2012年5月27日日曜日

2012年5月27日 説教要旨


うめきをもってとりなす霊 」  ローマ8章23節~27節 

 ペンテコステの朝、パウロがローマの信徒たちへ宛てて書いた手紙から、聖霊について語っているところに思いを集中したい。「聖霊って何なのか。何をなさる方なのか」、そう問われると少し返答に困るようなところがあると思う。イエス様が聖霊を風にたとえられたように(ヨハネ3章)、聖霊は風と同じで、とらえがたいところがある。目に見えないし、どこから来てどこへ行くのか分からない。人の言葉で説明しようとしても難しい。そこに聖霊の特質があると言うことなのだ。だが、見えない風であっても感じることができるように、聖霊の働きもはっきりと見えてくるところがある。感じられるところがある。それは、どこか。そこでパウロが語るのは26節、「弱いわたしたちを助けてくださる」ということ。この「助ける」と訳されている言葉は、3つの言葉からなる合成語。「いっしょに」、「代わって」、「受け取る」、この3つから出来ている。重たい荷物を前にして、ふうふう言っているところに、一緒に立ってくれて、「どれどれ、それをこっちに寄越してごらん」と自分に代わってそれを受け取ってくれる。神の霊というのは、そういうふうに私たちの手助けとなってくださる方だと言うのである。私たちの弱さが集中して現れてくるようなところを狙い打つようにして、聖霊は私たちを助けてくださる方なのである。

 そうした時に、私たちの弱さは一体、どこに現れてくるだろうか。25節と26に「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、も弱いわたしたちを助けてくださいます」とあるように、私たちの弱さは忍耐することができない弱さだと言う。望みを待つということに対し弱い、忍耐できないのだと言う。望みは英語ではHopeと言うが、これはHopという言葉から生まれたそうである。小さい子どもは、高く飛び上がろうとするときに、一度しゃがみこんで、身をかがめて体をばねのようにしてエネルギーを足に溜め込む。そのときの姿勢をHopというらしい。つまり、望みを持つというのは、そうやって目の前にあるものに向かって力を溜め込んで、一気にそこに向かって飛び出して行く、そういう心の状態を言うのだそうである。しかし、私たちの場合はどうもそういう姿ではないように思う。ドカッと地べたに座り込んでしまって、いざ立とうという時になっても、すぐには立てないような、いわば半分あきらめの姿勢になってしまう。しかし、そういう私たちの弱さが現れるようなところで、聖霊が身をかがめていてくださる。聖霊がHopの姿勢をとって、私たちの傍らに一緒にいてくださり、私たちを助けてくださる・・・・。それが聖霊なのである。

 パウロがこの箇所で思い描いている望みというのは、私たちが神の子であるということがはっきりと現れること(23節)。キリスト者というのは工事中の人間だという言い方がよくなされるが、神の子の身分をいただいてはいるけれども、まだ神の子としての完成途上にある、言わば工事中・・・。だから、そこにどうしても弱さが現れてしまう。いろいろな弱さを私たちは知っている。望みに対して忍耐できない弱さだけではない。愛に生きたいと願いながらも、愛に生き得ない弱さというものもある。助けを必要とする人の傍らで、聖霊がしてくださるように、自分が代わって、その重荷を負ってあげることができないのである。神学校時代にチャペルで聞いた事務員の証は、まさに私たちの弱さがどこにあるかを強烈に指し示すものであった。誰も「あなたは確かに愛が足りなかったのだ」と言って、この人を責める気にはなれない。私も同じだと、思うより他ないのである。パウロは、まさにそういうところで、私たちと一緒になって、御霊が、聖なる霊が、私たちに代わって、その弱さを受け取って、担ってくださるのだ、と言う。
パウロは、さらに私たちの弱さが現れて来る場面として、祈れなくなってしまう弱さを挙げている。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、""自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)。弱いというなら、祈ったらいいではないか。その通り、しかし私たちは祈ったらいいという行き詰った状態の中で祈れない、祈れなくなる、それがもっとも苦しいと思うこと。けれども、まさにその時に、聖霊は私たちの苦しみを共有してくださり、父なる神にとりなしてくださるとパウロは言う。この「執り成す」という言葉は、「手に取る」と言う言葉と「みなす」という2つの言葉が合わさって出来た言葉で、もともとはあるものを手に取って他のものに変えてしまう、という意味があったそうだ。けれども、手にとったものが実際には変わらない場合には、それを他のものとみなして扱う、そういう意味を持つようになったという。聖霊は、そのように神が受け入れることができる者に私たちを変えてくださるのである。「""自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」というのは、聖霊の持っておられる言葉のボキャブラリーが足りないので、言葉で言い表せないということではない。むしろ、言葉ではなく、うめきの方がもっと適切に思いを伝えられるということがあるのだ。聖霊はうめきをもってしか現せないような私たちの思いを、ご自分の中にとらえ移し、自らが媒体となって父なる神様に向けて届けてくださる。そのように助けが私たちに与えられているのである。

