2012年6月24日日曜日

2012年6月24日 説教要旨


恐れを捨てて 」  ルカ12章1節~12節 

イエス様は「まず弟子たちに話し始められた」とある。なぜ、群集ではなく弟子たちなのか。それは、イエス様が何よりも弟子たちのことを案じておられたからである。主が案じられたことは、弟子たちが恐れる必要のないことを恐れてしまうこと、心配する必要のないことを心配してしまうことであった。4節に「恐れてはならない」、7節に「恐れるな」、11節に「心配してはならない」とあるように、このときの弟子たちの中には恐れや心配があった。だから主がその恐れ、心配を一生懸命取り除こうとしておられるのである。しかも、弟子たちのことを「友人」と呼んでおられる。友人と言うのは、自分が苦しんでいるときには、一緒になってその苦しみを担い、喜んでいるときにはその喜びを分かち合ってくれる存在。そのような関係にある主が「恐れなくていい。不安にならなくていい」と呼びかけてくださっている。今朝、ここに集まった私たちひとりひとりにも恐れがあるかも知れない、何かの心配事を抱いているかも知れない。しかし、主は同じ言葉で私たちに語りかけてくださっている。

今朝の箇所は3つの話が記されているが、真ん中の部分が「恐れるな」という呼びかけで、それをはさむようにして両端のところでは、弟子たちの心の中にある恐れが、いかなる恐れであるかを明らかにする。まず、1節~3節のところでは、ファリサイ人の偽善が問題とされる。偽善というのは、原文ギリシャ語では「お面をつける」という意味の言葉。役者が登場人物なりきって、それを演じて見せる。本当の自分を隠して、全く他の人物であるかのように自分を見せる。それが役者の仕事です。偽善という言葉はそこから生まれた。本当の自分を隠して、別人のようにして見せるのだ。そこには、本当の自分を人に見られてしまうのが怖いという恐れの心があるのである。「パン種に注意しなさい」という言い方は、偽善を生む心を徹底して取り除けという意味。ユダヤの人たちは過越祭の期間、国中から徹底してパン種を取り除いたらしい。ふっくらしたパンを誘惑に負けて食べてしまわないように。ファリサイ派は、熱心な指導者たちだったが、やがてその熱心を人に見せるようになって行った。神の目よりも、人の目ばかりを意識していたのである。主は、人の目を恐れ、人に自分をよく見せようとする心を徹底して取り除けと言われる。

次に語られる恐れは8節~9節、迫害を恐れて、人前でイエス様との関わりを否定してしまうことへの注意喚起である。体を殺してもそれ以上、何もできない者を恐れるなと。普通なら、体を殺される以上に恐ろしいことはないはず。だが彼らはそれ以上、何もできないと・・・。もし、体を殺すことができるものを恐れて、人々の前で私を知らないと言えば、その場を逃れることはできるかも知れない。しかし神の天使たちの前で、つまり天国でイエス様はあなたを知らないと言う。まことに厳しい言葉だ。
しかしイエス様は弟子たちに対して、ただ恐れるな、恐れてはならないと言われるだけのお方ではない。むしろ、本当に恐れるべき方を恐れることをあなたがたは知りなさい。それが、すべての恐れを克服する道なのだと言われる。

「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で。地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(5節)。人は、神を恐れることを知れば知るほど、他のものを恐れなくなる。もちろん、神を恐れるというのは、他のものよりももっと神様の方が怖いと言って、おびえるようなことではない。神を恐れるというのは、神を愛する、畏れ敬う。信頼するということを意味する。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」とある通りである。筋ジストロフィーという不治の病にかかったキリスト者が、「わたしに何とか治るようにと、お札やお守りを買って来てくれる人がいますが、私はその人にこう言うのです。ありがとう。でも、こういったお札やお守りは生きている間は、気休めになるかも知れないが、死ぬときには何の助けにもならない。しかし、わたしたちの主イエス・キリストは『生きているときも、死ぬ時も、わたしたちのただひとつの慰めなのだ』と」手記に書いている。たとえ私たちが地に落ちるようなことがあっても、私たちは主のものとして地に落ちる。主の御目が注がれている中で地に落ちるのだ。そこに何にも優る慰めがある。

ルカ福音書が書かれた時代と異なり、私たちは命の危険にさらされるような迫害の時代に生きてはいない。しかし、状況は変わっても私たちの人生にはさまざまな恐れや心配の種がある。しかしいかなる状況にあろうとも、私たちは決して見捨てられることない。バーバラという一人の少女は、その生涯において体験した悲しみと喜びの出来事の中で、神が確かに自分にも目を留めていてくださることを知った。私たちもそうなのである。

