2012年1月8日日曜日

2012年1月8日 説教要旨

礼拝から始まる生活 」 創世記12章1節~9節

 今年の活動主題である「礼拝から始まる生活」について、創世記の第12章から導きを得たい。アブラハムの新しい生活は礼拝から始まった。つまり、神の言葉を聴くことから始まったのである。私たちが神の言葉を聴く第一の場所は礼拝である。 アブラハムはこの時、神から言こうわれた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。国、親族、あるいは父、これらはすべて、アブラハムの生活を成り立たせてきたものである。神の言葉はそこから身を引き離せと語りかけた。神の言葉は、日常の生活に没頭し、埋没しそうになる私たちを、絶えずそこから引き離し、神が示す地へと向かわせるものである。アブラハムにとってそれは約束の地、カナンであったが、私たちにとっては天の故郷である。私たちの目指す地はそこにあり、この世の生活はそこに向かう通過点でしかない。しかしあたかもそこが終着点であるかのように私たちは生きてしまう。神の言葉、礼拝は、そういう私たちを絶えず、そこから引き離し、目指す地へと向かわせる。

 約束の地を目指すアブラハムに「あなたを祝福する」と神は約束された。祝福というのは、何か良い事が与えられるとか、辛いことがあったらそれを免れることができるとか、そういう意味での祝福ではない。ただ約束の地に向かわせる。この世になじんで生きている人たちとは違う目標に向かって進んで行かせるという、それが何よりの祝福なのだ。アブラハムの子孫、イスラエルの民はエジプトを出発して長い旅の間、数々の試練を受けた。ある意味で、彼らは神の裁きを受けたのだが、その裁きは罪によって迷い出ようとするイスラエルの道を正すものであった。彼らを繰り返し正しい道に軌道修正させる。そういう意味から言うと、彼らがそこで経験した試練は、実は祝福であったと言える。日本基督教団の議長をした鈴木正久牧師は「キリスト者というのは苦難を試練として受け止めることができる人間である」と言った。信仰があろうとなかろうと人は皆、苦難に遭う。しかしキリスト者はその苦難の中に神の御手を見、それを試練と受け止める。そして悔い改め、自身の歩みを軌道修正しながら立ち直って行くと言うのである。もとより、神の祝福と言うのは、人間の頭で考えて分かりきるほど単純なものではない。ノアの洪水の物語、多くの人々にとってその水は苦難でしかなかったが、ノアにとっては地表から舟を浮かび上がらせる救いの水となったように、神の祝福は、人間には本当は分からない部分がたくさんある。だが神の示す地に向けて歩んでいる私たちは、すでに祝福の中に生きているのである。たとえ苦難のただ中にいるとしても・・・。

 その祝福の中にある歩みについて、4節、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った」と記す。ロトも一緒だった。アブラハムの甥ロトに信仰があったのかどうか、分からない。どうして彼が一緒だったのかねよく分からない。 しかし後に、このロトが彼と一緒だったということのゆえに、アブラハムの旅は大変、難儀なものになってしまう。ロトがいたために、アブラハムの生活はいつもスッキリしたものにならない。アブラハムの信仰生活にはいつもロトが付きまとっている。私たちの信仰生活にも、そういうロトがつきまとっているのではないか。これがあるためにいつもスッキリしない、簡単でなくなる。アブラハムはロトのためにいつも行き詰る。挫折する経験を繰り返す。だが、そのことがアブラハムを変えて行くのである。「この、ロトさえいなければ・・・」と思う、そのロトによってアブラハムは変えられて行く。ロトがいたために、アブラハムの礼拝はいつも切実なものになる。ロトを抱えていたために、真剣に神の言葉に聴き、神の導きを求めて祈らざるを得なくなる。神を礼拝せざるを得ない人間であり続けたのだ。そうやって、アブラハムは変えられて行く。時々、人は言う。問題が解決したら礼拝に行きますと。だがそれは逆なのだ。そうすることによって、益々神の示される道から、その軌道からそれて行ってしまう。さて、アブラハムはカナンの地に着くと、そこで何度か移動を繰り返し、移動した先々で祭壇を築いて神を礼拝する。新しい生活のためにそこでやらなくてはならないことが山ほどある。しかしアブラハムはそこで礼拝から始める。なぜなら、礼拝、神の言葉を聴くことが彼の生活の土台だからだ。アブラハムの生活は、礼拝によって秩序づけられて行く。何をやり、何をやらないか、生きるための段取りが礼拝を通してなされていく。たくさんのことを全部やってしまうということが、必ずしも良い生活ではない。何を大事にするか、何を取り、何を捨てるか、そういうことが行なわれなければならない。そして、それをなさしめるのが礼拝、そこで聴く神の言葉なのである。忙しいから礼拝に行かない・・・。逆である。忙しいからこそ、自分の人生をしっかりと秩序付けて行かなければならない。礼拝という深い土台から築き上げていかなければならないのではないのか。信仰を持たない人たちの中で、それに流されないで神の約束を信じて生きて行く。そのためにアブラハムは神の名を呼ばずにはいられなかった。私たちの信仰とはそういう切実なものである。赤ん坊が大きな声で、母親を呼びながら自分の命を守って行くように、私たちも主の名を呼ばないでは生きられない。2012年の歩みが始まった。さあ、私たちも礼拝から始めよう。