2012年3月18日日曜日

3月18日 説教要旨

どこへ行くか 」  ルカ9章57節~62節

新共同訳聖書は、この箇所に「弟子の覚悟」という小見出しをつけているのだが、むしろ私たちは十字架につけられるためにエルサレムへと向かうイエス様の覚悟(51節)を意識する必要がある。私たちのいのちを真に生かすために主は十字架につく覚悟を定めてくださっている。その覚悟をして下さった方が私たちに語っている言葉として、これを聞かなければ、ここで語られている言葉を正しく聴くことはできなくなるであろうと思う。ここに、キリストに従うということをめぐって、3人の人たちが登場する。最初の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と、並々ならぬ決心をしていることを表明する。確かに信仰生活は、「決心をする」ということがとても大事だ。その意味では、彼は模範的な姿勢を示したと言える。だがイエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」と彼の決心に水をさすような発言をされた。どういうことなのか。確かに信仰生活には、私たちが決心をする、覚悟を決めるということが不可欠である。しかし、それだけなのか。それだけで足りるのか。そうではない。私たちの「決心以上のもの」がそこに働いているのではないか。神の恵み・・・・恵みの導きがそこに働いていることが一番、大事なのではないか。その上で、私たちの決心があると言うことなのだ。キリストに従う生活というのは、私たちの決心だけでやっていけるものではない。神の恵みがそこに働いていなければ、成り立たない。もし神の恵みなくして、私たちの決心だけならば、それは長くは続かない。

2番目に登場する人は、「わたしに従ってきなさい」と、キリストからの召しの言葉が与えられた。すなわち「神の恵みがすでに働いていることが示された」のだ。 しかし彼はそれでも決断ができなかった。神の恵みがある上で、私たちの決心が用いられるのである。彼は「まず、父を葬りに行かせてください と答えた。イエス様は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って神の国を言い広めなさい」とお答えになった。イエス様、なんでそんな家族を粗末にすることをおっしゃられたのだろうかと、思われるかも知れない。実は、この言葉を巡ってはいろいろな解釈がなされていて、今、父親が死んだのではなく、いずれ年老いた親の面倒を最期まで看なくてはならなくなるので・・・それを終えたら従いますという意味ではないか、と考える人もいる。あるいは、父と母を敬うのは十戒の第4番目の教えであって、彼はその律法を完成させなければならないと言ったのであり、イエス様は真に律法を完成させる道は私に従うことなのだ。私は律法を超えるものなのだということを示されたとする解釈。さらには、彼が行なおうとしている葬儀は、神の恵みのない、ただ死という暗黒に塗り潰された悲しみにくれるだけの望みなき葬儀であり、イエス様の告げ知らせている神の国の福音は、そういう葬儀のありようをすっかり変えてしまう。悲しみはあるけれども、明るい望みのある葬儀。そういう葬儀が至るところで行われるように、今、あなたのすべきことは、その神の国を伝えるために、私に従ってくることだと言われのだとする理解などがある。いずれにしたとしても、イエス様がここで問われたことは、「あなたがその中心に据えるべきものは何か」、ということだと思う。神なのか、それとも家族なのか。イエス様は決して、家族をないがしろにしてもいいと言ってはおられない。家族はとってもよいもの、大切なもの。だからそれだけに、家族は容易に神格化されてしまうのである。家族が本当の意味で家族となるためには、神がその中心に置かれなければならない。神とのかかわりの中から、家族との関わりも受け止め直されて行く。まず、どちらが中心に据えられるべきか、をイエス様は問うておられる。

3番目の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず、家族にいとまごいに行かせてください」と言った。イエス様は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は神の国にふさわしくない」と言われた。私たちは「まず~」ということをよく口にする。従わないと言うのではない。神様のことを軽く見るなどとんでもない、十分に従う覚悟はできている。ただその前に、「まず一つだけ片付けてから」と言って「まず」の割り込みを求める。しかしこの「まず」は、際限なく続いて、決してなくならないというのが私たちの体験である。そうして私たちの人生において、神のことは永遠に「幻の第一位」になってしまう。そして自分の「まず」が不動の一番の位置を占め続けてしまうのである。「どうしても必要なことはわずかだ。いや一つしかない」のである。自分の人生を真実に生かすものは何なのか、何をさしおいても優先されなければならないものは何なのか、中心に据えられるべきものは何なのか・・・イエス様の問いかけには、まことに厳しいものがある。だが、これらの言葉は十字架にかかる覚悟された方の言葉なのである。私たちの命を真に生かすために、私たちを招こうとされる方の言葉なのである。私たちの命は、イエス様に従うところで真に輝く。震災のとき、障害のある孫の命の尊さを自らの命をもって、娘に証したおばあちゃんがいた。それによって障害のあるわが子に尊さを見つけられないでいた娘は目が開かれた。「まして」神の御子が命をもって証してくださったのであれば、私たちはその命を輝かす道に立つしかない。