2012年5月20日日曜日

2012年5月20日 説教要旨


神の国はここに来ている 」  ルカ11章14節~28節 

 19世紀末から20世紀はじめにかけて活躍した牧師ブルームハルトは、癒しの賜物を与えられていたのだが、ある時からその賜物を封印してしまった。癒しを求めて集ってくる人たちの心の中に、神に従おうという思いではなく、都合よく神を利用しようという思いがあることに気がつき、ひどく心を痛めたからだった。今朝の箇所には、イエス様の悪霊追放の御業を神の業ではなく、悪霊の頭の力による業だと非難するやからが登場する。イエス様は、もし悪霊の頭の力を借りて悪霊を追い出しているならば、悪霊の軍団の中で内輪もめが起きて、悪霊の軍団は立ち行かなくなると反論される。よく考えてみれば、それくらいのことはすぐに分かろうものだが、なぜ、彼らはイエス様の働きを正当に評価し、受け入れることができなかったのだろうか。それは、イエス様の働きを認めることは彼らにとって不都合であったからである。イエス様の権威を認めるということは、宗教的指導者としての自分たちの立つ瀬がなくなってしまうことを意味した。イエス様はことごとく彼らの指導に反することをなし、また語っていたのだから・・・。それで彼らはイエス様の働きを、これは他の誰にも真似できないと認めざるを得ないと思ったにもかかわらず、これは悪霊の頭の業だと言い張ったのである。自分にとって都合がいいか、悪いかということだけで、神のなさることを見ようとすると、それはもはや信仰ではなくなってしまう。信仰は、自分に都合が良かろうが、悪かろうが、神のなさることを信頼するところにある。もし自分の都合のいいときだけ、神に関わるという姿勢だけならば、それはとっても危険である。24節以下の悪霊が戻って来るというユーモラスなたとえは、そのことを言っていると読むことができる。ひとたび、イエス様の力によって自分をきれいにしていただいたのに、その後、自分の都合だけで神にかかわったり、かかわらなかったりするために、事をもっと悪くしてしまう。つまり、神への信頼が失われてしまい、再び神以外のものに支配されてしまうのである。そのような事態に陥らぬよう、ひとたびイエス様の恵みに与ったならば私たちは次のステップへと飛躍することを求めよう。そのままの状態でいることは危険なのである。

では次のステップとは何か。そのことをイエス様は、27節以下の出来事を通して語っておられる。ある女の人がイエス様をほめたたえた。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」・・・。しかしその女の人に対して、イエス様はこう言われた「幸いなのは、私を宿した胎ではなくて、神の言葉を聞いてそれを守る人だ」。神の言葉を聞いてそれを守る人というのは、この話の文脈では「神の言葉を聞いて、それを心に宿す人」と言い換えてもいいだろう。ちょうど女性がまったく別の命を宿すことができるように、神の言葉、命の言葉を内に宿すことができる人は幸いなのだと、イエス様は答えられたのである。私たちは、イエス様の恵みの力に与った後、いよいよ神の言葉を内に宿すように心しよう。それが空っぽの危険な状態への最善の対処なのである。私たちの内に蓄えられた神の言葉は、事あるごとに私たちを信仰の成長へと導いてくれる。自分の都合ではなく、神の都合によって生きる信仰へと導いてくれる。神の言葉は、神の働きが見えない現実にあっても、「ここに神の働きがある」と、信仰によって確信させてくれる。

