2012年5月20日日曜日

2012年5月20日 説教要旨


神の国はここに来ている 」  ルカ11章14節~28節 

 19世紀末から20世紀はじめにかけて活躍した牧師ブルームハルトは、癒しの賜物を与えられていたのだが、ある時からその賜物を封印してしまった。癒しを求めて集ってくる人たちの心の中に、神に従おうという思いではなく、都合よく神を利用しようという思いがあることに気がつき、ひどく心を痛めたからだった。今朝の箇所には、イエス様の悪霊追放の御業を神の業ではなく、悪霊の頭の力による業だと非難するやからが登場する。イエス様は、もし悪霊の頭の力を借りて悪霊を追い出しているならば、悪霊の軍団の中で内輪もめが起きて、悪霊の軍団は立ち行かなくなると反論される。よく考えてみれば、それくらいのことはすぐに分かろうものだが、なぜ、彼らはイエス様の働きを正当に評価し、受け入れることができなかったのだろうか。それは、イエス様の働きを認めることは彼らにとって不都合であったからである。イエス様の権威を認めるということは、宗教的指導者としての自分たちの立つ瀬がなくなってしまうことを意味した。イエス様はことごとく彼らの指導に反することをなし、また語っていたのだから・・・。それで彼らはイエス様の働きを、これは他の誰にも真似できないと認めざるを得ないと思ったにもかかわらず、これは悪霊の頭の業だと言い張ったのである。自分にとって都合がいいか、悪いかということだけで、神のなさることを見ようとすると、それはもはや信仰ではなくなってしまう。信仰は、自分に都合が良かろうが、悪かろうが、神のなさることを信頼するところにある。もし自分の都合のいいときだけ、神に関わるという姿勢だけならば、それはとっても危険である。24節以下の悪霊が戻って来るというユーモラスなたとえは、そのことを言っていると読むことができる。ひとたび、イエス様の力によって自分をきれいにしていただいたのに、その後、自分の都合だけで神にかかわったり、かかわらなかったりするために、事をもっと悪くしてしまう。つまり、神への信頼が失われてしまい、再び神以外のものに支配されてしまうのである。そのような事態に陥らぬよう、ひとたびイエス様の恵みに与ったならば私たちは次のステップへと飛躍することを求めよう。そのままの状態でいることは危険なのである。

では次のステップとは何か。そのことをイエス様は、27節以下の出来事を通して語っておられる。ある女の人がイエス様をほめたたえた。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」・・・。しかしその女の人に対して、イエス様はこう言われた「幸いなのは、私を宿した胎ではなくて、神の言葉を聞いてそれを守る人だ」。神の言葉を聞いてそれを守る人というのは、この話の文脈では「神の言葉を聞いて、それを心に宿す人」と言い換えてもいいだろう。ちょうど女性がまったく別の命を宿すことができるように、神の言葉、命の言葉を内に宿すことができる人は幸いなのだと、イエス様は答えられたのである。私たちは、イエス様の恵みの力に与った後、いよいよ神の言葉を内に宿すように心しよう。それが空っぽの危険な状態への最善の対処なのである。私たちの内に蓄えられた神の言葉は、事あるごとに私たちを信仰の成長へと導いてくれる。自分の都合ではなく、神の都合によって生きる信仰へと導いてくれる。神の言葉は、神の働きが見えない現実にあっても、「ここに神の働きがある」と、信仰によって確信させてくれる。

ドイツ語の勉強のために、短期の語学留学をした友人の牧師は、せっかくドイツ語を学びに来たのだからと、日本人留学生の間でも日本語を話さない約束をした。しかし愚痴と他者の悪口だけは日本語ですることになっていた。その方がいろいろと都合が良かったのである。でもそれが災いした。夜、部屋に帰って来てベッドに入る。すると、昼間に口にした汚い日本語、愚痴だけとか陰口だとか、そういう言葉だけが頭の中に残っていて、グルグルと頭の中を巡って、眠れなくなる。一時的に不眠症に悩まされるようになった。昼間、聞いたり、語ったりした悪い言葉が内に宿って、彼をむしばんだのである。そこで彼は、聖書を開いて、詩編の言葉を声に出して読み始めた。何度も何度も、繰り返し、自分に語り聞かせた。すると昼間に聞いた汚れた日本語が心の中から追い出されて、詩編の言葉、神の言葉が自分の心の中に宿り、その心一杯に広がって行った。不平不満がぎゅっと詰まった心の中に一言、神の言葉が投げ込まれることで、他の汚れた言葉がスーッと消えて行くような体験をした。そしてついには、不眠症を克服することができたというのである。彼はこのときの体験をある雑誌の記事に書いたのだか、すると全く知らないご婦人から突然、電話がかかって来て、自分も先生のされた通り、詩編の言葉を繰り返し声に出して朗読し、自分に聞かせてみた。すると安眠薬を飲まないと眠れなかった自分が、薬の力なしで眠ることができた。10数年ぶりに、薬なしで眠ることができましたと話されたというのである。聖書の言葉、神の言葉は本当に人を生かす言葉だ。そして聖書の言葉は、誰の中にもそうやって宿って行く言葉なのであり、思ってもみない力を発揮する言葉なのである。御言葉を内に蓄え、1週間の旅をしてみよう。きっと御言葉が私たちの出会う出来事や状況にふさわしく光を投げかけてくれるという恵みの体験をすることだろう。