2012年6月10日日曜日

2012年6月10日 説教要旨


真理を殺すな 」  ルカ11章37節~54節 

 食事の席に招かれて、その招き主に対して語られたイエス様の言葉が記されている。不幸 だという言葉が何度も繰り返されている。通常、招かれた食事の席では口にすることはない言葉だ。イエス様には、それをあえて口にせざるを得ないほどの思いがおありだったのだろう。ここでは外に現れている行為と内側に隠されている思いが問題とされている。ファリサイ人は、外見上は神のおきてを重んじているように見えるのだが、内心ではむしろ神を軽んじてしまっているのである。人間には外見しか分からないが、人の内側も外側もお造りになった神には、そのすべてがお分かりなのである。彼らは、庭にはえる草まで、その十分の一をちゃんと捧げておきながら、その中身は隠された墓のように汚れている。言ってみれば、あなたがたの信仰は「見せかけ」の信仰だと言われるのである。人の目だけを意識しているのである。こういうところから、信仰というのは人の目を気にしないで生きることだと言われることがある。果たしてそうだろうか。人の目を意識するということも大切なことではないか。かつて日本が中国を侵略して満州を建国、支配していた頃、満州国の高官であった日本人がこういうことを書き残している。まだ陽の落ちていない明るい時間帯、満州人の使用人がたくさん働いている中庭の真ん中を、自分の年頃の娘が素っ裸で堂々と、まるで周囲に誰もいなかいのような態度で通り抜け、自分の部屋から風呂場に入って行く場面を見た。その瞬間、満州国は滅びる。日本は中国に負けると思ったそうだ。娘にとって満州人は、自分の裸を見られても恥ずかしくも何ともないもの、犬か猫か、少なくとも人間ではないのである。自分の娘のその態度を見て、ここまで満州人を蔑視する考えを子どもに植え付けてしまった日本のそれまでの満州政策の誤りに愕然とし、そういう日本人がどうして彼らの支持を得られる国を作ることができようかと思ったそうである。他者を人として認識した時、何らかの意味の緊張を感じ、恥じらいを感じ、それを周囲の目として意識するのは自然なことであり、ある意味では人間として大切なことではないかと思う。周囲の目が気にならないのは、相手を無視しているか、軽蔑しているか、自分が無神経なのか、いずれにしても人間としては問題のある態度だ。周囲の目など気にならない、気にしないという人もいるが、そこには何か人間として欠けている、不自然さを感じさせるものがある。人は一人で生きていけるわけはないのだから、周囲の目は必ずあるのであって、それが気になるのは自然なことであり、周囲の目を気にするのは、人を他者として、その存在を認識しているがゆえの気配りであり、人間として失ってはならないセンスである。イエス様も見せかけの信仰を非難されたが、だからと言って周囲の目を気にするな、などとは言っておられない。問題は人を見ているのはその周囲の目だけではないということ。もうひとつの目、すなわち、神の目も人を見ているということなのだ。そして、神の目のもとに自分を置いたとき、初めて人は周囲の目を正しく、周囲の目として意識できるのである。神の目の注がれていることに気づかず、周囲の目のみを意識しているとき、人は周囲の目を気にする臆病になるか、あの娘のように周囲の目を無視する無神経な傲慢に陥るか、どちらかになる。どちらにしても、そこでは自分を見失い、生きる態度が崩れる。

律法の専門家たちへのイエス様の非難の言葉は、その神の目がいかなる目であるかを明らかにする。律法の専門家は、律法を生活の細部にまであてはめた細かい規定を設け、それを守ることを教えた。そういう規定は、かえって人々の重荷になり、神に近づこうとする人々をかえって、神から遠ざけてしまっていた。救い主キリストは、私たちに新たな難しい荷を負わせるために来られたのではない。すでに追い切れない私たちの荷を御自分の身に背負うために来られたのだ。この方は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われた方である。それなのに、あの男は律法を無視しているから、神から遣わされた者ではないと言って、イエス様の周りに集まってくる人たちの心を惑わすその責任は極めて重い。律法の専門家たちは聖書の読みに関してはプロだったのだが、ちゃんと聖書を読めていなかったのである。神の真理を殺すような読み方しかしていなかったのである。なぜなら、神の真理は、神に近づいてくる者に重荷ではなく、重荷からの解放を伝えるものだから・・・。聖書を読んでいて、自分の重荷をますます重く感じたり、苦しさばかりが募るようであれば、その聖書の読み方は間違っていると考えたらよい。それは聖書の真理を殺す読み方でしかない。言い換えると私たちに向けられている神のまなざしは、私たちを生かし、重荷から解放するまなざしなのである。私たちを赦し、建てあげるまなざしなのであって、私たちを卑屈にしたり、尊大にしたりするまなざしではないのである。厳しいことを言われてしまっている彼らだが、ユダヤでは共に食事をするというのは相手と運命を共にするというほどの意味がある。イエス様は彼らの食事の招きを受け入れておられる。せっかく神に選ばれた民であるのに、その人々の中にある不幸を深い悲しみをもって、問わずにおれなかったのである。厳しい言葉の中には、その不幸に気がついて立ち返ってほしいとの願いが込められた言葉なのである。

