・・・と否定的にしか受け止められないでいるのである。確かに、他者を生かすための私たちの業というのは、小さく、時として何の実りもえられずに挫折し、空しいものにしか感じられないことがある。しかし再臨の主は、私たちの小さな業を受け止めてねぎらってくださる方、私たちの傍らに立ち、「よくやった忠実な僕よ」と声をかけてくださる方なのである。

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる 」(37節)と言う。主人が帰ってくると、その主人にせっせと僕たちが仕えるのではなく、主人が僕たちに仕えるという反対のことが起きるとイエス様は言われる。仕事に出かけた母親を待つ姉と弟は、帰って来るお母さんを喜ばせようと料理を作って待つことにした。しかし料理などしたこともない。いつもお母さんがしていることを思い起こしては、それをまねて料理をする。やっとの思いで不恰好な2品が完成。そこに母親が帰宅。それを見た母親は子どもたちを席につかせ、腰にエプロンを締め、手際よく料理の続きを始める。そしてすべてが整ったとき、子どもたちの作った不恰好な料理はテープルの真ん中に堂々と置かれ、その食卓は愛と喜びにあふれるのである。主が再臨されるとき、それと同じことが私たちの身に起きるのだ。主が私たちのつたない働きを受け止め、それを喜び、完成させてくださるのだ。だからどんなに小さな業であっても、隣人を生かす業を私たちは心を込めて行い、主を待とう。再臨は私たちにとって喜びのときなのだから。ベテスダ奉仕女たちは引退後、皆で集まって暮らす。その最後の日々を彼女たち「婚礼前夜」と呼ぶ。その時が近づいた喜びと期待を胸に。

2012年7月1日日曜日

2012年7月1日 説教要旨


悩みが消える 」  ルカ12章13節~34節 
 遺産の問題は家族の分裂を招きかねない深刻な問題。しかしイエス様は遺産の問題の処理してもらおうとやって来た人の求めを断られた。そして、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われた。この返答には、遺産が公正に分けられれば、それで物事は解決するのか。世の中の不公正を解決すれば、人間の問題のすべては解決するのか、それで人は幸せに生きられるのか、という問いかけが込められている。イエス様はその問いに対して、人の命は財産によってどうすることもできないと、明確にご自身の考えを提示される。そしてさらにそのことを深く考えさせるためのたとえ話をされる。

このたとえの中の金持ちは、一般に人が考える理想の生活がある。これから先、何年も生きて行くだけの蓄えがあり、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめと言える生活なのである。しかしそれで人は幸せに生きられるのか。大塚野百合さんは、「本当は恐ろしいオズの魔法使い」という話の中で、苦しみがなく、欲しいものは何でも手に入る、これほど恐ろしいことはない。そういうことで人は幸せになれるのか、と問うている。イエス様の言葉で言えば、財産でもって人は命の問題を解決できるのか、と言うということである。

 この金持ちは「愚か」と言われているが、この「愚か」という言葉は、原文ギリシャ語では「理性がない」となっている。だが、彼の行動は実に理性的ではないのか。将来を見通した目を持ち、現状に甘んじない冷静さを持ち、かつ倉を建て替える柔軟さもある。それに加えて、見事な決断力と実行力を持つ。これを理性的と言わずして何を理性的と言うのだろうか、と思うほど。だが主は、彼のことを「愚かな者よ」と呼ばれる。なぜなのか。

 ギリシャ語で読むと、彼のセリフにはいちいち「わたし」という言葉がついているのが分かる。私の作物、私の倉と言った具合に。つまり彼は、神が貸し与えてくださった財産、穀物をすべて自分のものだと勘違いしているのだ。それが愚かと言われる理由だと、ある人は指摘する。またある人は、19節の言葉は通常、祭司が祝福として人に告げる言葉なのだが、彼は自分で自分を祝福してしまっており、それが愚かな理由だと言う。結局のところ、彼の愚かさは一つに集約される。つまり、彼はすべて神抜きで考えていると言うこと。神様を計算に入れていないのである。聖書は、神様を抜きにした理性は愚かなものであると言うのである。彼は賢く振舞ったが、それは神抜きの賢さ、この世の賢さに過ぎない。今日、そして明日をつかさどっている神を忘れている。

 そしてイエス様は、「思い悩むな」とお語りになる。どんなに思い悩んだとしても、私たちは自分の寿命を延ばすことはできない。そう、人間の手の届く領域というものがあり、どんなにしたって手の届かない領域というものがある。なぜ、手の届かぬ領域のことであるのに、あたかも自分の手が届くかのように思い悩むのか。自分の領域を越えて、思い悩むな。烏を見よ。烏はえさをして一生懸命生きてはいるが、それは自分の手の届く範囲内でのこと。彼らは自分の手の届かぬ範囲のことを思い悩むことはない。それなのに、あなたたちは何てことまで思い悩んでいるのか。それは神がお考えになること、神の領域のことではないか。なぜもっと、あなたを養っている神を信頼できないのか。もっともっとわたしを信頼してもいいのだよとイエス様は私たちに語りかけられる。
 神学校を卒業し田舎の教会に赴任した仲間の牧師は、今度の牧師が音を上げたら、もう教会を閉鎖しようという状況の教会に赴任した。彼は悩んだ。そして誰もいない礼拝堂でよく祈った。祈っていくうちに、ここは神の教会、私が仕えてはいるが私の教会ではない。神の教会だという当たり前のことに気がつき、ならば「あなたの教会なのですから、あなたが何とかしてください。あなたが悩んでください」と祈るようになった。するとその後、教会は多くの出会いが与えられ、多くの教会員を迎えることができ、今では会堂建築にまで話が及んでいるそうだ。子どもの悩み、仕事の悩み、健康の悩み、いろいろな悩みが、私たちにはある。悩むなといわれても無理だ。だが、私たちは際限なく悩むことはしない。歯止めが効いた悩み方をする。なぜなら、神の領域のことまで私たちは悩まないでいいのだから。神に任せていい領域があるのだから・・・。 

 主は「神の国を求めよ」と言われる。「神抜き」ではなく、神を計算に入れた生き方をせよということ。多くの人は、神抜きの生き方をしている。そこは財力と武力が物を言う世界。だが、そこでどんなに勝ち続けても、それで人は幸せにはなれない。9.11の事件で、財力と武力の象徴である貿易センタービルが破壊された。あの事件で夫を失った若妻は「夫の突然の死を通して、この世界が和解と寛容と赦しの精神なしには存在できないことを知った」と、人の力だけではどうにもならない、神の力に頼らなくては乗り越えられない現実が、この世にはあることを告白した。神を無視した所で人は悩みから解放されることはない。