ドイツ語の勉強のために、短期の語学留学をした友人の牧師は、せっかくドイツ語を学びに来たのだからと、日本人留学生の間でも日本語を話さない約束をした。しかし愚痴と他者の悪口だけは日本語ですることになっていた。その方がいろいろと都合が良かったのである。でもそれが災いした。夜、部屋に帰って来てベッドに入る。すると、昼間に口にした汚い日本語、愚痴だけとか陰口だとか、そういう言葉だけが頭の中に残っていて、グルグルと頭の中を巡って、眠れなくなる。一時的に不眠症に悩まされるようになった。昼間、聞いたり、語ったりした悪い言葉が内に宿って、彼をむしばんだのである。そこで彼は、聖書を開いて、詩編の言葉を声に出して読み始めた。何度も何度も、繰り返し、自分に語り聞かせた。すると昼間に聞いた汚れた日本語が心の中から追い出されて、詩編の言葉、神の言葉が自分の心の中に宿り、その心一杯に広がって行った。不平不満がぎゅっと詰まった心の中に一言、神の言葉が投げ込まれることで、他の汚れた言葉がスーッと消えて行くような体験をした。そしてついには、不眠症を克服することができたというのである。彼はこのときの体験をある雑誌の記事に書いたのだか、すると全く知らないご婦人から突然、電話がかかって来て、自分も先生のされた通り、詩編の言葉を繰り返し声に出して朗読し、自分に聞かせてみた。すると安眠薬を飲まないと眠れなかった自分が、薬の力なしで眠ることができた。10数年ぶりに、薬なしで眠ることができましたと話されたというのである。聖書の言葉、神の言葉は本当に人を生かす言葉だ。そして聖書の言葉は、誰の中にもそうやって宿って行く言葉なのであり、思ってもみない力を発揮する言葉なのである。御言葉を内に蓄え、1週間の旅をしてみよう。きっと御言葉が私たちの出会う出来事や状況にふさわしく光を投げかけてくれるという恵みの体験をすることだろう。

2012年5月13日日曜日

2012年5月13日 説教要旨


友の必要のために 」  ルカ11章5節~13節 

ひとりの人が真夜中に友だちの家の門をたたき、パンを3つ貸してくれと言う。自分のところに友だちがやって来て、その友に出すものがないから、パンを3つ分けてほしいと言う。その友だちは腹を立て、「面倒かけないでほしい。もう真夜中じゃないか。もう戸は閉まっているし、子どもたちはすっかり眠っているところだ」と答える。しかしあまりにも執拗に戸をたたくので彼は3つのパンを与えたと言うのだ。なぜ、彼は真夜中にパンをくれと訪ねたのだろうか。それは彼自身も困っていたからだ。切羽詰ったやむを得ない事情を持った友を迎えたので、彼はもうひとりの友人のところへ行ったのだ。つまり彼の背後には、行き詰った切羽詰った人間がいた。それで彼は真夜中に友を訪ねたのだ。このたとえ話を通して、イエス様は私たちに問うておられる。祈りというのは一体、何かと・・・。弟子たちはこの世界でただ自分の信仰だけをしっかり守って生きて行けばいいような存在ではない。キリストから遣わされた者として、その遣わされた場所で共に生きている隣人の苦しみや悩み、痛みを共に受け止めて生きて行く。そういう者として私たちは遣わされている。そういう隣人とかかわらないで信仰を守るというのは、そもそもできはしないし、そんな信仰ならば守る必要もないのである。

