2012年5月13日日曜日

2012年5月13日 説教要旨


友の必要のために 」  ルカ11章5節~13節 

ひとりの人が真夜中に友だちの家の門をたたき、パンを3つ貸してくれと言う。自分のところに友だちがやって来て、その友に出すものがないから、パンを3つ分けてほしいと言う。その友だちは腹を立て、「面倒かけないでほしい。もう真夜中じゃないか。もう戸は閉まっているし、子どもたちはすっかり眠っているところだ」と答える。しかしあまりにも執拗に戸をたたくので彼は3つのパンを与えたと言うのだ。なぜ、彼は真夜中にパンをくれと訪ねたのだろうか。それは彼自身も困っていたからだ。切羽詰ったやむを得ない事情を持った友を迎えたので、彼はもうひとりの友人のところへ行ったのだ。つまり彼の背後には、行き詰った切羽詰った人間がいた。それで彼は真夜中に友を訪ねたのだ。このたとえ話を通して、イエス様は私たちに問うておられる。祈りというのは一体、何かと・・・。弟子たちはこの世界でただ自分の信仰だけをしっかり守って生きて行けばいいような存在ではない。キリストから遣わされた者として、その遣わされた場所で共に生きている隣人の苦しみや悩み、痛みを共に受け止めて生きて行く。そういう者として私たちは遣わされている。そういう隣人とかかわらないで信仰を守るというのは、そもそもできはしないし、そんな信仰ならば守る必要もないのである。

このたとえ話では、友だちが来たけれども何も出すものがないのである。私たちは隣人の悩みを受け止めて担って生きて行くが、それに応える実力はない。だからもう一人の友人のところに行く。この「もうひとりの友人のところに出かけて行く」ということが祈りなのである。友の困難を受け止めて、いや、受け止めたけれども力がなくて、受け止めきれないでもう一人の友人のところに行く、それが祈り。時々、祈りというのは難しいという声を聞く。あるいは自分はとても祈れないと・・・。しかし本当は祈らないでいることの方が難しいのである。私たちはこんなに大きな問題を抱えているのだから。悩みを抱え、どうにもならない問題を抱えているのだから。隣人の叫びはいつも私たちの耳元に聞こえてくるから。そういう隣人の声を聞くこともなしに快適に気持ちよく生活できている人がいるだろうか。もしいるとしたら、その生活の中に信仰はない。私たちのためにその罪を担ってくださったキリストを信じる信仰はその生活の中にはない。その意味では、私たちはキリストから遣わされて、祈らないではいられないところで生きているのである。

そして同時に、私たちには行く場所があるのだ。もう一人の友人がいる。私たちの声を聞いてくださる方がいる。だからキリストは言われる。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と。信仰というのは、単純に「求めること」である。もうひとりの友人のところに行って求めるのだ。私たちにとって、もうひとりの友人は神様である。たとえの中の友人は待ってはいなかったが、神様は待っていてくださる。神様はそういう方。そして、それが私たちの信仰であり、私たちの信仰のすべて。私たちが友のために何かをする力を十分に持っているということではない。
今朝、合わせて読んだ詩編68編20節はこう言っている。「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を」。口語訳では「 日々にわれらの荷を負われる主」と訳している。神様は日々、私たちの荷を負われる方。祈りが聞かれるとうのは、まさにそういうことなのである。神様が祈りを聞いてくださるというのは、ただ耳で私たちの祈りを聞いていてくださるということではない。私たちの荷を受け止めて、そして一緒に背負ってくださるということなのである。それが、祈りが聞かれるということ。自分の手に余るようないろんな問題に立ち向かいながら、私たちはこうして立っている。それは、私たちの声を受け止めてくださる方がいるから。私たちの困窮を知って担ってくださる方がいるから・・・だから私たちは生きている。私たちはどんなに困難な問題の中にあったとしても投げ出さない。それは私たちが忍耐強いからではない。この私たちを受け止めてくださる方がおられるから・・・。真夜中に訪ねたって、それをちゃんと受け止めてくださる方がおられるから、私たちは遣わされて生きることを投げ出さないのだ。

「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。イエス様は、あなたがたが本当に困窮して神様のところに来るのならば、それはもう聖霊を求めて来らざるを得ないだろうと断定的な言い方をなさる。聖霊を求めないではやっていけないはずだと・・・。ならば聖霊を求めるとはどういうことか。神様が生きて、本当に私たちの傍らにおられるのだということを経験させてくださるのが聖霊の働き。聖霊は、神様がこの困窮の中にあっても共にいて下さり、その荷を私たちと一緒に担っていてくださることを体験させ、分からせてくださる。人のために何も与えるものがない。それは私たちにとっての終わりではない。むしろ出発点。そこからキリスト者はいつも生かされるし、養われる。