2012年6月3日日曜日

2012年6月3日 説教要旨


救いを見よ 」  ルカ11章29節~36節 

 国際オピンリピック協会のジャック・ロゲ会長が「シティー・オブ・リオデジャネイロ」と次の開催地を宣言したとき、ブラジルの人たちの心はバーッと明るくなった。自分たちを取り巻く環境の何かが変わったということは何もなかったが、あの一言の宣言によって、ブラジルの人々の心の中に希望の光がともった。そのように、私たちが生きているときに、同じ環境でありながら、その私たちの心にどのような光が差し込んでいるか、何を見ているか、そのことによって私たちの在り方が大きく変わってくる。今朝、この礼拝堂に集まった私たちにも光が注がれている。暗い表情でここに来られた方がいるかも知れない。しかしその私たちに光が注がれている。その光を私たちの心に受け止めよう。その光によって生かされて行こう。ブラジルの興奮はオリンピックが終わればやがて収まっていくだろうが、私たちに注がれている光は終わることなく、私たちひとりひとりを輝ける存在として生かし続ける。この朝、ルカによる福音書第11章29節以下を読む。ここに記されているイエス様の一言の宣言、そこから神の光が注がれている。その主の宣言を心に受け止めるなら私たちの存在は明るくなる。そう、主は約束しておられる。

 イエス様の元に集まる群集がますます増えてきた。群集は「しるし」求めて集まって来た。悪霊を追い出し、数々の病気を癒すイエス様に対して、もしあなたがこれらのことを神の力、天の力でもってしているならば、そのしるしとなるもの、証拠を見せろ、と言うのである。確たる証拠を求めたい心・・・これは私たちも知っている。先日、ある方とお会いしたとき、「自分が本当に神様に愛されているのか分からなくなっている。自分を取り巻く状況からは、とても愛されているとは思えない」、そう言われた。そこでこう答えた。今日、「こうして私たちがここに来ているでしょう。私たちがここに来ているというのは、神様があなたのことを愛しておられて、神様が私たちをここに遣わされたということなのですよ 」。そうしたら「ああ、そうなんだ」と言って、暗い表情が一気に明るくなった。私たちもこの人の気持ちがよく分かると思う。自分を取り巻く環境、どれひとつとってもうまく行かない。悪い方、悪い方に事態が展開して行くように思えてならない。そういう時、自分は神様に見放されているのではないかという思いが沸き起こってくる。特に、苦しい状況に置かれているとき、私たちはつい、そういう思いになってしまいがち。この時代のユダヤの人たちは、なおさらのことだった。ユダヤの国は徹底的に破壊され、他国の支配に屈した。その状況はイエス様の時代になってもまだ続いていた。そういう苦難の中にあったから、「ここに希望がある」と聞いたって、そう簡単に信じるわけには行かない。自分たちは神に選ばれた特別な民でありながら、そういう痛い経験をしている。一体、どこに神様の愛が注がれているというのか・・・。信じない。疑い深いのである。それに対して、イエス様は「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言う。ヨナは悪徳の町ニネベに宣教に行った。ニネベの人たちはヨナの語った神の宣言の言葉によって悔い改めた。ここにヨナにもまさる力ある神の言葉を語る者がいるではないか、と主は言われるのである。南の国の女王は、王ソロモンの知恵の素晴らしさをうわさに聞き、はるばる遠くからやって来た。ここにソロモンに勝る知恵の言葉を語る者がいるではないか、と主は言われる。そういう方が目の前にいるのに、それを見ることができない、信じることができない、かえって、証拠を見せろ、別の証明を見せてみろと要求する。ここに、目が澄んでいない人たちの姿がある(この澄むという言葉は29節の「よこしま」の反意語である)。目が澄んでいないというのは、見るべきものを見ない目、見ようとしない目である。本当に必要一点、そこを見ないで、それ以外のものに目移りを繰り返す目である。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあるように、誰だって光は皆が見えるところに置く。神様も、はっきりとその光が見えるようにイエス様という光を置いてくださっているのだ。それなのにそれが見えない、いや、見ようとしない。

「信仰」という言葉は、実にいい言葉だ。「信じて、仰ぐ」と書く。「仰ぐ」とは上を向くこと。しるしを見せろ、信じられるだけの納得できるものを見せろ、というのは明らかに「上から目線」であって、上を見てはいない。反対に、見下ろしている。それでは仰ぐことにならない。最後にもうひとつ、これと同じ出来事を記したマタイ福音書は、ヨナのしるしをヨナの宣教の言葉ではなく、ヨナが3日3晩の間、大きな魚の中に飲み込まれ、そして吐き出されて助かったことと、イエス様が十字架につけられて三日目によみがえられたことを重ねて理解している。すなわちヨナのしるし、イエス様の十字架と復活のことだと解釈している。十字架と復活にまさるしるしは他にないという。私たちの礼拝堂にも前面の高いところに十字架がつけられている。見上げるために、仰ぐために、高いところに掲げられているのだ。そしてその十字架を仰ぎ続けているところでは、私たちがいかなる状況に置かれたとしても、もはやそこに絶望はないと知るのである。