このたとえ話では、友だちが来たけれども何も出すものがないのである。私たちは隣人の悩みを受け止めて担って生きて行くが、それに応える実力はない。だからもう一人の友人のところに行く。この「もうひとりの友人のところに出かけて行く」ということが祈りなのである。友の困難を受け止めて、いや、受け止めたけれども力がなくて、受け止めきれないでもう一人の友人のところに行く、それが祈り。時々、祈りというのは難しいという声を聞く。あるいは自分はとても祈れないと・・・。しかし本当は祈らないでいることの方が難しいのである。私たちはこんなに大きな問題を抱えているのだから。悩みを抱え、どうにもならない問題を抱えているのだから。隣人の叫びはいつも私たちの耳元に聞こえてくるから。そういう隣人の声を聞くこともなしに快適に気持ちよく生活できている人がいるだろうか。もしいるとしたら、その生活の中に信仰はない。私たちのためにその罪を担ってくださったキリストを信じる信仰はその生活の中にはない。その意味では、私たちはキリストから遣わされて、祈らないではいられないところで生きているのである。

そして同時に、私たちには行く場所があるのだ。もう一人の友人がいる。私たちの声を聞いてくださる方がいる。だからキリストは言われる。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と。信仰というのは、単純に「求めること」である。もうひとりの友人のところに行って求めるのだ。私たちにとって、もうひとりの友人は神様である。たとえの中の友人は待ってはいなかったが、神様は待っていてくださる。神様はそういう方。そして、それが私たちの信仰であり、私たちの信仰のすべて。私たちが友のために何かをする力を十分に持っているということではない。
今朝、合わせて読んだ詩編68編20節はこう言っている。「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を」。口語訳では「 日々にわれらの荷を負われる主」と訳している。神様は日々、私たちの荷を負われる方。祈りが聞かれるとうのは、まさにそういうことなのである。神様が祈りを聞いてくださるというのは、ただ耳で私たちの祈りを聞いていてくださるということではない。私たちの荷を受け止めて、そして一緒に背負ってくださるということなのである。それが、祈りが聞かれるということ。自分の手に余るようないろんな問題に立ち向かいながら、私たちはこうして立っている。それは、私たちの声を受け止めてくださる方がいるから。私たちの困窮を知って担ってくださる方がいるから・・・だから私たちは生きている。私たちはどんなに困難な問題の中にあったとしても投げ出さない。それは私たちが忍耐強いからではない。この私たちを受け止めてくださる方がおられるから・・・。真夜中に訪ねたって、それをちゃんと受け止めてくださる方がおられるから、私たちは遣わされて生きることを投げ出さないのだ。

「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。イエス様は、あなたがたが本当に困窮して神様のところに来るのならば、それはもう聖霊を求めて来らざるを得ないだろうと断定的な言い方をなさる。聖霊を求めないではやっていけないはずだと・・・。ならば聖霊を求めるとはどういうことか。神様が生きて、本当に私たちの傍らにおられるのだということを経験させてくださるのが聖霊の働き。聖霊は、神様がこの困窮の中にあっても共にいて下さり、その荷を私たちと一緒に担っていてくださることを体験させ、分からせてくださる。人のために何も与えるものがない。それは私たちにとっての終わりではない。むしろ出発点。そこからキリスト者はいつも生かされるし、養われる。 

2012年5月6日日曜日

2012年5月6日 説教要旨


祈りを教えてください 」  ルカ11章1節~4節 

入院をしている兄の病院を訪ねた。その帰りに病床で、主の祈りをいつからか、私は祈るようになった。主の祈り、主イエス様が教えてくださった祈りなので「主の祈り」と呼ばれているが、これはイエス様ご自身も日々、口にしておられた祈りであると言われている。私は今まで、主の祈りは神様の栄光を求める祈りであって、神様のための祈りという思いが強かった。実際、私たちの礼拝式順で主の祈りが奉献の祈りに続いてあるのも、そういう理解を反映してのことだ。しかし最近は、主の祈りは私たちの幸せを願う祈りだという理解が私の中で強くなってきたように感じている。イエス様はあの十字架の上で、私たちのために命まで差し出してくださった方。その方が日々祈っておられた祈りということであれば、それは当然、私たちが幸いに生きることを願うものでないはずがない。ルカはその祈りの内容をマタイのそれよりも短くこう伝えている。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」・・・。

