2012年2月5日日曜日

2012年2月5日 説教要旨

十字架の慰め 」 ルカ9章18節~27節

イエス様は弟子たちに「わたしのことを何者だと思っているのか」と問われた。イエス様の期待に答えるようにペトロは、「神からのメシアです」と答えた。人々が洗礼者ヨハネ、昔の預言者のひとり、エリヤと、いろいろな判断をしている中でペトロは完璧な答え、いよいよイエス様との関係が深められて行くような告白をした。ところが続いて口にされたイエス様の言葉は、ペトロとの関係が深まるどころか、遠く隔たりを感じるような、驚愕すべきものであった。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(23節)。「必ず」と言うのは、神の御心がそこにあると言うことを示す。ペトロたちは戸惑ったに違いない。メシアがどうして、殺されなければならないのか。ペトロたちは、この方が神から遣わされた特別な方だと信じたから従ってきた。苦しいこと、辛いこと、長老、祭司長、ファリサイ派や律法学者たちからの圧力によって身の危険を感じることもあった。だが「この方は必ず神の救いの業をなさる。だからこれで終わるはずがない。どこかで逆転するはずだ。どこかで見返してやる時が来る」、そういう望があったから従って来られたのだ。だが、イエス様の口から出た言葉は、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されると言うこと。言わば、弟子たちと敵対している者、行く手を阻もうとする者たちの手によって殺される、敵への敗北を意味した。ペトロたちは、「今はまだユダヤの指導者たちの方が支配権を握っているけれども、やがてこの方が圧倒的に世に認められて、世を支配するようになるはずだ。逆転して人々の上に立って、世を救う、世の中を正す。それが救い主の御業というものだ」と考えていた。しかし、神のお考えは全く別のものであった・・・・。神は、神の御子が私たちに成り代わってその罪の裁きを受けて死ぬ。そうやって神は人間を救おうとされた。それが罪ある人間が救いをいただく唯一の道だから。私たちは、時々こう考える。こんなに混沌とした時代、問題だらけの世界、暗い事件が頻発するような社会、もしここに神がその力を示されて、悪い者、不正を働く者たちを審判してくださったら、それで問題は解決するのではないか。神の正義が行なわれるときに、全ては解決するのではないか。悪い人間が一掃されて、神の正義が貫かれる時に、問題も一掃される・・・。そう考える。しかし、本当に神が正義によって世を裁かれるとき、一体、誰が救われることができるだろうか。あちらには悪い人間がいて、こちらには良い人間がいて救われる・・・。本当にそうなのか。聖書は言う。「義人はひとりもいない」と。もし神が正義を貫いてこの世を裁くとなれば、この世もろとも、すべてのものがそこで裁かれる以外になく、何も残りはしない。悪い人を倒せばよい。不正を行なう者を排斥すれば、良い世界ができる。世の多くの人たちはそう考え、頭の中で敵を思い描いている。あの人間が悪い、この人が悪い、この人間が問題なんだ・・・。そしてその敵を倒す。排斥する。それが解決の道だと思って、どうやったらあの敵を排除することができるかと、いつも考えている。何としてもあの悪い人間を倒して展望を開かなければならないと・・。救い主はそういう戦いをしなかった。そうではなく、敵する人間を救うための戦いをするのだ。それがイエス・キリストの受難の道。神の御子はあえて、その受難の道を選び取って、その道を歩まれる。それは敵に命を得させるための歩み。私たちの救いはそこにあるのであって、それ以外のどこにもない。敵対する者、邪魔な者、そういう他者を排斥して自分の生きる道を拓いて行かなければならない。いや、他者を排除しなければ自分の生きる道は拓かれないという考えが私たちの世界を覆っている。それは人間の常識。だが、そうやって、人はいのちを失うのだ。救い主は言われる。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と。キリストによって救われた人間は、自分の十字架を負って日々、キリストに従う。キリストが十字架を負われたように、自分も十字架を負う。つまり、キリストにつながった生き方をする。キリストが敵を救い、敵を生かすための道を歩まれたならば、私たちは敵を排除してやっつけるというのではなく、敵を救い、生かすための道を選んで生きるのである。自分も誰かのために重荷を負う。隣人のために、あるときには敵対する者のために自分も悩む。自分も他者のために痛む。私たちはそういう隣人を生かそうとするその戦いの中でこそ、実は、自分が生きるのだ。自分の命を得ることができるのだ。私たちは自分のいのちを守らなければならないと思って、周りのすべての敵を排除しなければならないと考える。あの人は邪魔だ。この人は敵だ。あの人はけしからん。しかしそうやって人は自分の命を失うのである。そうやって、この命を無駄なものにしてしまう。自分の十字架を負う、自分の肩に他者の痛みを、何らかの荷を負う。キリストの恵みに何らかの形で応える中で、人ははじめて自分のいのちを得ることができる。そこでだけ、私たちは自分のいのちの喜びを得ることができ、深く慰められる。海外からの震災ボランティアの若者たちに私はその姿を見た。十字架から生き方を展開しよう。