2012年6月3日日曜日

2012年6月3日 説教要旨


救いを見よ 」  ルカ11章29節~36節 

 国際オピンリピック協会のジャック・ロゲ会長が「シティー・オブ・リオデジャネイロ」と次の開催地を宣言したとき、ブラジルの人たちの心はバーッと明るくなった。自分たちを取り巻く環境の何かが変わったということは何もなかったが、あの一言の宣言によって、ブラジルの人々の心の中に希望の光がともった。そのように、私たちが生きているときに、同じ環境でありながら、その私たちの心にどのような光が差し込んでいるか、何を見ているか、そのことによって私たちの在り方が大きく変わってくる。今朝、この礼拝堂に集まった私たちにも光が注がれている。暗い表情でここに来られた方がいるかも知れない。しかしその私たちに光が注がれている。その光を私たちの心に受け止めよう。その光によって生かされて行こう。ブラジルの興奮はオリンピックが終わればやがて収まっていくだろうが、私たちに注がれている光は終わることなく、私たちひとりひとりを輝ける存在として生かし続ける。この朝、ルカによる福音書第11章29節以下を読む。ここに記されているイエス様の一言の宣言、そこから神の光が注がれている。その主の宣言を心に受け止めるなら私たちの存在は明るくなる。そう、主は約束しておられる。

 イエス様の元に集まる群集がますます増えてきた。群集は「しるし」求めて集まって来た。悪霊を追い出し、数々の病気を癒すイエス様に対して、もしあなたがこれらのことを神の力、天の力でもってしているならば、そのしるしとなるもの、証拠を見せろ、と言うのである。確たる証拠を求めたい心・・・これは私たちも知っている。先日、ある方とお会いしたとき、「自分が本当に神様に愛されているのか分からなくなっている。自分を取り巻く状況からは、とても愛されているとは思えない」、そう言われた。そこでこう答えた。今日、「こうして私たちがここに来ているでしょう。私たちがここに来ているというのは、神様があなたのことを愛しておられて、神様が私たちをここに遣わされたということなのですよ 」。そうしたら「ああ、そうなんだ」と言って、暗い表情が一気に明るくなった。私たちもこの人の気持ちがよく分かると思う。自分を取り巻く環境、どれひとつとってもうまく行かない。悪い方、悪い方に事態が展開して行くように思えてならない。そういう時、自分は神様に見放されているのではないかという思いが沸き起こってくる。特に、苦しい状況に置かれているとき、私たちはつい、そういう思いになってしまいがち。この時代のユダヤの人たちは、なおさらのことだった。ユダヤの国は徹底的に破壊され、他国の支配に屈した。その状況はイエス様の時代になってもまだ続いていた。そういう苦難の中にあったから、「ここに希望がある」と聞いたって、そう簡単に信じるわけには行かない。自分たちは神に選ばれた特別な民でありながら、そういう痛い経験をしている。一体、どこに神様の愛が注がれているというのか・・・。信じない。疑い深いのである。それに対して、イエス様は「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言う。ヨナは悪徳の町ニネベに宣教に行った。ニネベの人たちはヨナの語った神の宣言の言葉によって悔い改めた。ここにヨナにもまさる力ある神の言葉を語る者がいるではないか、と主は言われるのである。南の国の女王は、王ソロモンの知恵の素晴らしさをうわさに聞き、はるばる遠くからやって来た。ここにソロモンに勝る知恵の言葉を語る者がいるではないか、と主は言われる。そういう方が目の前にいるのに、それを見ることができない、信じることができない、かえって、証拠を見せろ、別の証明を見せてみろと要求する。ここに、目が澄んでいない人たちの姿がある(この澄むという言葉は29節の「よこしま」の反意語である)。目が澄んでいないというのは、見るべきものを見ない目、見ようとしない目である。本当に必要一点、そこを見ないで、それ以外のものに目移りを繰り返す目である。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあるように、誰だって光は皆が見えるところに置く。神様も、はっきりとその光が見えるようにイエス様という光を置いてくださっているのだ。それなのにそれが見えない、いや、見ようとしない。

「信仰」という言葉は、実にいい言葉だ。「信じて、仰ぐ」と書く。「仰ぐ」とは上を向くこと。しるしを見せろ、信じられるだけの納得できるものを見せろ、というのは明らかに「上から目線」であって、上を見てはいない。反対に、見下ろしている。それでは仰ぐことにならない。最後にもうひとつ、これと同じ出来事を記したマタイ福音書は、ヨナのしるしをヨナの宣教の言葉ではなく、ヨナが3日3晩の間、大きな魚の中に飲み込まれ、そして吐き出されて助かったことと、イエス様が十字架につけられて三日目によみがえられたことを重ねて理解している。すなわちヨナのしるし、イエス様の十字架と復活のことだと解釈している。十字架と復活にまさるしるしは他にないという。私たちの礼拝堂にも前面の高いところに十字架がつけられている。見上げるために、仰ぐために、高いところに掲げられているのだ。そしてその十字架を仰ぎ続けているところでは、私たちがいかなる状況に置かれたとしても、もはやそこに絶望はないと知るのである。