 まず、御名が崇められますようにという祈りが来る。「あがめられる」というのは、原文ギリシャ語では「聖とされる」という言葉が使われている。神様を聖なる方として、他のものと区別する。神様を、お金だとか、物だとか、あるいは自分、人間とかと絶対に混同しないということである。つまり、神様を神様とするということである。御国が来ますようにという祈りがそれに続く。御国というのは、神様の支配のこと。神様が王として支配される時が来るようにということ。私たち人間は、神様が神様として私たちを支配してくださるとき、そしてその支配に信頼して私たちを委ねて行くときに、幸いに生きることができるのである。いろいろと難しい問題、心を痛める出来事が私たちの人生にはある。それをなくそうとしてもなくならない。だが、そこで信じて身を委ねることができる方がいるなら、自分ひとりですべてのことを担って頑張らないと・・・・と思わないでいいと言ってくださる方が傍らにいてくださるなら、私たちは幸せに生きられるのだと思う。困難な中を、痛みの中を・・・。だからイエス様はこの祈りを祈るようとまず教えられたのだ。私は兄に対しても神様が兄の神様となり、ご支配してくださるならば、病を負いつつの歩みにあっても、兄にも幸いを知ってもらえると信じている。

「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから 」という祈りが続く。これは私たちが生きるために必要なことを求めなさいという祈りである。私たちが生きる上で、どうしてもなくてはならないものって、何であろうか。それは日毎の糧と罪の赦し。宗教改革者のマルティン・ルターは食事の前の祈りでいつもこう祈ったと言う。「主よ、私たちが生きる上で必要な肉の糧と罪の赦しを今日も与えてくださり、感謝いたします」と。自分には罪の赦しは必要ないとは思わない。本当にそれが必要だって思う。今まで一体、どれだけの人と出会い、そしてその人に傷を残したり、嫌な思いを与えてきてしまったことか。いい出会いばかりではない。思い出すだけでも苦くなるような、そういう出会いを作ってしまった自分がいる。今となっては、もうその出会いを修復することもできなくなってしまった人もいる。そういう自分がなお生きる、生きなければならないというならば、それはもう神様に罪を赦していただくしかない。神様が与えてくださった数々の隣人を自分は傷つけてきた。それは、隣人を傷つけたということにとどまらず、その隣人を与えてくださった神様をも傷つけてきたことなのだ。どうぞ、その罪をお赦しくださいと祈らざるを得ない。神様の赦しがなければ、本当に消えてなくならなければいけない、そういう自分なのである。イエス様は、そういうあなたがなお赦されて、生きることができるようにと、この祈りを祈ることを教えてくださったのである。日毎の糧を求める祈り・・・貧しい家庭で育った子どもの頃を思い出すと、もし自分がこの祈りを知っていたなら、ずいぶん違った歩みが出来たのではないかと思うことがある。必要な求めに応えると言ってくださる方がおられることを知っていたならば、犯さずに済んだ罪もあったから・・・。

 最後に「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りが教えられている。この祈りは随分、極端な祈りではないかと思う。誘惑とある程度戦いながらそこで助けてください、という祈りではない。戦う前から、誘惑が近づかないようにしてくださいという祈りなのである。言って見れば、弱虫な祈りなのだ。自分の弱さを認めるような祈りであって、現代人にはなかなか受け入れられない祈りかも知れない。だが、私たちの人生には困難がつきものだ。その困難に心が折れて、「もうこのような目にはあわせないでください」と叫びたくなることがあろう。イエス様は、私たちが万策尽き、力尽き、無力を徹底して知らされる、そういう場所に立ち至った時にも、なお、祈れる祈りがあるのだということを教えてくださっているのだ。そして、神様はその祈りを聞いてくださる方なのだと。