2012年4月15日日曜日

2012年4月15日 説教要旨


賛美から始めよう 」  ルカ10章17節~24節

72人の弟子たちが伝道から帰り、その成果をイエス様に報告している。弟子たちは「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までが私たちに服従します」と喜びにあふれて報告をしている。その報告をお聞きになったイエス様は、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」と、イエス様ご自身もそのことを一緒になって喜んでおられる。悪霊というのは、遠い昔話ではない。自分が何か他の力のとりこになっているとしか、言いようがないことが起こる。自分だけではない。自分の周りに生きている人、あるいはこの社会を見ても、どうしてあんなことをするのだろう、これはもう何かの力のとりこになってしまっているとしか考えられないようなことが起こる。誰も戦争を望んではいないのに、この世界から戦火が絶えることはない。ミサイルの数は増えるばかりである。それこそ、悪霊のとりこ、金縛りにあっているかのように、争いが起こり続ける。北朝鮮が人工衛星と称してミサイルを発射した。あのミサイル発射にかかる経費というのは、北朝鮮の人たちのほぼ2年分の食糧をまかなうことができる金額に匹敵するそうである。たくさんの国民が飢え死にしそうな生活を強いられている中であの出来事は起きた。何で国民を見殺しにしながら、あんな莫大な費用を費やすことができるのか、理解に苦しむ。悪しき霊の力のとりこになってしまっているとしか思えないようなことである。

 ある聖書学者が、今日におけるサタンの働きについてこういう主旨のことを言っている。サタン、悪霊というのは、今日では一部の地域を除けば、私たちに直接とりつくというようなことは多くはないが、だからと言ってサタンの働きを軽視することはできない。今日、サタンはこの世の制度、構造、システム、あるいは価値観、そう言ったものを通して人々を支配し、人々を破壊へと追いやるのである。トニ・モリスンの『青い眼がほしい』という小説の主人公は12歳の黒人少女。容姿がよくないという理由で、学校でいじめを受ける。テレビや新聞広告に登場してくるきれいと言われる女性たちは皆、ブロンドの青い眼をしている。そう、黒い目ではなくて青い眼が美しいのだ、美しさというこの世の価値観に照らしてみると、自分はとっても醜い人間なのだ。いじめられるのも無理はないと思い込んで行く。やがて少女は自分の眼が青くなればこの辛い毎日から逃れられると考えて、「どうかわたしの眼を青くしてください」と神様に祈りを捧げるようになる。そして最後には自らの精神を崩壊させることでその辛さから逃れる道を選んでしまう。これは小説の中だけのことでない。今もこの世界で、悪魔がこの世の価値観をもって、この世の様々なシステムを利用して、人々を支配し、滅びに至らせようと、うごめいているのである。それならば、そのような悪魔の力とどのように戦うことができるか。どうしたら、それに打ち勝つことができるか。72人の弟子たちは、主イエスの名によってするならば悪霊も倒れて、自分たちに服従するという体験をした。主イエスの名である。つまり、「主イエスの名を呼ぶ」ということが、人間に悪魔からの解放をもたらすのだ。主イエスの名を呼ぶということは、その名前によって支配されることを意味する。つまり、主に支配していただくときに初めて、人間は悪魔の力から解放される。私たちが捧げているこの礼拝も、主の名を呼ぶ場所である。主の名を呼び、主によって支配されることを喜んで受け入れる。それがこの礼拝の場。そういう意味から言うと、72人の弟子たちが経験した解放の喜びを私たちもまた知っているということ。こうして主の名を呼び、礼拝をしているところで、私たちも悪魔の力から解放されている喜びを知っているのである。

 さて、喜んで報告をした弟子たちにイエス様はこうも言われた。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」。イエス様がここで語っておられることは、どんなに大きな業をしようが、どんなに小さな業に終わろうが、等しくあなたがたの名は、天に記されている。その、天に名が記されているあなたがたの業は、天の父なる神によって、いつまでも覚えられている。消えることがないのだ、と言うことである。 弟子たちは、本当に目を見張るような出来事を体験してきた。彼らの業を見て、人々もまた驚嘆したであろう。しかし、伝道はいつもそのような目を見張るような成果を得られるというものではない。ならば大きな業ができたと言っては喜び、小さなことしかできなかったと言って落胆することになるのか。成果の大小にとらわれなくていいのだ。どんなに大きな業をしようが、どんなに小さな業に終わろうが、そのことで一喜一憂しなくていい。むしろ、あなたがたの名は天に記されている。その、天に名が記されているあなたがたの業は、天の父なる神によって、いつまでも覚えられている。消えることがない、そのことをあなたの喜びとしていい、と主は言ってくださるのである。あなたのどんなに小さな業も主に記憶されているのだ。

21節以下に、主の賛美の言葉が記されている。弟子たちの名が天に記されていることを喜ぶと言われた主が、聖霊に満たされ、天地の主なる父をほめたたえておられる。私たちも、主イエスのなさった賛美に、その喜びに心を合わせるところから生き始めたい。私たちのすべての業を始めたいと願う。