2012年4月22日日曜日

2012年4月22日 説教要旨


あなたも行って同じようにしなさい 」 ルカ10:25~37

ひとりの律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と主に尋ねた。最近評判の高いイエスという男が、どれだけ神の掟をわきまえているかを試そうとしたのである。永遠の命とは、私たちが肉体の死を迎えたあと、なおそれを超えて生きる命のことであり、神が与えてくださる命だ。そのような命に結びついていく生き方とは、どんな生き方かを彼は問うたのである。しかし主は「あなたはどう思うか」と反対に問い返した。彼は即座に「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。主は、彼がそれを実行していないのを見抜き、そう言われたのだ。だから彼は自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とはだれですか」と言い返したのである。彼は隣人に対して境界線を設けて、愛せる隣人、愛するに値する隣人は愛するけれども、自分が愛する価値はないと思った隣人は隣人とも呼べないと考えていたのである。イエス様は、隣人を愛することにそのような境界線を設ける彼の姿勢を問うて、このたとえを語られたのである。

エリコ下って行く途中、半殺しの状態で人が倒れている。その旅人に近づくということは、自分の予定を変更することを意味する。祭司とレビ人は向こう側を通って行った。2人は宗教家だが、傷ついた人を見て、これは好ましい隣人ではないと判断した。そしてこんな人のために時間を取られてはダメだ。この人に関わったら自分の予定が変えられてしまうと思って、通り過ぎた。傷ついて倒れている隣人がそこにいる。そういう隣人と出会っていない人はひとりもいない。自分の人生の道を歩いてきて、倒れて苦しんでいる隣人と一切、出会わずに歩ける人は、おそらくいない。そういう場面に出くわして、「ああ、この道は悪かったのかなあ」と思ったり、舌打ちをして「なんでこんなときに・・・別の時だったら」と言いながら、向こう側を通り過ぎるということがあるだろう。しかしそこにサマリア人がやって来た。ユダヤ人と他民族との混血で、ヤダヤ人からはひどく軽蔑され、見下げられていた人たちだ。そのサマリア人は倒れていた人を見て、憐れに思い近づいたために自分の予定を変更させられた。急にこのサマリア人にとって、人生は重たいものになった。この人と関わる事によって・・・。主はこのたとえ話を通して、私たちの人生にひとつの問いを出しておられる。一体、誰にも妨げられない人生、誰にも予定を変更されられない生き方、快適な人生、そういうものが本当に私たちのあるべき人生なのか・・・そして、そういう人生こそが、永遠の命につながらない人生なのではないのかと・・・。主は「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われた。快く愛せる隣人は誰かと、律法の専門家は問うた。しかし好ましい隣人と好ましくない隣人がいるわけではない。大事なことは「隣人になる」という生き方なのだと主は言われる。
隣人というのは、近づくことによってはっきりと見えてくる。近づかなければある程度の距離を保っているならば、単なるそこにいる人として普通に付き合うこともできる。しかし隣人というのは近づけば、近づくほど傷ついているのが分かってくる、そういう存在。そして近づくことによって、その傷が自分自身の重荷になるという経験をさせられる。重荷にならざるを得ないのである。しかしそれがイエス・キリストの答えである。どうすれば永遠の命につながることができるのか・・・。それは、隣人になるという生き方、すなわち隣人にかかわるという生き方、回り道をするという生き方、重たいものを自分の中に背負い込むという生き方、そういう生き方と、永遠の命とは深くつながっているのだと言われる。私たちは隣人なき人生というものを夢見る。傷を負っていない隣人、重荷を持った隣人と関わらなければならない人生ではなくて、もっとスムーズに歩ける人生はなかったかと私たちは考える。しかしそんな人生、もしあったとしても、それはまさに永遠の命につながらない生き方、命なのだということを、主はこのたとえを通して語っておられる。

このサマリア人とは、イエス・キリストのことであると解釈されてきた。そして倒れている人は、私たち人間・・・。私たちは罪に傷つき、瀕死の重傷にある。キリストはその私たちを見て、近づき、私たちのもとに立ち止まってくださった。それが私たちの救いだ。キリストが通り過ぎないで私たちとかかわってくださった。この世に来られて、私たちを自分の背中に背負って、私たちを宿屋へと連れて行ってくださった・・・。あなたも隣人になりなさいというイエス様のお言葉。それはまさにイエス・キリストが私たちにしてくださったことを指している。あなたが主にしていただいたように、あなたも同じようにしなさい・・・。隣人になるという道を選んでいきなさい。目の前にある重い現実。それは決して無意味なものではない。私たちが永遠の命へと結びついていくために神が与えられた現実なのだ。最後にもうひとつ。サマリア人は、自分のできることをしただけである。彼は自宅へ連れて行かず、宿屋に連れて行った。そう、彼は大きく背伸びするのでもなく、身の丈に合ったできることをしたに過ぎないのである。