2012年6月10日日曜日

2012年6月10日 説教要旨


真理を殺すな 」  ルカ11章37節~54節 

 食事の席に招かれて、その招き主に対して語られたイエス様の言葉が記されている。不幸 だという言葉が何度も繰り返されている。通常、招かれた食事の席では口にすることはない言葉だ。イエス様には、それをあえて口にせざるを得ないほどの思いがおありだったのだろう。ここでは外に現れている行為と内側に隠されている思いが問題とされている。ファリサイ人は、外見上は神のおきてを重んじているように見えるのだが、内心ではむしろ神を軽んじてしまっているのである。人間には外見しか分からないが、人の内側も外側もお造りになった神には、そのすべてがお分かりなのである。彼らは、庭にはえる草まで、その十分の一をちゃんと捧げておきながら、その中身は隠された墓のように汚れている。言ってみれば、あなたがたの信仰は「見せかけ」の信仰だと言われるのである。人の目だけを意識しているのである。こういうところから、信仰というのは人の目を気にしないで生きることだと言われることがある。果たしてそうだろうか。人の目を意識するということも大切なことではないか。かつて日本が中国を侵略して満州を建国、支配していた頃、満州国の高官であった日本人がこういうことを書き残している。まだ陽の落ちていない明るい時間帯、満州人の使用人がたくさん働いている中庭の真ん中を、自分の年頃の娘が素っ裸で堂々と、まるで周囲に誰もいなかいのような態度で通り抜け、自分の部屋から風呂場に入って行く場面を見た。その瞬間、満州国は滅びる。日本は中国に負けると思ったそうだ。娘にとって満州人は、自分の裸を見られても恥ずかしくも何ともないもの、犬か猫か、少なくとも人間ではないのである。自分の娘のその態度を見て、ここまで満州人を蔑視する考えを子どもに植え付けてしまった日本のそれまでの満州政策の誤りに愕然とし、そういう日本人がどうして彼らの支持を得られる国を作ることができようかと思ったそうである。他者を人として認識した時、何らかの意味の緊張を感じ、恥じらいを感じ、それを周囲の目として意識するのは自然なことであり、ある意味では人間として大切なことではないかと思う。周囲の目が気にならないのは、相手を無視しているか、軽蔑しているか、自分が無神経なのか、いずれにしても人間としては問題のある態度だ。周囲の目など気にならない、気にしないという人もいるが、そこには何か人間として欠けている、不自然さを感じさせるものがある。人は一人で生きていけるわけはないのだから、周囲の目は必ずあるのであって、それが気になるのは自然なことであり、周囲の目を気にするのは、人を他者として、その存在を認識しているがゆえの気配りであり、人間として失ってはならないセンスである。イエス様も見せかけの信仰を非難されたが、だからと言って周囲の目を気にするな、などとは言っておられない。問題は人を見ているのはその周囲の目だけではないということ。もうひとつの目、すなわち、神の目も人を見ているということなのだ。そして、神の目のもとに自分を置いたとき、初めて人は周囲の目を正しく、周囲の目として意識できるのである。神の目の注がれていることに気づかず、周囲の目のみを意識しているとき、人は周囲の目を気にする臆病になるか、あの娘のように周囲の目を無視する無神経な傲慢に陥るか、どちらかになる。どちらにしても、そこでは自分を見失い、生きる態度が崩れる。

律法の専門家たちへのイエス様の非難の言葉は、その神の目がいかなる目であるかを明らかにする。律法の専門家は、律法を生活の細部にまであてはめた細かい規定を設け、それを守ることを教えた。そういう規定は、かえって人々の重荷になり、神に近づこうとする人々をかえって、神から遠ざけてしまっていた。救い主キリストは、私たちに新たな難しい荷を負わせるために来られたのではない。すでに追い切れない私たちの荷を御自分の身に背負うために来られたのだ。この方は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われた方である。それなのに、あの男は律法を無視しているから、神から遣わされた者ではないと言って、イエス様の周りに集まってくる人たちの心を惑わすその責任は極めて重い。律法の専門家たちは聖書の読みに関してはプロだったのだが、ちゃんと聖書を読めていなかったのである。神の真理を殺すような読み方しかしていなかったのである。なぜなら、神の真理は、神に近づいてくる者に重荷ではなく、重荷からの解放を伝えるものだから・・・。聖書を読んでいて、自分の重荷をますます重く感じたり、苦しさばかりが募るようであれば、その聖書の読み方は間違っていると考えたらよい。それは聖書の真理を殺す読み方でしかない。言い換えると私たちに向けられている神のまなざしは、私たちを生かし、重荷から解放するまなざしなのである。私たちを赦し、建てあげるまなざしなのであって、私たちを卑屈にしたり、尊大にしたりするまなざしではないのである。厳しいことを言われてしまっている彼らだが、ユダヤでは共に食事をするというのは相手と運命を共にするというほどの意味がある。イエス様は彼らの食事の招きを受け入れておられる。せっかく神に選ばれた民であるのに、その人々の中にある不幸を深い悲しみをもって、問わずにおれなかったのである。厳しい言葉の中には、その不幸に気がついて立ち返ってほしいとの願いが込められた言葉なのである。